楽しく遍路

四国遍路のアルバム

永納山城 ・ 朝鮮式山城 世田山栴檀寺 奥の院

2018-11-14 | 四国遍路

 
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  永納山城 ・ 朝鮮式山城

永納山城マップ
前号では蛇越池までを記しました。地図の一番上の所です。大崎の鼻から休暇村を経て、蛇越池(蛇池・医王池)へと降りてきたのでした。
今号では、蛇池から赤い点線をたどって、臼井御来迎方向へ南下します。栴檀寺では、奥の院にもお参りします。


国道下
まずアクセスです。
国道196号の「休暇村入口」バス停と「蛇越池」バス停との中間くらいで、(並行して走る)今治-小松自動車道をくぐります。


登山口へ
自動車道をくぐると、自動車道に沿って坂があります。これを登った先が、永納山の北登り口です。


蛇池下
登り切って下を見ると、蛇越池(蛇池)が見えます。
この池に二つの龍伝説があることや、サギソウの群生地があることは、前回記しました。(前回記さなかった’水呑み龍’の伝説は、栴檀寺にも関わるので、栴檀寺のところで記します)。
奥の集落は孫兵衛作(まごべさく)です。


登り口
急坂を登りきって右に入ると、すぐそこが永納山の北登り口です。
ご覧のように道標はしっかりとついています。滑りやすいと注意喚起がなされ、杖も準備されています。まっ、私たちには不要ですが。



城址の存在が知れたのは、山火事という、まったくの偶然からでした。昭和50(1975)、永納山は丸焼けになりましたが、その焼け跡から、不思議な列石が姿を現したのでした。
永納山に古い遺跡があるとは、前から言われていることでしたが、まさかそれが1300年も前の、しかも朝鮮式山城の遺跡だとは、思い及ばぬことだったと言います。


列石
調査の結果、築城は7世紀後半から8世紀前半、おそらくは7世紀後半、とされています。
しかし調査は続行中で、概略の城構えは分かっていますが、詳細はまだです。
また城の名も、とりあえずは永納山城と呼んでいますが、築城時、どう呼ばれていたか、実のところ分かっていません。


列石
天智2(663)、倭国(大和政権)は朝鮮半島の白村江に出兵。百済遺民と連合し、新羅・唐連合軍と戦いました。が、結果は完敗。敗走したと言います。
永納山城は、新羅・唐連合の追撃・侵攻に備えた、一連の防衛拠点の一つです。朝鮮式山城であることから、百済貴族の指揮下で築城されただろう、と推定されています。仙遊寺の阿坊仙人が百済人であった可能性については、前号で記しました。



大和朝廷は畿内を守るため、当時、海上交通の大動脈であった瀬戸内海の両沿岸に、一連の城を築きました。石城山神籠石(山口県光)、鬼城山(岡山総社)、大廻小廻山城(岡山)、城山(香川坂出)、屋島(香川高松)などです。
永納山城は、そのうちの一つです。


世田山
永納山城は、平成17(2005)、国の史跡名勝記念物に指定されました。


幹線道
今治-小松自動車道が、永納山の山裾をぬって走っています。その下を走るのが、国道196号です。道前平野を今治平野につなぐ幹線が、永納山の東側(海側)を通っていることが、見てとれます。
しかし、古代にあっては、どうだったでしょう。古代の海岸線は、もっと永納山に迫っていたことがわかっています。


木舟神社
木舟神社は楠(地区名)の南東にある神社です。木船さん、と呼ばれ親しまれています。
境内の説明文に、・・大昔は神社の近くまで海だったという。ここへ木の舟がついたので珍しがり、お宮を建てて祀ったと伝えられている。・・とあります。
*楠(地区)は、おおまかには、予讃線と北川、今治-小松自動車道に囲まれた地域です。臼井御来迎は、その最南部にあります。上掲の地図をご覧ください。

楠神社(船戸さん)
同じ楠の東北には、「船戸さん」と呼ばれ親しまれている、楠神社があります。
やはり境内の説明文に、・・この辺一帯、船戸という地名を残している。往古、此処まで海であり、舟が発着していたので、この地名があるという。・・とあります。


海岸線の痕跡?
土地の人によると、木船さんから船戸さんにかけてのライン上に、「崖」のようなものが残っており、これは昔の海岸線と考えられている、・・とのことでした。
今治-小松自動車道や国道196号が走っている辺りは、かつては海でした。海が今よりも陸に迫っていた古代、はたして永納山の東側に幹線を通すことは、可能だったでしょうか。すくなくとも困難であったのは、間違いありません。


燧灘
往古、もっと海が迫っていた頃の幹線道は、おそらく永納山の西側、永納山と世田山の間の谷筋を通っていたでしょう。
今は県道159号・孫兵衛作壬生川線が走っている道筋です。
この方が、道の建設・保全が容易であるだけでなく、軍事上の利点もありました。


燧灘
山に挟まれた西側の谷筋は、道前平野から今治平野(国府所在地)に抜けんとする敵にとって、危険な関門となりえました。現代とは違って道は、味方には通りやすく、敵には通りにくいことが求められていました。
古代南海道は、こちら側に通していたと、私は思っています。


永納山と世田山
三芳側から撮った写真です。左が世田山、右が永納山です。この間を、南海道が抜けていたと考えられます。


医王山   
右が永納山。左の険しい山は医王山です。二つの山の間を、県道159号・孫兵衛作-壬生川線が抜けています。
医王山は、永納山城の一郭をなしていました。土塁の残存も確認されています。「医王」という名の興りについては、後に触れます。


山頂
永納山は、六つのピークが馬蹄形に並ぶ、独立峰です。
写真は、その主峰、標高132.4㍍です。


山頂
馬蹄型尾根から医王山にかけて、確認されている土塁は、約2.5kmに及ぶといいます。
ただし残念ながら、2.5㎞の土塁が、まるまる私たちに目視できるわけではありません。


土塁
山体に埋没したりヤブに隠れたりした部分も多く、また完全に崩壊している部分もあります。目視できる箇所でも、保護のため、ブルーシートがかけられたりしています。


尾根
ふり返ると、歩いてきた尾根筋が見えました。さきほどのブルーシートも見えています。
尾根の外側は傾斜が急です。ここに土塁を築かれては、いかな敵兵もこれを攻め上がり、攻略するのは困難でしょう。


尾根
それに反して、馬蹄形尾根の内側は、緩やかです。守る側にとっては、きわめて有利な地形です。


河原津海岸
きれいな海が見えました。
砂浜は、河原津海岸です。ここから東(写真右方向)が西条市です。西条市に合併する前は東予市でした。その前は周桑郡三芳町です。


下り
栴檀寺に向けて下ります。


南口
南口に降りてきました。ここを左方向に進むと、六軒家です。私は右に進み、栴檀寺に向かいます。


永納山登山口
栴檀寺(世田薬師)前の登山口です。県道を挟んだ向かい側が栴檀寺です。


永納山
後に六軒家の方から撮った永納山です。

  世田山 医王院 栴檀寺 ( 世田薬師 )

案内
奥の院、世田山城、世田山が案内されていますが、まずは栴檀寺に参ります。


栴檀寺
開基は行基上人と伝わります。
四国巡錫の砌、世田山山上に薬師如来を感得。栴檀の一木にそのお姿を刻まれたそうです。栴檀寺の寺名は、この故事に因むといいます。
右は三宝大荒神(後述)。駐車場様の場所は、交通安全のための車両お祓い所です。


栴檀寺
栴檀寺は、江戸時代より「きうり封じ」が行われていることで知られています。
土用の丑の日ころ、この夏を無事乗り越えることができますようにと、厄除け祈祷された「きうり」で撫でてもらいます。すると身体の中の悪いものが「きうり」に移り、封じ込められます。さすれば、今夏は大丈夫、というわけです。
庶民信仰ですが、弘法大師の厄病除け祈祷に始まったといわれています。


栴檀寺から見た医王山
栴檀寺から見た医王山です。
世田山栴檀寺(世田薬師さん)が祀る医王=薬師如来、に見立てられています。いわば薬師岳、ということです。



さて、蛇池に伝わる、もう一つの’水呑龍’伝説です。
・・世田薬師と親しまれとる栴檀寺には、それは立派な龍の彫り物があってな、・・なんでも左甚五郎の作と聞いておる。



・・なんと、この龍が、夜な夜な寺を抜け出すんよ。抜け出ては、医王池の水を呑みほしてしまうんで、そりゃあ百姓は困りよった。夏の日照りじゃけん、百姓も水が欲しいわな。


蛇池 
・・そいで仕方ないわい、えらいお坊さんの法力に扶けられてじゃろが、龍を八つに切って、「かすがい」でとめてしもたんよ。
・・さあ、そうなっては龍も動けん。今は世田薬師さんの本堂で、温和しうしとるとよ。おかげで池は満々と水を溜めてな、百姓は夏でも水に困ることがない。


三宝荒神
栴檀寺は元は、世田山の中腹にあったそうです。今は奥の院になっています。
昭和2(1927)、大師堂と三宝荒神堂を麓に降ろし、これを本坊としたとのことです。山腹の本堂は、そのまま残し、奥の院の本堂となっています。



さて、奥の院へ登ります。
いい道です。



1キロほどだそうです。


永納山 
世田山から見た永納山です。左端の白い建物は、休暇村国民宿舎東予。
もう少し高い所から撮りたかったのですが、時間不足で、山頂には上がれませんでした。


西条方向
西条方向です。位置的には、石鎚が見えているはずなんですが、雲がかかっています。
残念です。


石段
奥の院への石段登り口に、不動明王と船曳地蔵さんがいらっしゃいます。


不動明王像
制作中の方と、ちょうど段落がついたところだったので、お話しすることができました。
一度仕上げたのだけれど、火炎に満足のいかないところがあり、また(龍伝説に因んで)、龍像を置きたいとも考え、・・ぼちぼちやっとるんよ、・・とのことでした。
大変でしょうが、龍像、ぜひ拝見したいものです。


船曳地蔵
海上交通安全のご利益があるそうです。
前述の、海岸線が今よりも陸に迫っていたことに、関係するでしょう。


景色
登ってゆきます。
永納山が見えていますが、一本の木が邪魔をして、隠しています。手前に写っているのは、不動明王像の、頭上の火炎です。


石段
長い石段です。


境内
奥の院の境内です。手前に本堂、その奥に不動堂、一番奥に大館氏の墓所があります。
大師堂と三宝荒神は(前述のように)下に降りて、本坊となりました。


本堂
( 左甚五郎が命を吹き込んだという )水呑龍は、かつては、ここに封じられていたと言います。しかし残念ながら、悪戯もあったようで、今は下の本堂に移されています。


腹こわり石
この石は、腹痛をおこす邪気が封じ込められた石です。ですから触ってはなりません。触ると邪気が身体に流れ込み、腹をこわしてしまいます。
しかし、さわらず念ずれば、石が身体の邪気を吸い取ってくれますから、腹痛が癒やされます。
竜といい、「きうり」といい、そしてまた腹こわり石といい、どうやら栴檀寺は、禍を起こす邪気を、「封じ込める」寺のようです。邪気が籠もる怖い石が、本堂直下、薬師如来さまの監視下におかれています。


大館氏明墓
南北朝時代の康永元・興国3(1342)、南朝方、新田義貞の甥、大館氏明は、伊予の守護として世田山城を守っていましたが、(前号で記した)脇屋(新田)義介の病没を機に、北朝方・細川頼春の大軍に攻められ、落城・自刃しました。これを世に世田山の合戦と云い、太平記に詳述されています。
その後、世田山城には河野氏が入り、細川氏との間で、戦を繰り返しますが、これも含めて世田山合戦としていいでしょう。
なお康永は北朝方からの元号。興国は南朝の元号です。


茂兵衛道標
降りてきました。
栴檀寺の前の三差路に茂兵衛道標が立ち、行くべき道を案内しています。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回は栴檀寺前からの出発です。更新予定は12月12日とします。早くも今年最後の更新となりました。

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♪夜の波止場に 砕ける波は 海の吐息か 燧灘~ (天恢)
2018-11-17 21:47:10
 前回、コメントの冒頭で、「ここらで時候の挨拶は卒業します」と宣言しましたが、“舌の根も乾かぬうち”ですが、撤回します。
 と、いうのも今年7月以降の西日本豪雨や度重なる台風により、四国の遍路道も被害にあって、今なお通行できない山中の道が何カ所もあるそうです。 豪雨被害を受けた地元の方たちの生活再建も途上で、とても山中の遍路道まで手が回らず、被害を受けた遍路道のほとんどは、復旧のめどが立っていないのが現状だそうです。 今、歩かれているお遍路さんもきっと難儀されていることでしょう。 楽しく遍路がほど遠い現実に胸が痛みます。 一日も早い復旧を祈るしかありません。

 さて、今回の舞台は「永納山城・朝鮮式山城 世田山栴檀寺 奥の院」、通常の遍路ですと蛇越池から栴檀寺までは1km約15分の道のりですが、歩き方でこんなに違ってくる道中記を楽しく読ませていただきました。 燧灘に面した永納山周辺には、煮詰まった歴史的物語がいくつも存在していたようで興味が尽きません。
 山火事の焼け跡から、偶然に発見された朝鮮式山城の遺跡、それが永納山城で、1300年前の「白村江の戦い」での敗北により、新羅・唐連合の追撃・侵攻に備えた防衛拠点の一つだと。 また南北朝時代では南朝方と北朝方の激しい戦いがこの一帯で繰り広げられ、その後も戦国時代から江戸初期までこの地の支配者は目まぐるしく替わったとのこと。 これもあれも、古代からずっと瀬戸内海は海上交通の大動脈で、人や物資の往来も数多く、この物流を狙った海賊もさぞ大活躍したことでしょう。 

 さてさて、タイトルの「♪夜の波止場に 砕ける波は 海の吐息か 燧灘~」ですが、上杉香緒里さんの「燧灘」で、2010年の発売です。 残念ながら余りヒットしなかったようで、ご存知の方も少ないでしょう。 良い歌だと思うのですが、ヒットしなかったのは燧灘を「ひうちなだ」と読めなかった? 燧灘沿岸の情景や地名を歌詞に盛り込めなかったので、「ご当地ソング」で無かった。 そのため愛媛県民の積極的な支持が得られなかったのも要因かもしれません。 まっ、苦し紛れで付けたタイトルです。
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♫うわさを信じちゃいけないよ・・ (楽しく遍路)
2018-11-19 13:20:08
災害が忘れもしないうちにまたやってくる、・・四国の遍路道も被害にあって、今なお通行できない山中の道が何カ所もある・・
以下は、そんな中で今回、秋の遍路で起きた出来事です。

この11月、私は横峰寺に大頭道から登りたいと思い、ある宿に予約の電話を入れました。
歩き遍路さんですか、とお尋ねなので、そうですと答えると、部屋は空いており、お泊まりいただけるのはうれしいのですが、大頭道は今、不通になっています。いま通れるのは香園寺-白滝奥の院の道だけです。念のため申し上げましたが、どうなさいますか。

私はすっかり信じてしまい、予定を変更。香園寺から登ったのでした。
ところが後日、何人かの人から聞いた話は、・・私は大頭道を通ってきましたよ。大丈夫でした。その宿にも泊まりましたけど・・、そんな話はありませんでした。

私の電話を受けた従業員に悪意がなかったのは、間違いありません。
ただ彼は古い情報を、修正できぬまま私に伝え、私も素直にそれを信じてしまったのでした。古い情報が修正されないまま残りつづける、・・その噓ホントじゃありませんが、ホントらしい噓(や誤り)がホントとして流される、・・風評とは、そういうものなのでしょう。
♫うわさを信じちゃいけないよ、・・を痛感した、今回の遍路でした。

♪夜の波止場に 砕ける波は 海の吐息か 燧灘~
たしかに、これがご当地ソングかと問われれば、さてどうでしょうかと、疑問を呈さないわけにはまいらないでしょう。
夜の波止場といえば、横浜港大桟橋辺りを連想しますし、瀬戸内海の波は、あまり砕け散りませんし。
しかし、あまり世に出ることのない「燧灘」を使ってくださったことには、感謝したいと思います。

Wikipediaによると燧灘は、・・一帯はタイ、サワラなどの好漁場として知られる。沿岸地域から火打石が産出したことからこの名がついた。・・とのことです。火打ち→燧、うまい漢字を当てたものです。
以下、Wikipediaの記述は、今号の記述「白砂青松の道」に、基本的に同じです。
・・沿岸は遠浅の砂浜海岸が発達しており、近世までは無数の干潟が見られたが、これらはほとんど戦後になって工業用地造成のために埋め立てられた。
・・しかし、今治市の唐子浜や桜井海岸、西条市の河原津、観音寺市の琴弾公園など自然の砂浜は僅かに残存している。(つまり僅かしか残っていない、ということですが)。

工業用地造成は、昭和37(1962)、新産業都市建設促進法の成立を機に進みましたが、それは田中角栄さんの日本列島改造(昭和47)に先立つこと10年でした。
さらに新産都市法に先立つこと2年、昭和35(1960)、瀬戸内海沿岸のすべての塩田に終止符が打たれたことは、(H30春 2) 波止浜街道 ・・の号で記しました。化学製塩に取って代わられたからでした。
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