楽しく遍路

四国遍路のアルバム

犬塚池 仙遊寺 作礼山 国分寺 国分尼寺 白砂青松の道 蛇池

2018-10-17 | 四国遍路

 
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犬塚池へ
57番栄福寺にお参りし、58番仙遊寺に向かいます。写真奥は犬塚池の堤防です。


犬塚池
えひめの記憶によると犬塚池は、寛永16(1639)、原初の形が造られたと言います。
しかし本格的溜め池となるには、( 前号で記した )五人主様の悲劇や享保の大飢饉を経なければなりませんでした。五人主様の悲劇は寛文9(1669)。享保の大飢饉は享保17(1732)のことです。


犬塚池
犬塚池の改修が始まったのは、寛政7(1795)でした。
藩は寛政8(1796)、29年の歳月をかけて鹿の子池を完工させ、続いて犬塚池の工事に取りかかったのでした。
犬塚池工事は23年をかけ、文化4(1817)、完工します。


改修記念碑
犬塚池がほぼ現在の姿になったのは、昭和10(1935)だと言います。大改修が行われ、貯水能力は従来の12倍に広がったとのことです。
この改修を記念して、大きな碑が立っていました。建立は昭和12(1937)です。



池沿いの道から山道に入ります。
しかし山道は長くはつづかず、すぐ車道に出てきます。


ランドマークタワー
しかし車道とはいえ、けっこう楽しめる道です。
今治市が一望できるポイントがあります。高いビルは、今治のランドマークタワー、今治国際ホテルです。沖の大きな島は、そのものズバリ、大島。


しまなみ海道
こちらは、しまなみ海道。波止浜で間近に見たのでした。


車道
四季折々の花も楽しめます。
ちょとだけ残念なのは、身を投げた犬の形をしているという、犬塚池の全景を見ることができないことです。
ぜひ見たいと思い作礼山にも登ってみたのですが、・・結果は後ほど。


国分寺へ
たまたま一緒に歩いていた米人遍路が、道標を見つけて指差しながら、アッン?と私に訴えました。あっちに行かなくていいのか、という意味です。
私がトゥモロー!と言うと、すぐ分かったようでした。二人とも、今晩は仙遊寺の宿坊に泊まり、トゥモロー、あの道を降りて国分寺に向かいます。


放生池
降り口の、道を挟んだ向かい側に、放生池があります。
龍登川という川の、水源と考えられていた池です。川は海の龍宮につながり、龍が山に登りくる道とされていました。
むろん観念の中を流れる川ですが、この譚は広く流布されていたらしく、かつては龍登川という名の川が、実在したそうです。蒼社川と頓田川の間を流れていたとされていますが、今日、その流路をたどるのは、難しいようです。


放生池
龍登川の譚は、仙遊寺が海洋信仰に関わっていたことを示しています。
ご住職は公式HPに、・・古代の修験道では、修験者が海の見える山頂から海を礼拝したので、仙遊寺に龍女伝説が残っているのも納得できる話ですね。・・と記しておられます。
また龍登川譚は、仙遊寺の山号=作礼山の由来にもかかわっています。これについては、後に記すことになります。


放生池
「登龍門」の語源故事によれば、龍門の滝を上りきった鯉は、龍になります。即ち、鯉は未来の龍、というわけです。
龍神様に化身するともなれば、鯉は捕らえても、食べるなんてできることではありません。殺さず、川や池に放っていたと言います。「放生」の始まりです。
やがて鯉にかぎらず亀なども、わざわざ購ってでも放つ、放生会の風習が形作られてゆきました。龍門伝説と不殺生戒の教えが、習合したと思われます。


放生池
放生は鯉から始まったらしい。
というわけで、たいていの放生池では、鯉が泳いでいます。
ましてや、ここは龍登川伝承を持つ放生池です。写真の鯉は、泳ぐべくして、ここに泳いでいます。たまたま鯉がいるのではありません。
写真はH17(2005)春、桜散る頃の撮影です。


山門
H17(2005)、初めて仙遊寺にお参りしたときのことです。
17:00が近づいているので、急いでいました。なにしろ富田に宿をとっていましたから、間に合わないと、とんでもないことになります。
ようやく山門にたどり着き、もう大丈夫だと思ったのでしたが、・・実はこの後こそ大変だったのでした。息を切らせて登った急坂が忘れられません。(なお結果は、なんとか間に合いました)。


しゃくなげ
急坂はシャクナゲで始まりました。


弘法大師御加持水
五来重さんは「四国遍路の寺」で、次のように書いています。
・・お寺では仙人から仙遊寺という名前ができたと言っています。しかし私は泉から出てきた信仰だとおもいます。
つまり仙遊寺(せんゆう寺)は、泉涌寺(せんにゅう寺)から来ている、ということでしょう。「泉涌」の「泉」は、むろん、このお加持水です。けっこう有名な(宿坊の)温泉は最近のことで、寺名の由来にはかかわりありません。でも、ボーリングしてみようと思いついた背景には、「泉涌」があったのかなあ?わかりませんが。


石段へ
寺名が仙人に由来するとは、・・
昔この地に、阿坊という仙人が棲んでいたそうです。
阿坊仙人は40年かけて、当地に七堂伽藍を整備し、養老2(718)、忽然と当地を去ったと伝わります。謎の人物です。
無名の七堂伽藍は、やがて仙遊寺と呼ばれるようになりましたが、それは、仙人があたかも雲に遊ぶかのごとくに去って行った、その姿に因むと言います。


仙遊寺石段上
阿坊仙人について、仙遊寺ご住職が、前掲の公式HPに、次のように記しておられます。
この後の私の行程とも関係するので、転載させていただきます。
・・もし阿坊仙人の存在と養老2年(718)という年代を信じるなら、阿坊仙人が住み始めたのは(676)年ごろで、前述の中大兄皇子(天智天皇)が大敗をした白村江の戦いから13年後、壬申の乱(672)から4年後ということになります。


本堂
・・唐が690年に一時的に滅ぶまで、侵攻の不安が残り、古代城や仙遊寺の整備が進められたとすると、阿坊仙人が住み始めたのは、ちょうどそのころだったはずです。ひょっとすると阿坊仙人は新羅・唐の連合軍に負けて朝鮮半島から逃げてきた、元百済人だったのかもしれませんね。


大師堂
住職さんが書く「古代城」は、永納山 ・ 医王山に築かれた、古代朝鮮式山城をいいます。永納山 ・ 医王山は、 ( 栴檀寺奥の院がある )世田山に隣接する、独立峰です。
私はこの後、訪ねる予定です。その様子は、次回、お伝えします。


境内
山号・作礼山の由来譚は、・・
これは、前述の「龍」にかかわっています。
・・龍登川を上ってきた龍女が、仏像を刻み始めました。龍女は、一刀彫っては三礼し、これを繰り返しながら、長い時間をかけて、仏像を作ったと言います。
・・龍女が彫った仏像は千手観音菩薩像で、仙遊寺のご本尊となりました。山号の「作礼山」は、「龍女一刀三礼の作」から来ているとのことです。


境内
龍女は千手観音菩薩像を彫り上げ、ふたたび龍登川をたどって海に還りましたが、それ以降は毎年、旧暦7月9日には「龍燈」を作礼山に運び上げ、桜の木に掛けてゆくようになったと言います。
龍燈は、おそらく、灯台を意味しているのでしょう。作礼山は、地乗り航法の時代、航行の目当て山になっていたようです。海岸線は、今日とは違っていました。
仙遊寺には龍燈桜と碑があるのですが、写真は撮り忘れました。


鐘楼
犬塚池伝説の「犬」は、仙遊寺の鐘が鳴れば仙遊寺へ、栄福寺の鐘が鳴れば栄福寺へ行き、住職さんの用を足していました。
あるとき、両方の寺の鐘が同時に打ち鳴らされ、犬は、いずれに行かんか迷いに迷い、池に身を投じて死んでしまいます。以来、池は犬の形をしていると言います。



驚きました。H17(2005)、仙遊寺に登ると、犬が出てきました。やっ!これが伝説の犬か!一瞬そう思ったものでした。


景色
宿坊からの景色です。
中央の山塊が、鹿ノの子池公園がある歓喜寺山。奥が国分寺方面で、富士山型の山が霊仙山。その左の低い山が、国分寺山とも呼ばれた、唐子山です。


夜景
澄禅さんは四国遍路日記に、・・田舎の中に歓喜寺と云う寺有。住持の僧は慈悲心深重の僧なり。是に道筋を教えられて国分寺に到る。・・と記しています。
歓喜寺は山塊の東端にある、真言宗の寺です。


夜景
鹿ノ子池は、池の形が鹿の子に似ているので、鹿ノ子池だそうです。犬の形の犬塚池と共に、蒼社川と頓田川に挟まれた地域に農業用水を供給しています。鹿の子池、犬塚池は、この地域の溜め池の、双璧と言えます。


翌朝
翌朝、作礼山の山頂に、登ってみることにしました。


登り口
大師堂の裏から登ります。



寺と山頂との高度差は、50㍍はないと思います。しかし、けっこう急で、枯れ葉で滑りやすい道でした。


五輪塔
住職さんが書く、・・天智天皇ゆかりの五輪塔・・とは、これでしょうか。
五来重さんが、・・経塚でしょうか・・と書く石塔は、これでしょうか。


山頂へ
観音さまの道になっています。


景色
木が邪魔をして、よい景観は得られませんでした。犬塚池の犬の形、残念ながら見られませんでした。


景色
四国遍礼霊場記は山上からの景色を、まるで絵のようだ、と書いています。
・・遠く滄海を望めば島嶼波に泛べり。左は今治の金城峙つ。逸景いづれの処より飛来、唯画図に対するごとしなり。
写真は蒼社川方向です。


下り
お山を下ります。初めて車道から降りてみました。団体のバスが見えています。


トゥデー
昨日、トゥモローと教えた米人遍路は、今日は先行しています。小一時間も前に、ここを降りたでしょうか。
右の座像は、清道さんが奉納したものです。これまで清道道標を何本か見てきました。


五郎兵衛坂
由来を説明する看板が立っています。
・・昔々、仙遊寺には、伊予守から奉納された大きな太鼓が置いてありました。この太鼓は音も大変大きく、桜井の海岸まで、そのたたく音が聞こえたそうです。この大きな音に魚が逃げて漁ができないと、五郎兵衛という猟師がたいそう怒り、仙遊寺に登り、包丁でその太鼓を破った上、仏様に悪口雑言をあびせました。



・・その帰り道、五郎兵衛はこの坂で転んで腰を打ち、その時の怪我がもとで亡くなったそうで、それ以来、人はこの坂を五郎兵衛坂と呼び、歩くときは気をつけて、ゆっくり歩くようになったといわれています。


智恵の文殊へ分岐
右に降りると、智恵の文殊と知られる竹林寺です。
私は左、国分寺に向かいます。


唐子山
降りてきました。前方に唐子山が見えます。
唐子山にはかつて、国府城があったそうです。永納山城と連携していたでしょう。
しかし残念なことに、今治城築城の時、藤堂高虎がこれを壊してしまいました。壊して、今治城のための用材を調達したと云います。


領境石
四国遍礼名所図会に、・・領境標木、今治領・天下領さかひなり。此の間一万石天領なり・・とあります。
「標木」となっていますので、この頃は、石柱ではなかったようです。
松山藩領であった桜井が天下領(幕府直轄領)となるのは、明和2年(1765)とのことだそうです。ただし、この時、桜井地方でも国分村と古国分村(ふるこくぶ村)は、今治藩領に編入されますから、今治藩領内の札所は、55番南光坊から59番国分寺までとなったわけです。54番延光寺は、まだ松山藩領でした。


59番国分寺
四国遍礼霊場記に・・本尊薬師如来なり 紀籍に載る所、諸国分寺聖武天皇の詔にて作るものは、丈六の釈迦二菩薩なり。此の寺今長四尺の薬師なり。そうじて諸国分寺、今丈六の本尊をきく事希なり。殊薬師の本尊おほし。・・とあります。


59番国分寺
そうなんですよね。なぜか薬師如来は多いんですよね。
なぜなんでしょうか。どなたかご教示ください。
因みに、四国では、伊予と阿波国分寺が薬師如来。讃岐と土佐国分寺は千手観音です。


59番国分寺
  吉野朝忠臣 従三位脇屋刑部郷源義助公霊廟通 是より二丁


脇屋義助墓
・・この村に新田義助の墓印あり。今治御家中より石塔建立。(四国遍路道指南)
・・新田義助墓 本堂より二丁東、山の側にあり。石塔長八尺、台石壱丈、御影石なり。前に石灯炉あり、下に小さき庵あり。(四国遍礼名所図会)


家来の墓
新田義貞の弟ですから、新田義助となっています。脇屋姓は、上野国新田郷脇屋(群馬県太田市)に本拠を持っていたことに拠ります。
今治では、むろん太田でも、脇屋の方が、通りが良いようです。


礎石
・・堂塔跡 田の中にあり 往昔 此の地伽藍の地なり。(四国遍礼名所図会)
礎石です。堂塔の大きさが思われます。

  伊 予 国 分 尼 寺
私は国分寺を訪ねたときは、かならず、その尼寺を探すようにしています。ご承知のように国分寺は、国分僧寺-国分尼寺という組み合わせで、国分寺だからです。
伊予でも、国分僧寺の対の寺である、伊予国分尼寺を訪ねました。
なお阿波では、国分尼寺は今は絶え、「跡」だけになっていました。幸か不幸か、埋め戻す前の発掘溝を、見ることができました。→阿波 
土佐国分尼寺は、存在したことは確認されていますが、その場所はわかっていません。比江廃寺跡がそうではないか、とは言われています。→土佐
讃岐では、法灯が続いています。訪ねてみました。→讃岐


案内図
桜井小中学校のところから予讃線を越えた先に、補陀落山法華寺があります。国分尼寺の法灯を継ぐ、数少ない寺とされています。
訪ねてみました。国分寺から直線距離で1.3キロほどの所です。一説では国分僧寺と国分尼寺は、互いの鳴らす鐘が聞こえる範囲内に立地したとのことですが、これなら大丈夫。聞こえるでしょう。


法華寺
現在の寺域は、創建時の境内の、東南隅に当たるとのことです。創建時の法華寺は、桜井小中学から桜井駅にかけて、広大な寺域を誇っていたと言います。


石段
石段の下には、お大師さんゆかりの霊場のお砂が、納められています。
四国八十八箇所はもとより、空海が密教を綬法された中国青龍寺、真言宗を開かれた高雄山神護寺、真言宗を弘められた京都東寺、そして入定された高野山奥の院のお砂が納められています。


景色
法華寺は三度の戦乱に遭い、創建時の堂宇は、悉く焼け落ちたと言います。
三度の戦乱とは、治承・寿永の乱(1180-1185)、南北朝の戦い、豊臣秀吉の四国攻め、だそうです。 いずれも時代を画す争いです。
そして江戸時代、この高台に移ったのだそうです。


本堂
本尊は十一面観音菩薩。
新四国曼荼羅霊場第三十七番札所になっています。
前回訪れたときは、建築中でした。中を見せてもらった記憶があります。瓦は、菊間瓦だと言っていました。


境内
奥の石段を上がると、瑜伽権現(ゆが権現)があります。阿弥陀如来・薬師如来を本地仏とする神仏習合の神です。


瑜伽大権現
瑜伽さんと金毘羅さんは、両参りの大権現として、広く信仰されていたと言います。瑜伽大権現にも金毘羅大権現にも、両方にお参りしなさい、片参りはいけないよ、というのです。
瑜伽さんでは、岡山県倉敷市の瑜伽大権現がよく知られています。


礎石
予讃線を渡り返して、線路沿いに桜井駅方向に進むと、伊豫国分尼寺塔址があります。



県指定史跡になっています。


礎石
説明板によると、・・花崗岩の自然石が6個、2メートル間隔に 赤土、石灰岩を底から固めて、礎石をすえてある。
とのことですが、周辺出土品の年代と国分尼寺の年代が合わないなど、疑問も出されているようです。

  白砂青松の道

白砂青松の道
さて、国分寺から唐子浜に出て、海沿いの道を歩くことにしました。私はこの道が好きで、今回で二度目です。
網敷天満神社、桜井の石風呂など、一度目の様子は、 (H24春 4) に記していますので、ご覧ください。


白砂青松の道
今治の砂浜は、織田ヶ浜から始まり、唐子浜→志島ヶ原→桜井海岸→寅ヶ鼻海岸を経て、大崎の鼻に至ります。
今回歩く唐子浜より先は、比較的よく残っていますが、残念なのは織田ヶ浜です。今治港から蒼社川河口にかけての砂浜でしたが、その大半は、(仕方ないのかもしれませんが)、コンクリートで固められています。


河原津海岸と河原津漁港
同様のことが、大崎の鼻から先についても起きています。
大崎の鼻から先は西条市の河原津海岸ですが、ご覧のように、やはり埋め立てが進んでいます。隣の新居浜市でも同様です。
写真は永納山から写したものです。


白砂青松の道
昭和37(1962)、池田内閣時、「全国総合開発計画」が閣議決定されました。その具体化として、愛媛県東予地方は「東予新産業都市」に指定されます。これを機に、海岸線のコンクリート化と工場排水による瀬戸内海汚染が、一機に進んだと言えます。
なかでも旧伊予三島市の公害問題(ヘドロ堆積、魚の奇形化、大気汚染、悪臭など)は、大きな社会問題でした。


白きす
土地の人は、・・それでもだいぶ、きれいになったんよ、・・と言いますが、・・けど、昔はこんなもんじゃなかった、・・とも言います。
昔は、カブトガニが棲み、夜光虫が光る海だった、魚ももっと獲れた、と言います。写真は、投げ釣りで釣った白キスです。


松林
写真の松が、若いことにお気づきでしょうか。
昭和50年代前半をピークに松くい虫が大発生し、多くの老木が枯死しました。薪を燃料としていた時代は、松くい虫が巣くった松は即伐採され、薪として燃やされました。よって松くい虫被害は、あまり拡大しないうちに終わっていました。
しかし今は、薪を必要としない時代です。生活様式の変化が、被害の拡大を許しました。


大崎の鼻
前述の、大崎の鼻です。ここが今治市と西条市の境です。鼻を越えた向側は、西条市になります。


龍神社へ
大崎の鼻から、市境になっている山の尾根を登ります。


龍神社
登ると龍神社がありました。この神社は、おそらく、山を降りた所にある、蛇越池(蛇池)の伝説にかかわっているでしょう。後述しますが、蛇池の「蛇」は、龍を意味しています。


巨石
なにか謂われが残っているのでしょうが、わかりません。


休暇村
山上の休暇村瀬戸内東予から、山向こうの国道196号へ降りてゆきます。休暇村への取りつけ道路を利用させていただきました。


蛇池
国道沿いに蛇越池があります。蛇越池は、略して蛇池とも言い、また医王池とも言います。「医王」は薬師如来を意味します。世田山医王院栴檀寺(世田薬師)の医王です。
蛇池には、龍に関わる二つの伝説があります。ひとつは、涙もろい龍の伝説。もうひとつは、人めいわくな水呑龍の伝説です。水呑龍伝説は、栴檀寺に関わるので次号に回すことにし、ここでは、涙もろい龍伝説を記します。
・・昔、日照りがつづき、この辺、孫兵衛作の田圃では、稲が枯れかかっていました。雨乞いをしても、雨が降ってくれないのでした。村人たちは話し合い、とうとう禁断の一手、蛇池の水を抜くことにしました。


蛇池
・・なぜ禁断かというと、蛇池には大蛇が棲んでいたからです。そんなことをすると、どんなことになるかわかりません。だから手を付けなかったのですが、背に腹は替えられない。
村人は水を抜いて田圃に流したあと、大蛇に切羽詰まった事情を話しました。すると大蛇は怒るどころか、わかってくれて、長年住み慣れた池だが、私が出て行こう、と言ってくれました。大蛇は泣く泣く、何度も池の方を返り見ながら、海の方へ去って行きました。蛇池の湿地には今も、その涙の跡が残っていると言います。


蛇池
・・おかげで、その年は大豊作だったと言います。田に水をくれた大蛇に、村人たちはとても感謝し、大蛇を龍神様として、丁重にお祀りすることにしたと言います。
もしかすると先ほど見た龍神社が、涙もろい龍を祀る神社なのかもしれません。


木道
蛇池の湿地帯は、サギソウの群生地として知られています。その見学のための木道です。

ご覧いただきましてありがとうございました。
当初の予定では、永納山→世田山までを今号に収めるつもりでしたが、どうやら入りきれなくなりました。中途半端ですみませんが、永納山からの行程は、次回にまわします。
更新予定は、11月14日です。

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♫はるかに瀬戸の島山に 通う白帆のうつくしく (楽しく遍路)
2018-10-22 22:00:50
タイトルの歌は、今は廃校となっている今治市立美須賀中学校の校歌です。
延命寺の号で、今治城の別名、美須賀城について記しましたが、そのとき調べて、知りました。
次のように続きます。
 ♫美須賀の城の松かげに
   映えて立ちたる我が母校

校舎から(今はコンクリートで固められた)織田が浜やその松原、そして沖をゆく白帆が、きっと見えていたのでしょう。
繰り返しになりますが、ミスカのミは、美の呉音。スカは砂丘を意味します。美しい砂丘が美須賀です。
また、もう一つの別称、吹揚城(吹上城)のフキアゲも、砂が吹き上げられてできた丘、砂丘を意味します。

歩きの体験を交わし合うとき、まるで一緒に歩いたかのように体験を共有できるのは、ほんとに不思議です。
・・・室戸岬に近づくにつれ風が強まり、青年大師像を見る頃には横殴りの雨、・・・
私も室戸では苦労しました。まだ菅笠や杖になれていないころで、笠が飛ばされそうになったり、杖が受ける風圧に驚いたり、風にバタつくポンチョの始末に困ったり、いやはや大変でした。
あの頃はよくU字溝の穴に杖を突っ込んでしまい、杖をとられたりしていたものでしたが、面白いですね、今は突っ込んでも、なぜか反射的に抜くことができるようになっています。
仙遊寺の山門では、初めての人はたいてい、着いた!ホッとするようです。しかしあの登りを、マイペースでならともかく、少しでもオーバーペースで上がるのは、大変です。
・・・ああ、この種の話、尽きることがありませんね。いつかゆっくりお会いして、心ゆくまで話しあいたいものです。
♪松原遠く 消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ~ (天恢)
2018-10-21 09:54:44
 いつもコメントの冒頭には、季節・気候にふれてから始めていましたが、こんな不安定で、変な「気象」が続けば、日本の「四季」は乱れて当然で、ここらで時候の挨拶は卒業することにします。 

 さて、今回の舞台も今治ですが、57番栄福寺から歩く 「犬塚池 仙遊寺 作礼山 国分寺 国分尼寺 白砂青松の道 蛇池 」と、実に細々と丁寧な道中記を楽しく読ませていただきました。  
 とくに作礼山全山が境内という広大な仙遊寺には、天恢もいろいろ懐かしい思い出が詰まっています。 宿坊には2度ほど泊まり、夜明け前にホトトギスの「テッペンカケタカ」「テッペンカケタカ」の鋭い鳴き声で起こされて、遍路で初めて朝のお勤めに参加できたことなど・・・。 今回のブログからも、ミツバツツジ、シャクナゲ、サクラの写真、宿坊からの瀬戸内の夜景の美しさに心が癒されました。 作礼山(H320m)の山頂って、境内(H290m)から直ぐ登れたんですね!
 そして締めは、文中にあった楽しく遍路さんの『山門 H17(2005)、初めて仙遊寺にお参りしたときのことです。・・・」ですが、納経時間の終了間際に、この山門から本堂までの険しい参道は確かに苦しいことです。 天恢も泊まりでしたが、一日の遍路でヘトヘトに疲れ切って、息を切らしてこの参道を上りました。 2度目は、参道はシンドイので、車道を歩いたのですが、こちらも決して楽な道ではありませんでした。
 歩きの遍路さんにとって、巡拝中には苦しい思い出も多いことでしょう。 天恢も神峯寺、横峰寺、雲辺寺などは息を切らせて上った苦しい目にあいましたが、それ以上に厳しいのは、想定外の悪天候、体調不良、そして今回のような時間との戦いです。 天恢も初めての室戸岬で、終日雨の中を金剛頂寺に向かって最後の700m、土砂降りとぬかるみの遍路道を上る苦しさは、その後の遍路でもこれに越える修行はありませんでした。

 さてさて、タイトルの「♪松原遠く 消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ~」ですが、もう百年以上も昔に作られた文部省唱歌「海」で、「干網浜に高くして、: かもめは低く波に飛ぶ。 見よ、昼の海。」と続きます。 
 百年以上昔の日本の海は、どこでもこんな「白砂青松」の美しい海岸線が続いていました。 自然は一度失うと再生はほとんど不可能です。 まっ、「死んだ子の歳を数える」ようなもので、今更あれこれ言ってみても変わりません。 せめて、天恢も「唐子浜→志島ヶ原→桜井海岸→寅ヶ鼻海岸を経て、大崎の鼻まで」の白砂青松の道を歩いてみたいものです。

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