謀略の丘
陸軍登戸研究所
[謀略]
東京の副都心・新宿から西へ 18 ㌔、川崎市多摩区に、現在は明治大学生田校舎となっている標高 83 ㍍ほどの小高い丘がある。ここは昔、『登戸の丘』と呼ばれた。この丘から一日中、何か物を燃やす白い煙が立ち上ぼっていたのは、1945年 8月 15 日の事である。15日の早朝『陸軍省軍事課』からの最後の通達『特殊研究処理要項』には『敵ニ証拠ヲ得ラルルコトヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急処理ス』とあった。日本政府がポツダム宣言を受諾し、終戦の昭勅が出るのはその一時間半後である。敗戦の知らせに国民が衝撃を受けていたその時、その全てが、この丘で研究されていたことの全てが闇に葬られようとしていた。あれから54年、何も知らずにキャンパスを行き交う平成の若者たちの傍らに、朽ち果てた記憶がある。立ち入り禁止の木造の建物、石に刻まれた陸軍の文字、陸軍登戸研究所、そこは謀略の巣窟であった。遮断された丘の上で研究されていたのは、国家として決して表に出せないものばかりであった。毒ガス、細菌、偽札など勝つためにこの国がしたあらゆる謀略の殆がこの丘で研究されこの丘で生まれたのである。そして時速 200㌔の偏西風に乗って米国本土を空襲したあの最新兵器もである。その上、戦後の日本を震撼させた帝銀事件などの難事件が起きる度に登戸研究所の名が噂された。
その秘密のベールは、一人の少女の持っていた書類によって解明された。 その少女『小林コト』が試験に合格して、自宅から徒歩一時間の登戸研究所に就職したのは、彼女の 15 歳の春であった。仕事はタイピスト、常に将校が付き添い、仕損じは頑丈な南京錠で封印された焼却箱に捨てさせられたと言う。軍とはそういう物と彼女は全く不審には思わなかった。そして日本の敗戦はその五年後であった。その最後の日、彼女はある書類の綴りを持ち出そうとして、門衛に咎められている。それは表紙に『雑書綴り』と書かれた小冊子であり、彼女がタイプの練習用にと、密かに集めていた書類の写しであった。いかなる物も持ち出し厳禁と言っていた門衛も、青春の思い出にしたいと言う彼女の言葉に持ち出しを許可してしまう。彼女としては、本当に15歳から20歳迄の青春の思い出の筈であった。
公式には、陸軍の研究所は『陸軍兵器行政本部』の下に八つの研究所が組織されていた。そしてその存在が極秘であったのが、『第九技術研究所』、通称・登戸研究所である。
設立は、昭和の初期である。日本は1921年(大正 10 年)のワシントン軍縮会議で、あれよあれよと言う間に、米国の思うが儘の軍縮を強いられた。何故このように米国は議事進行が旨いのか?と言う疑問が解けたのは、その十年後である。米国の諜報機関『ブラック・チェンバ』の一員であった男・ハーバード・ヤードリーが引退してから著した本『ブラック・チェンバ』によってである。この本には日本の当時の暗号が全て米国側に筒抜けであったことが記されていたのである。日本は、第一次大戦までは情報戦とか謀略戦に付いては拙劣であった。しかしこの大戦で欧米はこれを駆使するまでになっていた。
これに脅威を感じた陸軍はそれ以後、世界と渡り合うためには諜報戦に力をつけなくてはならないとし、謀略のための研究所を1927年に誕生させた。しかし当初は全く手探り状態であり、教科書は既に市販されていた『ブラック・チェンバ』のみ、参考にしたのは欧米のスパイ小説、スパイ映画であった。それから十数年、小林コトが就職した1940年には、その研究所は、一大謀略基地となっていたのである。
ここで生まれた数々の新兵器を紹介した映画が戦後になって出来た。故・市川雷蔵が主演した大映映画『陸軍中野学校・密命』『陸軍中野学校・竜三号指令』である。この中で主人公は、『これは登戸研究所で造った最新兵器だ』と言いながら数々の兵器を駆使する。それはあながち荒唐無稽のものではなかった。
この丘には、あらゆる分野の優秀な頭脳が結集していた。この研究所は、研究目的によって四つに分かれている。殺人光線、風船爆弾などの物理関係の第一科、毒物、細菌、諜報器材などの化学関係の第二科、器材の実験、製造関係の第四科、そして問題の第三科だけが特に監視が厳しく、建物の周囲は高い塀に覆われていた。謀略の丘の中の更なる機密の場所、第三科で行われていたことは、国家として表に出せないことであった。
[攪乱]
この研究所には千人が勤務していたが、その殆どは学者、研究者、学生であり、生粋の軍人は上層部のほんの一握りのものに限られていた。監視も厳しい第三科に大きな荷物が搬入されたのは、1939年である。その荷物の中身は、当時のドイツが世界に誇った印刷機で『ザンメル印刷機』と言われたものである。そして東条英機から直接の命令がくる。
『蒋政権ノ法幣制度ノ崩壊ヲ策シ、以ッテソノ国内経済ヲ攪乱シ同政権ノ経済的抗戦力ヲ消滅セシム。本工作名ヲ[杉工作]ト称ス。』と言うものである。要するに偽札作戦であった。当時の日本は、侵攻していた中国戦線で、蒋政権などの執拗な反撃に会い、苦戦をしていた。そこで蒋介石の国民党の紙幣、つまり法幣を偽造する事でその足元を揺るがそうとしたのである。しかしこれは、国家として決してやってはならぬことであった。当時の戦時国際法にはこれを禁止する条項はない。しかし、それ以前の許し難いこととして想定していなかったのである。だが、日本の参謀本部としては、起死回生のためには、国際的モラル等、関係無かった。このために大蔵省造幣局の課長級まで掻集められたという。おまけに日本は香港にあった中国の印刷所から、本物の原板を全て押収して作ったので、ここで作られたものは偽札ではなく、本物であった。
これによってばらまかれたのは、現在の価値で170 億円程度に過ぎなかったので、残念ながら中国経済経済の混乱を起こすまでには至らなかった。
日米開戦は、小林コトが就職してから一年後である。ここでの悪魔の研究は加速して行きつつあった。タイプの練習用にと彼女が何気なく取っておいた記録、それには研究の内容が直接に記されている訳ではない。しかし、後年の研究者は、その記述の影に重大な事実がある事に気付いた。
例えば、1943年 7月28日から 8月 22 日まで毎日運び込まれた膨大な量の氷の搬入記録、何故こんな氷が必要であったのか?丁度この頃、研究所では『青酸ニトニール』と言う猛毒の研究をしていた。これは極めて揮発性が高いので常に氷で冷却する必要があったからである。雑然に見えた彼女のファイルからは、様々な事実が浮かび上がった。ある注文書には『イヌサフラン』の文字があったが、この植物の球根には猛毒が含まれるし、『雨傘蛇毒』の記載は毒蛇の名前である。
[非道]
今もこの丘の片隅に『弥心神社』と言う小さな社がある。ここに祭られているのは、発明の神様とこの研究所で殉職した研究者である。小林コトの親しくしていた青年も、猛毒ガスを誤って吸い込んで瞬時に命を落としている。1982年、731 部隊を描いた森村誠一の 『悪魔の飽食』が世に出て、世間を驚愕させたが、これらの細菌戦はこの国の軍隊の影の部分であった。まるで絨毯爆撃のように、無作為に人の命を簡単に奪っていく毒ガスと細菌兵器、この研究所でこれらを研究していたのは、組織から言えば第二科である。それは研究者も認めている。しかし戦後、その研究者たちはかたくなに『登戸の者は人体実験には参加していない』と言い続けていた。
しかし、何も知らずに唯タイプを打っていただけの少女は、数少ない証拠を残していた。ファイルに頻繁に出てくるある将校の中国への出張報告、その実態が明らかになったのは1981年の事である。新聞には『日本軍の中国人体実験・陸軍の中枢機関も』の文字が躍った。元登戸研究所の職員が、匿名で毎日新聞の記者に語ったのである。 それは1942年の南京、細菌戦秘密部隊に派遣された登戸研究員は 7名、彼等はそこで日本人の医師と称して中国人捕虜 30 名が全て死亡するまで実験をしたと言うのである。その匿名氏は『密室内で自分は防毒マスクをし、捕虜を椅子に縛り付け、青酸ガスを吸わせたり、液体の青酸を注射またはイペリットを塗った。直ぐに死なないものもいたが、帰すわけには行かず、彼等が死ぬまで実験を続けた。ほとんどが即死する青酸の中で、死ぬまで数分掛かるのは青酸ニトリールだけであった。この青酸ニトリールは研究所が独自に開発した物である』と証言している。彼はこの人体実験で文献とは異なる多くの結果を得て、いかに毒物は人体実験が重要であるかを実感したと言う。
こうして日本軍は実験の次ぎは実戦によって悪魔と握手をする。1941年、1942年にはペストに感染させた蚤を飛行機から中国にばらまき、数千人を死亡させている。
当時の日本陸軍はこの種の研究では世界で群を抜いていたが、米軍の侵攻の早さがこれを上回った。1942年、ミッドウェーでの大敗北、1943年ガダルカナルの撤退と続いて、日本本土は米軍爆撃機の射程範囲に入る。同年、学徒動員令がだされた頃、この研究所に新兵器の開発命令がくる。そして18歳に成っていたタイピストは『コンニャク』と言う文字を頻繁に使うようになる。
米国サンフランシスコに日本軍の空襲を知らせるサイレンが鳴り渡るのは、それから暫くの後である。たった一度の空襲警報は、登戸研究所の新兵器が米国に届いた証しである。1942年4 月、遂にB-25が太平洋上の空母から日本にやってくる。陸軍は日本も何とか米国本土に一撃を加えたいと思った。しかし日本列島と米国の間には 8.000㌔の太平洋がある。 [決戦兵器] この時、中島飛行機製作所で開発されていたのが、片道飛行の長距離爆撃機『富嶽』である。しかしこの計画は、資金、資材、技術全ての面で不成功に終り、頓挫する。もっと安上りのものとして考えられたのが、風船爆弾である。米国が最後の決戦手段として原子爆弾を開発し、ドイツがV-1ロケットを実戦に持ち込んでいるときに、日本は風船であった。日本から米国本土に爆弾を乗せた風船を運ぶと言うことを研究したのは、第一科である。実はその前にも登戸では、戦略としての風船を開発したことがあった。日米開戦の 8年も前に、中国北部で睨み合っていたソ連国内に向けて、日本軍はスターリンの悪口を書いたビラを乗せた風船を飛ばしていた。しかし風任せでどこに行くか分からない風船作戦は尻つぼみになった。しかし、米国なら確実に届くと言う成算があった。高度10.000には、日本から米国方面に時速 200キロの偏西風があったからである。問題は気圧変化の大きい高度で、いかに破裂させないで高度を保つか?であった。そこで考えたのが、バラストと気圧計の関係である。気圧が低くなると、自動的に導火線に着火し、その先にあるバラストを切り離す。これによって浮力の減退した風船を再び舞い上がらせると言うのである。何度も実験が繰り返され、水素ガスを充填する気球はゴムでは無く、和紙とコンニャクから作った糊が最適とされた。
この風船爆弾の製造が本格的に始まったのは、1943年の 8月、工場として選ばれたのは、風船が直径 10 ㍍もあったので日劇、東京宝塚劇場、国技館のように、天井が高く広い場所である。動員されたのは女学生を中心とした女子挺身隊の数十万名である。発射基地に選ばれたのは太平洋に面した九十九里浜の千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来である。1944年 10 月の大本営命令『明朝午前五時を期し北米大陸を攻撃すべし』で作戦の初日、九十九里浜から米国に向けて 12 個の風船爆弾が舞い上がった。目撃した住民は、こんな物で米国まで届くなどとは思わなかったが、研究者たちはこれに期待をしていた。陸軍も藁をも掴むの心境であった。
これ以後、飛ばされた気球は 9.300個、米国に辿り着いたのは、およそ 1.000個、その戦果は人里離れた山奥で幾つかの山火事を起こした程度である。しかしこれを発見した米国は綿密な調査をしている。バラストの砂を分析し、それが九十九里浜の物である事まで特定したと言う。米国が恐れていたのは、この風船爆弾が細菌兵器と疑ったのである。確かに日本側の当初の目的も正にそこに有ったのである。第二科では死亡率の高い『牛疫』と言う病原菌を研究しており、これを風船爆弾に乗せるはずであった。しかし、この計画は実験中に中止となる。昭和天皇が『国際条約で禁止されている細菌兵器を使う事は許可しない』と言われたと職員には告げられた。でも本当の理由は別であった。日本軍が中国大陸で細菌兵器を使っていることを知った米国大統領ルーズベルトは、日本に対して『若し日本が非人道的戦争手段を中国或いは他の連合国に対して用い続けるなら、この行為は米国に対して為されたものと、わが政府はみなし、同様の方法による最大限の報復が為されるであろう』と言う警告を発していたからである。既に本土を空襲に晒されていた日本はこの警告を受け入れるほかはなかった。人命に損傷を与えた風船爆弾は、オレゴン州の木にひっ掛かった、たった一つである。ピクニックに来ていた子供が、風船から垂れ下がっていた紐を引いてしまい、六名が爆死した。9.300 個の風船爆弾の戦果は、この子供六名の命と山火事であった。
太平洋の東から西へ、たった一個の爆弾を積んだB-29が広島にやってくるのは、オレゴンの爆発から93日後の1945年 8月 6日であった。
[勝者]
敗戦で丘の上の研究所はなくなり、同時にその記録も、価値も意味も消える筈であった。しかし登戸研究所は死んではいなかった。戦後日本の裏側で生き続けた。
戦後直ぐ、GHQは執拗に登戸関係者を尋問した。所が不思議な事が起こる。戦犯裁判では、上司に命令され、巳むなくやった捕虜殺害では多数の人が刑場の露と消えたのに、生体実験までした研究所の関係者は、731部隊がそうであったように誰一人として裁かれていないのである。彼等を処断するよりも彼等のデーターを吸い上げる事でその犯罪を免責としたのである。戦時中は日本陸軍によって、戦後はGHQによって謀略の研究所は、時の権力者によって守られたのである。
毒物で12人の命を奪った帝銀事件でも、この研究所の噂が出たが何時しかそれも、消えてしまった。この事件では多数の人間に飲ませていることに問題があり、若し普通の劇薬なら初めに飲んだ人間の異変に気付くのであるが、16人が疑いなく飲んだのは死に至る物であって効き目が数分掛かる無味無臭と言う類いである。この薬物は登戸が開発した青酸ニトニール以外には考えられない。しかしこの事件で調べられた登戸関係者は居ない。
この薬物は、厳重に管理されていたはずであるが、実際は終戦時の自決用に或る限られた者に手渡されている。それに戦後の偽札事件の度に、登戸の名が取り沙汰されている。
それだけではなく、悪魔は確実に戦後も成長していた。1950年の朝鮮戦争のとき、当時国でない英・仏の合同調査報告書には『朝鮮と中国の人民は、確かに細菌兵器の攻撃目標になっている。この兵器を使っているのは、米軍部隊でありそのうちの幾つかは、第二次大戦で日本軍が使った方法を改善した物であると思われる…』との記載がある。
丘の上でタイプを打っていた少女は、今年 75 歳に成る。彼女の思い出にしようとしたファイルは、葬り去られようとした事実を明らかにしたが、果たしてそれで全てなのであろうか?かって、そして今も厚いベールに包まれた歴史があるのではないだろうか?
陸軍登戸研究所
[謀略]
東京の副都心・新宿から西へ 18 ㌔、川崎市多摩区に、現在は明治大学生田校舎となっている標高 83 ㍍ほどの小高い丘がある。ここは昔、『登戸の丘』と呼ばれた。この丘から一日中、何か物を燃やす白い煙が立ち上ぼっていたのは、1945年 8月 15 日の事である。15日の早朝『陸軍省軍事課』からの最後の通達『特殊研究処理要項』には『敵ニ証拠ヲ得ラルルコトヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急処理ス』とあった。日本政府がポツダム宣言を受諾し、終戦の昭勅が出るのはその一時間半後である。敗戦の知らせに国民が衝撃を受けていたその時、その全てが、この丘で研究されていたことの全てが闇に葬られようとしていた。あれから54年、何も知らずにキャンパスを行き交う平成の若者たちの傍らに、朽ち果てた記憶がある。立ち入り禁止の木造の建物、石に刻まれた陸軍の文字、陸軍登戸研究所、そこは謀略の巣窟であった。遮断された丘の上で研究されていたのは、国家として決して表に出せないものばかりであった。毒ガス、細菌、偽札など勝つためにこの国がしたあらゆる謀略の殆がこの丘で研究されこの丘で生まれたのである。そして時速 200㌔の偏西風に乗って米国本土を空襲したあの最新兵器もである。その上、戦後の日本を震撼させた帝銀事件などの難事件が起きる度に登戸研究所の名が噂された。
その秘密のベールは、一人の少女の持っていた書類によって解明された。 その少女『小林コト』が試験に合格して、自宅から徒歩一時間の登戸研究所に就職したのは、彼女の 15 歳の春であった。仕事はタイピスト、常に将校が付き添い、仕損じは頑丈な南京錠で封印された焼却箱に捨てさせられたと言う。軍とはそういう物と彼女は全く不審には思わなかった。そして日本の敗戦はその五年後であった。その最後の日、彼女はある書類の綴りを持ち出そうとして、門衛に咎められている。それは表紙に『雑書綴り』と書かれた小冊子であり、彼女がタイプの練習用にと、密かに集めていた書類の写しであった。いかなる物も持ち出し厳禁と言っていた門衛も、青春の思い出にしたいと言う彼女の言葉に持ち出しを許可してしまう。彼女としては、本当に15歳から20歳迄の青春の思い出の筈であった。
公式には、陸軍の研究所は『陸軍兵器行政本部』の下に八つの研究所が組織されていた。そしてその存在が極秘であったのが、『第九技術研究所』、通称・登戸研究所である。
設立は、昭和の初期である。日本は1921年(大正 10 年)のワシントン軍縮会議で、あれよあれよと言う間に、米国の思うが儘の軍縮を強いられた。何故このように米国は議事進行が旨いのか?と言う疑問が解けたのは、その十年後である。米国の諜報機関『ブラック・チェンバ』の一員であった男・ハーバード・ヤードリーが引退してから著した本『ブラック・チェンバ』によってである。この本には日本の当時の暗号が全て米国側に筒抜けであったことが記されていたのである。日本は、第一次大戦までは情報戦とか謀略戦に付いては拙劣であった。しかしこの大戦で欧米はこれを駆使するまでになっていた。
これに脅威を感じた陸軍はそれ以後、世界と渡り合うためには諜報戦に力をつけなくてはならないとし、謀略のための研究所を1927年に誕生させた。しかし当初は全く手探り状態であり、教科書は既に市販されていた『ブラック・チェンバ』のみ、参考にしたのは欧米のスパイ小説、スパイ映画であった。それから十数年、小林コトが就職した1940年には、その研究所は、一大謀略基地となっていたのである。
ここで生まれた数々の新兵器を紹介した映画が戦後になって出来た。故・市川雷蔵が主演した大映映画『陸軍中野学校・密命』『陸軍中野学校・竜三号指令』である。この中で主人公は、『これは登戸研究所で造った最新兵器だ』と言いながら数々の兵器を駆使する。それはあながち荒唐無稽のものではなかった。
この丘には、あらゆる分野の優秀な頭脳が結集していた。この研究所は、研究目的によって四つに分かれている。殺人光線、風船爆弾などの物理関係の第一科、毒物、細菌、諜報器材などの化学関係の第二科、器材の実験、製造関係の第四科、そして問題の第三科だけが特に監視が厳しく、建物の周囲は高い塀に覆われていた。謀略の丘の中の更なる機密の場所、第三科で行われていたことは、国家として表に出せないことであった。
[攪乱]
この研究所には千人が勤務していたが、その殆どは学者、研究者、学生であり、生粋の軍人は上層部のほんの一握りのものに限られていた。監視も厳しい第三科に大きな荷物が搬入されたのは、1939年である。その荷物の中身は、当時のドイツが世界に誇った印刷機で『ザンメル印刷機』と言われたものである。そして東条英機から直接の命令がくる。
『蒋政権ノ法幣制度ノ崩壊ヲ策シ、以ッテソノ国内経済ヲ攪乱シ同政権ノ経済的抗戦力ヲ消滅セシム。本工作名ヲ[杉工作]ト称ス。』と言うものである。要するに偽札作戦であった。当時の日本は、侵攻していた中国戦線で、蒋政権などの執拗な反撃に会い、苦戦をしていた。そこで蒋介石の国民党の紙幣、つまり法幣を偽造する事でその足元を揺るがそうとしたのである。しかしこれは、国家として決してやってはならぬことであった。当時の戦時国際法にはこれを禁止する条項はない。しかし、それ以前の許し難いこととして想定していなかったのである。だが、日本の参謀本部としては、起死回生のためには、国際的モラル等、関係無かった。このために大蔵省造幣局の課長級まで掻集められたという。おまけに日本は香港にあった中国の印刷所から、本物の原板を全て押収して作ったので、ここで作られたものは偽札ではなく、本物であった。
これによってばらまかれたのは、現在の価値で170 億円程度に過ぎなかったので、残念ながら中国経済経済の混乱を起こすまでには至らなかった。
日米開戦は、小林コトが就職してから一年後である。ここでの悪魔の研究は加速して行きつつあった。タイプの練習用にと彼女が何気なく取っておいた記録、それには研究の内容が直接に記されている訳ではない。しかし、後年の研究者は、その記述の影に重大な事実がある事に気付いた。
例えば、1943年 7月28日から 8月 22 日まで毎日運び込まれた膨大な量の氷の搬入記録、何故こんな氷が必要であったのか?丁度この頃、研究所では『青酸ニトニール』と言う猛毒の研究をしていた。これは極めて揮発性が高いので常に氷で冷却する必要があったからである。雑然に見えた彼女のファイルからは、様々な事実が浮かび上がった。ある注文書には『イヌサフラン』の文字があったが、この植物の球根には猛毒が含まれるし、『雨傘蛇毒』の記載は毒蛇の名前である。
[非道]
今もこの丘の片隅に『弥心神社』と言う小さな社がある。ここに祭られているのは、発明の神様とこの研究所で殉職した研究者である。小林コトの親しくしていた青年も、猛毒ガスを誤って吸い込んで瞬時に命を落としている。1982年、731 部隊を描いた森村誠一の 『悪魔の飽食』が世に出て、世間を驚愕させたが、これらの細菌戦はこの国の軍隊の影の部分であった。まるで絨毯爆撃のように、無作為に人の命を簡単に奪っていく毒ガスと細菌兵器、この研究所でこれらを研究していたのは、組織から言えば第二科である。それは研究者も認めている。しかし戦後、その研究者たちはかたくなに『登戸の者は人体実験には参加していない』と言い続けていた。
しかし、何も知らずに唯タイプを打っていただけの少女は、数少ない証拠を残していた。ファイルに頻繁に出てくるある将校の中国への出張報告、その実態が明らかになったのは1981年の事である。新聞には『日本軍の中国人体実験・陸軍の中枢機関も』の文字が躍った。元登戸研究所の職員が、匿名で毎日新聞の記者に語ったのである。 それは1942年の南京、細菌戦秘密部隊に派遣された登戸研究員は 7名、彼等はそこで日本人の医師と称して中国人捕虜 30 名が全て死亡するまで実験をしたと言うのである。その匿名氏は『密室内で自分は防毒マスクをし、捕虜を椅子に縛り付け、青酸ガスを吸わせたり、液体の青酸を注射またはイペリットを塗った。直ぐに死なないものもいたが、帰すわけには行かず、彼等が死ぬまで実験を続けた。ほとんどが即死する青酸の中で、死ぬまで数分掛かるのは青酸ニトリールだけであった。この青酸ニトリールは研究所が独自に開発した物である』と証言している。彼はこの人体実験で文献とは異なる多くの結果を得て、いかに毒物は人体実験が重要であるかを実感したと言う。
こうして日本軍は実験の次ぎは実戦によって悪魔と握手をする。1941年、1942年にはペストに感染させた蚤を飛行機から中国にばらまき、数千人を死亡させている。
当時の日本陸軍はこの種の研究では世界で群を抜いていたが、米軍の侵攻の早さがこれを上回った。1942年、ミッドウェーでの大敗北、1943年ガダルカナルの撤退と続いて、日本本土は米軍爆撃機の射程範囲に入る。同年、学徒動員令がだされた頃、この研究所に新兵器の開発命令がくる。そして18歳に成っていたタイピストは『コンニャク』と言う文字を頻繁に使うようになる。
米国サンフランシスコに日本軍の空襲を知らせるサイレンが鳴り渡るのは、それから暫くの後である。たった一度の空襲警報は、登戸研究所の新兵器が米国に届いた証しである。1942年4 月、遂にB-25が太平洋上の空母から日本にやってくる。陸軍は日本も何とか米国本土に一撃を加えたいと思った。しかし日本列島と米国の間には 8.000㌔の太平洋がある。 [決戦兵器] この時、中島飛行機製作所で開発されていたのが、片道飛行の長距離爆撃機『富嶽』である。しかしこの計画は、資金、資材、技術全ての面で不成功に終り、頓挫する。もっと安上りのものとして考えられたのが、風船爆弾である。米国が最後の決戦手段として原子爆弾を開発し、ドイツがV-1ロケットを実戦に持ち込んでいるときに、日本は風船であった。日本から米国本土に爆弾を乗せた風船を運ぶと言うことを研究したのは、第一科である。実はその前にも登戸では、戦略としての風船を開発したことがあった。日米開戦の 8年も前に、中国北部で睨み合っていたソ連国内に向けて、日本軍はスターリンの悪口を書いたビラを乗せた風船を飛ばしていた。しかし風任せでどこに行くか分からない風船作戦は尻つぼみになった。しかし、米国なら確実に届くと言う成算があった。高度10.000には、日本から米国方面に時速 200キロの偏西風があったからである。問題は気圧変化の大きい高度で、いかに破裂させないで高度を保つか?であった。そこで考えたのが、バラストと気圧計の関係である。気圧が低くなると、自動的に導火線に着火し、その先にあるバラストを切り離す。これによって浮力の減退した風船を再び舞い上がらせると言うのである。何度も実験が繰り返され、水素ガスを充填する気球はゴムでは無く、和紙とコンニャクから作った糊が最適とされた。
この風船爆弾の製造が本格的に始まったのは、1943年の 8月、工場として選ばれたのは、風船が直径 10 ㍍もあったので日劇、東京宝塚劇場、国技館のように、天井が高く広い場所である。動員されたのは女学生を中心とした女子挺身隊の数十万名である。発射基地に選ばれたのは太平洋に面した九十九里浜の千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来である。1944年 10 月の大本営命令『明朝午前五時を期し北米大陸を攻撃すべし』で作戦の初日、九十九里浜から米国に向けて 12 個の風船爆弾が舞い上がった。目撃した住民は、こんな物で米国まで届くなどとは思わなかったが、研究者たちはこれに期待をしていた。陸軍も藁をも掴むの心境であった。
これ以後、飛ばされた気球は 9.300個、米国に辿り着いたのは、およそ 1.000個、その戦果は人里離れた山奥で幾つかの山火事を起こした程度である。しかしこれを発見した米国は綿密な調査をしている。バラストの砂を分析し、それが九十九里浜の物である事まで特定したと言う。米国が恐れていたのは、この風船爆弾が細菌兵器と疑ったのである。確かに日本側の当初の目的も正にそこに有ったのである。第二科では死亡率の高い『牛疫』と言う病原菌を研究しており、これを風船爆弾に乗せるはずであった。しかし、この計画は実験中に中止となる。昭和天皇が『国際条約で禁止されている細菌兵器を使う事は許可しない』と言われたと職員には告げられた。でも本当の理由は別であった。日本軍が中国大陸で細菌兵器を使っていることを知った米国大統領ルーズベルトは、日本に対して『若し日本が非人道的戦争手段を中国或いは他の連合国に対して用い続けるなら、この行為は米国に対して為されたものと、わが政府はみなし、同様の方法による最大限の報復が為されるであろう』と言う警告を発していたからである。既に本土を空襲に晒されていた日本はこの警告を受け入れるほかはなかった。人命に損傷を与えた風船爆弾は、オレゴン州の木にひっ掛かった、たった一つである。ピクニックに来ていた子供が、風船から垂れ下がっていた紐を引いてしまい、六名が爆死した。9.300 個の風船爆弾の戦果は、この子供六名の命と山火事であった。
太平洋の東から西へ、たった一個の爆弾を積んだB-29が広島にやってくるのは、オレゴンの爆発から93日後の1945年 8月 6日であった。
[勝者]
敗戦で丘の上の研究所はなくなり、同時にその記録も、価値も意味も消える筈であった。しかし登戸研究所は死んではいなかった。戦後日本の裏側で生き続けた。
戦後直ぐ、GHQは執拗に登戸関係者を尋問した。所が不思議な事が起こる。戦犯裁判では、上司に命令され、巳むなくやった捕虜殺害では多数の人が刑場の露と消えたのに、生体実験までした研究所の関係者は、731部隊がそうであったように誰一人として裁かれていないのである。彼等を処断するよりも彼等のデーターを吸い上げる事でその犯罪を免責としたのである。戦時中は日本陸軍によって、戦後はGHQによって謀略の研究所は、時の権力者によって守られたのである。
毒物で12人の命を奪った帝銀事件でも、この研究所の噂が出たが何時しかそれも、消えてしまった。この事件では多数の人間に飲ませていることに問題があり、若し普通の劇薬なら初めに飲んだ人間の異変に気付くのであるが、16人が疑いなく飲んだのは死に至る物であって効き目が数分掛かる無味無臭と言う類いである。この薬物は登戸が開発した青酸ニトニール以外には考えられない。しかしこの事件で調べられた登戸関係者は居ない。
この薬物は、厳重に管理されていたはずであるが、実際は終戦時の自決用に或る限られた者に手渡されている。それに戦後の偽札事件の度に、登戸の名が取り沙汰されている。
それだけではなく、悪魔は確実に戦後も成長していた。1950年の朝鮮戦争のとき、当時国でない英・仏の合同調査報告書には『朝鮮と中国の人民は、確かに細菌兵器の攻撃目標になっている。この兵器を使っているのは、米軍部隊でありそのうちの幾つかは、第二次大戦で日本軍が使った方法を改善した物であると思われる…』との記載がある。
丘の上でタイプを打っていた少女は、今年 75 歳に成る。彼女の思い出にしようとしたファイルは、葬り去られようとした事実を明らかにしたが、果たしてそれで全てなのであろうか?かって、そして今も厚いベールに包まれた歴史があるのではないだろうか?
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