楽しく遍路

四国遍路のアルバム

44番大宝寺 45番岩屋寺 三坂峠

2021-12-29 | 四国遍路

 
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大宝寺へ
平成16年(2004)5月24日、久万町の宿に泊まった北さんと私は、44番大宝寺に向かっています。
登校中の小学生たちが元気に、「おはようございます」と挨拶してくれました。


大宝寺へ
グループ登校に遅れた子が一人、ランドセルを鳴らして、駆けてゆきました。息を切らしながらも「おはよ・・ます」と、私たちへの挨拶は欠かしませんでした。
写真奧に見えるのは、大宝寺の総門です。総門とは、総構えの正門をいうそうですから、かつては、ここからが、門前町をも含みこんだ、寺域だったのでしょう。橋は、久万川に架かる橋で、その名も総門橋。あたかも久万川が城の外堀であるかのように流れています。


久万川の流れ
今日は大宝寺→岩屋寺とお参りし、ふたたび久万町に戻って連泊します。
不要な荷物は宿に置いてきましたので、身軽です。
なお、今号に記したのとほぼ同じ行程を、平成28年(2016)にも歩いています。次のリンクから、併せてご覧ください。→(H28秋 4)


勅使橋
保元元年(1156)、病に取り憑かれた後白河天皇は、大宝寺に勅使を遣わし、病気平癒を祈願させたといいます。
すると病はたちまち快癒。お喜びになった天皇は、妹宮を大宝寺住職として下向させ、直前に焼失したばかりの伽藍を再建。大宝寺を勅願寺とした、と伝わります。
赤い橋は、この故事に由来する「勅使橋」です。前方に朝の光が射し込んでおり、森の深さを感じさせます。


山門
44番大宝寺は、88ヵ所の真ん中であることから、「中札所」とも呼ばれます。
多くの遍路は中札所まで来て、これまでは漠然と遠くにあった88番が、計算可能の射程に入っていることに気づきます。
ある人は、結願の可能性に確信を持ったかもしれません。あるいは逆に、不安を感じ、なんらかの修正を迫られた人もいたでしょう。結願までの日数を、かなりの確度で計算できるのも、中札所です。


本堂  
私たちが中札所で得た感触は、「なんとか結願はできそうだな」でした。のらりくらりと歩き、日数もかかったけれど、なんとかここまで来られたではないか、これなら、なんとかなりそうだぜ、と私たちは、楽観的見通しを話し合っていたのでした。
まさかこの翌年、平成17年(2005)、私が椎間板ヘルニアを発症。手術を受ける事態に陥るとは、(むろん神でも仏でもない身の)知るよしもありませんでした。


元愛媛県知事 
久松定武氏は、元愛媛県知事です。旧伊予松山藩藩主家・久松松平氏の嫡流に生まれた、「殿さま知事」でした。香淳皇后(昭和天皇の皇后)は、知事の従妹にあたりました。
平成5年(1993)には、「殿さま宰相」が誕生することでもあり、「殿さま○○」は、起こり得ないことではなかったのですが、しかし、この方の初立候補(昭和26年)が日本社会党からであったと聞けば、ちょっとビックリではありませんか。もちろん社会党の政策が実現されることは、ほとんどなかったのですが。・・まあ、いろんなことが起きていた、という話です。


遍路道
今は45番の岩屋寺も、かつては大宝寺の奥の院であったといいます。
すなわち、大宝寺から岩屋寺にかけての広い山域は、信仰空間として一体化しており、大宝寺が、その中核として在ったということです。
その、かつての姿を彷彿させるかのように、大宝寺からの遍路道は、石造物をたくさん残す、山道になっていました。


峠御堂トンネル
しかし、その道も(ちょっと残念ですが)1.4キロほどで切れてしまいます。見えているトンネルは、昭和49年(1974)竣工、長さ623㍍の峠御堂(とうのみどう)トンネルです。
トンネルを抜けて走っている道は県道12号で、この道が、現代の遍路道になっています。


県道12号
県道12号に降りてきました。
この道は、標高500㍍余のところを走っており、岩屋寺に向かって左側が山側で、右が、眺望の開けた谷側になっています。
写真では左側が谷側になっていますが、それは、この写真が後方を撮った写真だからです。写真奧に向かって歩いている人がいますが、この人は岩屋寺から歩いてきた人です。これから大宝寺に向かうのか、(もう大宝寺は打っているので)トンネルを抜けて三坂峠を越えるのか、それはわかりません。


道標
ここから岩屋寺へゆく道は、大きく分けて二本あります。一本は、このまま県道12号を歩きつづけて、岩屋寺の下に出る道です。車を利用している方は、この道を進みます。
もう一本は、途中で県道12号から別れ、古い修験の道である八丁坂を経て、岩屋寺の裏門(かつての正門)に至る道です。私たちは、こちらの道を進みます。


有枝川
隅田川とテムズ川ほどは離れていませんが、有枝川(写真)の水が仁淀川に通じていると言えば、多少は驚かれるかもしれません。なにせ仁淀川は、35番清瀧寺に向かう途中で渡った、太平洋に注ぐ土佐の大河なのですから。きれいな水が印象的な川でした。
有枝川は南流して、三坂峠方面から流れてきた久万川(前掲写真)に合流し、久万川は御三戸(みみど)で面河川に合流します。そして面河川は高知県に入ると、仁淀川と名をかえますから、有枝川の水は、流れ流れて仁淀川に通じ、太平洋に注いでいる、となるわけです。水は、私たち人間には想像もつかぬほど、楽しく、またエキサイティングな旅をしているようです。


県道12号
この方も、岩屋寺近くに泊まられたのでしょう。


へび
車道(12号)を避けて畑の中の道を歩いていると、前を蛇が横切り、隠れました。
しかし頭は隠しても、尻尾は残っています。気づいていないのでしょうか。(我が人生で初めて)蛇にかわいらしさを感じ、カメラに収めてしまいました。
そんな遊びをしながら、ふと車道の方を見みると、昨日知り合った若いお坊さんが、手を振っていました。私たちも手を振り、すぐ車道に上がることにしました。


休憩所
車道に上がると、近くの休憩所に遍路が二人座っていました。一人はお坊さんで、もう一人は、これも昨日知り合った、野宿遍路でした。近く医師の国家試験を受ける予定なので、医者としての「性根」を確かめたく歩き始めた、とのことでした。今頃は性根の座った医師として、コロナ相手に戦っておられるかもしれません。
しばらく歓談し、「これで最後ですね」と言って別れました。私たちは、もう半日分も彼らに遅れているので、追いつくことは出来ないと考えたからです。お二人も、それはわかっていて、「お気をつけて」「お元気で」と、(もう会うことはない)別れの挨拶を交わしたのでした。


八丁坂
県道12号から離れて、 八丁坂と呼ばれる岩屋寺への修験道に入ります。
案内板に次の様な文が記されていました。
・・昔の人は、急なこの延長2800メートルの坂道を、修行のへんろ道として選びました。弘法大師が開かれた岩屋寺は、霊場中、もっとも修行に適した場所であるから、参道は俗界の道を行かず、峻険な修行道として八丁坂を「南無大師遍照金剛」を唱えながら登りました。


八丁坂
・・俗界の道を行かず、峻険な修行道として八丁坂を「南無大師遍照金剛」を唱えながら登りました。・・とは、歯長峠のところで天恢さんが紹介して下さった、・・苦をとるか楽をとるか、胸三寸の分かれ道・・を思い出させるような文です。敢えて苦をとる、これもまたよし、です。


道案内
伐採の後、チェーンソーを使って、こんな細工をしてくれました。ありがとう。


道案内 
こんなのもありました。


道標
岩屋寺まで1.9キロ、とあります。
この四国の道道標の隣には、「八丁坂の茶店跡」と題する、下掲の案内板が立っています。


案内板
案内文中の・・野尻から中の村を経て、槙ノ谷から上がる「打もどりなし」のコース・・は、「協力会地図」に「農祖峠遍路道」として記載されたコースと、ほぼ同じです。農祖峠を越えて45番岩屋寺を先に打ち、44番大宝寺→三坂峠→松山、と歩きます。


「遍照金剛」と彫った大石
案内文に、・・七鳥村の組内30戸ほどの人たちが、この道こそ本来のコースであることを示そうとの意気込みを持って、延享5年(1748)に建てた「遍照金剛」と彫った大石が建っています。・・とある「大石」が、これです。文字は、もうほとんど読みとれません。
七鳥(ななとり)村の村名は、この地に七種の霊鳥が棲むとの伝承に由来するそうで、今も久万高原町の字名として残っています。例えば岩屋寺の住所は、久万高原町七鳥 です。なお七種の霊鳥とは、三宝鳥(ぶっぽうそう)・慈悲心鳥(じゅういち)・慈悲声鳥(うぐいす)・鼓鳥(きじばと)・鈴鳥(きびたき)・笛鳥(ひよどり)・鉦鼓鳥(ほととぎす)である、とのこと。


景色
茶店跡の辺りから見た景色です。なるほど、茶屋があったとうなずける、素晴らしい展望です。この景色を楽しみながら、しばし足を休めていたのでしょう。



木が、やせ尾根を崩落から守っています。また、これなら転落しても、どこかで止まりそうで、歳とともに高所恐怖が昂じてきている私でも、楽々通れます。


まむし注意
「落石注意」と同じくらい、対処が難しい警告です。塚地峠で会った人なら、(まむし酒を造るため)シメタとばかりに捕まえにかかるのでしょうが、→(H15秋1)私たちに出来ることではありません。 
なおニホンマムシは、毒を持つが故に退治されたり、黒焼きやマムシ酒用に捕獲されたりして、今や絶滅の危機に瀕していると言われています。ネズミを食べるなど、人間様の役に立っているにもかかわらず、これほど絶滅が危惧されない絶滅危惧種も、少ないのではないでしょうか。


逼割禅定(せりわり禅定)
案内板には、次の様にあります。
・・開山の法華仙人が、弘法大師に通力を見せた跡と伝わります。岩の裂け目を鎖と梯子でよじ登り、頂上の白山大権現に詣でます。山岳修験者たちの古くからの行場で、山岳重畳の眺望をほしいままにし、はるかに石鎚を望むこともできます。
なお法華仙人は女性の仙人で、空を飛ぶなどの通力を得ていると言われています。


逼割禅定
岩屋寺の山号・海岸山の「海岸」は、かつての岩屋寺の御詠歌・・
  山高き 谷の朝霧海に似て 松吹く風を 波にたとえむ  空海
・・から来ているとのことです。雲海というがごとくに、谷を埋める朝霧の広がりが海に喩えられ、海岸山とは号したのでしょう。


三十六童子巡り
山門の手前に、三十六童子巡りの行場があります。三十六童子は、岩屋寺の御本尊である不動明王の眷属です。これら童子を巡っては、その名を唱え、悪霊退散、病快癒などを願います。
若い遍路が、童子に札を納めて回っていました。聞けば、・・僕は、好きな札所には何日も留まります。・・とのことで、岩屋寺は、今日で2日目だそうでした。この後、逼割禅定に登るとのことで、一緒にどうですか、と誘われましたが、ちょっと(恐くて)その気にはなれませんでした。


赤不動
台風による被害でしょうか。お不動さんが倒れていました。


山門
前述のように、県道12号を来た人は、この山門からは入りません。この山門を潜るのは、八丁坂を越えてきた歩き遍路だけです。
車社会の今日では、12号側の門の方が参拝者数も多く、「正門」のように感じられていますが、車による参拝がなかった時代には、この門が「正門」だったでしょう。


洞窟
岩屋寺という寺名の興りとなった、窟=岩屋です。
写っている庇は、本堂の庇です。


本堂と岩屋  
岸壁は、海底から隆起したとされる礫岩層です。
壁には小さな穴がたくさん開いています。礫が剥落した跡と考えられ、寺でも事故の発生をおそれ、立ち入り制限するなど、気を配っているようです。


岸壁
この写真は、仰向けに寝て撮ったものです。礫が混じっているのを、ご覧いただけると思います。剥落すれば、大事故にも繋がりかねません。梯子は、法華仙人の窟に登るためのものですが、現在は登れなくなっているのではないでしょうか。


本堂
  大聖の いのる力の げに岩屋 石のなかにも 極楽ぞある
現在の岩屋寺御詠歌です。海との縁を詠った前の御詠歌とは違って、御本尊・不動明王を詠っています。大師は、木に刻んだ不動明王像を本堂に安置しましたが、同時に、石にも不動明王像を刻み、こちらは、岩の中に封じ込めたと伝わります。そのことを指して、「石のなかにも 極楽ぞある」と詠っているのでしょう。


下山
参道を下り、県道12号に向かいます。この参道は、八丁坂の案内板に言わせれば「俗界の道」ですが、上るには、けっこうきつい坂です。車で着た人も、この坂は自力で登らねばなりません。


昼食
ぐずぐずしている内に、2時を過ぎてしまいました。ようやく昼食です。そば屋さんですが、うどんをいただきました。
食堂のおばさんは七鳥生まれの七鳥育ちで、いろいろと土地の話を伺うことができました。中でも印象的だったのは、「ここから峠御堂までは、基本的に登りなんです。自転車通学の中学生たちは、皆、難儀してます。立ちこぎです」でした。言われなければ気づかなかった、地元の人だけの土地勘です。


古岩屋トンネル
平成11年(1999)竣工。長さ254㍍。


古岩屋
五来重さんの「四国遍路の寺」から、引用させていただきます。
・・(大宝寺と岩屋寺の岩屋を)両方合わせて菅生の岩屋と呼んでいました。その間にもう一つ古岩屋(ふるいわや)という非常に大きな洞窟があります。
・・一遍上人が籠もったのは(岩屋寺か古岩屋か)どちらかわかりませんが、寺伝では古岩屋ではないかといっています。いずれにしても、大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場になっていました。


ふるさと村
向こうから修験者が歩いてきました。ガイジンサンです。頭を手ぬぐいで覆い、白の半袖、白の裁着袴、白の脚絆に白の地下足袋。白装束に身を固め、結袈裟(菊綴のような房を付けた輪袈裟)をつけています。手には鹿杖にも似た、八尺ほどの自然木の杖を持ち、荷物は野宿対応。聞けば、ドイツ人だそうでした。日本語は自由に話します。
北さんが「たぶん私はあなたと一度会っている」と話しかけました。「大峰奥駆道で私が下っていると、あなたが登ってきて、やがて降りてきたあなたに追い抜かれた」のだそうでした。彼は覚えていませんでしたが、自分が歩いた時期と合致しているので、きっと、お会いしたのでしょうね、とのこと。北さんは、大峰の同行者に見せようと、彼とのツーショットをカメラに収めました。
彼から聞いた百日回業の話は、興味深いものでした。・・初めは足が痛く、つらかったが、沢の水の冷たさが元気をくれた・・など、体験をいくつか話してくれました。


崎御堂トンネル
崎御堂トンネルに戻ってきました。往路では、大宝寺の山からトンネル出口に降り、県道12号を歩きましたが、復路は、トンネルを抜け、久万町の市街地に入ります。私たちは久万に連泊します。
なお、岬御堂トンネルが開通する前には、千本峠道で仰西に出、そこから三坂峠を越えの道(久万街道)に入るというルートがありました。千本峠遍路道については、→(H28秋 5) をご覧ください。


札の辻七里
久万町に入りました。
「松山札の辻より七里」の里程標が建っていました。より詳しくは、→(H28秋 5) をご覧ください。
この道は松山から久万に通じていることから、久万街道(久万官道)と呼ばれていました。また、さらには土佐国府にも通じているので、土佐街道(土佐官道)とも呼ばれ、里程標はむろん、土佐国府にまでつづいていました。


久万泊 
今日は久万の宿に泊まります。
足の悪い年寄り遍路(女性)が同宿でした。お孫さんでしょうか息子さんでしょうか、にエスコートされて廻っています。彼女は、ずっと畑仕事をしてきたそうで、腕力が強く、孫(息子)の腰ベルトを後ろからガッシとつかんで歩きます。いつもそうしているからなのでしょう、彼女は当たり前のように孫(息子)のベルトを掴み、孫(息子)も、当然のように掴まれて、汽車ごっこのように、縦に並んで歩いていました。
心和む、いい景色を見せてもらいました。


翌朝
一夜明け、今日は快晴です。三坂峠を越え、松山に入ります。峠までの途中には、大除城(おおよけ城)、仰西渠(こうさい渠)、高殿宮(こうどの宮)など、見るべきものがありますが、これらについても、上記リンクよりご覧ください。


三坂峠へ
三坂峠に上がる長い坂道です。この道に国交省が与えた正式名称は、国道33号または国道440号です。この辺では、二つの国道が重なっています。
ただし、看板に見える「三坂道路」の開通以降は、異なってきます。新道と旧道の分岐点で33号と440号は分離され、新道(三坂道路)が33号、旧道は440号とされました。


三坂第1トンネル図
標高710㍍の三坂峠には、けっこう雪が降るそうで、車両のスリップ事故などが多発してきたそうです。この辺のドライバーは雪道には全く慣れていませんから、雪の日は、事故がなくても、大渋滞したのでしょう。その交通のネックを解消するため、三坂道路は建設されました。写真の三坂第1トンネルは、峠の下を抜ける長さ3.1Kのトンネルで、まさに三坂道路の目玉です。
私たちが歩いた平成16年(2004)には、まだ開通しておらず、その2年後、平成18年(2006)に貫通します。ただし三坂道路全線の開通は、平成24年(2012)のことでした。今や三坂峠を越える車両は、激減していることでしょう。


自転車遍路さん
この頃はまだ、ご覧のように、多くの車が走っています。
前方の自転車遍路さんは、ついさっきまでは、ガンバッテこいでいたのですが、もう押して上がることにしたようです。長い坂ですから、仕方ないでしょう。
しかし、坂の最高点は間もなくです。ひとたび最高点を越えたなら、あとは地球の引力を動力として、長い長い下り道を楽しむことができます。


三坂峠へ
この道は、蛇行する国道440号(旧国道)をショートカットする道です。
ただし、440号が通ってからショートカット道が出来たのではなく、ショートカット道の方が440号より先に、久万街道として通じていたことは、言うまでもありません。


ホダ場
ホダ場がありました。ホダ木(クヌギでしょうか)を並べて、キノコを栽培しています。
よいホダ場であるためには、風当り、排水、庇陰度、給水など、いくつもの条件が揃わなければならないとのことです。また作業の便のため、道路に近いことも大切だと言います。なるほど、このホダ場も道の側にあります。



ホダ場のすぐ先に、小さな池がありました。ここから水を取っているのかもしれません。


峠へ
丸木橋は、沢に架かっています。沢は、池に注いでいます。


国道440号
国道440号に出てきました。
「またのお越しを!気をつけてお帰りください 久万町」とあります。三坂峠は、久万町(今は久万高原町)と松山市の境界になっています。
なお、右脇は「良材と集成材の久万森林組合」、左脇は「久万の木で家を建てよう」と記されています。林業は古くから、久万の主産業でした。


道標
国道440号の最高地点です。車両は、これより下ります。
が、歩き遍路は、まだ下らず、もう少し登ります。440号は峠を切り通して通っていますが、歩き遍路道には、切り通しはないからです。
道標・・右 へんろ道・・ここからが旧遍路道です。


旧道へ
案内板に、三坂馬子唄が紹介されていました。
  むごいもんぞや 久万山馬子はよ 三坂夜出て 夜もどる ハイハイ
朝は朝星、夜は夜星と言いますが、それよりも「むごい」のが、三坂峠です。夜出て夜もどります。


下り道
さて、大宝寺から石手寺までを、一つの号に納めたかったのですが、あれもこれもと書いている内に、字数オーバーとなってしまいました。
そこで、やむを得ず予定を変更。 二つの号に分割してご覧いただきます。
三坂峠から石手寺までの続編は、年を越した令和4年1月5日アップロード予定の、次号でご覧ください。

  追加

阿佐海岸線路線図
オミクロンで暮れ、オミクロン明けようとする年末年始ですが、朗報があります。報道によれば、阿佐線の東線(阿波と土佐を室戸岬経由で結ぶ、阿波側の路線)の残る区間が、この12月25日、阿佐海岸線として開通したとのことです。水陸両用ならぬ、鉄道と道路の両方を走る、DMV(デュアル・モード・ビークル)を導入するという、ある意味、奇手を用いての開業です。これで阿佐線の残る未通区間は、阿佐西線の奈半利-室戸間のみです。ガンバレ!阿佐西線。
阿佐線については、本ブログでも何回か取り上げてきましたので→(H27春4)、ついうれしくなり、追加記事として掲載しました。なお写真の路線図は、阿佐鉄道のHPからお借りしたものです。下の写真は、平成27年に、私が撮ったものです。


甲浦駅終点
線路は続かず、甲浦駅途切れていました。


阿佐東線建設の呼びかけ
甲浦の先には、こんな看板がありました。

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