楽しく遍路

四国遍路のアルバム

新谷 黒内坊 内子 大瀬 突合 小田 農祖峠へ

2017-01-11 | 四国遍路

 
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朝霧
霧の朝です。十夜ヶ橋近くの宿に泊まりました。


霧の朝
陽が昇るとともに、秋の景色が開けてきました。中腹に残る霧も、やがて晴れるでしょう。


矢落川
新谷(にいや)の街が矢落川(やおち川)左岸に見えています。
矢落川の名は、戦国時代、川を挟んだ両軍が矢放ち合うも、互いに相手の陣に届かず、「矢が川に落ちた」ことから来るそうです。


陣屋跡
新谷藩は大洲藩の支藩です。すんなりとは行きませんでしたが、寛永9(1632)、大洲藩六万石のうち一万石の分封が許されて立藩。(小藩ゆえの財政難に苦しみながらも)明治維新までつづきました。
新谷藩の領地は、珍しい例ですが、大洲藩内に、村単位の飛び地として散在していました。出石寺遍路道がある阿蔵も、当初は新谷藩に属していました。ただし「えひめの記憶」によると、大洲藩大洲村との間に水争いが発生。1年5ヶ月にわたる紛争の末、村替えで大洲藩にもどされます。


新谷小学校
新谷小学校が、その陣屋跡です。校舎は陣屋風にデザインされたようです。ただし、陣屋に天守はありませんから、時計塔は元の物見櫓でしょう。
校内には慶長4(1868)建築の陣屋が一部、残されていますが、今日は学校が休みのため、入ることができませんでした。


和霊神社のツブラジイ
小学校の正門脇(つまり陣屋の側)に、和霊神社があります。勧請年はわかりません。因みに、和霊神社が宇和島に創建されるのは、承応2(1653)。新谷藩立藩の約20年後のことです。
写真は和霊神社のツブラジイ、椎の木です。その実はアクが少なく、古代から重要な食糧とされてきました。境内には樹齢250-300年ほどの木が、三本あります。


まちおこし
今日、明日は、新谷のイベント・デーです。「新谷一万石まちおこしの会」が企画しているようです。

       
銀河鉄道999
企画の柱は、松本零士さんの銀河鉄道999。新谷駅は999始発駅とされ、街の通りは「999通り」と呼ばれています。


メーテル
松本さんは、前の戦争で、お母さんの実家がある新谷に疎開し、「新谷国民学校」(小学校)に通ったそうです。その縁で、新谷の町興しに協力くださっているとのこと。


イラスト展
999のイラストが「999通り」沿いに展示されています。松本さんが審査し、最優秀作品には「零士大賞」が贈られるといいます。今年は第4回です。


催しもの会場
矢落川の堤防沿いに催し物会場が準備されていました。和太鼓、中学吹奏楽部演奏、出身アーティストの演奏など、盛りだくさんだそうです。昼には堤防上で、松本零士さんとの昼食会があります。99.9㍍のテーブルに、218名(にいや)が座り、999ランチを食べるのだそうです。因みにお値段も、1999円。


地蔵など
帝京第五高校の前に、地蔵像、石書大乗経典塔、手水鉢、常夜灯、道標二基、そして敷地献納者の碑があります。散在していたものを、提供された土地に集めたようです。それとも献納者碑もまた、移されてきたのでしょうか。


休憩所
休憩所で出会った人の先祖は、宇都宮氏と共に関東からここに移り住んだのだそうです。代々、庄屋を務め、姓を許されていたといいます。


元庄屋さんの腕木門
聞けばその姓は、今も地名として関東に残り、それは私の現住所のすぐ近くでした。・・・なんだか親戚に出会ったような気分でいました。
大洲の宇都宮氏は、豊前宇都宮氏七代目当主の弟、宇都宮豊房が伊予守として赴任したことに始まる、とされていますが、関東から大洲へ移った人たちがいても、不思議ではありません。

 
神南山
新谷の南に神南山があります。少彦名命の神奈備とされ、その名「かんなん」は、「かんなび」が転じたもの、とも伝わります。
少彦名命は大洲開拓中、神去られたともいわれ、大洲には少彦名神社が(同名の神社が二社)あります。これについては、また機会を改めて報告いたします。
新谷は、その南方に神のいます所、です。


矢落橋
矢落橋を渡ると、すぐ国道56号です。


神南堂
56号に入るところに休憩所があり、神南堂と名づけられています。茶堂風に造られ、お大師さんが祀られています。


大師堂
56号沿いにある大師堂です。「弘法大師尊」の扁額がかかっています。これからはしばらく、56号を歩きます。
新谷辺りの旧へんろ道については、枯雑草さんが二度にわたり、ブログで紹介されています。地図の添付もあります。


神南山
神南山が後方に見えるようになりました。


道標
56号沿いに徳右衛門道標があり、左方向へ細い道が分岐しています。
正面の文字は「是より菅生山迠 九里」「左 へんろちかみち」。左面は「願主 越知郡(越智郡)朝倉上村 徳右衛門」です。朝倉は現在の今治市です。
「左 へんろちかみち」の文字は、行の詰み具合から、後から彫り足されたと考えられています。道標が建った後、近道が通ったので彫り足した、ということでしょう。


黒内坊
「ちかみち」は、小さな峠を越えた後、小田川が造る河岸段丘を降り、内子の街部に至る道です。
この辺り、黒内坊(くろちぼう)には、昭和13(1938)頃、八戸しか家がなかったそうです。そんな話を聞きました。その後、開けてきたということでしょう。
祭提灯は、今朝、取り付けたばかりだとのこと。五十崎宇都宮神社の祭は来週です。


近道
さて、「ちかみち」を行きます。
栗のイガを燃している人がいました。放っておくと虫がつくけんね、と言います。立ち話している間に、話題は虫からイノシシに移り、気がついたらコーヒーをいただきながら、まるで旧知の者同士のように話していました。いえ、実は前回にもお会いした方だと、話しながら分かったのですが。


前回撮った写真
私はその方との会話をメモに残していました。
・・・庭先を失礼します。
・・・いえ、お遍路さんの鈴にいやされています。この先はぬかっております。お気をつけて。
12年ぶりの再会でした。



この辺にはイノシシ、野ウサギ、ハクビシンが多いとのこと。・・・賢いからねえ、そろそろ穫り入れようとおもうと、やられるんですよ。


棚田
棚田沿いの道を、泉ケ峠に向かって登ります。軽い上りです。
棚田の両側は、この辺では切り立っています。しかし、それでもイノシシは入ってくるそうです。


運動公園
峠を越えた先に運動公園があります。


運動公園
平成16(2004)のことでした。大洲から久万高原まで、前になり後ろになりながら歩いた人たちがいます。運動公園で共にエネルギー補給した時の一コマです。あの時は、ごちそうさまでした。


駄馬池
「駄馬」という所にある池を、駄馬池と呼んでいます。
「えひめの記憶」は、駄場池を”内子の出入口”と記しています。ここから降りた所が、内子の中心、廿日市です。


地蔵菩薩
堤防を地蔵菩薩が護っています。右の地蔵には「明治廿九」(1896)の年号があります。左は「文政三」(1820)と刻まれています。
石碑は災害復旧記念碑で、昭和22(1947)と昭和61(1986)の年号が刻まれています。災害の内容は分かりませんが、堤防の決壊だったでしょうか。


思案堂
駄馬池と道を隔てて、思案堂があります。お大師さんが当所で、’さて今夜の宿をどうしようか’思案なされたと伝わるそうです。
駄馬池といい思案堂といい、この辺に交通のポイントがあったことを示しているのではないでしょうか。


思案堂
お堂は新しいものですが、境内には古いへんろ道標や巡礼供養塔が並んでいます。


廿日市へ
駄場池、思案堂から廿日市を見下ろす風景です。


ハゼノキ
ハゼノキです。6年前に撮った写真ですから、今はもっと大きくなっていることでしょう。樹高10㍍ほどにまで育つそうです。その果実から採取される櫨蝋(はぜろう)は、和蝋燭(ろうそく)、ポマード、石鹸、クレヨンなどの原料として利用されました。
櫨蝋は各地で生産されましたが、内子の本芳賀家が開発しブランド化した、YAZAE HAGA(芳賀 彌左衞)のTHE REFINED WHITE WAX は、明治から大正にかけて、国内のみならず海外でも高品質が認められ、内子に繁栄をもたらしました。


内子
しかし櫨蝋に代わってパラフィンが使われるようになり、さらには電灯が普及してくると、ローソクは不要になり、櫨蝋需要は急減。内子は主要地場産業を失って、すっかり衰退、過疎化しました。
内子が再び息を吹き返すのは、1970年代、観光地化に成功してからです。写真は、「商いと暮らし博物館」に展示された、明治・大正の薬品店の様子です。


内子座
内子座は、大正5(1916)、大正天皇の即位を記念して建てられたそうです。内子の「威勢」を見せるべく、本格の歌舞伎小屋を建てました。
内子の衰退とともに映画館に身売りしたりなどしますが、映画も斜陽化。昭和60(1985)、観光地化への取り組みのなかで、ようやく再建され、今日に至っています。


道の駅
内子の観光は、「街並み」から「村並み」へ、その範囲を広げようとしているそうです。その拠点の一つが「道の駅 フレッシュパーク からり」でしょう。出会った人の多くが、「からり」で休んでいくといいよ、と勧めてくれます。みんなで育てている姿勢がうかがわれます。
農産物の直売所が最前面に出ていますが、奥行きの深い道の駅です。


小田川
道の駅から、へんろ道は小田川沿いの道になります。「えひめの記憶」によると、川沿いに道が通ったのは大正2-3(1913-14)頃だそうです。それまでは山の中腹を通っていたといいます。治水能力の高まりとともに、道が下まで降りてきたわけです。


中腹の道
もう少し上流で写した中腹の道です。上の方が日当たりはいいし、洪水の心配もありませんでした。こちらの方が「一等地」でした。


護岸
この道を歩いて、いつも感心するのは、川を安易にコンクリートで固めていないことです。景観が守られています。頭をよぎるのは、54番延命寺から降りてきて見る浅川の無残です。コンクリートの溝と化しています。


旧河床
白い部分は、かつての河床です。流れが変わったようです。増水時は、ここにも水が流れるのでしょう。


お遍路無料宿
「えひめの記憶」から引用させていただきます。・・・大瀬地区は、次の札所までかなりの距離があるうえ厳しい峠があるため、谷筋の遍路道沿いに宿が点在し、昔は善根宿も多かったと古老は言う。
厳しい峠とは、真弓峠、農祖峠、そしてまた鵯田峠などです。



昭和7(1932)の架設です。その頃の道幅がわかります。


桝木橋
遍路道は左に道をとり、大瀬に向かうのですが、「通行止め」の表示があります。直進して橋を渡ります。


崖崩れ
通行止めの理由がわかりました。大きな崖崩れです。復旧は、だいぶ先のことになるようです。



大瀬の中心部です。何本も幟が立っています。今日は三島神社のお祭り日です。「大明神」が嬉しい!


大瀬中学
大瀬中学校に寄ってみました。昭和22(1947)開校の、いわゆる「新制中学」です。一期生に大江健三郎少年がいます。


御旅所
中学校の正門前に三島神社の御旅所があります。昔は神輿を担ぎ上げたに違いありませんが、さて、今は?


茶堂
大瀨の中心に入ってゆきます。茶堂がありました。三面が開放され、一面に縁起棚があります。これが茶堂の形式です。ただし13年くらい前に建てられたもので、縁起棚には、なにも祀られていません。
すぐ側に小祠と徳右衛門道標がありますが、お楽しみのところ、近寄るのも申し訳なく、パスしました。


三島神社
三島神社は、灯森三島神社(ともしがもり)と呼ばれています。美しい名前です。
社務所の座敷は、直会の人たちで大賑わいでした。神事は午前中行われ、牛鬼、獅子、毛槍、稚児行列などが供奉する中、神輿が御旅所を巡ったそうです。


拝殿
拝殿、本殿とも、素晴らしい木組みであり彫刻です。文化財指定を受けていないのは、比較的新しいからでしょう。しかし、大切に後世に残したい建物です。
創建は永禄11(1569)。大山積神を大三島から勧請したとのことです。元の55番札所の神です。なお現55番南光坊の隣には、大山祇神社の別宮があります。


天井格子絵
家紋が多いようですが、小野小町などもあります。


茶堂
また茶堂がありました。居合わせた方が、(向こうに建てたから)この地区にも「公平に」建ててもろた、と話してくれました。茶堂は土地の人たちの憩いの場でもありましたから、ここにも在って、おかしくはなかったのです。立派な造りの茶堂です。


大江さん宅
内子生まれの大江健三郎さんは、日米開戦の年、昭和16(1941)、大瀬国民学校(現小学校)に入学します。五年生までが「戦中」でした。昭和22(1947)、前述の大瀨中学に入学。朝鮮戦争の年、昭和25(1950)、内子高校に入学しますが、後、松山東高校に転校。東大仏文を出ます。


獅子舞
大瀬小学校側の空き地で獅子舞の演舞がありました。大瀨の北、陳ヶ森(565㍍)の東麓、大久保地区の人たちが保存しています。
三番叟から始まります。祝い事の舞です。


獅子舞
狐は中学生、猿は小学生?のようです。


獅子舞
お年寄りたちが目を細め、温かい拍手を送っていました。


獅子舞
見物中、和田重次郎さんの子孫という方にお目にかかりました。和田重次郎さんは明治24(1891)、16才で渡米。それは波瀾万丈の人生を送った愛媛県人です。
日本では無名でも、米(特にアラスカ)カナダでは、よく知られ(誤解も受けましたが)敬われていました。残念なのは、彼の「有名」が前の戦争中、抹殺されたことです。



戦後、日本では(初め東良三さんが)、次いで新田次郎さん、谷有二さん(宇和島出身)が、「和田重次郎」を本にしています。(新田作品初版では「勇次郎」)。よろしければご一読ください。なお、平成23(2011)、ミュージカル「オーロラに駆けるサムライ~和田重次郎物語~」が内子座で上演されたそうです。
その節はありがとうございました。私はたまたま新田さんの本を読んでいたので、感慨深いものがありました。いつまでもお元気でいてください。


熟柿
私が時間をもてあましていることを知った地元の方が、自宅に招いてくださいました。富有柿、ご馳走様でした。楽しい時間でした。


獅子舞
一時間ほどを過ごさせていただき歩き始めると、その先で獅子舞の一行に出会いました。一軒一軒、厄を落として回ります。


いかだ流し
近頃観光用に復活させた「筏流し」のポスターがありました。
かつて木材を筏に組んで、小田川から肱川→大洲の長浜港に運んだそうです。小田川は今よりも水量が多かったようです。今の水量では、肱川まで流すことは出来ないでしょう。
山の保水力の差でしょう。保水力が衰えた山は、雨水を貯めることなく一機に流してしまうので、川が細ります。


御旅所
八王神社の幟です。これからも行く先々で、幟が立っているのを見ます。今週から来週にかけてが、秋のお祭日です。


徳右衛門道標
是より菅生山まで六里、だそうです。道標は、おそらく、かつての上の道から移したのでしょう。


千人宿記念大師堂
お接待で泊めた遍路が千人になったことを記念し、建てた大師堂だそうです。中には畳のスペースがあり、真っ白なシーツの布団が、たたんでおかれていました。


楽水大師堂
船形石板に大師像が浮き彫りされ、祀られています。像の左右に「大洲(旧字体)藩大瀨村川登楽水 寛政元巳酉七月廿一日」と刻まれています。西暦1790年です。
「楽水」は地名になっていますが、文字通り、旅人たちが、水を楽しんだ場だったのでしょう。赤いはしごの左側に、水場があります。


吉野川橋
橋柱がしゃれています。昭和初期の架橋です。
この橋を渡ると道がT字状に分かれます。右が農祖峠遍路道、左が鵯田峠遍路道です。


突合
突き当たって左右に分かれることから、この地はそのまんま、「突合」(つきあわせ)と呼ばれています。
私は右方向、農祖峠への道を進みます。


お堂
お堂があります。
棚に何かが祀られていたかもしれません。近づいてよく見るべきでした。茶堂とも思われます。



石仏、石碑が並んでいます。集めたでしょう。この道では、このような石仏をたくさん見ることが出来ます。「大師道」と書いた遍路札を見かけましたが、いかにも、そんな感じがしました。


高知へ
交通標識に「高知」とあります。この先、大平川、父野川、二名川、久万川などを見て、面河川に至りますが、面河川は仁淀川の上流です。私たちは35番清瀧寺の手前で、清流仁淀川を見ました。


県立小田高校
小田町に入ってきました。
小田高校は生徒数120名ほどの小規模校ですが、がんばっている様子がHPからもうかがえます。遠距離通学者のための寮も備えているそうです。


御旅所
新田神社の幟です。


堂ノ上大師堂
御旅所のところから少し坂を上り、訪ねてみました。ちょっと荒れているのは残念でした。


堂ノ上の大師像
堂内は見ることが出来ませんでした。


道の駅
「小田の郷 せせらぎ」です。オダ・メイドのアイスクリームを食べました。



Good to drink. のようです。


御旅所
きっと祭の規模は、うんと縮小しているのだと思います。けれど、神様をお迎えする準備だけは、しておきませんと。


御旅所
こちらでも、お迎えの準備は出来ています。幕を張ることで、この場は神域となります。



小田川と別れ、今度は大平川沿いに歩きます。


三島神社
大平の三島神社です。
下の集会所に氏子さんたちが集まっていました。来週の祭に備え、お宮の掃除を終えた人たちでした。

さて、新年1回目というのに、中途半端な所で終わりになってします。年末年始、予想外に忙しかったこともありますが、更新の前々日に起きた、ブログアクセスの不具合がこたえました。すくなくとも峠までは、たどり着く予定だったのですが、・・・。
ともあれ、ご覧いただきまして、ありがとうございました。次回は、岩屋寺までを考えています。更新予定は2月8日です。
今年もよろしくお願いいたします。


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2 コメント

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♪私の故郷は今も此処にいます 懐かしい人たちが愛し暮らした街並・・・ (天恢)
2017-01-13 19:58:04
 また新たな年を迎えました。 古希も過ぎれば「何がおめでたい?」と叱られそうですが、せめて気持ちだけでもリセットして、元気で良い年にしたいものです。 今回も「新谷~農祖峠へ」を楽しく読ませていただきました。

 さて、今回の十夜ヶ橋から歩き始めて農祖峠へ至る道中ですが、遍路も人生と同じで「照る日・くもる日・時々雨」で、天恢も宇和から内子へ向かった日は晴天に恵まれ、新谷あたりは足にもやさしい道が続きました。 ところが内子から鴇田峠を経て大寳寺へ向かった日は大雨で道中難渋しました。 車の水しぶきが嫌で内子から突合までタクシーを使ったために後年拾い遍路としてこの箇所だけを歩き直したのも今は懐かしい思い出の一コマです。

 さてさて、タイトルの「♪私の故郷は今も此処にいます・・・」は、前々回『楽しく遍路』に「私の故郷 由岐中学と故郷由岐に寄せる歌」で紹介された卒業生のコバタイサオさんが作詞作曲された「私の故郷」の一節です。 この曲はYouTube動画で配信されていて、北海道室蘭の女子高生・竹野留里さんが素晴らしい澄みきった歌声で歌っています。 小畠さんの故郷への熱い思いの詞曲と竹野留里さんの見事な歌唱力とがマッチして、一度でも聴くと誰もが口ずさみたくなるような故郷賛歌になっています。 天恢もすっかりハマって毎日歌っています。 何かのきっかけで「私の故郷」が大ブレークして爆発的にヒットする予感がします。
 今回、新谷や大瀬を故郷とする方たちによる「まちおこし」や三島神社の祭礼が掲載されました。 この地の出身や縁者である松本零士さん、大江健三郎さん、和田重次郎さんにとっても故郷での想い出や情景がいつも心の中に去来するものがあった違いありません。 新谷は松本零士さんの疎開先だったそうですが、松本さんは私の故郷の町の対岸に位置する北九州市小倉が故郷と思っていましたが、調べたら幾つも故郷がある方でした。 誰もが生まれ育ったところで生涯を終えるわけではありません。 天恢も竹野留里さんの住む室蘭市に生まれ、福岡の片田舎で育って、四国遍路をするようになって故郷にしたいところが幾つもできました。 「私の故郷」が此処だけではなくて、全国津々浦々で歌われることを願ってやみません。
返信する
♪いかにいます父母 つつがなしや友垣 (楽しく遍路)
2017-01-17 09:12:46
天恢さん、ありがとうございます。
おっしゃるとおり、歳を重ねることが出来たことを素直に悦び、年が改まったことを機に、心も新たに暮らしてゆきたいものとおもいます。

「故郷」はかつて、ほぼ「田舎」と同義でした。年末を田舎で過す、は、この年末帰郷するということでした。父母の元に帰り、祖父母をいたわり、友垣との再会を楽しんだのでした。
東京生まれ、江戸っ子の友人が、自分に「田舎」がないことを残念がっていたのを、よく覚えています。

しかし核家族化が言われるようになって、おそらく60年近くも経った今日、田舎や故郷を持たない人たちが多くを占めるようになっています。
かく言う私の子たちも、私の田舎(故郷)との縁は薄く、その子(孫)たちに至っては、知らないも同然の状態になっています。出会ったことがない従兄弟がいる始末です。
この子たちの「故郷」が、私が買った建売住宅であるのは、本当にかわいそうなことだと、近頃、つくづく感じています。
新谷の「まちおこし」や大瀨の祭、また外泊などを遍路行記のなかで取りあげるのは、「田舎」で頑張る人たちを応援したいからですが、田舎(故郷)を飛び出してしまった私の負い目ゆえでもあります。

三番叟を演じる中学生たちに、目を細めながら拍手をおくるお年寄りの言です。
・・・この子たちに残ってほしいけどね、この子らのことを考えたら、出ていった方がいいんよ。
こたえる一言でした。

そんな今日、小畠功さんの感性に出会い、わずかのご縁をいただいたことを、私はとてもうれしく思っています。この感情は、「私の故郷」を、ハマって毎日くちずさむ天恢さんと、たぶん重なっていると思います。

天恢さん、今年もよろしくお願いします。
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