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楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H24春遍路 ④ 菊間・遍昭院 ・・・ 58 仙遊寺

2012年07月02日 | 四国遍路

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4月16日  晴   菊間・遍昭院 ・・・ 58番 仙遊寺
菊間まで電車で引き返し、遍昭院を訪れました。
朝、まだ早く、ひとり、おばあさんが境内を掃いています。
挨拶をすると、おばあさんが、
「掃いても掃いても、海の砂・・・なんで山から降りてきたんじゃろ・・・」


海の砂

一瞬、頭が熱くなりました。けれど、けっこう冷静に答えていました。
「そうか、もっと上に在ったんですね」
おばあさんが、「ほうほう、もっと上になぁ」、と。
引き返してきた甲斐がありました。私は満ち足りた気分で、次に向かって歩き始めていました。
遍昭院は、元は、もっと山の方に在った、そうおばあさんは教えてくれたのです。

 

「みかへしの そてつ」、砂地を思わせる・・・

今から考えると、ひどくすれ違った会話だったのかもしれません。
おばあさんの言葉を、私は聞き違え、勝手に思い込み、独り感動していたのかもしれません。いや、きっとそうでしょう。

しかし、帰宅してネット検索してみると、見つかりました。菊間町指定旧跡 遍昭院 元所在地!
興味のある方は、「菊間  遍照院元所在地」で検索してみてください。
遍昭院は現在、菊間町浜にありますが、小字は「西新開」です。山から新開地に、(新開とはいえ、古い新開地ですが)、下りてきた、と解することが出来そうです。
元の遍昭院は、菊間町浜、までは同じですが、小字は「友政」(とまさ)、です。現在、野間郡四国88カ所の18番文殊堂や、子育地蔵がある辺りです。
菊間の街を見下ろす、奈良原山(標高100㍍)の山腹に、元遍昭院は在りました。遊歩道がついていて、簡単に登れるようです。



燻し銀の厄除け大鬼瓦

昔、鎌大師から鴻之坂を越え、浅海に降りた遍路たちは、浅海の小竹という所から「窓坂」を越え、さらに「ひろいあげ坂」を越えて菊間に入ってきました。私が一昨日、歩こうとして果たせなかった道です。
「ひろいあげ坂」は、現在は、長津神社などがある天王山に突き当たり、左方向に下って、(現遍昭院が在る)西新開に降りてきます。
が、かつて、遍昭院が友政にあった頃は、天王山から菊間小学校の方向に向かい、菊間川を渡り、奈良原山に続いていた、とも考えられます。移転の時期、事情がわからないので、なんとも言えませんが。
天王山は古墳で、神社が上に乗っかりました。神社と被葬者との関係は、ありません。

現在、私たちが歩いている、海沿いの道が開通したのは、明治43(1910)のことだそうです。この時点から「窓坂」-「ひろいあげ坂」は消滅の一途をたどり、とりわけ「ひろいあげ坂」は今、ゴルフ場の中に韜晦しているそうです。
なお、海沿い道が開通する以前、危険覚悟で、海沿いの集落を縫うように行く遍路はいたらしく、明治21の茂兵衛道標が確認できるとのことです。


里程塚

里程塚が見つかりました。町民会館の敷地内です。折れてしまった上半分でしょう。
七里塚です。松山札の辻から七里。元は、予讃線葉山トンネル近くにあったようです。
菊間は藩政時代、松山藩に属しておりました。菊間の先の亀岡、大西、そして54番延命寺がある阿方も、松山藩領でした。現在の行政区分イメージと違っています。今治藩領は狭く、島嶼部と、55番南光坊から59番国分寺まででした。ただし59番は、すぐ先に「領境標木」があり、そこからは天領(幕府直轄地)だったようです。


加茂神社鳥居

「お供馬」で知られる加茂神社に向かいました。菊間川をすこし遡った奈良原山の山裾に鎮座しています。
御祭神は、賀茂別雷命、賀茂建見命、闇淤迦美命、大山咋命の4柱です。
京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)、貴布祢神社、松尾大社の御祭神を祀っているわけです。


駆け上がる坂

加茂神社の秋の祭は盛大です。10月の第4週の日曜日に開催されます。
当日は、まず、近隣の神々が神輿に乗って集まってきます。
珍しくも、「牛鬼」が供奉してきます。南予・宇和島の「牛鬼」は知られていますが、ここ菊間にも残っているのです。
また、「獅子」も随伴します。


阿方の継ぎ獅子

メインは「お供馬(おとも・うま)の走りこみ」です。少年が「乗子」(のりこ)となって、鳥居から走り出し、神社脇の坂を駆け上がります。乗子も馬も飾り立てています。
京都・上賀茂神社(賀茂別雷神社)の競馬会(くらべうまえ)は有名ですが、「菊萬之庄」(菊間)は、11C、その「競馬料所」だったそうです。競馬会に出走する馬を奉納し、また諸費用をも負担する、上賀茂神社の荘園でした。
菊間の「お供馬の走りこみ」は、上賀茂神社の競馬会に因んで始まったといいます。およそ500年の歴史をもつそうです。家内安全、五穀豊穣を祈願します。


お供馬

かつては乗り子と馬は、駆け上がってきた坂の、最上部に造られた土塁を乗り越えねばなりませんでした。乗り越えられた騎馬の数で、その年の豊凶を判じました。多くが土塁で落馬しましたが、勇気を示した少年は、成人儀礼を通過しました。今は、安全への配慮か、動物愛護の精神からか、はたまた豊凶は関係なくなったか、土塁はなくなり、ただ駆け抜けてゆきます。
・・・やはり安全への配慮が一番大きいのでしょうか。というのも、近頃、農耕馬はほとんどいなくなり、引退した競争馬が使われるようになりました。引退馬とはいえサラブレッドです。速いし、脚は長いし、乗り子にとっても、馬にとっても、危険なのでしょう・・・。


徳右衛門道標かと思えば

八幡というバス停の側に道標がありました。頭がかまぼこ形で、一見、徳右衛門道標と思いましたが、文字を読んでみると、茂兵衛道標でした。徳右衛門道標をリサイクルしたものと思われます。
武田徳右衛門は越智郡朝倉上之村(現今治市だが当時は松山藩の飛び地)の人で、寛政から文化にかけて(18-19C)、多くの丁石を残しています。中司(中務)茂兵衛は、明治から大正にかけての人です。


防波堤の瓦

菊間は瓦の町です。遍昭院に近づくにつれ、瓦屋さんが軒を連ねてきます。初期の生産は、遍昭院よりも西側(松山から歩いて行くと手前)で始まったそうです。やがて以東へも広がりました。
750年の歴史を持つ、燻し銀の美しさ、重厚さ、は例を見ません。


青木地蔵(菊間町種)

近くの円福寺の境「外」寺だそうです。通夜堂があります。
弘法大師巡錫の砌、御自作の地蔵菩薩像をこの地に納められ、側に「青木」を植えられた、と伝わります。「青木」地蔵の名の興りです。また、大日照りの窮状を知った大師は、杖で清水を湧き出させました。お加持水・青木水の誕生です。腰から下の病にご利益があるとのことです。


茂兵衛道標(菊間町佐方)

道標は多くの場合、いろいろの事情で、元の場所から移動していますが、これは、一目で、元々ここに在った道標、とわかります。そんな風情を見せています。
左方向が新道、右が旧遍路道で、延命寺への道です。


里程塚・徳右衛門道標(大西町宮脇)

予讃線の踏切を渡った先 写真館の横にあります。松山札の辻から九里です。この三日間で、たった36㌔しか進んでいないとは、なんという遍路でしょう。
徳右衛門道標の特徴がよくわかります。石柱の頭部がかまぼこ形で、上から、梵字、弘法大師像、次の霊場までの距離(里-丁)を刻んでいます。


井手家住宅(大西町新町)

大坂夏の陣で徳川方についた大庄屋井手家は、その功績で「瓦葺」と「天水瓶」を認めらたのだそうです。「家柄格式」を越えた、まさに「破格」の処遇だったようです。
いずれも、それ自体の用途は類焼防止ですが、実用に供するというより、権威の象徴としてありました。


波止浜への分岐(大西町新町)

左に直進する道は、波止浜街道(はしはま)です。右方向が今治街道で、54番延命寺への道です。現代の遍路は、今治街道を進みます。

波止浜も松山藩領でした。江戸時代(17C)、塩田開発が始まり、昭和30年代半ばまで続きました。広い、入浜式塩田を、私は見たことがあります。
生産が興れば、運送が必要となりますが、波止浜では陸運よりも海運の方が、圧倒的に有利でした。塩買船などが出入りして港が発達、元禄期(18C)には船番所が出来ています。なお、同様のことが、瓦の菊間にも当てはまります。菊間港にも船番所が在りました。


波止浜の常夜灯(H18撮影)

元は船番所前に在ったそうです。嘉永2(1849)と刻まれています。「海上安全」の他、写っていない面には、「金毘羅大権現」とあります。
現在の波止浜の主産業は造船(今治造船=イマゾー)です。かつての「来島ドック」は、「新来島ドック」として大西町に本拠を移しています。多くの方が遍路道からご覧になっていると思います。巨大スクリューがあるところです。


大三島の大山祇神社本宮(H18撮影)

現在の55番札所は南光坊ですが、神仏分離以前は、隣接する別宮大山祇神社が55番札所でした。
ただし、本来の札所は、大三島にある大山祇神社総本社で、別宮大山祇神社は、参拝の困難にの配慮した、「前札所」として考えられていたようです。真念の「四国邊路道指南」に、次のようにあります。
・・・ 是ハ ミしまのみやの まへ札所也。 三島までハ海上七里有、故に是よりおがむ ・・・
   ここは大三島の宮の「前札所」です。 大三島までは海上七里もあり大変なので、ここから拝みます。
大三島まで渡る遍路たちは、前の回で報告した、三津浜や堀江から大三島、さらには宮島、岩国へも渡り、菊間や波止浜に再上陸、延命寺に向かったそうです。波止浜から往復した遍路たちもいたでしょう。


来島水軍の拠点・来島(H18撮影)

秀吉の海賊停止令で終止符を打たれるまで、波止浜は、三島村上水軍の一、来島水軍の拠点でした。
写真の島が来島で、連郭式の城が築かれていました。写真の右部分は、あたかも海の中の川の如き、来島海峡で、左部分の入り江が、その名も波止浜、来島水軍の、波穏やかな船泊でした。今は、イマゾーの船が泊まっています。


野間馬橋

野間郡は、この辺(乃万)から浅海の方向に拓けてゆきました。
近くに「野間馬ハイランド」があります。7年前の遍路で寄ってみました。日本在来馬が飼育されています。跨げば足が着きそうなくらい小さな馬です。 →野間馬


延命寺山門

近世城郭は、大きくは三度、受難します。1度目は、元和元年(1615)の一国一城令です。これにより本城以外の支城が廃棄されました。2度目が、明治6(1873)の、明治政府による廃城令です。3度目が米軍による空襲。広島城(鯉城)は、原爆による壊滅でした。いわゆる「現存天守」は、12のみです。
今治城は、明治3から4年にかけて、取り壊されたそうです。新政権の勢いというものでしょう。明治4年の廃藩置県が、廃城令の先取りを促しました。また旧藩が、城維持のための財力を、すでに失っていた事情もあります。
この山門は、取り壊された今治城の、いくつかの城門のひとつを移築したものだそうです。今治藩の城門が、元松山藩領の延命寺に移され、残されました。


延命寺の真念道標

真念は、貞享から元禄(17C)にかけての大坂出身の修行僧。
四国遍路の案内書=「四国邊路道指南」を書き、また道標を建て、四国遍路の庶民化を実現しました。
「左 遍ん路みち 願主 真念」とあります。


近見山(H18撮影)

近見山(ちかみやま)です。享保12(1727)まで、54番近見山(ちかみざん)延命寺は、この山頂に在りました。当時は、まだ「圓明寺」という寺名でした。
現在の延命寺の位置は、山向こうになります。
開発で山容が変わったのでしょうか、日々ながめつつ育った山だったのですが、初めは、それと分かりませんでした。。


徳右衛門道標

「是より別宮まで一里」と刻まれています。
「別宮」は、前述のように、神仏分離前の55番を意味しています。地名としては「べっく」です。
別宮への道は、大谷(墓地)を経由する道と、山路を経由する道がありますが、「北日吉」で合流します。私は山路経由を選びました。


阿方一本松の十里石

ここに一本松があったのだそうです。「野間郷 県村 一本松」と、小さく添えています。「県」は(あがた→阿方)でしょう。
ただし、これは複製です。


山路の道標

旧今治街道と県道桜井線の分岐点です。この辺を「山路」といいます。
右の道標は、茂兵衛道標です。南光坊と延命寺の方向を示すと同時に、金比羅、西条へのショートカット道を案内しています。
左の道標は、静道道標です。静道は、幕末から明治にかけての今治の人で、墓が南光坊と、市内の浄土真宗のお寺にあるそうです。
今治地方のローカルな道標です。「乃万神社へ廿丁 恵ん記観音へ廿三丁」とあります。「記」には濁点が打ってあります。「延喜」です。
多くの場合、美しい添句があるそうです。「2011年4月 枯雑草の巡礼日記」に紹介されています。(静道道標に限りませんが)、参考になります。


コンクリートの浅川

今治街道はやがて、浅川沿いの道になります。
私が知っている浅川は自然堤防でした。
ちなみに、浅川沿いに在る今治北高校の校歌を調べると、「げに逝く水や 浅川の 岸の若くさ 丈のびて・・・」とあります。美しい川が、なんとも無粋な川になってしまいました。若草の育ちようもありません。


元55番 別宮大山祇神社

浅川を下り、予讃線の踏切を渡ると、元55番・別宮大山祇神社はすぐ近くです。
現55番・南光坊に隣接しているにもかかわらず、今は、訪れる遍路はほとんどいません。

昭和20年8月5日、夜半より日付をまたいで、今治は、これまで最大の空襲に見舞われました。全市街が炎に包まれました。
たくさんの人たちが、炎のトンネルを走り抜け、延命寺方面に向け、今治街道を逃げました。浅川が流れているからです。火に追われた人は水を求めます。焼かれて、川に入る人たちもいました。
艦載機が機銃掃射しながら、川沿いを何回も飛び抜けました。


南光坊門前の戦災の碑

8月6日、今治がまだ煙を上げている朝、対岸の広島に原爆が投下されました。
南光坊門前、石橋の側に、「戦災の碑」があり、今治空襲の記録が刻まれています。


56番泰山寺

ずいぶん立派になりました。記憶では、石垣は野づら積みで、だからこその格式を見せていたのですが。


泰山寺奥の院

泰山寺で、奥の院への道を尋ねると、ウチとはほとんど関係ないんですがね、との答でした。しかし、途中の道には、奥の院を示す、けっこう古い石の道標がありました。
「新聞テレビで紹介された鏝絵」(こてえ)、十一面観音像、だそうです。


静道道標

この道を通る遍路に強い印象を与える道標です。
和霊大明神、奈良原神社へのローカルな案内がされています。
和霊大明神の本社は宇和島にあります。和霊祭には、(菊間にも残っている)牛鬼が登場します。御祭神は山家清兵衛公頼公(やんべ・・・きんより)で、宇和島伊達藩の家老だった人です。人が神として祀られました。

奈良原本社(ならばら)は、(この後に渡る)蒼社川上流の、楢原山(1041㍍)山上にあります。そこまでが5里半(22㌔)というわけです。
前回、高縄山の水を「可なる水」と讃え、河野氏の祖となった人物、小千玉興(おちのたまおき)について書きましたが、奈良原神社は、小千玉興がらみの神社です。祭神は、伊佐奈伎命、 宇気母知命(うけもち)。
ただし、押し寄せる商品経済は従来型の生活を困難にし、氏子の全員が山から今治に移住を余儀なくさせられました。昭和47、わずかに残っていた二戸も移住したということです。
氏子たちは移住にあたり、前述の大山祇神社別宮境内に分霊を遷しました。


蒼社川の今治市街方向

楢原山のさらに奥(南方)に、東三方ケ森(1233㍍)があります。高縄半島で一番高い山です。
この山は、今治平野を潤す蒼社川の水源であるだけでなく、松山-道後平野を潤す重信川の水源であり、また、田滝川や大明神川などを通して周桑郡-道前平野をも潤します。
まさに「三方」たる所以です。尾根筋もまた「三方」に延び、山々のネットワークをつくっています。これについては、西山興隆寺のところで触れます。


蒼社川の静道道標

この地点からの渡河を指示しています。橋は架かっておらず、せいぜい板を渡したくらいだったと言います。
前述のように、水源を高縄半島の奥深くに持つ蒼社川は、土地では「大川」と呼ばれる暴れ川でした。弘法大師が鎮めたとはいえ、足止めされることも多かったでしょう。むろん今は、すこし上手の橋を渡ります。


元57番札所

もちろん栄福寺にも、いわゆる「神仏習合」の時代がありました。その頃は、この石段を上がった石清水八幡宮が57番札所でした。
石段を登り、向こう側の現・57番栄福寺に下りるつもりでしたが、ちょっとひるんでしまい、回れ右をして、平地を歩きました。


57番栄福寺

本堂の回廊に「箱車」が置いてあります。
昭和8年(1933)、箱車に乗った15才の少年遍路が栄福寺にお参りし、ご利益を得て足が治癒しました。少年遍路は感謝し、箱車を奉納、徒歩にて次に向かったということです。
足腰にご利益があるお寺です。


犬塚

栄福寺の先に犬塚池があります。
犬塚池には、かわいそうな犬の話があります。  →犬塚池の昔話


仙遊寺

今夜は宿坊泊まりです。



4月17日  晴   59番仙遊寺-60番国分寺-(桜井海岸)-栴檀寺-臼井御来迎・・・


朝日

思わず掌を合わせたくなる朝日でした。
竹林寺に参ろうと思っていましたが、道が分かりづらく、あきらめました。


60番国分寺

伊予に限らず、国分寺を訪れると、ある種の「良さ」を感じます。歩き遍路の相方、北さんと共有する感覚です。けれど、何が良いのか、つかめてはいません。同様の感じをお持ちの方、いらっしゃいますでしょうか。


国分寺塔跡

国分寺の塔は七重の塔だったそうです。
礎石が、ほぼ建築時の間隔を保って、残っています。見事な繰形突起は、天平の石工の仕事です。
基壇の隅に立っている石柱には、管轄部門を示す「内務省」の文字が刻まれており、今では、これもまた「史跡」の一部です。


脇屋義助公之廟

脇屋義助は、新田義貞の弟です。上野国新田郷脇屋に本拠を持っていたことから、脇屋姓を名乗りました。
義貞が敗死した後、義助は再起を期して伊予に渡りました。河野氏の枝、土居氏や得能氏を従え、勢力を回復しようとしましたが、この地で病死しました。
河野氏本体は、北朝方につきました。


今治藩主墓所

国分寺の側、唐子山の上に在ります。
藤堂高虎が伊勢に転封になった後、徳川一門であり、松山藩の分家でもある久松定房が入ってきました。以後、明治維新まで久松家の藩主が続きますが、ここには初代から三代までの藩主墓があります。


綱敷天満宮

屋根は、燻し銀の菊間瓦です。
志島ヶ原という白砂青松の名勝地にあります。しかし、やはり天満宮ですので、梅園もあって、季節には人を呼んでいます。竹はありません。
道真公が太宰府に下るとき荒天に見舞われ、この地に立ち寄ったそうです。しかし、座っていただく場とてなく、漁用の綱を丸く敷いて御座とした、といいます。「綱敷」の名の興り話です。
同じ「綱敷」という名の天満宮が他にもありますが、それはまたそれで、いいのでしょう。


寄付

男爵住友吉左衛門さんが、おそらく大金なのでしょう、五百圓を寄付されています。住友の当主は三代目以降、代々「吉左衛門」を襲名していますから、これだけでは何代目の「吉左衛門」さんか、わかりません。(建立年を確かめ忘れました)。
元禄の頃から住友が開発してきた別子銅山は、明治30年代、煙害を避けて、燧灘に四坂島精錬所を建設、本稼働させました。しかし、かえって煙害を拡散させることとなり、明治41(1908)、周桑郡や越智郡の農民による大抗議行動が起こりました。
察するに、この「吉左衛門」さんは、その頃の「吉左衛門」さんでしょうか。となると、16代目吉左衛門、となります。

今回の遍路で、1日、別子銅山跡を歩く計画でしたが、雨のため、流れてしまいました。


桜井海岸

もうこれ以上壊してはならない海岸線です。昭和30年代の新産業都市の指定は、海岸線を分断し、瀬戸内海を汚染させました。かなり回復してはいるようですが、元には戻りません。
海水を汲みに来ている人がいました。海水で弱い肌を鍛えるのだそうです。タライに汲んだ海水に足を漬けていたら、頑固な水虫が治った、ともいいます。
そういうことも、ありそうな気がします。北条で「しお湯」という看板を見かけましたが、これも海水の「力」を引き出そうというものでしょう。


石風呂

これも海水の「力」を利用する工夫、石風呂です。
弘法大師が、除病延寿に(これに)過ぎたるはなし、とおっしゃったとか。
洞窟の中でシダを焼き、その上に海水で浸したムシロを敷き、穴にこもった熱と蒸気で体を温めます。暖まると、左に見える石段から海に入り、身体を冷やします。そしてまた、洞窟に入ります。
昔は、瀬戸内海沿岸の各所に見られたそうです。鎌大師の近くには「石風呂」という地名が残っています。ここ同様の天然サウナがあったのでしょう。


大崎の鼻


展望台から西条方向

へんろ道に復するには、瀬戸内海国民休暇村本館を経由するのが簡単です。途中に展望台もあります。


龍が水を呑み干した蛇池

休暇村の坂を下ると196号線にぶつかり、右手に、医王池とか蛇越池(じゃこし・いけ)と呼ばれる池があります。ここで196号線を渡り、今治-小松自動車道の高架をくぐると、もう、地図にある遍路道です。
蛇池は湿地帯で、サギソウなどが咲くことで知られているそうですが、私の関心は「花」ではなく、「蛇」にあります。この「蛇」は、「龍」です。


世田薬師

本堂の龍の彫刻は、左甚五郎の作とか。
この龍、夜な夜な寺をぬけだして、蛇池の水を飲んでいました。田に使う水を飲み干され、百姓たちは困りました。やむなく、龍の胴をブツ切りにし、「かすがい」でとめてしまったそうです。それからは、龍が水を飲んで困るという話は、聞かれなくなりました。
世田薬師は正式名を、世田山 医王院 栴檀寺といいます。医王池の名は、ここから来ています。


本堂の龍


世田山

平成の大合併で今治市と西条市が境を接するようになりました。その境界線を地図上でたどると、東三方ケ森-世田山-大崎の鼻となります。つまり世田山は、今治平野と道前平野の境界線上に在るわけです。しかも両平野を結ぶ道を見下ろしています。
従って世田山は、335㍍の低い山ですが、軍事上の要害でもありました。
脇屋義助関連では、南朝方、大館氏明が世田山城を築き、守っていましたが、敗死します。氏明は、新田義貞・義助兄弟の甥にあたるそうです。
次回は、(出来れば)登ってみます。最高の景色が得られるようです。


宝篋印塔

鎌倉時代の作だそうですが、どなたの発願かは不明だ、とのことです。


御来迎臼井水

弘法大師の御加持水。この湧き水に念ずれば、七色の輝きの中に諸仏の御来迎が拝めるといいます。
また、かき混ぜれば、虹が出現するとも。
道から一段下がったところなので、休憩には好都合です。


さて、これからが今日のハイライト、実報寺-西山興隆寺-生木地蔵ですが、長くなるので、ここで区切ります。
翌日の横峰寺参拝と併せて、次回、報告します。7/23、アップロードの予定です。

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