『ラーゲルの医務室』…
少ない食料と重労働のため日に日に衰えて行く捕虜たちの体力が検査された。捕虜には、一級から四級までの等級がつけられていて、一、二級の者は重労働に従事、三級の者は軽作業に回された。四級は歩くのがやっとの重症者である。しかし重症者であっても十分な看護は受けられず、入院等はなかなか出来なかった。医務室にはソ連の女医がいて、検査は捕虜の尻の肉を引っ張って、その伸び具合で体力を計ると言うものであった。女医は何とか等級を上げようとし、フラフラの捕虜たちが一、二級と判定され、節くれだった体で重労働に追立てられて行った。
『白夜の午前零時』…シベリヤの白夜の夏、安らぎの夜は暗くならない。その夜はなかなか寝付かれなかった。体はくたくたに疲れ切っているのであるが、どうにも眠りに墜ちることができなかった。起き上がって外に出ると、やはり眠れないのか?何人かの人が蹲っていた。そして何気なく所内にあった枯れた大木に視線を移してギクリとした。そこには疲れ果てた友人の亡骸がぶら下がっていた。黙祷を捧げ、彼の魂が真っ直ぐに故郷に飛んでいくことを祈った。そしてもう、少ししか残っていない自分の希望の灯を、決して消すまいと心に誓った。
『翼が欲しい』
『東の国へ渡る鳥』
…シベリヤに降る雨は冷たい。森林に降り注ぎ、大地を激しく叩く。それでも作業は休めない。冷たい雨は、体に心に容赦なく染み込む。心は遥かな山の彼方、作業の合間に、ふと空を見上げてしまうことも多くなった。時折だが東の国に旅立つ渡り鳥が群れを作って飛んでいくのが見えた。羨ましくて仕方が無かった。この身に翼があったならと夢想した。この地獄から旅立ち、母のいる国に帰れるのに。 望郷の思いが胸の中で絶叫している、生きて帰りたいと。
『母のもとへ』…
短い夏が過ぎると、シベリヤは秋を飛び越えて一気に冬を迎える。緑豊かであった大地も、滔々と流れていた川も、たった一夜にして白銀の世界に変貌してしまうのである。冬の到来は捕虜たちにとって死に神の訪れに思えた。色鮮やかに饒舌であった大地を吹雪は無常に覆い尽す。又、長い長い寡黙の世界に支配されてしまうのである。果てしない地平へと続く長い線路が、どこまでも続く抑留の日々と遠い彼方で重なって見えた。生きて帰りたい、その願いも空しく力尽きた同胞たち、その落ちくぼんだ目を見ていると魂が故郷へ帰っていくのだと思えた。
『力尽きて』
『霊安室』
『友を送る冬』
…捕虜の死がソ連兵に確認されると、屍が身に付けているものを、はぎ取るように命じられた。彼等が身に付けていたものは、ここでは貴重な物資なのである。霊安室で一夜を明かした遺体は、完全に凍り付く。うっかり落とせば遺体は氷のように砕けてしまうので、体力の衰えている生存者には、彼等を運ぶ作業は危険で辛い仕事であった。友は、腹を空っぽにしたまま、バタバタと死んで行く。親しい友人たち、その墓を掘ってやろうにも雪は深く、いくら掘ってもスコップは土まで届かない。雪の冷たさを掌にジンジンと感じながら少しでも深く掘ってやろうと思うのだ。あいつは口癖のように言っていた。君が無事に日本へ帰れたら、オレの妹を是非、嫁に貰ってくれと。シベリヤを尋ねれば今も友人はそこにいる。一緒に帰還すると言う約束を果たすこと無く、今も遠い異国の凍土の下で彼等は眠る。あの時のままの、墓石もない土饅頭の下で。
『慰問団来る』…年に何回か、収容所にも慰問団がやってくる。催されるのは懐かしき日本の歌、日本の芝居、日本の踊りである。ノルマも忘れ、腹ぺこも忘れ、ロシアでの捕らわれの身も忘れ、楽しい一時を満喫するのだ。
『親は子の夢を見た、子は親の夢を見た』…
しかし、その後の虚無感は言い様のないものであった。暗雲がむくむくと立ち込めるように胸を塞ぐ。帰りたいと心が叫んでいる。長い長い間、会って居ない家族や母親の顔が鮮明に思い出せる。疲労困憊なのに眠れない長い夜が更けていく。
『捕虜の顔』…
いつ、訪れるかも分からないダモイの日まで、生きていかなくてはならない。この手で土に葬った友の最後を、彼の家族に伝えねばならない。愛する家族の許に帰ってやらねばならない。夢とうつつの間を、さ迷っているような精神状態のなかで、考える事は家族の事や食い物の事だけである。ただ息をしているだけの疲かれ切った獣のようであった。こんな事では人間として物を考えられなくなってしまうのではないか?何時か日本に帰ったとき、気力の全くない廃人になってしまうのではないか?それが恐ろしく感じた。捕虜たちは忙しい労働の合間に、様々な活動をするようになった。俳句や短歌を作る者、勉強会・研究会を開く者、慰問のための芸能団を結成する者、こうすると疲労困憊でやつれ切った魂の底から、細やかながら生きる力が沸き出してきたように感じた。
猛然と吹き荒れる冬も、永遠に続くわけではない。時がくれば岩のように固かった氷も、緩んで来る。作業の往復の間に目の高さに広がる空を見て、雲を見て、去来する感情を詩に纏めたいと思うようになった。野に咲く花が雪を溶かすのを見て、生きている命に感動するようになった。季節が巡れば、自然の命は必ず目覚めて動き出す。それが彼等をどのくらい勇気付けたことであろうか?地獄のような労働と飢えと人間関係の確執の中で、死んでいるように諦めていた彼等は、春になり、細やかに胎動し始めた自然を目にして、しみじみと生きていることに感謝したのである。
『友よ・さらば』…四度目の冬が過ぎた頃、作業から帰ると全員集合の声が掛かり、ダモイの発表があった。久永氏も突然帰国することになったが、茫然としていた。夢にまで見たダモイなのに、なぜか嬉しさを感じなかった。それから数日後、彼等は来たときと同じ貨車に詰め込まれ、タイシェットから数千㌔を移動してナホトカに向かった。しかし、久永氏は呆けたように茫然としていた。戦友を残したまま帰還するのが済まないと言う気持ちが、胸の内に溢れかえっていた。夢にまで見たナホトカの港が、妙に侘しく遠くに見えた。ナホトカの一時収容所に連れ込まれ、何時やってくるかも分からない、迎えの船を待つ。目の前に広がるのは今度は確かに日本海である。故郷は、この直ぐ向こうにある。
『オイ飯だよ』…だがここまで来て、力尽きてしまった仲間がいる。故郷の味が懐かしいとその話しかしなかった友よ。腹一杯食べられたら何時死んでも良いと言っていたのに、空腹のまま、鍋底のように腹を凹ませたまま死んで行った友よ。あの世でお前に会ったら掌に大きな握り飯を乗せて(オイ飯だよ)と言ってやりたい。故郷を目の前にして力尽きた人達、永久凍土の下に屍が眠る。しかし、彼等の魂は、確かに日本海を渡った。
シベリアに四年、およそ六万と言われる戦友たちの亡骸を残したまま、久永氏らは帰国を迎えた。そして最終的にダモイが完了したのは、1956年 12 月、世間では最早戦後ではないと語られていた頃であった。 彼は夢中になって抑留時代の事を 43 枚の絵に書き上げた。こんな悲劇は永遠のお終いだと叫びながら。
『何が 人を引き離すのか? 鉄柵の内と外 海峡を遠く隔てて 酷寒の地に
吹き荒ぶブリザードの季節 答えるのは 白い骨だけなのか 』
高良留美子作 『国境』より
少ない食料と重労働のため日に日に衰えて行く捕虜たちの体力が検査された。捕虜には、一級から四級までの等級がつけられていて、一、二級の者は重労働に従事、三級の者は軽作業に回された。四級は歩くのがやっとの重症者である。しかし重症者であっても十分な看護は受けられず、入院等はなかなか出来なかった。医務室にはソ連の女医がいて、検査は捕虜の尻の肉を引っ張って、その伸び具合で体力を計ると言うものであった。女医は何とか等級を上げようとし、フラフラの捕虜たちが一、二級と判定され、節くれだった体で重労働に追立てられて行った。
『白夜の午前零時』…シベリヤの白夜の夏、安らぎの夜は暗くならない。その夜はなかなか寝付かれなかった。体はくたくたに疲れ切っているのであるが、どうにも眠りに墜ちることができなかった。起き上がって外に出ると、やはり眠れないのか?何人かの人が蹲っていた。そして何気なく所内にあった枯れた大木に視線を移してギクリとした。そこには疲れ果てた友人の亡骸がぶら下がっていた。黙祷を捧げ、彼の魂が真っ直ぐに故郷に飛んでいくことを祈った。そしてもう、少ししか残っていない自分の希望の灯を、決して消すまいと心に誓った。
『翼が欲しい』
『東の国へ渡る鳥』
…シベリヤに降る雨は冷たい。森林に降り注ぎ、大地を激しく叩く。それでも作業は休めない。冷たい雨は、体に心に容赦なく染み込む。心は遥かな山の彼方、作業の合間に、ふと空を見上げてしまうことも多くなった。時折だが東の国に旅立つ渡り鳥が群れを作って飛んでいくのが見えた。羨ましくて仕方が無かった。この身に翼があったならと夢想した。この地獄から旅立ち、母のいる国に帰れるのに。 望郷の思いが胸の中で絶叫している、生きて帰りたいと。
『母のもとへ』…
短い夏が過ぎると、シベリヤは秋を飛び越えて一気に冬を迎える。緑豊かであった大地も、滔々と流れていた川も、たった一夜にして白銀の世界に変貌してしまうのである。冬の到来は捕虜たちにとって死に神の訪れに思えた。色鮮やかに饒舌であった大地を吹雪は無常に覆い尽す。又、長い長い寡黙の世界に支配されてしまうのである。果てしない地平へと続く長い線路が、どこまでも続く抑留の日々と遠い彼方で重なって見えた。生きて帰りたい、その願いも空しく力尽きた同胞たち、その落ちくぼんだ目を見ていると魂が故郷へ帰っていくのだと思えた。
『力尽きて』
『霊安室』
『友を送る冬』
…捕虜の死がソ連兵に確認されると、屍が身に付けているものを、はぎ取るように命じられた。彼等が身に付けていたものは、ここでは貴重な物資なのである。霊安室で一夜を明かした遺体は、完全に凍り付く。うっかり落とせば遺体は氷のように砕けてしまうので、体力の衰えている生存者には、彼等を運ぶ作業は危険で辛い仕事であった。友は、腹を空っぽにしたまま、バタバタと死んで行く。親しい友人たち、その墓を掘ってやろうにも雪は深く、いくら掘ってもスコップは土まで届かない。雪の冷たさを掌にジンジンと感じながら少しでも深く掘ってやろうと思うのだ。あいつは口癖のように言っていた。君が無事に日本へ帰れたら、オレの妹を是非、嫁に貰ってくれと。シベリヤを尋ねれば今も友人はそこにいる。一緒に帰還すると言う約束を果たすこと無く、今も遠い異国の凍土の下で彼等は眠る。あの時のままの、墓石もない土饅頭の下で。
『慰問団来る』…年に何回か、収容所にも慰問団がやってくる。催されるのは懐かしき日本の歌、日本の芝居、日本の踊りである。ノルマも忘れ、腹ぺこも忘れ、ロシアでの捕らわれの身も忘れ、楽しい一時を満喫するのだ。
『親は子の夢を見た、子は親の夢を見た』…
しかし、その後の虚無感は言い様のないものであった。暗雲がむくむくと立ち込めるように胸を塞ぐ。帰りたいと心が叫んでいる。長い長い間、会って居ない家族や母親の顔が鮮明に思い出せる。疲労困憊なのに眠れない長い夜が更けていく。
『捕虜の顔』…
いつ、訪れるかも分からないダモイの日まで、生きていかなくてはならない。この手で土に葬った友の最後を、彼の家族に伝えねばならない。愛する家族の許に帰ってやらねばならない。夢とうつつの間を、さ迷っているような精神状態のなかで、考える事は家族の事や食い物の事だけである。ただ息をしているだけの疲かれ切った獣のようであった。こんな事では人間として物を考えられなくなってしまうのではないか?何時か日本に帰ったとき、気力の全くない廃人になってしまうのではないか?それが恐ろしく感じた。捕虜たちは忙しい労働の合間に、様々な活動をするようになった。俳句や短歌を作る者、勉強会・研究会を開く者、慰問のための芸能団を結成する者、こうすると疲労困憊でやつれ切った魂の底から、細やかながら生きる力が沸き出してきたように感じた。
猛然と吹き荒れる冬も、永遠に続くわけではない。時がくれば岩のように固かった氷も、緩んで来る。作業の往復の間に目の高さに広がる空を見て、雲を見て、去来する感情を詩に纏めたいと思うようになった。野に咲く花が雪を溶かすのを見て、生きている命に感動するようになった。季節が巡れば、自然の命は必ず目覚めて動き出す。それが彼等をどのくらい勇気付けたことであろうか?地獄のような労働と飢えと人間関係の確執の中で、死んでいるように諦めていた彼等は、春になり、細やかに胎動し始めた自然を目にして、しみじみと生きていることに感謝したのである。
『友よ・さらば』…四度目の冬が過ぎた頃、作業から帰ると全員集合の声が掛かり、ダモイの発表があった。久永氏も突然帰国することになったが、茫然としていた。夢にまで見たダモイなのに、なぜか嬉しさを感じなかった。それから数日後、彼等は来たときと同じ貨車に詰め込まれ、タイシェットから数千㌔を移動してナホトカに向かった。しかし、久永氏は呆けたように茫然としていた。戦友を残したまま帰還するのが済まないと言う気持ちが、胸の内に溢れかえっていた。夢にまで見たナホトカの港が、妙に侘しく遠くに見えた。ナホトカの一時収容所に連れ込まれ、何時やってくるかも分からない、迎えの船を待つ。目の前に広がるのは今度は確かに日本海である。故郷は、この直ぐ向こうにある。
『オイ飯だよ』…だがここまで来て、力尽きてしまった仲間がいる。故郷の味が懐かしいとその話しかしなかった友よ。腹一杯食べられたら何時死んでも良いと言っていたのに、空腹のまま、鍋底のように腹を凹ませたまま死んで行った友よ。あの世でお前に会ったら掌に大きな握り飯を乗せて(オイ飯だよ)と言ってやりたい。故郷を目の前にして力尽きた人達、永久凍土の下に屍が眠る。しかし、彼等の魂は、確かに日本海を渡った。
シベリアに四年、およそ六万と言われる戦友たちの亡骸を残したまま、久永氏らは帰国を迎えた。そして最終的にダモイが完了したのは、1956年 12 月、世間では最早戦後ではないと語られていた頃であった。 彼は夢中になって抑留時代の事を 43 枚の絵に書き上げた。こんな悲劇は永遠のお終いだと叫びながら。
『何が 人を引き離すのか? 鉄柵の内と外 海峡を遠く隔てて 酷寒の地に
吹き荒ぶブリザードの季節 答えるのは 白い骨だけなのか 』
高良留美子作 『国境』より
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