楽しく遍路

四国遍路のアルバム

大日寺 兼山終焉之地 谷秦山墓 お婉堂 比江廃寺 国分寺 善楽寺 30番奥の院

2015-09-24 | 四国遍路
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大日寺下
今日の行程は、28番大日寺から30番善楽寺までです。
まず2キロほど先の、物部川に架かる大橋、戸板島橋に向かいます。ここまでは遍路地図にのっている「へんろ道」です。
橋を渡ってから国分寺までの間で、「野中兼山」をテーマに、すこし寄り道します。国分寺からは、ふたたび遍路道に復しますが、毘沙門の滝に立ち寄る道を選びます。まっすぐ歩けば16キロあまりですが、うろうろするので、25キロは超えると思います。


上井川
1キロあまり歩くと上井川(うわゆ川)にでます。(前号でお伝えしましたが)野中兼山が掘削した導水路です。すこし下流に「野市三つ叉」があります。上井川は三つ叉で分岐し、豊かな農業用水を野市台地に供給しています。


堤防
辺りはきれいに整備されています。天恢さんがおっしゃるように、まさに「親水公園」です。あと数日で桜が満開。次は五月が咲き、その次には紫陽花が咲くようです。


手入れ
「あじさい街道」の手入れをしているのは、老夫婦とお孫さんでした。夫婦とお孫さんが三者三様に、互いの面倒を見合っている様子が、とてもほほえましく思われました。


戸板島橋
戸板島橋をわたります。車が走らないので、安心できます。
渡りきると遍路道は左方向に進み、松本大師堂を経て、土佐長岡駅近くの踏切を渡ります。・・・が、私は右方向(北方向)へ、舟入川(ふないれ川)にぶつかるまで、(200㍍ほどですが)進み、ぶつかると川沿いに西進、「野中兼山先生終焉之地」を目指します。


物部川上流方向
戸板島橋からの景色ですが、この上流に兼山は、三つの堰を築きました。「上井堰」(これは前号で記しました)と、「山田堰」「父養寺堰」(ぶようじ堰)です。
「山田堰」は物部川西岸(右岸)に水を供給するための堰です。三つの取水口を設けて「水源」にし、上井川、中井川、舟入川を掘削しました。「父養寺堰」は、東岸(左岸)に水を供給する堰です。同様に川を掘削し水を流しました。その正確な位置はわからなくなっているようですが、「山田堰」よりも上流にあったとされています。
これらの川は野市、土佐山田、御免一帯を潤し、「堰下三万石」とも呼ばれる穀倉地帯を創出しました。”年にお米が2度獲れる”、土佐最大級の穀倉地帯が生まれました。


舟入川
しかしその工事は、難工事だったといいます。何しろ当時の物部川は、上流と下流の高低差がおおきい割に川の延長が短く、大雨の度に洪水をおこし、流路をかえていました。加えて河床が低く、灌漑が難しかったため、両岸の多くは荒れ地として放置されていました。
工事期間は26年だと言います。兼山の執政就任期間は約30年ですから、その大半を物部川工事にかけたことになります。完工したのは、失脚(後述)の翌年だったそうです。
 

舟入川
舟入川は灌漑用水路ですが、また舟運のための水路でもありました。土佐山田から発し、後免、(紀貫之船出で知られる)大津を通り、浦戸に至る、物流の導線です。
私たちは雪渓寺から種間寺、清瀧寺へと歩くとき、今度は仁淀川にかかわる大工事を目撃しますが、ここでも兼山は、産地と物流導線をセットで構想し、創出しています。その様子は、次々号でお伝えできると思います。


舟入小学校
兼山の時代はまだ米経済の時代ですから、物流の中心は米(年貢)でした。江戸中期から始まる貨幣経済時代の、華やかな物流とは異なっていたと思います。
しかし兼山は、古い農本主義者ではありませんでした。「後免町」に見るように、すでに商業地の形成を目指しています。「後免」は、「諸役御免」(課税なし)から来くる地名です。今日でいう「経済特区」でしょうか。

舟入小学校を右に見ながら、川沿いに進むと、まもなく「野中兼山先生終焉之地」です。


野中兼山先生終焉之地
兼山を重用した2代藩主忠義が隠居すると、後ろ盾を失った兼山は失脚します。寛文3(1663)のことでした。辣腕型の兼山には政敵が多かったのでしょう。
失脚後、兼山は舟入川沿いの当地に隠棲しました。山田堰工事の指揮所として使っていた所で、「明(名)夷軒」と呼んでいたそうです。
四角の枡は井戸です。兼山の頃から使われていたと言います。


終焉之地の碑
しかし、ここでの生活は3-4ヶ月で終わりとなります。兼山は急逝します。49歳でした。毒殺説や「失意の死」がささやかれたそうですが、失脚直後の兼山を毒殺できるほど「勇気」ある人物がいたとは思えません。また、「失意」で亡くなるほど兼山は、柔な人ではなかったと思います。


終焉之地
「過労死」だったでしょう。なにしろ兼山は働き過ぎでした。このブログではすでに、物部川関連工事の他、佐喜浜・津呂・室津・手結、各湊の工事を取りあげましたが、これらは兼山全工事の一部でしかありません。そして工事もまた、兼山全仕事の一部でしかなかったのです。凄まじいばかりの働きようでした。無理がこないはずがないのです。


時光石宮
「終焉之地」の側に「時光石宮」があります。
地元の方は「とっこ石」と呼んでいます。書きとめようとしてノートを構えると「とっこう石」と教えてくれます。でも、話すときは「とっこ石」なので、「とっこ石宮」が正解なのでしょう。
祭神は野中兼山先生で、ご神体は、兼山先生が工事で使用した日時計なのだそうです。工事の始まりや終了の時刻を日時計で計り、ホラ貝で知らせたとのことで、そのホラ貝も現存するのだそうです。


時光石宮
創建については、ちょっとわかりません。兼山の死後、兼山糾弾は、より激しさを増しますから、兼山を祀ることは、表向きには、出来なかったはずです。
兼山を崇敬した当地の民衆が、密かに兼山を祀り、日時計をご神体として小祠におさめていたのかもしれません。

「時光石宮」の先を右に曲がり北上します。谷秦山邸跡を訪ねるためです。
歩いていたら車が止まりました。先ほど道を教わった方が、ちょっとわかりにくいから送りますと、車を出してくださいました。感謝です。お願いしました。


谷秦山邸
「奇しき縁」があります。谷秦山は、兼山が没した寛文 3(1663)、まるで生まれかわりのように生まれました。父は長宗我部遺臣で、兼山に登用された郷士だったともいいます。
長じて秦山は京都で学びますが、その師は山崎闇斎でした。闇斎と兼山は、共に谷時中に学んだ「兄弟弟子」でした。(谷時中と谷秦山は、同姓ですが同族ではありません)。


祈念碑
土佐に戻った秦山は5代藩主山内豊房に認められ、儒官となりますが、豊房の死後、罰せられ、山田の地に蟄居させられました。あたかも兼山の生の跡をたどるかのようです。秦山38歳(45歳とも)の時だといいます。
以後、19年間、56歳で没するまでの間、秦山は山田の地で私塾を開いて講義し、兼山以降、絶えていた土佐南学を再興しました。谷門(こくもん)の流れは、幕末、土佐勤王の志士たちの思想的拠り所となり、維新の潮流を生み出してゆくことになります。


日時計
この空き地は、秦山の私塾跡と推定されるそうです。中央の碑は、昭和12(1937)に建てられたもので、側面には秦山作の七言詩が刻まれています。上面には日時計が置かれています。秦山は天文学、暦学にも長じていました。師は渋川春海だそうです。


道標
この道はハイキング道になっているらしく、道標がありました。私は谷秦山墓所に参り、引き返してきて、野中神社(お婉堂)に向かいます。後述しますが、婉は兼山の娘で、秦山から朱子学を学びました。


案内所
「学聖 谷秦山先生」とあります。秦山は学問の神であり、受験の神であるとされています。
「日の丸の旗も販売しております」とありますが、受験生が秦山の墓に日の丸を奉納し、合格を祈願するのだそうです。


秦山公園
墓所は広い秦山公園の一角にあります。


秦山墓への坂
「墓の大なるは子孫衰絶の兆」という家訓が谷家にあるそうです。が、秦山の墓は小山の上にあり、あたかも小山が墳丘であるかのように整備されています。これでは「大いなる」墓です。弟子は師を、大きく見せたいのでしょう。


谷丹三郎重遠墓
ひっそりとした所に、墓石のみがひっそりとある、・・・それが秦山の望みだったのでしょうが。


谷丹三郎重遠墓
墓自体は家訓通り、自然石に「谷丹三郎重遠墓」と刻まれているだけです。


日の丸
合格を祈願して日の丸が奉納されています。合格祈願と日の丸のつながりは、(解るような気もしますが)よくは解りません。


野中神社(お婉堂)
谷秦山墓から野中神社にやって来ました。兼山をはじめ、野中家の人たちを祀る神社ですが、兼山の四女・婉が建てたので「お婉堂」と通称されているようです。


野中神社(お婉堂)
兼山没後、糾弾は止むどころか、むしろ激しさを増したといいます。よほど「野中復活」を怖れたのでしょうか。遺族は全員、宿毛に送られて幽閉され、竹矢来に囲まれた生活を強いられます。一族の根が絶えるまで。
幽閉は男系が絶えるまで、40年間続いたといいます。婉は4才(5才とも)で幽閉されたそうですから、40半ばの老嬢となって初めて、「外」を知ったことになります。因みに、婉を解き放ったときの藩主は、秦山を儒官に登用した5代豊房です。兼山が仕えた藩主は、2代忠義です。


野中神社(お婉堂)
幽閉を解かれた婉は朝倉に移り、(日本初とも言われる)女医として暮らしつつ、野中神社を建てました。兼山ゆかりの地に神社を建て、失意の生涯を終えた家族と、兼山に殉じた旧臣を祀りました。
婉は竹矢来の中で、医術や、父兼山が学んだ朱子学を学んでいます。朱子学の師は谷秦山でした。兄の5男希四郎とともに学んだと言います。医学は、宿毛の医師で、安田道玄という人だそうです。


国分寺へ
ただし、指導は文通でおこなわれました。秦山は直接指導すべく面会を求めましたが、かなえられず、断腸の思いで立ち去ったと伝わります。
高知(本山町)出身の作家、大原富枝さんが婉の生涯を、小説「婉という女」に描いていますが、その元史料は、婉が書いた秦山宛の手紙だったそうです。なお婉は、享保10(1725)、65才で亡くなります。


国分寺へ
国分川橋を目指して歩きます。橋をわたると、地図に記された遍路道です。


合流
左が領石川、右が国分川(新改川)です。二つの川が合流し、大きな流れとなります。大きくなった国分川は、南に向きを転じ、さらに西に転じて浦戸湾に注ぎます。
北に比江の山を見、南に香長平野を見るこの地は、(後述しますが)古くからの人の営みを伝える地です。「香長」とは、香美と長岡の「香長」です。


神母神社
国分川橋を渡ると神母神社(いげ神社)があります。通称「おいげさん」。稲荷神社に相当するのが、土佐では神母神社になります。祭神は保食神(うけもちの神)という、食べ物の神さまです。
・・・あるとき月読尊(つくよみの命)が保食神に、接待を命じました。保食神は張り切って、接待用食材を調達にかかります。
・・・そのやり方が凄まじい。保食神は口や鼻やお尻などから、食材をゲロゲロと吐き出し、モリモリひり出し、食卓を山盛りにしました。・・・きっと月読尊は悦んでくださるにちがいない、保食神そう思っていたのですが、・・・


神母神社
・・・なんて汚い!吐き出したものを私に食べさせるなんて!月読尊は食べることを拒絶するばかりか、保食神を殺してしまいました。
・・・ところが殺されてもなお保食神は、ゲロゲロモリモリ、食べ物を出しつづけました。
牛や馬、ヒエ、粟、蚕などなど、保食神が吐き出した食べ物は、(月読尊が食べませんから)地上の人間に回ってきました。おかげさまで、今日、私たちは、いろいろのものを食べることが出来ます。ごちそうさまです。


比江廃寺へ


比江廃寺塔跡
比江廃寺の礎石は、塔心柱の礎石を除いて、藩政期の国分川改修にすべて使われてしまったらしく、残っていません。それでも心礎を残してくれたのは、せめてものことですが・・・。
というのも、心柱の径の長さから、おおよその塔の高さが推定できるからです。


塔心礎
比江廃寺は、出土した古瓦から白鳳期の寺跡と考えられ、この期の塔は、心柱の径の約40倍の高さなのだそうです。とすると、この心礎の上に建っていた塔は32.4㍍と計算され、法隆寺の五重塔に並ぶ高さとなります。


塔心礎
この石は移動させられた形跡がないことから、これを基準に、古瓦の出土位置を図面化すれば、きわめて大まかですが、伽藍配置の推定が可能となります。
調査の結果、比江廃寺の伽藍は、法隆寺式の配置と考えられるそうです。
水がたまっていて見えませんが、真ん中に舎利をいれる円形の孔がくり抜かれています。お杖で探ってみましたが、確かにありました。


比江廃寺伽藍想像図
塔と金堂が左右にならび,奥に講堂があり,中門から左右にのびる回廊がこれらをとりまく・・・という配置で、もっとも古い伽藍配置形式です。むろん土佐でも最古と考えられています。
想像図でしかありませんが、こんな大寺が「こんな所」にあったとは、まさに想像をこえます。


国府跡
いまは「こんな所」ですが、内裏(大裏)、国庁、府中、神の木・・・など、錚々たる名の字があるそうです。


紀貫之邸跡
紀貫之邸跡と伝えられている所です。撮影に失敗したので、H20(2008)に撮ったものを使っています。
この辺は大裏(だいり)と通称されているそうです。


紀貫之邸跡
中は、庭園のように整備されています。


国府の碑
土佐のまほろば ここに都ありき・・・と刻まれています。
残念なのは、この地の発掘調査がまだ終わっていないらしいことです。ここまで整備してしまうと、また掘り返すのも大変です。とすると、発掘はだいぶ先のことになる?


国分川
なだらかな傾斜地が、いったん国分川で切れ、再び南に向けて続いています。香長平野です。高知平野の東部、旧香美郡と旧長岡郡を合わせて「香長」平野と呼んでいます。
江戸時代、山内氏が土佐に入封するまで、土佐の中心は香長平野の中にありました。高知龍馬空港の辺に田村という土地がありますが、その名を冠した「田村遺跡群」は、弥生時代前期初頭から、そこに大集落が存在していたことを示しています。九州北部の集落とほぼ同時期、同規模のものと考えられ、土佐の開発が香長平野・田村からはじまったことを意味しています。  
古代には、比江に国府が置かれ、中心は田村から比江に移りましたが、同じ香長平野の中です。今は田んぼ広がっているこの地に、国衙が建ち、国分寺が建ち、比江廃寺が建っていたのです。都とを結ぶ官道、南海道も通じていました。


水田
中世、土佐は細川氏の支配下に入り、中心はふたたび田村に戻ります。守護代細川氏が田村に城館を築いたからです。
戦国末期には、長宗我部氏が台頭して、岡豊に中心が移ります。岡豊は、比江を挟んで田村の反対側です。国分寺参拝の後、私たちは通過します。長宗我部氏は土佐統一から四国制覇の課程で、岡豊城を拠点としていました。
・・・そして江戸時代、土佐に入封した山内氏は高知に城を築き、城下町を形成します。田村も比江も岡豊も中心から外れ、田んぼが広がる農村に姿を変えました。・・・その農村化を強力に進めたのが野中兼山であることは、これまでに記してきました。


地蔵の渡し
地蔵さんには文化7(1810)の刻があるとのことです。「渡し」と呼ばれていますが、説明看板によると、明治30(1897)、国分川橋が架かるまで、人は「徒渉」したのだそうです。つまり、歩いて渡ったようです。


国分寺
「国分寺」は、僧(男性)の国分僧寺と、尼(女性)の国分尼寺とを合わせて「国分寺」ですが、たいていは国分僧寺を国分寺と呼んでいます。


国分寺金堂
阿波でも、これからゆく伊予でも讃岐でも、国分尼寺の所在は確認されていますが、土佐では、わかっておりません。
比江廃寺の寺域に「アマシャカウチ」という字(あざ)があり、よって比江廃寺を国分尼寺とする考えもあるようですが、論定されてはいないようです。


国分寺大師堂
阿波では印鑰神社(いんやく神社)の所在も確認されていましたが、土佐ではわかっていません。印鑰神社とは、国司の官印と諸司の鍵が紛失せぬように祈り、また保管した神社を言います。


総社
現在、総社は国分寺境内にあります。元は国分新町にあったそうです。
安芸から幡多にわたる21社を勧請しているそうです。おかげで国司さんは大助かりです。なにせ、この一社にお参りすれば、21社にお参りしたことになるのですから。長い巡拝の旅をしないでもすみます。


旧国分寺塔礎石
庭石に使われた塔の心礎です。柱座から外へ、たまった水を逃がす排水用の溝が掘られています。
前述の、比江廃寺の心礎と比べると、小さいのがおわかりと思います。国分寺の塔は七重塔が多いのですが、ここでは三重塔ではなかったかと推定されています。


水田の道
善楽寺へ向かいます。私が好きな「曲がった道」です。中央の小丘が、長宗我部氏の居城、岡豊城です。(岡豊城については、次号でお伝えします)。


岡豊小学校体育館
目前に岡豊城を見ながら、岡豊小学校の方へ右折し、県道384号線にでます。毘沙門の滝に寄るためです。


毘沙門天王
ところが、せっかく岡豊城をパスしてやって来たのですが、写真はすべて失敗していました。これは唯一撮れていた、アリバイ写真です。


高知市へ
高知市内に入ります。


30番善楽寺
善楽寺は(と言うより善楽寺も)、明治の廃仏毀釈で廃寺となっています。再興されるのは昭和5(1930)だそうです。埼玉県の与野(現さいたま市中央区)の東明院を当地に遷し、善楽寺として再興したのだそうです。
この再興時期の遅れが、いわゆる「札所争い」を発生させました。


さいたま市与野の旧東明院
私は埼玉県人なので、ついでのときに寄ってみました。本尊は薬師如来です。「本堂」に似合わぬ大きな両界大日如来像が、脇侍しておられます。かつて大寺であったと思わせます。


30番安楽寺
善楽寺が廃寺だった期間、30番札所であったのが高知市洞ヶ島にある安楽寺です。安楽寺は、明治8(1875)には再興され、善楽寺が再興される昭和8まで、30番札所をつとめました。右門柱に「四国第三十番霊場」の文字が残っています。


古い納経帳
明治43(1910)の納経帳です。右ページに「奉納経 無量寿仏 安楽寺」と墨書され、30番の朱印が押されています。左ページは31番竹林寺です。「文殊菩薩 五台山」とあります。


30番善楽寺
さて、善楽寺が再興された時点で、30番札所の交代がスンナリいったかというと、そうではなかったようです。互いに30番としての正統性を主張し合い、二つ札所の状態が続いたといいます。決着がついたのは平成6(1994)だそうです。


30番奥の院 安楽寺
30番札所は善楽寺、その奥の院が安楽寺、ということになりました。

ご覧いただき、ありがとうございました。
土佐一宮、岡豊城についても、ご覧いただきたかったのですが、量的に、無理でした。次回に回したいと思います。
次回は、できれば土佐一宮から雪渓寺くらいまでは進みたいのですが、途中、吸江寺、野中神社、禅師峰寺奥の院、桂浜などに立ち寄ります。載せきれないかもしれませんが・・・。
更新予定は10月15日です。

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兼山には紫陽花がよく似合う (天恢)
2015-09-25 19:50:01
いよいよ「修行の道場」も高知市内へ入り、今回も『大日寺~』の盛り沢山の道中記を楽しく読ませていただきました。 今回は遍路道から少し離れて野中兼山の偉業と終焉之地を尋ねるとあって、読む前から興味津々でした。 奇しくも本年は野中兼山の生誕400年にあたるそうで、これも何かの因縁と感じさせられます。

さて、ブログで物部川を渡る前の堤防に満開の桜が咲いていましたが、天恢も同じ場所・方角で撮った写真には紫陽花が満開でした。 毎年、ワケあって紫陽花の咲く頃に遍路してきましたが、高知県で「あじさい街道」として、もっと有名なのが高知市春野町で、町をあげて用水路沿いにアジサイを植栽し、整備に力を入れて「町おこし」に取り組んできました。 種間寺から清瀧寺への遍路では、この「あじさい街道」を歩きコースに推薦したいほどです。 それにしても野市町、春野町の用水路は、どちらも野中兼山の治水灌漑工事によるもので、「紫陽花と兼山」、これまた不思議な縁を感じます。 それと、「谷秦山墓所」での受験生が秦山の墓に日の丸を奉納し、合格を祈願する風習?です。 日の丸入りの「必勝ハチマキ」の延長上とも考えられますが、まぁ奇習とは言いませんが、これも土佐人気質の一片なのでしょうか?

 さてさて、今回の本論となりますが、野中兼山はなぜ失脚したのでしょうか? これは古今東西どこにでもある権力争いで、興亡は世の常ですから致し方ありません。 しかし、それにしても兼山の遺された家族への報復は余りに過酷で、男系が絶えるまで一族への幽閉という仕打ちを受けねばならなかったのか? と、やり切れない暗さだけが残ります。
 仕えてきた2代藩主が隠居して、3代目藩主となれば、大功績ある家老でもうっとうしい存在となります。 そこにつけ込む冷や飯組が、虎の威を借りて、束になってかかって追い落としに成功です。 土佐人の気質にふれましたが、土佐人は「いごっそう」や「はちきん」で代表されますが、「一度こうと言い出したら損得に関係なく後へ引かない」という頑ななところがあって、兼山への処置も公式的には名誉回復された形跡はなく、今に至るまで断罪されたままです。
 歴史は勝者によってつくられます。 おそらく藩主や勝ち組となった有力藩士への遠慮からでしょうか? 物事を曖昧なままにしておくことを嫌いで、白黒をはっきりさせたがる傾向にある土佐人にあって、兼山処遇だけが曖昧模糊として放置されるのは判官びいきの他所者のひがみでしょうか?
返信する
紫陽花にさす光と陰 (楽しく遍路)
2015-09-28 12:08:48
天恢さん ありがとうございます。
紫陽花が咲く水路沿いの道、できれば雨が降っていてほしい。雨粒が水面に輪を開いては消える。速い水の流れは、意外と鮮明に紫陽花の七色を映している。兼山の道。紫陽花にさす薄い光と陰。・・・梅雨遍路は一度きりですが、次に歩くなら春野です。

そうでしたか、生誕400年とは気づいていませんでした。ありがとうございます。こんな昔の人の工事が、舟運こそなくなりましたが、今も現役で稼働しているなんて、ほんとうに驚きです。兼山は100年ならぬ、400年の計を描いていたのですね。まわりの凡百が怖れたはずです。
論証抜きですが、兼山失脚の底流に、凡百どもの兼山への恐怖があったと思っています。天恢さんが指摘する「曖昧模糊」も、もしかしたら、この辺に訳があるのかもしれません。どうでしょうか。

ところで、兼山の工事が現役稼働中ということは、つまりは、高知県が今なお、兼山が描いた構図の中にあることを意味しているように思えます。それは県民にとって幸なのでしょうか、不幸なのでしょうか。
願わくば、幸であってほしいと思っています。そして多分、幸だろうと思います。
大地は壊さない方がいい、「列島改造」などと大号令を発した人がいましたが、実態は破壊的でした。壊せば元にはもどりません。だから古いものは壊さず、残した方がいいのです。残して、ゆっくりと育てたい。そうすれば、いずれは幸につながる、と私は思います。兼山はたくさん工事をし、あちこち掘り回しましたが、壊してはいません。

なるほど、「必勝ハチマキ」でしたか。塾などで今もやっていますね。撃ちてし止まん、でしょうか。
春遍路の報告も終わらぬうちに、ふたたび、遍路には絶好の季節がやってきました。空を見上げては、ひょいと四国へ、などと思ってしまう今日この頃です。
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次回期待しています (daboです)
2015-10-01 16:58:40
禅師峰寺奥の院は介良(けら)にある薬師寺の上の観音堂と聞いています
ぜひとも寄ってみたいと思っていました
私の逆打ちも土佐佐賀まで来て高知市内は10月後半か11月に
楽しく遍路さんに紹介いただけると安心してお参りできそうです
返信する
ありがとうございます (楽しく遍路)
2015-10-01 20:10:44
dabo さん こんにちは。
「休日に歩いて遍路」 拝見しています。道のbefore 状態にはすぐ気づくのですが、after 状態には、当たり前だと思って、気づかず通り過ぎてしまうのですね。感謝です。

私の次回は青竜寺からの順打ちです。やはり10月下旬から11月上旬に考えています。ただ野暮用で、出発の一週間前くらいまでは、出発日を確定できないのですが、もし交差したりすれば、楽しいですね。
次回の更新には、なんとか観音堂を入れたいと思います。たいしたお役には立ちませんが、読んでみてください。
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有り難うございます。 (satossan)
2015-10-09 19:46:47
楽しく遍路様 こんにちは。
夏の初めの日照不足からか、今年は稲の生育が10日ほど遅れており、当地では今が稲刈りの真っ最中です。
高知県は、『修行の道場』の名前どおり、札所間の距離がかなり離れていて大変だと思いますが、これからも「楽しく遍路」のニックネームどおり、楽しく、気ままに四国遍路を続けられますようお祈りしております。
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