楽しく遍路

四国遍路のアルバム

四万十川渡し船 伊豆田トンネル 下ノ加江 以布利 西海岸

2021-07-21 | 四国遍路

 
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下田の渡しへ
何もかもが半乾きのままの出発です。宿から乗船場まで30分ほど。船の始発は8:00とのこと。
同宿の「黄色信号さん」の姿が見えないと思ったら、後で聞いたところでは、連泊して濡れたものを乾かしたのだそうです。部屋で寝ているのもつまらないので、バスで中村観光に行ったとのこと。なるほど、こういうやり方もあったのかと、大いに感心させられたものでした。


四万十川  
四万十川の河口部分が遠望できました。手前の海岸は下田港海岸です。


下田の渡し 
渡し場の前に見える水路は、(四万十川ではなく)船島川です。四万十川は、堤防の向こう側を流れています。
つまり渡し場は(そして下田港も)、船島川岸に在り、船島川と四万十川を隔てる堤防によって護られているわけです。


拡大
堤防沿いに小さく写っているのは、アオサ海苔の養殖場です。堤防がつくる穏やかな水面を利用し、行われています。


待合所
待合所に選挙ポスターが貼ってありました。この時期は、ちょうど総選挙の最中だったのです。
選挙後に、小泉第二次内閣が組閣されましたが、自民党は議席を減らし、民主党が議席を伸ばした選挙でした。この後、平成17年(2005)の「郵政選挙」による自民党大勝を経て、平成21年(2009)、民主党鳩山内閣が誕生します。


対岸初瀬方向
「下田の渡し」の利用者は、昭和52年(1977)には、年間5000人を数えていたと言います。通勤、通学者など地元の人たちが、生活の足として利用していたのです。遍路もこの渡しで、対岸に渡りました。


四万十大橋を示す道標
ところが、平成8年(1996)、すこし上流に四万十大橋が開通。「下田の渡し」に危機が訪れました。渡しの利用者が激減したのです。遍路も、(下田の渡しではなく)四万十大橋を渡る人が増えてきました。道標にも、・・四万十川大橋経由 近道(38番)・・と記されています。近道となれば、やはり多くの人が四万十川大橋経由の道を選ぶでしょう。
私たちが乗船した平成15年(2003)には、利用者は年間、たったの800人だったそうです。しかしこれでも、地元の方々の努力で、だいぶ盛り返してきた数字だといいます。


四万十川河口方向
そんな事情で「下田の渡し」は、平成17年(2005)10月、いったん廃止されることになりました。管理者である四万十市(同年4月、合併により誕生)が、廃止を決めたのでした。
復活したのは、その4年後の平成21年(2009)のことでした。しかし復活を決めたのは市ではなく、地元の方々などでつくる「下田の渡し保存会」でした。


四万十川上流方向
ただし四万十大橋の少し上流には、赤鉄橋と通称される四万十川橋(大正15年開通)が架かっています。さらにその上流には、国道56号をつなぐ、後川大橋(昭和40年開通)があります。もはや渡し船の出番は、実生活の上には、ないのです。
まちがいなく、復活「下田の渡し」が見込む最大顧客は、遍路でしょう。
さて私たちは、この期待にどう応えることが出来るでしょうか。


渡し賃
この頃の渡し賃は、大人100円、小人50円、自転車150円、バイク250円でした。
しかし今は、こんなぐあいにはゆかないでしょう。


初崎港
8:00の出港時刻になっても、船長さんは船を出そうとしません。毎朝、通勤で使っている人が、まだ来ないのだそうです。
ややあって、中年の女性がやって来ました。すみません、と遅れたことを謝すうちに、船は出航。乗客は3人です。
彼女は対岸のアロエ工場に勤めているのだそうでした。通勤にこの船を使っているのは、私だけとのこと。
ビニールを敷いて、どうぞ、と座るように勧めてくれました。歩き遍路だと話すと合掌をして、「ご苦労さまです」と労ってくれました。昨日に続いての場面でしたので、今回は慌てず対応することが出来ました。


みなと丸
対岸の初瀬港に着きました。みなと丸といい、4.5トンの船でした。
今就航している船は、これより一回り小さな船のようですが、私はまだ乗ったことがありません。実は、平成22(2010)10月、乗る予定でしたが、先の台風で川底の砂が移動。航路を塞いでいるとのことで、運行が休止されていました。この航路、たかだか1.2キロほどにすぎませんが、水流や川底の様子は常に変化し、操船は難しいのだそうです。


初瀬の渡し
大きな木の下にテーブルと椅子が置いてありました。座らせてもらって、靴紐の締め直し。自販機で水も買って、出発です。
まずは前方に見える、巨大な水門を目指して歩きます。


水門
潮止め水門でしょう。水門の内側には、所々に船だまりがあり、数隻の小舟が係留されています。


津蔵渕へ
気持ちのいい遍路道です。写真には写っていませんが、前方に大文字が見えてきたはずです。土佐一条氏の2代目、房家が始めたと伝わります。


川沿い
この道は、やがて国道321号に合流します。


津蔵淵へ
国道321号は、四万十市(中村)から土佐清水市、大月町、宿毛と、足摺半島の海沿いを走る道です。
321から、サニーロードと通称されています。


伊豆田トンネル
伊豆田トンネルは、(確かめていはいませんが)四国の遍路道で一番長い(1600㍍)トンネルなんだそうです。北さんはそうでもないらしいけれど、私はトンネルが大嫌いです。できれば抜けたくないのですが、他に道がないのでは、仕方ありません。勇を鼓して、入ってゆきました。


復旧された出豆田坂登り口
今は伊豆田峠を越える旧道が復旧されており、→(H22秋 2)トンネルを避けて通ることができます。しかし、私たちが歩いた平成15年(2003)時点には、まだ旧道は藪の山中に眠っておりました。復旧までには、あと7年待たねばなりません。
なお、旧道の下には伊豆田隧道(360㍍)が抜けていましたが、この隧道は、伊豆田トンネルが開通した翌年、ローリング族が走行したり、心霊スポットと騒がれるなどがあり、埋め戻されてしまい、今は通れません。


埋め戻された伊豆田隧道
古く        清水往還道(足摺エリアに出入りする道)が拓かれた
明治43年(1910) 伊豆田峠越えのバス道開通
昭和32年(1957) バス転落事故 死者5名→田宮虎彦作「赤い椿の花」(映画化名 雲がちぎれる時)
昭和34年(1959) バス事故の反省からか、伊豆田隧道(360㍍)が伊豆田坂の下に開通
平成 6年(1994) 伊豆田トンネル(1600㍍)が、伊豆田隧道の下に開通
平成 7年(1995) 伊豆田隧道、埋め戻さる
平成22年(2010) 伊豆田峠越えの旧道復活


ウリンボ
トンネルを抜けた先のドライブインに、ウリンボがいました。今は可愛いのですが、大きくなると・・
ある宿のご主人が言っていました。・・大きくなったら食べよと思って飼っていたら、情が移ってしまってなあ。ぐずぐずしてる間に、こんなにでかくなってしまって、どうしたもんだか、困ったもんだよ。


下ノ加江川
下ノ加江川は私の好きな川です。


下ノ加江川
前述「赤い椿の花」に登場する、バスの車掌の名前は「加江子」。おそらく下ノ加江からとった名でしょう。運転手の名は「三崎」。こちらは、足摺岬の「みさき」でしょう。


下ノ加江
下ノ加江の街です。郵便局で金を下ろしました。
因みにこの郵便局は、まだ民営化されていません。


布浦方向
赤灯台は、下ノ加江港外港第4防波堤灯台。岬は布岬。布岬灯台があります。岬先端の山は森山。標高96.1㍍です。
特徴的な岬なので、目印として覚えておくといいと思います。


足摺方面
室戸岬から延々と歩き、足摺岬の姿を初めてうっすらと見たのが、井の岬の辺り。
ここに来て、よりはっきりと見えてきました。


黄色札
このエリアに特徴的な、黄色の札です。


大岐海岸
大岐の遍路道は、街中を通る陸道と砂浜を歩く海道にわかれています。
海道の方が近道なので、こちらを選ぶ人が多いようですが、なぜか私たちは陸道を歩きました。思い当たる理由はないので、単に道標を見落としただけのことかもしれません。


大岐海岸碑
同年配の女性が、向こうから歩いてきました。ビニール袋を手に下げて、いかにも草臥れた様子です。ここ5日間、30Kを歩いているといいます。
それでもお口は達者でした。定年退職組だというので、「ならば、時間はいくらでもありますからね・・」と話すと、「いえ、お金もあります」と、のたまわれました。まあ、その後すぐ「小金ですけどね」と微修正したので、よしとしましたが。


堤防
台風時の厳しさを思わせます。


以布利
私が厄介なことを言い出しました。・・西海岸で夕陽を見たい。
この頃、私たちの頭に「2巡目」はありませんでいた。考えていたのは、どうやったら1巡目を無事終わらせることが出来るかで、まさか自分が2巡目3巡目を歩くなんて、思いもよらないことだったのです。
そんなわけで、お大師さんも「見残し」たことを残念がったという、西海岸の景色と夕陽をぜひ見たいと、北さんに願ったのでした。


近道
北さんの賛同を得て、以布利から、県道321号を経て、西海岸に出ることにしました。
土地のおばさんが、・・西海岸に出るには、前に見えるグルグルまいよる道(県道321号)を行くのだけれど、あこに上がる近道があるんで、そこを行きなさい、・・と言って案内してくれました。
民家の間の細い道を歩いて、傾斜30度もありそうな簡易階段を一気に、螺旋状の車道まで登りました。


以布利トンネル
宿を清水港近くにとりました。
時刻はもう4:00近くになるので、現在位置を知らせ、(夕陽が見たいので)少し遅くなることを伝えました。
宿の人は、・・夕陽は、今日はどうですかねえ、・・と否定的でしたが、一応、行ってみます、と押し切りました。


以布利第二トンネル
清水港への道は、長い緩やかな下りです。


十字路
快調に飛ばしてきました。


清水漁港
宿に荷物を置いて、タクシーで「きれいな夕陽が見える海岸」に行ってもらいました。
夕陽、見えますかね?の問いにドライバーは、五分五分でしょうという答。まあ、この場合、見えませんとは言えないでしょうけれど。


夕陽待ち
ドライバー推薦の海岸で、夕陽を待ちました。
見えたのは一瞬でした。真っ赤な夕日が見えて、すぐまた雲に隠れました。


代償
その代わりでもないでしょうが、反対側の空には、きれいな月がかかっていました。

さて、一気に宿毛まで書き進めたかったのですが、間に合いませんでした。
一週間後、間に合わなければ二週間後、宿毛までをご覧いただこうと思います。そこで更新予定は、とりあえず7月28日です。
なお天恢さんにお願いです。今号は次号と合わせて一本ですから、コメントは次号でいただければ、と思います。
コロナ猖獗を極めるとき、いよいよ本日よりオリンピックですね。

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