楽しく遍路

四国遍路のアルバム

龍光寺 仏木寺 ばら大師 野村の茶堂 明石寺 卯之町

2016-07-21 | 四国遍路

 
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三間盆地
埋め立て地の宇和島市街から、延々、長い坂を上り、三間盆地に入ってきました。三間川が形作った盆地です。


道しるべ
標高は、盆地底150㍍だといいますから、実質、150㍍は上ってきたわけです。そこに敬虔な信仰空間が形成され、二つの札所があります。41番龍光寺と42番仏木寺です。


41番札所
41番は稲荷信仰の札所です。
稲荷信仰は、枳尼天信仰と習合して以降、ご利益のウイングを諸願に広げますが、元々は、宇迦御魂神(うかのみたま神)への農耕神信仰でした。三間米を産する大稲作地帯、三間盆地に、まさに在るべくして在る信仰だといえます。


稲荷神社
正面の、しかも一段と高い所に稲荷神社があります。かつての41番札所です。神社ですから、形式上、今は札所ではありませんが、内容的には、神仏分離以降も変わらず、札所であり続けているといえます。


稲荷社
境内案内板では、主祭神は豊宇気姫命(とようけびめ命)となっていますが、この神は、宇迦之御魂命(倉稲魂命とも表記)と同体神です。「うか」「うけ」「け」は、「食」に通じる音です。
食物神としては他にも、若宇加能売命(わかうかのめ命)、保食命(うけもち命)、大宣都比売命(おおげつひめ命)、御饌津命(みけつ神)などがいて、これら諸神は、互いに同体視されることが多い神々です


龍光寺
稲荷神社から一段下がった所に龍光寺本堂があります。現在の札所です。本尊として、神仏習合時代に稲荷神の本地仏とされていた、十一面観音菩薩を祀っています。
神仏分離の結果、寺と神社が土地争いを演じたところもあれば、極力、その影響を小さく抑え、嵐をくぐり抜けた所もありました。41番は、後者だったといえます。神社と寺が(分離されながらも)一つの境内に、空間としての「習合」をみせています。


龍光寺全景
龍光寺には寺名にまつわる龍伝説が残っています。龍は水神の使い、または水神そのものですから、農耕にかかわる寺に龍伝説が残るのは、当然ともいえます。
・・・土地の近くの庄屋さんが河原でうたたねをしているところを龍に襲われたが、腰の刀が自然に抜けて、龍の目玉をくり抜いた、という話です。なんと、その「龍の目」は、龍光寺に奉納され、現存するそうです。


仏木寺へ 
仏木寺まで2.6キロです。


歯長峠
前方に、三間盆地の北の限りをなす山並みが見えています。山の向側は宇和町です。
稜線が大きく落ちた所が歯長峠で、ここを越えて宇和町に入ります。


仏木寺山門
三間盆地のもう一つの札所、仏木寺です。龍光寺は「お稲荷さま」で、農耕を守護しますが、こちらは「牛の大日さま」で、牛や馬など、家畜を守護します。


鐘楼
・・・草も木も 仏になれる仏木寺 なお頼もしき 鬼畜人天・・・(ご詠歌)
六道輪廻。牛馬は次なる私の姿かもしれません。鬼畜人天。六道に迷うものにとって、草や木さえも仏になれる仏木寺は、なお頼もしき存在です。


大師堂
さて、このような記事を書く以上、家畜堂の写真を載せないと、龍光寺の龍じゃあないですが、画竜点睛を欠きますが、うっかり撮り忘れました。


歯長峠へ
歯長峠への登りにかかります。


通行止め
この上の四阿の先に、「通行止め」の看板が建っていました。
なぜ通れないのかは記されていません。しっかりした作りの看板なので、「通行止め」は、これからも長くつづく?(平成28.3.18現在)


トンネル
ネットで調べると、通れるという記事が多いのですが、考えた末、トンネルを抜けることにしました。


照葉樹のトンネル
通行止めがなければ、照葉樹のトンネルを抜けて峠にでます。前回撮った写真です。


歯長峠
きっと、こんな景色が見られたでしょう。


下り道
もう一度法華津峠を歩きたい、そんな思いを振り切って、下りにかかりました。「ばら大師」に参るためです。


下宇和中学跡
下宇和中学校は、昭和22(1947)、旧下宇和村民の手で建設されました。その様子が校歌に歌い込まれています。
・・・歯長の山下 緑湧く 大気に澄める高台に 村人すべて精魂を こめてぞ築き育てたる 歓喜に伸びし学舎は おゝ下中よ わが校よ・・・
村民総出で、おそらくツルハシ、シャベル、モッコを担いで、高台を築き、学舎を建てたのでしょう。それは村の未来を担う学校であるはずでした。


下宇和中学跡
しかし昭和40(1965)、東京オリンピックの翌年、早くも村づくりに陰りが見えてきます。オリンピックから万博へ、沸き返る日本を他所に、下宇和中学は宇和中学に統合され、廃校となりました。
「農村解体」の始まりです。これより7年後の昭和47(1972)には「列島改造」が始動し、・・・大都市集中・・・そして今日、「限界集落」「消滅都市」が、日本中で憂慮されています。


分岐
道に沿って肱川が流れています。右が下流、野村方向です。私は右に進み、ばら大師参拝の後、引き返してきます。
左が上流、明石寺方向です。 



・・・大洲に向かう途中、道に迷われた弘法大師は、下流に向かえば海に出ると判断。肱川沿いに下り、野村を経て大洲に出た、・・・という話があります。(後述しますが)、この時の野村での一泊が、「ばら大師」の発祥につながります。


下宇和町明間
明間(あかんま)という面白い名の集落です。
写真奥が下流方向です。この先で川は左に大きく∩状に曲がり、大洲に流れてゆきます。その曲がり様が「肘」を曲げたようであることから、肱川の名がついた、ともいいます。



歯長峠下から4キロほど歩いた所、金輪渕というバス停の先に、橋がありました。・・狭い歩道、低い欄干、上下線ともトラックの走行があり、加えて雨。年を追う毎、高所が怖くなっている私には、怖すぎる橋です。
迂回路はなく、バスはあと数時間、来ません。車の来ぬ間を狙って真ん中を走ろうかと、チャンスをうかがってみましたが、5㍍も進めそうにありません。・・・結局、引き返す決断も出来ぬまま、野村のタクシー会社に電話しました。当然、帰途もタクシーということになります。


下野(しもの)茶堂
大散財ですが、どうせ乗ってしまったタクシーです。下野(しもの)茶堂まで運んでもらいました。野村や隣町の城川には、茶堂がたくさん残っています。
茶堂の様式は、ほぼ定まっています。四本柱の上に屋根を置いて、壁はなく、一面に縁起棚を置いて、他は吹き抜け。まさに密室度0%です。床面に段差はなく、皆、同じ平面に座ります。所により、単に「お堂」と呼んだり、辻堂、四つ足堂などと呼ぶこともあるようです。「四つ足」は四本柱から来ているのでしょう。


下野茶堂の縁起棚
縁起棚には神や仏やが(多様に)祀られています。ここでは、中央に弘法大師、左右にお地蔵さんが祀られていたと思います。他にも小さな像がいくつか置かれていました。
神様や仏様の前で里人たちは、例えば「虫送り」の相談事をしたり、揉め事の落としどころを定めたり、用はないけれど集まって、一時を過ごしたりしたようです。
屋根裏の用途が気になりますが、調べることが出来ませんでした。ピカピカの床には驚きました。


阿下(あげ)茶堂
「お接待」は、盆近くに行われることが多かったようです。旅人へのお接待に、「祖霊迎え」を重ねていたのかもしれません。祖霊信仰や客人信仰(まろうど信仰)との関連が考えられます。
背景の棚田から「石割り米」が獲れるそうです。カルシウム分を多く含んだ美味しい米だと言います。


ばら大師
大洲に向かって川沿いに歩いてきた大師は、当所で野宿します。しかし、ここは野バラが地を這う所。大師はトゲの痛みに、一夜を十夜にも感じられたそうです。
大師は翌朝、村人もまたトゲに苦しんでいることに思いを致され、法力をもってトゲを封じ込めたといいます。


ばら大師本堂
境内の霊場縁起に、・・・この「とげなしバラ」の霊地に参詣して一心に祈願すれば、一切の煩悩のトゲは滅除されて、霊妙不可思議な霊験を被り、・・・とあります。
トゲは、一夜を十夜とも思わせる「煩悩」を言うようです。


トゲのないばら
「トゲなしのバラ」は、当地でだけ「トゲなし」なのだそうです。持ち帰って植えても、トゲなしには育たず、ふたたびトゲが生えてくるのだと言います。煩悩断ち難し、煩悩断ち難し。
思い当たることがあります。私は遍路中は、比較的トゲが取れているように感じています。しかし遍路を終えて、日常に返ると、たちまち元に返ります。トゲが生えてきます。


トゲのないばら 
村人は、大師のご苦労と、大師への感謝を忘れぬため、「ばら大師」を建て、この地を「十夜野」(とやの)と呼んでいます。


タノカンさま
境内にタノカンさま(タノカンサァ)が祀られています。「田の神様」が転じてタノカン様、さらに九州では「様」が「サァ」と転じて、「タノカンサァ」となるのでしょう。奉納されたのは九州の方です。


タノカンさまのアップ
皆さま、フードをかぶっていらっしゃいます。


六波羅密井戸
昭和初期、野村町内にまだ水道が通っていないときのこと。二人の巡拝者が、参拝者への冷水の布施を発願。3日掘っては1日托鉢。数年かけて井戸を掘ったといいます。清水が湧き出たのは、昭和5年3月21日。二人は、途中賛同して加わった二人とともに、次なる霊場に向かったとのこと。野村に水道が通るのは昭和40年のことだといいます。大いなる功徳を施されました。


明石寺へ
明石寺へ向け、肱川の上流方向へ進みます。橋やトンネルはタクシーで通過しました。


導引大師  
歯長峠に見送り大師がいらっして、峠を下りてくると導引大師がいらっしゃいます。
「導引」(どういん)は広辞苑にによると、「導くこと 道案内」を意味します。遍路道と人生の両方を導いてくださる、お大師さんなのでしょう。
側の茂兵衛道標は、209度目のものです。こちらも、よく導いてくださいます。


導引大師 
明石寺へ向かいます。


明石寺奥の院
明石寺奥の院「白王権現」(はくおう権現)は、巨石(大岩盤)を御神体として祀っています。うら若い娘が運んでいた巨石(大岩盤)です。
娘は千手観音菩薩の化身と思われ、軽々と石を持ち上げ運んでおりましたが、此所までやって来て、鶏鳴に夜が明けたことを知り、石を置いて去ったと伝わります。



娘が運んでいた巨石(大岩盤)が、祠の後ろに、一部、頭を出して埋もれています。


明石寺本堂
娘が軽々と石を持ち上げていたことに因み、明石寺は「あげいし寺」の寺名で誕生したそうです。本尊として(娘姿をされていた)千手観音菩薩を祀っています。


境内 
さて、「あげいし寺」という寺名の謂われは各所で説明されているのですが、それが「めいせき寺」に変わった経緯の説明は、あまり見たことがありません。
「あげいし」の仮名表記である「あけいし」に、「明石」の漢字を当て、後、「明石」を「めいせき」と読み替えた、とおもわれますが、しかし、なぜ「あげいし」より「めいせき」の方がよかったのでしょう?



峠を一つ越えて、卯之町に下ります。
卯之町の発展は、藩政期に入ってからです。近世、宇和島藩の在郷町、宿場町として栄えます。


松葉城から宇和盆地
中世には西園寺氏が、卯之町背後の山上に松葉城を築いて居城としましたが、軍事目的が主の築城で、本格的な城下町経営はまだ視野に入っていませんでした。西園寺氏は藤原北家の流れと伝えられ、中世、南予一帯を支配した一族です。
明石寺の門前町は、すでに形成されていましたが、地域経済への影響は限定的でした。


卯之町
藩政期、卯之町が急速な発展をみせた背景に、「地の利」がありました。二点、記してみます。
一つは、宇和盆地が大稲作地帯であることでした。宇和盆地は稲作地帯として古く、弥生時代初期、すでに稲作が行われていたと推定されています。藩政期には「宇和3万石」と呼ばれるほどの稲作地になっています。この大稲作地帯を控えた所に、卯之町は在ります。


卯之町
もう一つの「地の利」は、宇和盆地には出入り口(峠)が多いことです。卯之町は、どの峠とも遠からず近からず、一定の距離を置いて所在しています。交通の要衝です。
ばら大師の所で記したように、肱川沿いに野村を経て大洲に出ることができます。また大洲へは、肱川を遡り鳥坂峠を越えても、出ることが出来ます。(現在の遍路道です)。鳥越峠や笠置峠を越えれば八幡浜に出ることが出来、歯長峠を越えれば、三間盆地を経て宇和島に出ます。(遍路道です)。法華津峠を越えれば、吉田⇒宇和島に出ます。


庄屋の門
藩政時代、政治経済の安定期に入り、宇和盆地の庄屋(豪農)たちは、産米の移送に便利な卯之町に集結しました。集結すれば利便性が高まるからです。藩権力も、政策上、これを歓迎しました。
となれば人が集まり、宿屋も飯屋も、むろん酒屋(酒造)も集まってきます。在郷町の始まりです。彼らは屋を並べて両側町(現在の中町通)を形成しました。
写真は庄屋宅の門だといいます。ケヤキ造り、乳鋲を打つなど、身分不相応との咎めを受けたそうですが、それも分からないではない立派さです。


二宮敬作・女医イネ
二宮敬作はシーボルトの弟子です。文政11(1828)、「シーボルト事件」に連座して江戸で入獄。半年後解き放たれるも江戸・長崎所払いとされ、宇和島藩入りの許しを求めて帰国しました。二宮の故郷は磯崎(八幡浜)でした。
時の藩主・伊達宗城(むねなり)は「賢君」でしたから、これを許し、二宮は町医者として卯之町に住まい、シーボルトから養育を託されていた娘イネを呼び寄せました。イネ14才、天保11(1840)のことでした。イネは二宮や(前号で記した)村田蔵六(大村益次郎)などから医学、蘭学を学び、産婦人科医となります。


開明学校
二宮の面白いところは、「政治的」ではなかったところです。シーボルト事件に連座したのも、ただひたすらシーボルトの弟子だったからです。二宮は、村田や高野長英のように、砲台を造ったりはしていません。
しかし、にもかかわらず、村田や高野が宇和島にやってきたのは、宇和島に二宮がいたからでした。村田は二宮の薫陶を得たくて宇和島に来、宗城の目にとまって出仕しました。高野は、脱獄逃亡中、二宮を頼って宇和島に来、やはり宗城の目にとまります。


開明学校の教室
開明学校は四国最古の小学校だそうです。申義堂という私塾を校舎として、明治5(1872)開校しました。擬洋風の現校舎が建ったのは明治15(1882)。地元の寄付で建ったといいます。


教会
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
暑さでバテバテですが、なんとか書き終えました。後半は端折り気味です。ご容赦ください。
次回更新は8月18日の予定です。笠置峠を報告させていただきます。八幡浜に通じる峠です。枯雑草さんの「四国遍路の旅記録 平成26年春 その2」に触発されて歩きました。

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2 コメント

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🎵通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ・・・ (天恢)
2016-07-24 10:05:02
 どうやら関東も梅雨明け? 今年はどんな夏になるのやら、猛暑日の少ない真夏を願いたいものです。今回も「龍光寺~卯之町」を楽しく読ませていただきました。
 さて、今回の始まりは三間盆地ですが、ここも合併で宇和島市だそうです。 この宇和島市が舞台となった映画「海すずめ」が最近封切られ、前回ブログでの宇和島城、市街地、九島などじっくり観光できるかな?と喜んでいたら、ヒットせず、すぐに打ち切りとなり残念。 宇和島から三間、卯之町と歩けば、ここも楽しい遍路道。 5年前に落成した42番仏木寺仁王門も時が経てばそれなりに落ち着きが出てきました。 
 
 さてさて、タイトルの「🎵通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ・・・」、江戸の昔から子どもたちに歌い継がれた「通りゃんせ」ですが、なにやら深い意味もあるようで、天恢なんぞはこの歌に「通りたいけど、通さない」という雰囲気を感じます。 遍路道も歩けば通りたいけど通れない、通れるけど通りたくない道もあります。 今回も先ず、42番仏木寺から43番明石寺への遍路道には鎖場のある難所で知られる歯長峠が待ち構えています。 この峠越については、「楽しく遍路」さんの「H24 秋遍路 ⑥ 歯長峠 法花津峠 明石寺」に詳述されていますが、ここが現在通行止めになっているとのこと。
 10年前の頃には、この上り口に、「苦をとるか楽をとるか、胸三寸の分かれ道」と書かれた遍路標識があったそうで、鎖につかまりながら峠を超える「苦」コースと、県道のトンネルを通り抜ける「楽」コースの難しい?選択だそうです。 もちろんおススメは素晴らしい景観が眼下に広がる「苦」コースなんですが、それが通行止め? 天恢が歯長峠を越えた6年前には「胸三寸の分かれ道」の標識はありませんでしたが、晴天の下での「苦」コースを心行くまで楽しむことができました。 どうやら土砂崩れのために通行止めとなっているようですが、行政サイドでは責任は持てないので「通行止め」の処置のようで、自己責任なら通り抜けも可能との記載もありました。 生活道でもないので、予算の制約もあるのでしょうが、通行止めが多くなれば歩き遍路の魅力が薄れてくるような気がします。
 もう一つは通行止めではありませんが、「楽しく遍路」さんが番外霊場「ばら大師」へ向かう途中で、歩きを止めてタクシーに乗換られた橋の箇所ですが、グーグルのストリートビューでチェックしみたら、確かに「狭い歩道、低い欄干・・・」、おまけに雨となれば、とてもこの橋は渡れません。 と、いうより歯長峠下から「ばら大師永照寺」への現代の県道は「狭い歩道」というより歩くための道じゃありません。 危なくて命が幾つあっても足りません。 若き空海がばら大師での野宿で野ばらの棘で安眠できず、一夜の野宿が10日間の苦行に感じられたとの伝承が残る「野宿の聖地」ですが、歯長峠下からばら大師への現代の道路を歩くとなると、お大師さまの苦行にも勝る「茨(いばら)の道」としか思えてなりません。 それとも、いっそのこと歩道を整備して「人生、茨の道」で町興しでもしたら?
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♪こわいながらも通りゃんせ (楽しく遍路)
2016-07-25 16:46:37
ありがとうございます。いつもいつも、楽しく読ませていただきます。
歩いたのは別々なのに、仏木寺の仁王門は云々、歯長峠の標識が云々など、さも一緒に歩いたかのように体験が共有できているのは、面白いですね。
初対面の遍路同士が、いきなり長っ話を始めて意気投合してしまったりするのも、共有体験があるからだと思います。
他の空間ではめったに起きないことが、四国遍路の空間では、当たり前のように起きています。

そうでした。ストリートビューで体験するという方法がありました。
早速、ばら大師への橋をビューで渡ってみましたが、やはり無理だと思いました。・・・そこで思いついて、浦戸大橋をビューで渡ってみることにしたのですが、・・・そしたら、驚きでした。
先達さんに先導された遍路の一行が、歩き渡っているではありませんか!中には片足立ちで靴の調子を直している人もいたりして。
写真で見るだけで目眩がしそうな橋を、恐れ気もなく!と私には見えたのですが、渡っておりました。みんなで渡れば怖くない、ではなく、本当に怖れていないように見えました。
この人たちなら、きっと、ばら大師への橋も、苦もなく、渡るかもしれません。すごい人たちがいるものです。

「苦をとるか楽をとるか、胸三寸の分かれ道」、この問いかけ、私も記憶があります。
あの時の私は、「苦をとる」ことを「推奨」されているような気がして、すこしイヤな気がしたのでした。そんな自分がいました。
苦をとるか楽をとるか、それは、問われるようなことではないし、ましてや分かれ道などでもないだろう。楽をとったとして、それを恥じることはない。楽をとって楽しめばいい、などと思っていたのでした。

こんなだから橋が渡れないのかなあ、と反省もしてみる「楽しく遍路」です。
あえて苦を選び、苦を苦としないための修行も必要だろうとは思います。

「海すずめ」のこと、残念でした。私は3月に歩きましたが、それらしい話は耳にせず、ポスターも見かけませんでした。現地ロケもあったでしょうし、封切りは7月ですから、もう宣伝はしていたはず、と思うのですが。
大林監督作品で尾道は名をあげましたが、同じようには、なかなかゆかないようです。
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