金正日体制の研究
一体、北朝鮮は何を考えているのだろうか?全く不可解とはこの国を言うのであろう。 今、北朝鮮は国際的孤立と経済危機の中で、超大国米国を相手に、弾道ミサイルや核開発をカードに瀬戸際外交を展開している。今年(1999年) 2月の米朝協議(ニューヨーク)もその舞台の一つである。これらを指導いていると見られる『金正日』は今年で57歳、彼自身それなりの手腕の持ち主という評価も出てはいるが、本人は相変わらず表舞台には姿を見せず、ナゾの指導者のままである。故金日成の跡を継いで既に五年になる彼の実像を探ってみたい。
彼は1942年 2月16日、金日成主席と金正淑女史の長男として生まれる。1964年に金日成総合大学を卒業して労働党に入党。1974年の党中央委総会で正式に後継者として指名されている。1980年の党大会で政治局常務委員、1991年12月に人民軍最高司令官となるなど、着実に権力を継承していく。金日成主席の死後、1997年10月には党総書記、1998年 9月に国家の最高職責とされる国防委員長に就任した。外遊歴としては1965年の金日成主席のインドネシア訪問の同行と、1983年の非公式の訪中が知られるだけである。そして家庭的には三人の女性との間に2男一女がいると言われるが、いずれも正式に結婚してはいないと見られている。
『強盛大国』と言う言葉を北朝鮮は今、大々的に宣伝している。『思想・軍事・経済』の強国を目指そうと言うスローガンで、朝鮮労働党機関紙など三紙が今年の元日付け社説で一斉に掲げたものである。金日成主席死去の後、『苦難の行軍』『遺訓政治』と言われる期間を経て、このスローガンが金正日時代の象徴となっている。
しかし国の内実を見れば、深刻な食糧不足の問題があり、産業もエネルギー不足で、大半の工場が稼働していない。そうなると金正日体制の『強盛大国』の力を誇示するものとして、1998年 8月末、日本上空を飛んだ弾道ミサイル『テポドン一号』の発射が一層重要になる。北朝鮮自体はこれを人工衛星『光明星一号』の打ち上げと主張する。この実験の総指揮に当たったのが金正日本人であるとは、中国の週刊誌が開発担当の科学者を独占取材したときに伝えたものである。この週刊誌によるとインタビューに応じた科学者は、北朝鮮の宇宙技術開発は金正日が直接指導して行われ、衛星の設計図は金正日自身が審査、決定し打ち上げ時間も決めたと説明したと言う。
金正日は独裁権力の基盤を軍に置くが、日常的には党や政府内で同氏を支える側近たちのほうが重要である。
党機構の中で対外折衝の表舞台に立つのが『金容淳書記』、対南(韓国)担当書記であり国交正常化交渉など日本が関係する問題も手掛けている。最近韓国財閥による工業団地建設と金剛山観光開発、韓国観光客誘致を実現させて株を上げている。 政府機構では、対米一辺倒外交を進め1994年の米朝核合意の立て役者となった『姜錫柱
第一外務次官』。地下核施設疑惑やミサイルをカードにする現在の対米交渉も姜氏が鍵を握っている。食糧不足で強盗などの犯罪が増加し、住民に動揺が広がっているので、警察組織を統括している『白鶴林・社会安全相兼国防委員』も重要視されている。
軍人の側近では『趙明録・人民軍総政治局長兼国防委第一副委員長』、彼は植民地解放後の1945年に三歳の金正日が実母と共にウラジオストクからソ連船で咸鏡北道の雄基港に上陸した際に、金正日を背負っていたと言われる人物である。
韓国の専門家の間では、金正日はこれらの側近を配しつつ、親族や友人のごく親しい人達を党中央の幹部ポストに付けて、政策を決定していると言う見方が強い。その代表とも言えるのが金正日の実妹の夫『張成沢・党組織指導部第一副部長』である。彼は表舞台で活躍することはないが、『現地指導』と言われる金正日による各地の視察に同行している。金正日が公の場で声を発したのは、七年も前の人民軍閲兵式で『英雄的朝鮮人民軍将兵らに栄光あれ』と叫んだ時だけとは何回も報道されているので、我々も良く知っている。
1998年の最高人民会議では、要人との会談等の儀礼的なポストに、『金永南・同会議常任委員長』を任命して、彼自身は政治の表舞台には立たない事を改めて鮮明にしている。
こんな事から『金正日は演説が不得手』『健康不安など職務遂行に支障がある』等の憶測を呼んできたが、実際に彼と話をした人達はこれらを一様に否定している。
一方、1997年秋に、食糧危機の責任から農業担当の徐書記を銃殺刑に処した例などは、
恐怖政治スタイルを窺わせる物である。しかし一度更迭した幹部を再登用する事もあり、昨年、地方の党責任者から国防委員に抜擢された『延亮黙・元首相』の例もある。どうもこれらは、指導者への忠誠競争を煽るためのものであるようだ。
又、故金日成は、経済政策には手を染めるなと言い残したと言う説があり、金正日は経済担当幹部を次々と更迭して責任を取らせている様でもある。
1997年に亡命した『黄長曄・書記』は反政府的組織が最近自然発生していると指摘しているが、北朝鮮はこれまで徹底した監視体制で問題分子を摘発して収容所へ送って反体制の動きを封じており、組織を作る事自体、極めて困難である。かって金日成主席が存命中に主席の後妻の『金聖愛夫人』やその実弟『金永柱・前副主席』が金正日と不仲でライバルと目された時代もあった。しかし夫人は現在要職もなく、金永柱も国会の名誉職に付いているだけである。夫人の長男で金正日の異母弟に当たる『金平一・ポーランド大使』もライバルとなる可能性が指摘されるが、長い海外生活のため国内基盤はないに等しい。
註)2000年6 月15日、晴天の霹靂のような南北朝鮮首脳会議が終わった。共同宣言の骨子は次ぎのようなものである。
(1) 南北は統一問題を自主的に解決。(2) 南北それぞれの統一案に共通性がある事を認めこの方向で統一を目指す。(3) 南北は8/15に離散家族訪問団を交換するなど、人道問題を早急に解決する。(4) 南北は経済協力を通じ、民族経済を発展させ、社会・文化・スポーツ・保健・環境等の分野の交流を活性化し信頼を深める。(5) 合意事項の履行のため、早期の対話を開始。金成日総書記は適切な時期にソウルを訪問する。
これが緊張緩和の奇跡を呼ぶことを、やや疑いつつも期待せざるを得ない。
一体、北朝鮮は何を考えているのだろうか?全く不可解とはこの国を言うのであろう。 今、北朝鮮は国際的孤立と経済危機の中で、超大国米国を相手に、弾道ミサイルや核開発をカードに瀬戸際外交を展開している。今年(1999年) 2月の米朝協議(ニューヨーク)もその舞台の一つである。これらを指導いていると見られる『金正日』は今年で57歳、彼自身それなりの手腕の持ち主という評価も出てはいるが、本人は相変わらず表舞台には姿を見せず、ナゾの指導者のままである。故金日成の跡を継いで既に五年になる彼の実像を探ってみたい。
彼は1942年 2月16日、金日成主席と金正淑女史の長男として生まれる。1964年に金日成総合大学を卒業して労働党に入党。1974年の党中央委総会で正式に後継者として指名されている。1980年の党大会で政治局常務委員、1991年12月に人民軍最高司令官となるなど、着実に権力を継承していく。金日成主席の死後、1997年10月には党総書記、1998年 9月に国家の最高職責とされる国防委員長に就任した。外遊歴としては1965年の金日成主席のインドネシア訪問の同行と、1983年の非公式の訪中が知られるだけである。そして家庭的には三人の女性との間に2男一女がいると言われるが、いずれも正式に結婚してはいないと見られている。
『強盛大国』と言う言葉を北朝鮮は今、大々的に宣伝している。『思想・軍事・経済』の強国を目指そうと言うスローガンで、朝鮮労働党機関紙など三紙が今年の元日付け社説で一斉に掲げたものである。金日成主席死去の後、『苦難の行軍』『遺訓政治』と言われる期間を経て、このスローガンが金正日時代の象徴となっている。
しかし国の内実を見れば、深刻な食糧不足の問題があり、産業もエネルギー不足で、大半の工場が稼働していない。そうなると金正日体制の『強盛大国』の力を誇示するものとして、1998年 8月末、日本上空を飛んだ弾道ミサイル『テポドン一号』の発射が一層重要になる。北朝鮮自体はこれを人工衛星『光明星一号』の打ち上げと主張する。この実験の総指揮に当たったのが金正日本人であるとは、中国の週刊誌が開発担当の科学者を独占取材したときに伝えたものである。この週刊誌によるとインタビューに応じた科学者は、北朝鮮の宇宙技術開発は金正日が直接指導して行われ、衛星の設計図は金正日自身が審査、決定し打ち上げ時間も決めたと説明したと言う。
金正日は独裁権力の基盤を軍に置くが、日常的には党や政府内で同氏を支える側近たちのほうが重要である。
党機構の中で対外折衝の表舞台に立つのが『金容淳書記』、対南(韓国)担当書記であり国交正常化交渉など日本が関係する問題も手掛けている。最近韓国財閥による工業団地建設と金剛山観光開発、韓国観光客誘致を実現させて株を上げている。 政府機構では、対米一辺倒外交を進め1994年の米朝核合意の立て役者となった『姜錫柱
第一外務次官』。地下核施設疑惑やミサイルをカードにする現在の対米交渉も姜氏が鍵を握っている。食糧不足で強盗などの犯罪が増加し、住民に動揺が広がっているので、警察組織を統括している『白鶴林・社会安全相兼国防委員』も重要視されている。
軍人の側近では『趙明録・人民軍総政治局長兼国防委第一副委員長』、彼は植民地解放後の1945年に三歳の金正日が実母と共にウラジオストクからソ連船で咸鏡北道の雄基港に上陸した際に、金正日を背負っていたと言われる人物である。
韓国の専門家の間では、金正日はこれらの側近を配しつつ、親族や友人のごく親しい人達を党中央の幹部ポストに付けて、政策を決定していると言う見方が強い。その代表とも言えるのが金正日の実妹の夫『張成沢・党組織指導部第一副部長』である。彼は表舞台で活躍することはないが、『現地指導』と言われる金正日による各地の視察に同行している。金正日が公の場で声を発したのは、七年も前の人民軍閲兵式で『英雄的朝鮮人民軍将兵らに栄光あれ』と叫んだ時だけとは何回も報道されているので、我々も良く知っている。
1998年の最高人民会議では、要人との会談等の儀礼的なポストに、『金永南・同会議常任委員長』を任命して、彼自身は政治の表舞台には立たない事を改めて鮮明にしている。
こんな事から『金正日は演説が不得手』『健康不安など職務遂行に支障がある』等の憶測を呼んできたが、実際に彼と話をした人達はこれらを一様に否定している。
一方、1997年秋に、食糧危機の責任から農業担当の徐書記を銃殺刑に処した例などは、
恐怖政治スタイルを窺わせる物である。しかし一度更迭した幹部を再登用する事もあり、昨年、地方の党責任者から国防委員に抜擢された『延亮黙・元首相』の例もある。どうもこれらは、指導者への忠誠競争を煽るためのものであるようだ。
又、故金日成は、経済政策には手を染めるなと言い残したと言う説があり、金正日は経済担当幹部を次々と更迭して責任を取らせている様でもある。
1997年に亡命した『黄長曄・書記』は反政府的組織が最近自然発生していると指摘しているが、北朝鮮はこれまで徹底した監視体制で問題分子を摘発して収容所へ送って反体制の動きを封じており、組織を作る事自体、極めて困難である。かって金日成主席が存命中に主席の後妻の『金聖愛夫人』やその実弟『金永柱・前副主席』が金正日と不仲でライバルと目された時代もあった。しかし夫人は現在要職もなく、金永柱も国会の名誉職に付いているだけである。夫人の長男で金正日の異母弟に当たる『金平一・ポーランド大使』もライバルとなる可能性が指摘されるが、長い海外生活のため国内基盤はないに等しい。
註)2000年6 月15日、晴天の霹靂のような南北朝鮮首脳会議が終わった。共同宣言の骨子は次ぎのようなものである。
(1) 南北は統一問題を自主的に解決。(2) 南北それぞれの統一案に共通性がある事を認めこの方向で統一を目指す。(3) 南北は8/15に離散家族訪問団を交換するなど、人道問題を早急に解決する。(4) 南北は経済協力を通じ、民族経済を発展させ、社会・文化・スポーツ・保健・環境等の分野の交流を活性化し信頼を深める。(5) 合意事項の履行のため、早期の対話を開始。金成日総書記は適切な時期にソウルを訪問する。
これが緊張緩和の奇跡を呼ぶことを、やや疑いつつも期待せざるを得ない。
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