楽しく遍路

四国遍路のアルバム

大洲城 大洲八幡 大洲神社 とのまち商店街から 子安観音 十夜ヶ橋 

2016-12-07 | 四国遍路
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大洲城と肱川
大洲は、元は大津と呼ばれていました。肱川がつくる「大きな津」(湊)で、大津でした。ですから大洲城も、かつては大津城でした。大津が大洲にかわったのは、一説では、脇坂氏が旧地、淡路の「洲」本を偲んで・・・、ともいわれます。
また大洲城は、地蔵ヶ岳城」とも呼ばれました。地蔵ケ岳という自然の小丘を利用したからです。「比志城」という呼称もあるそうですが、「比志」は「肱川の「肘」に通じるのではないでしょうか。


大洲城と久米川堤防
大洲城は、鎌倉末期、伊予国守護職・宇都宮豊房が築いた「砦」に始まります。久米川が肱川に合流する地形を利用した平山城ですが、この時代、むろん天守などはありませんでした。宇都宮氏の時代は二百数十年つづきました。
写真奥は冨士山(とみす山)です。


大洲城天守
その後、時代が戦国から安土桃山、江戸へと急展開するなか、大洲城主もまた、小早川隆景→戸田勝隆→藤堂高虎→脇坂安治と、めまぐるしく代わり、その間(およそ30年間)のうちに、城は近代城郭へ変貌をとげます。もっとも大きく変貌するのは、藤堂、脇坂時代だったでしょうか。
元和3(1617)、伯耆米子から加藤貞泰が入封して以降は、明治維新まで(およそ250年間)加藤氏の時代がつづき、城郭に大きな変化はありませんでした。


再建中の大洲城
大洲城天守は、明治6(1873)の廃城令で破壊されましたが、幸い設計図が残っており、昔通りに復元することができました。
平成15(2003)、私は運よく、再建中の天守に登ることができました。(写真右下の)天守中心柱は、加藤氏墓所・如法寺が寄進したもので、桧材 33㌢*33㌢です。


大洲城と八幡神社の杜
肱川と久米川の合流点を挟んで、左に大洲城、右に大洲八幡神社が見えます。後ろの山は高山寺山です。
八幡神社の杜は「阿蔵」と呼ばれ、私たち遍路には、阿蔵遍路道として知られています。出石寺への、高山経由の登り口(下り口)です。


大洲八幡神社
大洲八幡神社は、公式HPによると、天平年間(729-749)、・・・伊予の国喜多の郡矢野の郷なる「矢野の神山」に・・・初め鎮座され、後、鎌倉時代になり、現在地、阿蔵の地に遷られた、とのことです。
、・・・「矢野の神山」は、神社古文書では、出石寺山であろうとしている、・・・と記していますので、神霊は初め、出石寺山に降臨され、さらに阿蔵へ下られた、と考えられます。


一の鳥居
以来、阿蔵の神霊は大洲の地の守護神として、ここに鎮まっておられます。
元和3(1617)、加藤氏の時代になって、大洲八幡神社は「大洲6万石の総鎮守」とされました。(「えひめの記憶」によると)社殿造営や祭典費は藩費をもって賄われ、・・・境内には領内の主要 神社75社の分霊を祭祀し、・・・とのことです。大洲八幡神社が最も栄えた時代でした。


古学堂入り口
鳥居の手前、参道坂の下に古学堂があります。当初は坂下であることから、「坂本塾」と呼んだそうですが、後、「古学堂」と改めました。
江戸中期、社人(神職)の養成を目的に、八幡神社社家・常磐井家(ときわい家)が、家塾として開塾。やがて庶民にまで対象を広げました。とりわけ幕末期には、有為の人材を輩出したといいます。


坂下の古学堂
古学堂の「古学」は、「国学」、なかんずく平田篤胤の研究を指しているそうです。幕末の指導者・常磐井厳戈(常磐井いかしほこ)が、篤胤への傾倒から、改名しました。ただし厳戈の関心は国学にとどまらず、広く洋学にもおよび、二宮敬作、高野長英、村田蔵六(大村益次郎)、高杉晋作らと、深い交わりをもったことが知られています。これらの人たちには、本ブログでも、何回かふれました。


「日本における電信の黎明」碑       
厳戈の弟子に、三瀬諸淵(みせ・もろぶち)がいます。二宮敬作の甥で、シーボルトの孫娘を妻とした人です。蘭方医(洋医学者)ですが、日本初の「電信」の実験を行ったことでも知られています。
八幡神社鳥居傍に「日本における電信の黎明」の碑があります。古学堂から肱川河川敷まで電線を敷き、日本初の「打電」を成功させたそうです。


石清水
さて、鳥居をくぐると、その先、正面に、「石清水」がみえます。
向かって左は大神社で、大巳貴命(おおなむち命)を祀っています。大国主命です。右は石清水神社で、水波女命(みずはのめ命)です。
下に手水場が設けられ、ここで身を清め、参道を進みます。


参道
参道を上ります。それなりの金額が刻まれた玉垣がズラリ、並んでいます。


随神門
八幡神社は慶安元(1648)、火災に遭い、社殿、神宝等をことごとく焼失。現在の社殿は、元禄11(1698)、再建されたものだといいます。


境内
向かって右に境内社が並び、左は社務所です。正面に拝殿が見えます。


三殿
手前から拝殿-中殿-本殿と並んでいます。言い伝えでは、本殿の造営費は大洲藩主が寄進し、中殿は御家来衆が、拝殿は大洲領民が寄進したとのことです。


拝殿の扁額
松平定信の揮毫になる扁額がかかっています。大洲藩加藤家は松平定信と、縁戚関係にあるだけでなく、深い交わりも持っていました。
古学堂(その頃は坂本塾)の人たちの、困惑ぶりが目に浮かぶようです。なにしろ定信は寛政の改革を推進し、異学を禁じ、処士横議を禁じた、その人なのですから。
常磐井厳戈が登場し、堂々、処士と交わり、広く異学を学び教えるのは、これより半世紀近く後のことです。


大洲神社
今度は大洲神社です。城を挟んで、八幡神社のほぼ反対側、神楽山に鎮座しています。神楽山は、臥龍山荘があることでも知られています。
常夜灯は「昭和燈」と呼ばれ、昭和天皇の即位を記念して、昭和3(1928)、建てられたそうです。高さ12メートル。「東京ラブストーリー」のロケ地だったそうですが、そういうことを書いた看板などは、立っていません。知る人ぞ知る、それでいいのだということです。


神楽山
大洲神社は公式HPによると、・・・宇都宮家譜によると、元弘元年(1331年鎌倉時代)宇都宮豊房が大洲城を築きしとき、場内総鎮守神として下野国二荒山(ふたらやま)神社より勸請し、太郎宮として斎祭される、・・・とのことです。
伊予宇都宮氏は、豊前宇都宮氏七代目当主の弟、宇都宮豊房が伊予守として赴任し、これをもって初代とします。下野国(下毛野国)を本願とする、下野宇都宮氏の庶流です。


大洲神社
豊房が勧請したという「下野国二荒山神社」は、延喜式神名帳(927)に、最高位の社格・名神大社として記載されている神社です。
ただし、現在、どの神社が「下野国二荒山神社」の系譜を継いでいるかは、確定できていません。論社が日光と宇都宮に二社あり、いずれもが「二荒山神社」を名乗り、式内名神大社・下野国一宮を称しています。


拝殿
したがって大洲神社が日光、宇都宮、いずれの二荒山神社から勧請されたかも、確定できていません。
しかし大洲神社が、下野国、引いては宇都宮氏と深い繋がりを持っていたことは確かです。そのためでしょう、大洲神社は、宇都宮氏の時代には優遇されていたようです。加藤氏の時代は、どうやら「冬の時代」だったようですが。


本殿
大洲神社の主祭神は、大国主命と事代主命です。
日光や宇都宮の二荒山神社祭神と、微妙に重なり合うところがあります。例えば大国主命は、日光では大己貴命の名で祀られ、宇都宮では大物主命(大国主命の和魂)として祀られています。事代主命は、日光では味耜高彦根命の名で祀られ、宇都宮では、そのままの名で祀られています。・・・日光で、味耜高彦根命のご神体山が「太郎山」と呼ばれるのは、大洲の「太郎宮」との関連を、思わせないではありません。
  

とのまち商店街
肱川橋を渡り十夜ケ橋に向かう遍路道は、「協力会地図」では、国道56号になっていますが、私はこれを行かず、「とのまち商店街」(県道43号)を行きました。国道56号にほぼ並行する道です。
すこし距離が長くなりますが、道沿いの社寺やお堂、そして肱川の景色など、楽しみながら歩きます。 


総社
やがて「総社」がありました。案内板に「大明神社(総社宮)」とあります。寛文3(1663)、もっと肱川寄りの場所から、洪水を避け、当所に遷ってきたとのことです。。
総社とは「ブリタニカ」によれば、・・・各所の神社の祭神を一ヵ所に勧請し,合祀した神社で、平安時代に始ります。・・・総社一社に参拝すれば、それで数社分のご利益が戴けるわけです。平安ともなれば、参拝者の「便宜」がはかられるようになります。


三殿
市街化に押されて、社地は狭くなったようです。しかし、さすがは総社。拝殿-中殿-本殿と、三殿を構えています。


少彦名神社鳥居
商店街を歩き、駅前通を横断します。左手に少彦名神社の大鳥居が見えます。
鳥居の建立は昭和34(1959)です。戦後のこの時期、これほどの大鳥居を、しかも駅前に建てた例を、私は知りません。駅の開業は、大正7(1918)とのことです。


喜多小学校
やがて県道43号は喜多小学校の手前で左折し、肱川を渡りますが、・・・



私は直進します。


神明神社
左手に神明神社がありました。「神明」というからには、祭神は天照大神にちがいないと思っていたら、倭姫命(やまとひめ命)なのだそうです。この神は、天照大神の御杖代となって伊勢国に入り、伊勢神宮(内宮)を創建したとされます。日本武尊が東征の折には、天叢雲剣を尊に与えたとされています。


調神社(つきのみや神社)
ちょっと脇道に逸れますが、我が埼玉の浦和にある調神社には、鳥居がありません。倭姫命が、調や初穂を納めるための倉を境内に建て、その運搬の妨げとなる鳥居を取り払われた、と伝わっています。


若宮の大師堂
以上、お国自慢でした。さて大洲に戻ります。
神明神社の向かい側に、見落としやすいのですが、大師堂があります。左の細い道を入った側が正面です。大洲市若宮にあるので、若宮の大師堂とでも呼べばいいでしょうか。ただし、それは余所者からの呼称で、土地の人には、ただの「大師堂」で十分なのですが。


堂前
大師堂の前に、四国巡拝永代供養塔と手水鉢があります。


四国巡拝永代供養塔
享和二年壬戌の年号が刻まれています。1802年です。


手水鉢  
宝暦の文字が見えます。宝暦は1751-63です。下部に穴がうがたれています。

お堂
大師堂から4-500㍍先に、また、お堂がありました。
通りがかりのおばあさんに、どなたをお祀りしているのですか、と尋ねたら、「観音さま」と返ってきたような気がするのですが、はっきりしません。


子安観音堂
予讃線を渡り、道が肱川堤防に合流する手前に、子安観音堂があります。子安観音は文字通り、子授け、安産、子の健やかな成長を見守る観音さまです。
手前は中務茂兵衛道標です。


子安観音 地蔵菩薩
堂内には子安観音に並び、地蔵菩薩が祀られています。素人目ですが、材質、作風(顔容、衣など)から見て、同時に、同じ思いを込めて造られた、二体ではないでしょうか。
とするなら地蔵菩薩も子安観音同様、子たちの守護尊として期待され、祀られていると思われます。「子安地蔵」の意味合いを持つ地蔵菩薩かもしれません。あるいは、逝った子らの迷うことなきを願ったのかもしれません。「子は七才までは神うち」というほどに、子の命は儚いものでした。七才を前に多くの子が逝った、そんな時代がありました。


堂内の絵
大洲地方には(さらには松山、今治にかけても)、いわゆる「隠れキリシタン」が、たくさんいたと言われています。苛烈な弾圧にもかかわらず、真摯に教えを守りつづけたキリスト教信徒たちです。 ( 「梶ヤ谷」 をご参照ください)。
そんな事実を背景にしているのでしょうか、堂内の絵画と子安観音像を、キリスト教禁教時代の「仮託礼拝物」とする見方があります。


聖母子像
私は以前、宮城県北部県の登米市米川教会で、「観音像」を見せてもらいました。
膝を立て、赤子を抱いています。この点、前掲の子安観音と同じです。仏像風に仕立てられていますが、後ろに置かれた鏡は、光背部に彫られた十字を写し、この像が聖母子(聖母マリアと幼子イエス)像であることを示しています。
これを機に、彼ら信徒たちの篤信に、思いを致したいとおもいます。


茂兵衛道標
傍に立つ茂兵衛道標は、枯雑草さんをして「不思議」と言わしめる道標です。
枯雑草さんは、先々月(H28.10)アップロードされた「枯雑草の巡礼日記」に、・・・あるいは再利用の未完成標石かもと思わせる・・・と記しておられます。明石「山」もさりながら、仙龍寺の文字入り石材が大洲で使われるなど、分からないところがいっぱいの道標です。


河川敷の道
肱川の河川敷に入ります。
「とのまち商店街」の入り口から子安観音堂まで、3キロほどだと思いますが、その間に私が訪ねた寺社、お堂は6箇所でした。


肱川
これからは、景色を楽しみます。肱川がきれいです。


肱川
写真奥が下流方向です。


題目塔
南無妙法蓮華経と刻まれています。しばらく同行した散歩の人によると、この辺に江戸期、大洲藩の処刑場があったそうです。


予讃線
予讃線の鉄橋が見えてきました。「愛ある伊予灘線」の愛称で呼ばれる、海沿いの予讃線です。
ここで右に曲がります。(その後、枯雑草さんからご指摘をいただき、車道「畑の前橋」だとわかりました)。


堤防へ
前方の堤防に上がります。


予讃線
ふり返ると予讃線(灘線)の鉄橋が見えます。(実は車道「畑の前橋」だとわかりました)。


道しるべ
堤防を越え、道しるべに従います。十夜ヶ橋まで1.3キロ、とあります。



花を咲かせています。きれいです。予讃線(灘線)が見えます。



畑が広がっています。やはりこの道を来てよかった、と思いました。


公園
この一角は公園化されています。きれいなトイレもありました。


予讃線踏切
ふり返って撮ることになりましたが、これも予讃線です。ただし、山側を走る内子線です。予讃線は大洲で分岐します。
やがて国道56号です。


十夜ヶ橋
56号に出ると、十夜ヶ橋はすぐ先です。ただし目前にしながら、国道横断を繰り返さねばなりませんが。


都谷川と大師堂
四国遍礼名所図会に、「十夜ヶ橋」という名の由来が記されています。・・・大師此辺にて宿御借り給ひし時、此村の者邪険にて宿かさず。大師此橋の下にて休足遊ばしし所、甚だ御労身遊ばされ、一夜が十夜に思し召され給ひし故にかく云う。大師堂、橋の側にあり。


橋の下
弘法大師は、小川に架かる土橋の下で野宿された、と伝わるそうですが、・・・隔世の感、です。


隔世の感


景色
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。今夜は十夜ヶ橋近くに泊まります。お大師さんのご苦労も知らず、楽々、休ませていただきます。
明日は土曜日。この先の新谷や大瀬は、秋祭です。楽しみなことです。

次回更新予定は、年明けて、1月11日です。もはや隠退の身ではありますが、やはり年末年始は多忙として、平常よりも一週遅れの更新とさせていただきます。
皆さま、よい年をお迎えくださいますように。

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♪格子戸をくぐりぬけ 見あげる夕焼けの空に だれが歌うのか子守唄・・・ (天恢)
2016-12-09 09:43:18
例年になく寒い年の瀬を迎えましたが、にぎやかな世相に反し、内心は「嫌だなぁ~ またお正月が 来ちゃいます!」と、つぶやいております。 今回も「大洲~十夜ヶ橋」を楽しく読ませていただきました。

さて、タイトルの「🎵格子戸をくぐりぬけ 見あげる夕焼けの空に・・・」ですが、昭和46年に小柳ルミ子さんが歌って大ヒットした「わたしの城下町」です。 大洲は天守閣を仰ぐ古い城下町ですからこの歌がぴったりです。 四国には大洲の他にも内子や脇町などにも古い街並みが残っているのですが、立派な豪商の館などが中心で、その点大洲は庶民が住んでいる古い街並みを残している分だけより郷愁を誘います。
 この大洲の名を全国区にしたきっかけは、昭和41年4月からNHKの朝ドラで1年間放映された「おはなはん」でした。 主演は樫山文枝さんで、当時は毎朝放映時間になると水道の使用量が激減する現象が全国で見られたそうで、国民的人気ドラマの先駆けでした。 天恢はこの時、社会人1年生で赴任先の工事現場で働いていました。 「おはなはん」のテーマ曲が流れると午後のつらい仕事開始で、生涯忘れられないメロディーになりました。 また、昭和52年8月に上映された「男はつらいよ・寅次郎と殿様」では、殿様はアラカン、マドンナは真野響子さんでしたが、これも大ヒットで大洲を人気観光地として不動のものにしました。  これもあれも、古い街並みの残した大洲がロケ地として選ばれた最大の理由なんですね。

さてさて、今回ブログの一番心に残るのは、寅さんは知ってるけど、小柳ルミ子も、「おはなはん」も知らない方がいても不思議じゃありませんが、ブログ文中最後の「・・・隔世の感、」です。 天恢にとって、この忘れじの大洲を最初は列車で通過、2回目は肱川橋から大洲城をチラッと撮って、ひたすら酷道56号線を十夜ヶ橋まで歩きました。 昨年、観光として念願の大洲を訪ねて、大洲城、臥龍山荘、明治の家並み、おはなはん通りなど心ゆくまで散策しました。 
今回の「楽しく遍路」さんが十夜ヶ橋まで「協力会地図」の示す56号線(大洲街道)ではなく、「とのまち商店街」から肱川の河川敷を歩かれたのは正解、正解、大正解で、道沿いの社寺やお堂、そして肱川の景色など、楽しみながら歩けそうで、こちらを遍路道におススメしたいものです。 
 ただひっかかるのは進路を阻まれ難渋された「十夜ヶ橋」付近です。 大師は土橋ならずコンクリート大橋の下に変わらずおわしますが、グーグルマップで、ですが訪れた6年前と地勢・景観が一変していました。 国道56号線と高速道路の松山道とその高速出入口が複雑に交差して、その狭間にある聖地が埋没しています。 十夜ヶ橋の故事にならって、いつの頃からか、杖をつく音で、橋下の大師の睡眠を妨げてはならないという心遣いから「お遍路は、橋の上では金剛杖は突かない!」という遍路の心得が確立したのですが・・・。 「おいたわしやお大師さま・・・」、今の世も、日々このような騒音に耐えながらお眠りになっていらっしゃるのです。 これで世界遺産に? これぞ正しく隔世の感です。
皆さま、どうぞよい年をお迎えください。
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こんにちは (枯雑草)
2016-12-21 13:13:38
今年ももう残り少なくなってきました。
この年もまた多くの所で、楽しく遍路さんの後追いをさせていただきました。
この秋は、南伊予の道を楽しく遍路さんは南から、私は北から・・どこかでお見かけしたようなそんな気分になったりしておりました。
若宮下の子安観音と地蔵菩薩。私はその清楚で高貴なお姿に感動しました。
その先の肱川の傍の道。長閑ないい道ですね。日記には書いていませんが、私も彷徨いました。ああ、どうでもよいことですが赤い鉄橋は予讃線のものではなく車道です。私も間違えました・・
「名所図会」の十夜橋の図、楽しく遍路さんも注目されましたね。「隔世の感」とともに私は大師堂の前の遍路の姿に目を惹かれました。(平成26年春 その2に追記)
このところいろんな所に体のボロが出て、さて来年は四国を歩けるかどうか・・
来年もまた楽しく遍路さんの記録を楽しみにさせていただきます。よいお年を。
返信する
枯雑草さん、こんにちは (楽しく遍路)
2016-12-22 21:26:19
北からと南からと、ほんの数日の間をおいて交差したようです。その様を、観音さまと地蔵様、コスモスの花と肱川の流れが、見てらしたのかもしれません。
私もまた枯雑草さんに、どこかでお目にかかったような気がするのは、そのおかげでしょうか。

赤い鉄橋のこと、調べもせず、すっかり予讃線だと思い込んでおりました。言われてみれば、その通りですが、言われるまで気づきませんでした。
気づかなかったといえば、十夜ヶ橋大師堂の前の遍路の姿、その菅笠の文字。これも枯雑草さんの記事を拝読するまで、目に入っておりませんでした。
今年もまた、多くを教わった一年でした。ありがとうございました。

私は秋の歩きを、予定を2日も余して切り上げています。若い頃は、身体だけを鍛えていても・・・、などと小賢しくも考えておりましたが、身体は鍛えておかねばならなかったようです。
「便りがないのはいい便り」が、かならずしも該当しない歳となっておりますので、来年も極力ブログを更新し、我が「健在」を発信しようとは思います。
これからもよろしくお願いします。
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♪君の名は・・・ (楽しく遍路)
2021-10-27 14:13:46
♪君の名は・・・ (楽しく遍路)
2016-12-11 11:57:45
冥途の旅の一里塚。めでたくもありめでたくもない歳にはなりましたが、とにもかくにも次なる一里を、共に歩くといたしましょう。どこかにお大師さんを感じながら。

(もちろん今の、ではなく昭和27年の)「君の名は」が放送されるとき、銭湯がガラガラに空いていたそうですが、(昭和41年の)「おはなはん」では、水道使用量が激減した、とのこと。
この間に、家風呂を備えた「マイホーム」が建ったのでしょうね。
私の場合でいえば、なんとか団地に入居でき、初めて家風呂を持ったのが昭和42年でした。その後、昭和56年、「狭いながらも」個別の住宅を購入。今日に至っています。
知らぬこととは言え、十夜ヶ橋でのお大師さんの住環境は、この間、悪化の一途をたどっていたのでした。

天恢さんが「隔世の感」に注目してくださいましたので、江戸時代の十夜ヶ橋をご覧いただくべく、四国遍礼名所図会より「十夜橋大師堂」の絵をお借りし、本文に追加しておきました。まさに「隔世の感」です。

現在残っている江戸時代以前の城郭は、大きくは四度の試練をくぐり抜けてきたようです。
最初は、慶長20年(1615)に江戸幕府が出した「一国一城令」です。これにより多くの支城が取り壊されました。
次が、明治6年(1873)、明治政府が出した「廃城令」です。城(城郭)は第一義的には戦のためのものですから、新政府は、そのようなもの(内乱の拠点となり得るもの)の存在を認めることはできませんでした。ただし、にもかかわらず、けっこうな数の城が残ったのには、それぞれの事情があるようです。例えば姫路城が残ったのは、取り壊すには費用がかかり過ぎるため、放置している内、「残ってしまった」、と言われています。
三つ目は米軍による空襲です。名古屋城や岡山城や、他にもいくつもの名城が破壊、炎上させられました。なお広島城もまた破壊されましたが、これは昭和20年8月6日、まず爆風で吹き飛ばされました。そして燃えたのでした。
四つ目が、熊本城で記憶にも新しい、大自然災害です。
大洲城は明治の「廃城令」で取り壊されたのですが、平成に入って復元。いまや大洲のランドマークタワーとなっています。おはなはんも寅さんも、アラカンの殿様も、ビックリでしょう。

今年も毎回、楽しいコメント、ありがとうございました。よいお年を!
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