楽しく遍路

四国遍路のアルバム

大洲 十夜ヶ橋 突合 新田八幡 鴇田峠 久万大師

2021-12-01 | 四国遍路

 
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大洲の朝
曇りがちのお天気ですが、歩くには丁度いいでしょう。雨の心配はないようです。
大洲駅近くの宿から、十夜ヶ橋→内子→小田川沿いの道を、ゆっくり楽しみながら歩き、楽水大師近くの民宿に泊まる予定です。
日記に次の様に記しています。・・民宿に予約した。突合まで2.1Kのところだ。上黒岩遺跡は断念した。岩屋寺からタクシーという方法がまだ残ってはいるが、難しいだろう。


上黒岩遺跡・女神石
北さんと私は、上黒岩遺跡を訪ねる腹案をもっていたのです。縄文時代草創期から縄文時代後期まで、1万年近くにわたって人が住んでいた複合遺跡で、側の考古資料館には、興味深い出土品が展示されています。もうこんな所に来ることはないから(と当時は思っていた)、ぜひ見にゆきたかったのですが、残念でした。
私が上黒岩遺跡を訪ねるのは、(北さん抜きの単独でしたが)平成22年(2010)になります。写真は、その時に撮った線刻礫「女神石」です。上部の線は長い髪、乳房。下部の線は腰蓑と考えられています。なお、その時のアルバムは、まだリライトできていないので、閲覧できません。


朝食
ビジネスに素泊まりでしたので、朝食も外食です。
食事を終え、外に出ると、道を隔てた向こう側を、女性遍路の二人連れが歩いていました。互いに気づいて、軽く会釈でご挨拶。
道を挟んで、双方、歩きはじめましたが、これがうれしい出会いのはじまりとは、この時は思ってもいませんでした。


十夜ヶ橋交差点
ごめんなさい。いきなり十夜ヶ橋までスキップです。
ずいぶん端折ってしまいましたが、この区間の諸々については、(H28秋 1)に書きましたので、ご覧ください。


十夜ヶ橋
十夜ケ橋(とよがはし)の名の由来は、よく知られています。
・・四国巡錫の砌、当地で野宿を強いられた大師は、橋の下で一夜を過ごそうとされました。しかし飢えと寒さは耐えがたく、その一夜は、十夜にも感じられる、長い一夜となってしまいました。
・・土地の人々は大師のご苦労を偲び、小祠を建てて大師を祀り、この地を十夜ヶ橋と呼ぶようになりました。
といった譚です。
なお、一夜が十夜にも感じられる夜を過ごした譚は、同じ肱川流域では、バラ大師に残されています。こちらでは大師は、野バラのトゲの上で、一夜を過ごされます。→(H28春 4)


十夜ヶ橋
この譚には次の様な、’戒め’とも言うべき譚が続いています。大師の入定信仰と結びついた譚です。
・・お大師さんは今も四国をまわり、修行を続けておられます。ですから、橋を渡るときは、杖を突いてはなりません。橋の下で、お大師さんが休んでおられるかもしれないのです。お大師さんの眠りを妨げないよう、橋では、杖を突かず、そっと歩くようにしましょう。


十夜ヶ橋


五十崎町黒内坊(いかざき町くろちぼう)
五十崎町との境に来ました。遍路道は、この先で国道56号とわかれ、左に切れ込んでゆきます。泉ヶ峠を越える旧道に入るわけです。
前を歩いている方は、もしかしたら三間で会った方かもしれないのですが、旧道には入らず、国道をまっすぐに進みました。国道の方が平地を歩くので早い、との判断があったのでしょうか。


道標
しかしその選択は、私たちの選択ではありませんでした。私たちは、少しばかり遅くなっても、古い道を好んで歩くからです。
泉ヶ峠の道は、土地の人から「歴史の道」と呼ばれる道です。今は遍路くらいしか通りませんが、明治末期までは、通行量の多い物流の道でした。
道標にある八日市地区や、それに隣接する護国地区は、和紙や木蝋によって栄えたところです。この道は、和紙や木蝋を小田川の舟運に乗せるための道であり、また、その原材料や生活雑貨を、内子に運び上げるための道でもあったのです。


道(H28撮影)
泉ヶ峠の道への、取り付きの道です。
一軒のお宅の庭先を通り過ぎるとき、女性が花の手入れをされていたので、「失礼します」と声をかけました。すると奥さんが私たちを呼び止め、缶コーヒーなどをお接待して下さいました。改めて「庭先を申し訳ないことです。お邪魔でしょうね」と話すと、「いえ、お遍路さんの鈴の音を聞いていると、心が安まります」と答えてくださいました。別れ際には、「この先はぬかっております」と教えてくださいました。


ぬかるみ(H28撮影)
ぬかるみと言えば、この先で、楽しいガイジンサンに出会いました。ぬかった道を裸足で歩いているのです。靴は手にぶら下げています。
なぜか?カタコト英語で尋ねると、靴を洗うより足を洗う方が簡単でしょ、それに裸足は楽しいし、だそうでした。古代ギリシャ碩学の弁ではありませんが、人はいろいろ考えるのです。
なお写真のぬかるみは、後年、撮ったもので、だいぶ乾いています。平成16年(2004)の時は、たしかに靴が汚れるほどぬかるんでいました。



ちょっと入ると、国道の喧噪から隔絶された空間がありました。
暦の上ではもう夏だというのに、のんびりとウグイスが鳴いていました。


棚田
道の右手に、よく手入れされた、田圃が見えてきました。沢が造った小さな扇状地を、棚田に切っています。
実はこの時点(平成16年)では意識にのぼっていなかったことですが、改めて写真を見直したとき、猪除けなどの柵が見られないことに気づきました。すでにあちこちで耳にしていた、猪や鹿などによる食害は、この辺では、まだそれほど深刻ではなかったのでしょう。


平成16年の畑
これが17年前(平成16年)の畑です。杭を打っていますが、この柵の対象は、明らかに人間です。人に対して、境界を示しています。


平成28年の畑
ところが、その12年後(平成28年)の秋に歩いた時は、ご覧のように、隙間のない柵が巡らされていました。聞けば、イノシシ、野ウサギ、ハクビシンなどの食害が酷いとのことでした。
10年ほどの間に、当地にも、大きな変化が起きていたわけです。


内子運動公園 
泉ヶ峠に上がると、内子運動公園がありました。
高校生のチームが練習試合をしていたので、休憩がてら観戦していると、女性遍路がやって来ました。朝食後、道を挟んで会釈を交換し、十夜ヶ橋で改めて挨拶を交わしたお二人です。


昼食
時刻はまだ11時頃でしたが、お腹もすいており、一緒にお昼をとることにしました。四人横並びで食べながら、自分たちのことや、今後の予定などを話し合ったのでした。
お二人は松山の方で高校の同級生。年齢は私たちと同じ。この後、久万高原まで歩いて、バスで帰宅するとのことでした。結願を目前にしているわけです。食後、いっぱいお菓子をいただいたので、お返しに、大洲の食堂でいただいた小分け羊羹を差し上げました。


内子座
運動公園から下り、予讃線の内子線を潜ると、内子の観光地区です。
櫓がある大きな建物は内子座です。


内子座
内子座の変遷や内子の街のことなどは、(H28秋 2) に記しているので、ご覧ください。


交通標識
この先を右折し、国道379号に移ります。この道は、小田川沿いに蛇行する道です。


生コン工場と松山自動車道


小田川
泉ヶ峠のところでも触れましたが、この辺の人流・物流は、まずは小田川の水運に頼っていました。小田川から肱川に出、肱川から海に出ていたのです。川舟の下り荷は炭、和紙、木蝋などでした。また木材を筏に組んで、流してもいました。上り荷は,和紙の原料となる楮(こうぞ)、木蝋の原料である櫨(はぜ)の実、そして日用雑貨などでした。


国道379号
しかし、水上輸送が主流であったのは、大正時代までだったと言います。筏流しは昭和に入っても続きましたが、これも昭和23年(1948)を最後に、終わっています。
木蝋、和紙等の生産に陰りが見え始めたこと。道路が通され、陸上輸送が容易になってきたことなどが原因のようです。例えば明治37年(1904)には、前述の泉ヶ峠越えの道に代わって、鳥越を通る道(現国道56号のベースになる)が開通しています。大正7年(1918)には、愛媛鉄道(現JR四国)も整備されています。


小田川
小田川沿いに歩きながら思っていたのは、「いい景色だ」ということでした。よくよく見れば、治水工事は行われているのですが、コンクリートで塗り固めた無粋な堤防などは、見当たりません。自然に優しいとでもいいますか、そんな工事がされていて、私たちはそれが嬉しくて、河川敷にまで降りて、しばらく時を過ごしたほどでした。
帰宅して「小田川」を調べてみると、小田川の治水工事には、「近自然河川工法(多自然型川づくり)」が採用されていることがわかりました。そうか、だからだったんだ、と合点したものでした。


小田川
水量が豊かです。土地の人によると、(私には理解できませんが)・・今年は、もう季節なのに水が多く、鮎が育っていない、・・のだそうです。
そういえば鮎釣りはみんな、浅瀬でやってますね。川底の藻を食べる鮎にとっては、深すぎるのはよくないのでしょうか。


小田川
河原にまで降りてみました。宿まで、まだ10K以上はありますが、今日はもう峠越えがなく、のんびりしてしまいました。


長岡山トンネル
峠越えがないのは、トンネルのおかげです。かつては通っていたと思われる峠越えの道は、今は、藪の中に埋もれているようでした。
長さ392㍍。竣工は、昭和63年(1988)。


長岡山トンネル
トンネルを出ると、すぐ前に「お遍路無料宿」がありました。個人のご厚意によるものでしょうか、それとも地域で設けて下さったのでしょうか。
なお、このルートには、無料の「宿」が、もう一軒あります。後に記す千人宿記念大師堂です。


無料宿内部
きれいに整理整頓されていました。


和田トンネル
長さ190㍍。竣工は昭和60年(1985)。


大瀨の茶堂
大瀨に入ると、茶堂がありました。三面が吹き抜けで、一面に縁起棚が設えられるという、典型的な茶堂の形式を踏まえています。
フシ無しの木材(桧だったか?)で造られ、居合わせた人の話では、建築費2000万円?とかの豪華版です。1丁目と2丁目に1軒ずつ建っていました。なお3丁目から、おら方にないのは不公平だ、との声が上がっていると聞きましたが、どうなったのでしょうか。


大瀨の茶堂の縁起棚
かつてはここに、神仏が祀られていました。
茶堂については、→(H28春 4)に、ある程度のことを記していますので、ご覧ください。


大江健三郎生家
内子町大瀬の、大江健三郎さんの生家です。表札だけ撮らせてもらいました。この頃は、兄さんがお住まいとのことでした。
大江健三郎さんは、大瀨で中学までを過ごし、内子高校に進みますが、1年終了時に松山東高へ転校し(伊丹十三との出会いがあった)、東大仏文に進みました。
東大在学中、作家として作品を発表し始めますが、とりわけ初期の作品で執拗に描く「閉塞状況」には、’僕が育った谷間の村’=大瀬・内子での体験が、大きく反映されています。


曽我十郎神社
こんなところで曾我兄弟(十郎・五郎)に会えるとは、思ってもいませんでした。曾我兄弟が父の敵・工藤祐経を討つ物語は、子供の頃、何度も聞かされ、また読んだものでした。クドウスケツネ・・なんと憎々しげな名前であることよ、私たちはみんな、曾我兄弟贔屓でした。
そのせいでしょうか、敵討ちがなった後、十郎がスケツネの家来によって討たれたり、五郎が梟首(さらし首)に処されるという悲劇的な部分は、私の記憶からは抜けています。あるいは子供向けには、ハッピーエンド仕立てになっていたのでしょうか。


曽我十郎神社
十郎神社に伝わる話では、十郎の家来が、(五郎の首は取り返せなくとも)せめて十郎の首は守りたいと、自分の郷里、宇和島に持ち帰ろうとしたのだそうです。ところが、ようやく大瀬までは来たものの、首が痛み始めてしまい、やむなくこの地に埋めたのだと言います。曽我十郎神社は、その首塚を祀る神社です。
幟が立っていることからもお分かりのように、明日はその、十郎神社の大祭です。武者行列も出るとのことですが、残念!見ることはできません。


鬼の手橋
・・昔々、喉が渇いた大鬼が、小田川の水を呑んだのだそうな。その鬼はよほどの大鬼だったみえて、鬼が去ってから見てみると、なんと鬼が手をついた岩に、鬼の手形が残っていたのです。
その鬼の手岩が此所から見られるというので、探してみましたが、残念、見つかりませんでした。


千人宿記念大師堂
千人宿記念大師堂です。この地で善根宿を営んできた人が、昭和5年、千人の宿泊を達成した記念として、この大師堂を建て替えたのだそうです。以来、そのことに因んで、この大師堂は「千人宿記念大師堂」と呼ばれるようになったとのことです。
ちょっと覗くと、4人の若い遍路が卓を囲んで、食事の準備をしているところでした。4人は道中で知り合った者同士だそうでしたが、いかにも親しげで、修学旅行にでも来ている雰囲気でした。うらやましくなり、自分もやってみたいと思いましたが、野宿は、もう私には無理ですね。
なお写真は、別の機会に撮ったものです。この時撮った写真は人物が入っており、使えません。


筏流しの里
この辺の地名を川登といい、筏は、川登筏と呼ばれています。私たちが歩いた時は、「筏流しの里」として売り出そうとしているところで、近々、民宿もオープン予定とのことでした。その建物は、昔、当地にあった遍路宿を忠実に写しているとのことでした。


川登筏
写真は、ポスターから拝借した川登筏です。多くの乗客は、観光客でしょうか。


楽水大師堂
昔の旅人は、今日からは想像も出来ないほど、水に苦労したようです。水場が枯れていて喉の渇きに苦しんだり、飲んだ水に当って下痢を起こして苦しんだり、それは大変だったのです。私も子供の頃、生水は飲むな、知らない土地の水には気をつけろと、よく言われたものでした。
そんな水の苦労を少しでも和らげてくれるのが、楽水大師堂でした。ここには、お大師さんの美味しい水が湧いており、それをたっぷりと飲むことができたのです。それで「楽水」なのでしょう。


大師像の水瓶と沓
道中で見かける大師像の台座に、水瓶と沓(くつ)が彫られていることがあります。沓には、しっかりと最後まで歩き通すことが出来ますように、との願いが込められ、水瓶には、旅人が飲み水に苦労することがないように、との願いが込められているのです。


宿
今夜の宿です。
泊まり客は、大洲で出会った女性遍路二人と私たちの計4人。夕食時には、宿のご主人もまじえて、楽しい時をもつことができました。
とりわけ忘れられないのは、私が「亥の子歌」を採集していると話すと、女性二人とご主人が、ご自分の土地の「お亥子さん」を唄ってくれたことです。


宇和の亥の子歌
この思い出は平成24年(2012)秋の遍路にも繋がっています。
卯之町の宿でのことです。夕食に食堂へ行くと、テーブルに冊子が2冊、置いてありました。宿に入る前に私が訪ねた「宇和民具館」の方が、持ってきてくれたのだそうでした。1冊は「宇和の古城跡」で、もう1冊が「宇和の亥の子歌」でした。地道な調査、採集の結果が集大成されたもので、大変ありがたく、また心温まる出来事として忘れられません。→(H24秋6)


山の上
夕食後、外に出てみました。山の上の方に民家の灯がともっていることに気づき、ご主人に尋ねると、あれが本来の遍路道なんです、といいます。
・・今の人は、あんな高い所で不便だろうと言われますが、あそこが昔の一等地だったんです。陽当たり最高ですよね。川沿いの私の家なんか、日の出は遅いし、日の入りは早いし、おまけに洪水の危険はあるし、昔はこんな所、誰も住まなかったですよ。
写真は、翌朝、話を思い出して撮ったものです。


遍路墓
もう一つ、昨晩宿で聞いた話です。
かつてこの辺では、行き倒れて亡くなった遍路の供養は、その遍路が倒れた土地の所有者に課せられていた、というのです。
・・だから、この辺では皆、早起きじゃったんよ(笑)。朝起きてみて、もし自分の地所に倒れた遍路がいたら、他家の地所に移さにゃいけんですからね。また他所から移されんように、見張っとらないけんですよ。
落語のような話で、多少、脚色されてもいるのでしょうが、善意ばかりの世の中ではありません。案外こんなことも起きていたのかもしれません。


共同作業
田植えを前に、総出で水路を掃除しています。
男性が「あんたら昨日、どこに泊まったん」と尋ねるので、近くの民宿だと答えると、「近々、もう一軒、オープンするけんの」とのことでした。
(前述の)筏の里のことを言っているのだと、すぐわかりました。「昨夜の宿もよかったですよ」と応じると、「そうじゃろうな。けどコンセプトちゅうんかな、それが違うんよ」とのことでした。


標識
この交通標識は突合(つきあわせ)という、面白い名の土地に建っています。ここから道が、二本に分かれます。
右方向の国道380号は、小田川沿いの道です。農祖峠遍路道(のうそのとう遍路道)を行く人は、こちらへ進みます。
(私たちが進む)左方向の国道379号は、田渡川(たど川)沿いの道で、鴇田峠遍路道(ひわた峠遍路道)を行く人が進む道です。田渡川は突合で小田川に合流しています。


田植え
植えたばかりの田に、どこか不都合なところはないか、点検しているようです。


田植え 
八十八回の手間をかけて、ようやく米は実るとか。
日本のお百姓さんは、本当に勤勉です。


新田八幡神社
国道379号から、中田渡集落を抜ける旧道に入ると、新田八幡神社がありました。
新田義貞の三男・新田義宗は、北朝方・足利尊氏らとの戦い(武蔵野合戦)に敗れ、(諸説ありますが)河野氏を頼って宇和島に逃れました。後に宇和島から当地・中田渡邑に移り住み、明徳4年(1393)に没したとされています。
新田八幡神社は、村人たちが義宗を、武の神として祀った神社です。人を神として祀っています。


日本誕生
新田八幡神社には、生殖器信仰が伝わっています。ただ、これが義宗が祀られる以前の、この神社の姿なのか、それとも後から加えられたものか、(残念ながら私には)わかっていません。
生殖器は、自然の生産力や豊饒力を象徴しています。「日本誕生」は、古事記が伝える、伊耶那岐命・伊耶那美命の交合による「国生み」を言うのでしょう。


手水場
陽根の側に手水場がありますが、その手水鉢が、陰根にあたります。そのことを示すように、手水場の梁の上にも、木彫りの陽根が置かれています。
見ていると土地の人がやって来て、ナカナカ、エエモンジャロ、と自慢げでした。


彩雲
境内で靴を脱いで休んでいると、上の国道379号を、同宿だった女性二人が歩いていました。私たちに気づいて、手を振りながら、何か言っていますが、わかりません。どうやら私たちの所へ降りて来ようとしたのだけれど、むずかしく、あきらめたようでした。
もっとも、来たら来たで、ナカナカ、エエモンジャロ と言うわけにもゆかず、少々困った事態になっていたかもしれません。


中田渡大師堂修復なる
神社の裏手で、何人かの人が作業をしていました。聞けば、中田渡大師堂の修復が成ったので、大師に仮住まいからお戻り願っているところだ、とのことでした。


中田渡大師堂
儀式張ったことはせず、土地の人たちだけの作業です。その気楽さに甘えて、しばらく見せてもらうことにしました。


お大師さん
お大師さんは、珍しく、彩色されています。


田植え
中田渡集落を抜けて、国道379号に復帰します。


薬師堂
(中田渡の上流である)上田渡にある薬師堂です。落慶間もないという新しさです。


落合トンネル
落合トンネルは、上田渡にあります。平成12年(2000)開通で、長さは103メートルです。


交通標識
落合トンネルを抜けるとすぐ、道が分岐します。直進が国道379号ですが、遍路道は(379号から別れて)右折し、県道42号に入ります。


亀さんたち
女性二人に追いつきました。追いついたり、追いつかれたりを繰り返しています。
それがウサギとカメのようだということで、帰宅後、「ウサギとカメの記」という、記念CDを作ることになりますが、それはまた後のことです。


若いお坊さん
前を若い僧が歩いていました。小刻みに、しかし早いピッチで歩いています。荷物は、後で聞いた話では、20Kgを越えるとのことでした。
私たちの気配に気づき振り返った彼は、すぐ笠をとり挨拶をしてくれました。見るからに若い、21才のお坊さんの顔が、そこにありました。自分のことを「僕」と呼ぶのも、とても新鮮に感じられました。
互いに荷物を下ろして、立ち話となりました。今日の歩きは30キロだから、ゆっくりできます、とのことでした。いつもは40キロを歩くのだそうですが、そのことを気負った風もなく、淡々と話してくれました。
しばらく話し、私たちが先行しました。



私たちが休んでいると、今度は僧が追いついてきました。私たちの歩きを、速いと感心してくれましたが、それはそうでしょう。私たちの荷物は5Kgほどです。
昨晩食堂でいただいた羊羹をお接待し、またしばらく話しました。高三の時、四万十川を旅し、いつか四国を回ってみようと思っていた話、これまでは高野山で修行していた話など、興味深い話でした。
彼とは、もう会えないかと思っていましたが、次の日、もう一度会うことになります。ただし私たちは岩屋寺に向かっており、彼は岩屋寺から戻っているときでした。約半日分、差がついていたわけです。今度こそ、もう会えないね、と言って別れ、実際、もう会うことはありませんでした。


棚田
しばらく歩くと、亀さん達が休んでいました。いくらも歩いていない私たちですが、お付き合いで、また休憩。
やがて若い僧が来ますよ、好青年ですよ、と伝えると、「私たちもお会いしました。眉目秀麗、凛々しかったわア」とのこと。この人たちも遍路旅を楽しんでいるのです。


厄除大師
この大師堂は、後に(平成22年)、建て替えられたそうです。
写真で比べてみたところでは、屋根が瓦葺に変っていました。建物の衣装などは、同じ模様を引き継いでいます。「延命山厄除大師」の横看板も、以前のものを、そのまま使っているようです。


三島神社
11:30 三嶋神社着。ちょっと早いが昼にしました。宿に(女性たちを見習って)頼んでおいたオニギリは大きく、漬け物や卵が付いています。これに、宇和島で買ったジャコ天を添えると、最高のご馳走でした。


オニギリ
汗で濡れた白衣と靴下を、参道に置いて乾かしました。しかし、ここは標高410㍍です。すぐ寒くなり、ウインドブレーカーをはおることになりました。
ある畑仕事の女性が言っていました。・・この辺は、朝は寒くて、昼は暑い。‘お化粧替え’がたいへんだよ、ハッハッ・・。昼夜の寒暖の差が大きいのでしょう。日向と日陰でも、ずいぶんと違います。
なお三島神社については、→(H28秋 3)に記しましたのでご覧ください。


背負子
道端の小屋に背負子が掛けてありました。その左は、鍬でしょうか。まだ使われているようでした。


登り口
12:40 上畦畦(かみうねうね)の標識があります。下坂場峠登り口に至る畦畦農道の入口です。農道は、車一台ほどの簡易舗装された道です。


標識
12:50「鶸田峠遍路道」という標識に出会いました。これより下坂場峠(H570)への、詰めの急登となります。
なお、ここでいう「鶸田峠遍路道」は、突合から大宝寺までの、(下板場峠や鴇田峠をふくむ)長い遍路道を指しています。だから下坂場峠に登る道も、「鶸田峠遍路道」なのです。


風景
少し登ったところの木陰で休んでいると、一人、お遍路さんがやって来ました。十夜ケ橋で足を痛めていた野宿の人でした。・・あの時にもらった羊羹を、ついさっき登りの元気づけに食べたばかりです、・・とのこと。すっかり元気を回復した様子で、先行して行きました。大洲の食堂でいただいた羊羹(前号)は、本当に役立ってくれています。


久万町
久万町の表示が写っています。そして道は、下り気味です。
ということは、私たちはすでに下坂場峠を越え、久万町に入っているわけです(下坂場峠が内子町と久万町の境です)。しかし、峠の写真がないのは、なぜでしょうか。色々と探してみましたが、見つかりませんでした。
とまれ、これよりは二名川まで下ります。そして、ふたたび鴇田峠に向けて登ります。


へんろ道
遍路道が庭先を通っています。
石標の正面は「智證妙果大師」。左側面には「へんろ道」とあります。


葛城神社
13:35 葛城神社通過。
葛城氏の祖ともされる一言主命が、御祭神です。葛城氏は、5C頃の有力豪族でした。大王家(→天皇家)と両頭政治を敷いていた、との見方もあります。
新しい鳥居が建っていますが、平成13年(2001)の芸予地震で笠の部分が崩落。3年後の平成16年(2004)・・私たちが歩く直前に・・復元が成ったのだそうです。なお、写真に一部写っている注連柱も、その後(平成18年)、自然崩壊。そのため今は、新しくなっているとのことです。


シャクヤク
庭先にシャクヤクを咲かせている農家がありました。花を誉めると、「お褒めにあずかり、恐縮です」とおじいさんが丁寧に応えてくださいました。おばあさんも出てこられ、話に加わりました。
お二人とも丁寧な物言いをされます。ゆっくりと流れる時間を、共に過ごしておられるのでしょう。熱いお茶でも、と勧められ、いただきました。冷たいものばかり飲んでいたので美味しく、何よりのお接待でした。


二名川(にみょう川)
二名川まで降りてきました。



二名川に架かる葛城橋を渡って、今度は反対側の段丘を上り、鴇田峠にとりつくことになります。


納経塔
納経塔が建っていました。坂東・秩父・西国霊場 納経塔とあります。 秩父三十四ヵ所霊場については、秩父1 秩父2 秩父3をご覧ください。



少し変わった雰囲気のエリアに入ってきました。別荘地が売り出されているのです。その売り文句は「四国の軽井沢」。
久万町は、私たちが歩いた3ヶ月後の、平成16年(2004))8月、面河村などと合併して久万高原町となり、町内に石鎚山・面河渓・四国カルストなどを擁する、県内有数の観光スポットとなります。そんなことを睨んでの、別荘地売り出しだったでしょうか。


大師堂
「だんじり岩」の側にある大師堂です。
「だんじり」とは「じだんだ」の転訛だそうで、自分の修行の足りなさに腹を立てた大師が、地団駄を踏んだ岩なのだそうです。岩には大師の足跡がついていると言います。
ただ、この頃、岩は草に埋もれており、写真には撮れませんでした。


鴇田峠の看板
なぜでしょうか。下板場峠につづいて、ここでもまた峠の写真がありません。かろうじて看板の写真があるのみです。峠と認識できず通過してしまった?そんなはずはありません。
とまれ、看板の説明文は、次の通りです。
・・この峠は標高800Mに位置し(久万町役場は厄00M)古くは二名地区と久万地区を結ぶ主街道として賑わった所で、昭和30年頃まではこの場所に茶屋があり、行き交う人々が一休みしたそうです。「鴇田峠」の名称は、一説には、「日和だ」の転訛だと伝わります。弘法大師が八十八ヵ所開基の折、大洲からずっと雨続きだったのが、この峠に来てやっと晴れ、思わず「日和だ」と叫ばれたのだそうです。それが訛って「ひわだ」となった、というのです。
 

鈴の音
やむを得ず、手ぶれの写真をつかわせてもらいます。
折り返しの道が、すでに下りになっています。つまり、この写真は、峠越えした後の写真です。左端に見える白衣の人物は、結願を前にして歩く亀さんたち、お二人です。
よく通る鈴の音が聞こえてきます。街部を歩いているときは、耳障りになる人もいるとかで、鳴らないようにしてありますが、ここでは人に迷惑をかけることはありません。チリーン チリーン 澄んだ鈴の音の中、結願への一歩一歩をきざんでおられる二人です。


久万町
15:50 前が開けて、久万町が見えてきました。
私たちは、今日はここで泊まります。お二人はバスで帰宅します。


通り
松山へのバス停まで一緒に歩き、再会を約して別れました。私たちの次の区切り歩きは松山を通過するので、その時、会おうというのです。
宿に荷物を置いて、お久万大師に参拝。喫茶店のテラス席でコーヒーを飲んでいると、二人を乗せたバスが通過して行きました。


ツバメの巣
  ♫ 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日・・
ツバメが通りを飛び抜ける景色は、かつては日本のどこにでも見られた景色でした。しかしそれも、今や懐かしい景色となっています。
久万で私たちは久しぶりに、子育て中のツバメを見ることが出来ました。食欲旺盛な子たちに応えんと、親ツバメたちは街中で、アクロバティックな飛行を見せていました。


久万大師
久万大師には、久万の地名由来譚が伝わっています。弘法大師と、大師ををお接待した、クマという名の娘(老女ともいう)の譚です。「えひめの記憶」を参考に記してみますので、ごらんください。
・・ある日、クマが機を織っていると、チリーン チリーン お遍路さんがやってきました。経を唱えて物を乞うので、クマは機織りの手を休め、台所から麦をお皿にすくって、お遍路さんに与えました。
・・クマは機織りを再開しましたが、チリーン チリーン 前に来たお遍路さんが、またやって来ました。お遍路さんは今度は、娘が織っている布が一尺五寸ほどほしい、と言います。クマは、いやな顔もせず、布をハサミで切って与えたといいます。


発祥の遺跡
・・するとお遍路さんが、(実はお大師さんの仮の姿なのですが)、言いました。「お前さんは、ほんとうに気立てのよい子じゃ、何か望みがあったらなんでも一つだけかなえてあげよう」と。
・・クマが「このさびしい村を、もっと明るい町にしてほしい」と答えると、なんと、その2-3年後のことです。願いは叶えられ、ここには立派な町が出現していたといいます。「久万」という地名は、お大師さんが娘の名をとって、その町につけた名前なのです。
なお、「久万」は「熊野」のクマにも通じ、それは「異界・他界」を意味しているとも言われますが、これについては、また機会を改めて記すこととします。

さて、20年近くも前の古い記事にもかかわらず、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新は、12月29日を予定しています。久万の宿を発ち、大宝寺→岩屋寺→三坂峠と歩いて、石手寺まで行く予定です。これを以て平成16年春のシリーズは終わり、次は、平成17年春のシリーズ、石手寺→三角寺となります。
新型コロナ。また新手が出てきたようです。年末を迎えています。昨年末の轍は、なんとしても踏みたくはありません。

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〽伊予の内子を忘れてなろか 人の情けの厚いとこ~ (天恢)
2021-12-08 20:17:51
昨年と同様にコロナで明け暮れた今年も残り少なくなりました。 この夏の第5波、オリンピックの頃に比べれば、感染者も重症者も激減し、死者数が0となる日も珍しくなくなりました。 しかし、世界中でのコロナ感染拡大や新たな変異型ウィルスの出現となると、まだまだ安心は禁物です。 何とか感染防止のため皆でルールを守り、協力しながら、この災禍を乗り切るしかありません。

さて、今回も「大洲 十夜ヶ橋 突合 新田八幡 鴇田峠 久万大師」まで、「楽しく遍路」さんが平成16年の春に歩かれたリライト版です。 前回の43番明石寺から「伊予の小京都」 大洲から内子を経て、八十八ヵ所の中間点(44番・45番)に向かって奥深い四国山中の難所を歩かれています。 
今回のブログを読んで、「エッ、そうなんだ! そりゃ知らなんだ~」がありました。 天恢も素直に順応してきた「遍路たる者、橋の上では金剛杖をつかない」という戒めです。 てっきり十夜ヶ橋の由来で、橋下の大師の睡眠を妨げてはならないという心遣いから生まれた譚と固く信じていました。 ところが、お遍路さん達の金剛杖から橋を保護するために流布されたものだったとのこと。 確かに、これを思いついた人の発想の豊かさに感心するしかありません。

さてさて、今回のタイトル 『〽伊予の内子を忘れてなろか 人の情けの厚いとこ~』ですが、野口雨情の唄(都々逸)です。 ブログのタイトルは、「大洲 十夜ヶ橋 突合 新田八幡 鴇田峠 久万大師」ですが、「内子」が入ってないので、『〽伊予の内子を忘れてなろか~』 と、はたと思いあたって、毎度悩まされるコメントのタイトルに採択させていただきました。
今回の道中箇所にも想い出がいっぱいです。 内子は観光を含めてこれまで三度ほど訪れました。 ちょっと寄り道してコミュニティーバスで屋根のある田丸橋、おもてなしの松乃屋旅館に二度ほど泊めていただきました。 大洲も遍路の途中と、観光目的とで三度ほど訪れました。 大洲と言えば、昭和41年放映されたNHK朝ドラの「おはなはん」、昭和52年公開の映画「男はつらいよ 寅次郎と殿様」が、私たち世代では余りに有名だったんですが、おはなはんも、寅さんも、アラカンも、今では遠い存在になりました。 やはり知っている人が少なくなるとコロナ禍も重なって、これ程の観光地も寂れていくようです。

末筆ながら、誰もが願う「コロナが終息したら」を夢みつつ、新たな年に希望を託すことにしましょう。 皆さまにとって、新年が佳い年でありますように。
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♫ おんだら 伊予もん じゃけん・・ (楽しく遍路)
2021-12-11 20:40:51
〽客人すまねえ、イの一番に言わなきゃならねーのを忘れった・・・とは、広沢虎造 「石松三十石船道中」の一行。ウの一番に言わなきゃならねー「内子」を抜かすたー、内子の衆よ、すまねえ。天恢さんに叱られた-!

さて、お叱りの歌、♪ 伊予の内子を忘れてなろか 人の情けの厚いとこ~ から思い出した歌があります。古い記憶から浮き上がってきた歌です。その歌を今号の、私のタイトル歌として、紹介させていただきます。
もう60年余り前に、(もはや音信不通の)宇和島の人から教わった歌です。その後、どなたからも、どこででも、この歌を聞いたことはありませんから、すでに絶えてしまった歌なのかもしれません。
聞き覚えなので(その人も聞き覚えだったかも?)、方言の使われ方などに誤りがあるかもしれませんが、覚えているままに、記してみます。

 おんだら 伊予もん じゃけん   
 おんだら 伊予もん じゃけん
 田舎の すねぐろよ
 なんぼ すねぐろじ-も
 なんぼ すねぐろじ-も
 伊予もん 同士じゃもん
 来なったら 寄っちゃんなんや-
 来なったら 寄っちゃんなんや-
 芋ぐらいは あるがじゃけん 
 芋ぐらいは あるがじゃけん
芋くらいはありますからと、伊予は元々、人の情けの厚いとこ、のようです。

さて、「杖を突いてはならないのは、橋を護るためだった」という見方ですが、これは私だけの見方ではないようです。以前、同様の見方がされているのを、私は、なにかの本で読んだ記憶があります。その時、偶然にも、私もまったく同じことを考えていたので、大いに我が意を得た思いがしたものでした。

子供の頃、私の住まいの近くに、土橋が架かっていました。(杖ではなく)チャンバラの刀で、その橋面をつついたりすると、大人から強く叱られたものでした。大人たちが言うとおり、いったん小さな穴が橋面にできると、それはだんだん大きくなり、橋面は壊れてしまうのでした。
そんな子供時代の記憶が、「十夜ヶ橋伝承を借りて、橋を護ろうとしたのではないか」との見方につながったのだと思います。
しかし考えてみれば、論証抜きの、うがった裏読みの類いと言えなくもないようです。ブログに記すことが適当だったかどうか、今しばらく考えたいと思います。

さてさて、止まない雨はない、とか。
来年こそは、いい年でありますように。
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