楽しく遍路

四国遍路のアルバム

中浜の万次郎 清水の鹿島神社 大月へんろ道 月山神社 小筑紫 宿毛へ

2016-03-31 | 四国遍路
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中浜
足摺半島西岸を歩き、中浜にやって来ました。ご存知、中浜万次郎生誕の地です。
万次郎は天保12(1841)、14才の時、(青龍寺がある)宇佐浦から初出漁して遭難。同乗の四人と共に、鳥島まで流されたと言います。
無人島でのサバイバル生活は143日(150余日とも)に及んだと伝えられますが、運良く、島に停泊した(海亀の卵を求めてのことらしい)アメリカの捕鯨船、ジョン・ホーランド号に救助されました。ジョン・マン John Mungという万次郎のアメリカ名は、この船名から来ているとのことです。


中浜万次郎帰郷150周年記念碑
万次郎は、ホイットフィールド船長の庇護の下、アメリカ北東部のフェアーヘブンで暮らすことになりますが、当時、アメリカ社会は、いわゆる「南北戦争」(1861勃発)への道程を突き進む最中にありました。
そんななかで、東洋人の万次郎が(曲折はあっても)白人の日曜礼拝に同席を許され、白人の学校へ通学を許されたのは、万次郎の才能、努力もさりながら、信仰心高く人格高潔なる、ホイットフィールド船長とその一家のおかげと言うほかありません。船長はキリスト教徒の、一つの(よい方の)典型そのものです。


万次郎生誕の地の碑
万次郎は11年後、「洋才」を身につけて「帰国」しました。「洋才」とは、テクニカルには数学、測量術、造船技術、航海術などをいいますが、それ以上に貴重なのは、アメリカ社会での万次郎の見聞と体験、ナチュラルな英語力でした。
万次郎は当時の「日本」で、唯一無二、得がたい人物だったと言えます。


生家
しかし、この「洋才」も、あわや宝の持ち腐れに終わりかねませんでした。高い「洋才」に見合う「和才」を万次郎は持っておらず、せっかく「洋才」を持ちながら、その日本語化に困難を感じていたからです。
結果的に幸いしたのは、「帰国」した万次郎を待ち受けていた、薩摩藩、長崎奉行所、土佐藩などによる長い尋問の期間でした。望郷の念にかられる万次郎には辛い時間でしたが、この間に万次郎は、自らの「和才」を高めることができました。尋問に当たった人たちが高い「和才」と幾らかの「洋才」(蘭学の素養)を身につけていたからです。


万次郎は知らない人についていった?
中でも土佐藩が差し向けた絵師・河田小龍とのやりとりは、万次郎と河田小龍の双方にとってだけでなく、多くの、志ある人たちにとっても、有益でした。小龍は万次郎からの聞き取りを「漂巽紀略」(ひょうそんきりゃく)全4巻にまとめました。原本は藩主山内容堂に献上され、写本は他国開明藩主の手にも渡ったといわれています。坂本龍馬も読んだという話は、よく知られています。
「日本」は万次郎から、「技術」のみならず、多くの「概念」を学び取って、日本語を豊かにしました。


中浜の街
中浜から岬越えして清水(土佐清水)に入ります。


清水の唐船島(とうせんじま)
清水に入ると、唐船島という妙な名の島があります。一条氏の時代、前号でも触れましたが、土佐沖は遣明船の南海路となっており、清水は中継港の一つでした。「唐船」の名は、ここから来ていると思われます。
唐船島はまた、国の地質天然記念物に指定されています。昭和南海地震での地盤隆起量が、正確に測量できたからです。地震前後の貝類の附着痕ラインを比較し、島は、80㌢隆起したことがわかりました。この測定結果は、周辺部の隆起量を測定する基準値として使われたと言います。


清水の鹿嶋神社
けっこう大きな鹿嶋神社がありました。「嶋」の字を使っています。
今は地続きになっていますが・・・、


清水の鹿島
角度をかえて見ると、元は「島」だったことがわかります。土地では「瓢箪島」などとも呼ばれるようですが、宗教上からは「鹿島」です。


佐賀の鹿島
佐賀(土佐佐賀)にも「鹿島」がありました。鹿島神社が祀られています。


北条の鹿島
また私たちは伊予北条でも、「鹿島」を見ることになります。島には、やはり鹿島神社が祀られています。写真は高輪山から撮ったものです。
鹿島神社と小島の組み合わせは、総本社・常陸国鹿島神宮に「鹿島」という小島がある(あった)ことに因むようです。残念ながら海岸線の変化により、この島は「小山」になってしまいましたが、古きものの本には、・・「鹿島の津」に「鹿島」と言う小島がある・・と、はっきり記されているといいます。この島には(後述しますが)「神代よりの壺」がある、とされています。


社叢
清水鹿島の深い社叢は、島であった頃の名残だと言います。長く陸と切り離されていたことが、独特の豊かな植生を育みました。


石段
長い石段の上に鹿島宮の祭神・建甕雷男神(たけみかづちのお神)が鎮座まします。
本宮の鹿島には「神代よりの壺」があると前述しましたが、「壺→甕」から類推して、「神代よりの壺」は、建甕雷男神のご神体と考えられます。「鹿島」は、そんな島なのです。


拝殿
祭神・建甕雷男神は記紀神話が伝える「国ゆずり」に登場します。・・天照大神の神勅を受け、大国主神は国土を皇孫に譲り隠退しましたが、この時、大国主神を恫喝し、国譲りを迫った神が、建甕雷男神です。武神であり、また農耕神でもあります。


拝殿
当社は、境内の「鹿嶋神社御由緒」によると、文明年間(15C)、豪商・鍵屋嘉右衛門なる者が常陸国鹿島神宮より分霊勧請。当地に創立造営しました。


香取神社
境内社として香取神社が祀られています。祭神は経津主神(ふつぬし神)で、建甕雷男神と共に大国主神に国譲りを迫ったともされる神です。
しかし、常陸鹿島の建甕雷男神が白鹿に乗って遷ってきたとされる奈良の春日大社では、建甕雷男神祭神が第一殿に、経津主神は、下位の第二殿に祀られています。「共に」に関して、やや疑問が持たれているからです。


石段
10月の第3日曜日、今日より5日前、鹿島神社の大祭が行われたそうでした。「おしかったねえー」と、土地の人が残念がってくれました。
話によれば、神輿はこの石段を下り・・・、


神輿乗り場
ここから船に乗り、市内を練り、ふたたび船に乗って湾内を巡航します。残念でした!


くらげ
港を泳ぐこのクラゲ、お腹がすいたら自分の足を食べるのだそうです。実際、足が数本かけているクラゲも見かけました。真偽のほどは、わかりません。追記:お腹がすいた魚に食べられる、との話も聞きました。


行く末
清水から山を登り、三原村を経て、38番延光寺に出る道があります。しかし私は海沿いの道を歩き、月山神社を経て38番に参ります。


漣痕
五劫のすり切れほどではないものの、このようになるまで、長い時間がかかりました。


来し方
竜串の「見残し海岸」は、万次郎の所で登場した、河田小龍の命名だとも言われます。弘法大師も見残したであろうという奇岩は、私も見残しました。


叶崎灯台
しかし十分満足です。足摺岬に勝るとも劣らない(私なんぞは勝るとも思う)景観が広がります。


急崖
321号線、サニーロードを行きます。


するめ
一度でもこの道を行った人には、お馴染みの光景です。


珊瑚を胸に抱いた少女の像
童歌が紹介されています。
  お月さん ももいろ だれんいうた あまんいうた あまのくち ひきさけ
月灘のサンゴは桃色サンゴ だれが言うた 海女が言うた 海女の口 引き裂け・・ 藩政時代、珊瑚の存在は厳しく秘匿されたことが背景ですが、・・幻想的です。月灘は、月山神社がある海をいいます。


沖の島
沖の島が見えてきました。沖の島は予土の国境でした。
中世、土佐藩と宇和島藩の領土争いが、沖の島にまで及びました。島は分割され、せめぎ合いは江戸時代初期まで続いたと言います。国境画定には幕府の裁定が必要でした。
裁定は野中兼山の活躍もあって、土佐藩に有利に裁定されましたが、分割状態は続きました。全島が宿毛市に属することになったのは、ようやく明治に入ってからでした。


旧道
サニーロードの上方に、旧321号線が見えます。


集落
前方に大浦集落が見えてきました。私は、北上するサニーロードから別れ、大浦へ向かいます。


半鐘
平成16(2004)、初めて当地を訪れた私たち(北さんと私)は、昭和南海地震を経験した人の話を聞くことができました。昭和21(1946)12月21日、午前4時19分、明け方だからまだよかった、と言います。この記憶が残る故、半鐘も残しているのでしょう。
今時、半鐘でもあるまい?・・いえいえ、急を告げる音は半鐘に限ります。打つ人の心をも(焦りも含めて)半鐘は伝えます。


防災放送
どうか、この半鐘が乱打されることがありませんように。この放送が急を告げることがありませんように。


大月へんろみち
平成16年は、まだ「大月へんろみち」の復元は成っていませんでした。まもなく、という頃でした。


丁石
当時、まだ丁石は地面に転がっていましたが・・・、


丁石
立派に復元されています。「大月へんろみち」は、(おそらく波に洗われ磨かれた)自然石の丁石がたくさん残る、すばらしい遍路道です。


切り通し
古い道が崩れもせず残っています。歩いた人たちの、人の重みの故でしょうか。


「大月へんろみち」
「大月へんろみち」は、大浦から月山神社を経て赤泊へ通じる道です。


励ましのへんろ札
「大月へんろみち」を歩いた何方もが記憶に残すのは、大月小学校の子供たちが着けた励ましのへんろ札です。毎年3年生が担当し、10月頃、古いものと取り替えるようです。
「はげまし」の一例をご紹介しますと、・・おへんろさんへ ぼくは学校でいろんなべん強をがんばっているので、おへんろさんもがんばってください。びょう気にかからないでください。三年一組 ○○ ・・ おへんろさんの絵がついています。
今年は10月9日、私が歩く11日前、この作業が行われたようでした。


励ましのへんろ札
私は以前、大月小学校の子供たちにお礼の手紙を書いたことがあります。赤泊の西田さん(赤泊ではほとんどが西田さんですが)の助言に従ったものです。すこし喜んでいただけたと西田さんから知らされ、私もまた幸せな気持ちになりました。
この道を通った方々、ありがとうの一言だけでも、書き送ってみてはいかがでしょう。


月山神社
月山神社は元、守月山 月光院 南照寺と称せられたそうです。「月」尽くしの、なんとも美しい名前です。
祭神は月夜見尊(つくよみ尊)と倉稲魂尊(うかのみたま尊)。
月夜見尊は夜の食国(よるのおす国)を治めます。月の照らす夜、万物は育ち、月が欠けるとき、死が訪れます。
倉稲魂尊の「うか」は「食(うけ)」と同義です。食べ物の神です。幡多郡は古代秦氏が進出した土地ですが、倉稲魂尊は、秦氏の氏神・稲荷神と同一視されています。


上から
ご神体を拝まんと、年がいもなく急崖を登ってみました。恐れ多いのでカメラは向けませんでしたが、これは登ったことの証拠写真です。
右が本殿、左が大師堂です。


レプリカ
下にご神体のレプリカがありますので、載せておきます。
月山神社は、出羽三山の修験者たちによって全国化されたものでしょう。夜旅、夜の秘技(神事・仏事)をおこなう修験者たちには、「月」は特別のものでした。


天井絵
大師堂の天井絵です。弘瀬竹友(絵金)、河田小龍ほか、幕末から明治にかけての、そうそうたる絵師たちが描いたといいます。特に河田小龍は何枚も描いています。残念ながら写った中にはありませんでしたが。


「大月へんろみち」
月山神社を出て、赤泊へ向かいます。


「大月へんろみち」
いい遍路道が続きます。


「大月へんろみち」
実際、疲れを感じません。屈指の遍路道だと思います。


赤泊の浜へ
山道を下り、赤泊浜へ向かいます。大きなゴロゴロ石が重なる浜は道がわかりにくく、さりとて道標も立てられません。スプレーで道が示されています。


沖の島
沖の島がだいぶ近づいてきました。


赤泊の浜
荒天、満ち潮の時は、やっかいでしょう。


赤泊へ
扇状地を扇頂(扇の要)に向けて歩きます。扇は全開ではなく、半開きくらいですから、両側に山が迫ってきます。


赤泊集落
集落は扇頂部にあります。両側から山が閉じようとしています。


赤泊音無神社
赤泊音無神社の秋の祭は、毎年10月22日。今日は10月20日。ちょっと、ずれてしまいました。
・・・前回は、偶然ですが祭の当日でした。声かけをいただいて、直会にまで上がり込んでしまいました。前述の西田さんとお会いできたのは、この場でのことでした。西田さんは元善根宿のご当代です。


防災倉庫も
祭神は音無大明神・大山積命。
長い石段の上の境内は、津波一時避難所にもなっているようです。社殿に防災倉庫が並んでいます。どうか防災倉庫が「開かずの箱」でありますように。


善根宿
直会の後、西田さんのお宅にお邪魔し、貴重な品々を見せていただきました。その時の写真(一部)です。掲載を西田さんもお許しくださると思います。


納札の俵
ずっしりと重い俵に納め札が詰まっています。お世話になった遍路たちが残していったものです。
どのような札が詰まっているのか、開けてみたい思いもありますが、この状態で保存することにも意味があるのでしょう。


納札
開いた別の俵から出てきた納め札です。「尾張国傳講」の納め札。驚きです。506名の名が記されているそうです。


納め札
右は北海道から来た人で、種間寺です。左は神奈川の方で、清瀧寺です。


納札
天保年間の納め札です。右端は講の納め札です。


山を越え、姫の井でふたたびサニーロードに復します。


柏島への道
なつかしい柏島への標識が見えました。前回北さんと訪れた所です。


柏島の兼山
野中兼山は柏島と陸を、石堤でつなぎました。最大の狙いは、漁場の創成でした。今、柏島で進む「里海づくり」を見るとき、兼山の偉大さを感じないではいられません。
・・・土佐路に入り、たくさんの野中兼山遺構を見てきましたが、まもなく宿毛で、兼山さんともお別れになります。


天満宮
天満宮がありました。天神さま、菅原道真を祀る神社です。「小筑紫」のエリアに入ったと思われます。
菅原道真は筑紫にむかう途中、嵐に遭遇して当地に漂着。 道真が「ここが筑紫か」と問うたことから、「小筑紫」という地名となった、と伝わります。なにせ「つくし」は「陸地の尽きる所」。道真の失意と怒りは「怨み」に転じ、都人の心胆を寒からしめました。


天満宮
またもや天満宮がありました。この天満宮は、元は島でしたが、今は地続きになっています。「七日島」の名は、滞在が七日間だったことに因むそうです。


小筑紫湊
小筑紫の港は、延喜の時代より「凪の浦」と呼ばれ、良好な避難港として宿毛湾最大だった、といいます。


松田川
・・・さて、すこし端折ります。
長くサニーロード(321号線)を歩いてきましたが、松田川大橋を渡ると国道56号線と合流。宿毛の中心街に出ます。
松田川は愛媛県津島町小岩道に源を発するとされ、愛媛県では槙川などと呼ばれています。東流し、高知県に入って松田川と呼ばれ、南流して宿毛湾に注ぎます。小岩道は宇和島と宿毛を結ぶ昔の官道、宿毛街道の中道にある峠です。察するに松田川の舟運は、宿毛街道の物流を補完したと思われます。
「中道」は最近、地元の努力で、急速に復旧が進んでいます。


岩本寺
帰途、特急列車から撮った岩本寺です。カメラを待ち構えて撮りました。それにしても速いこと!数日分を数時間で走ってしまいます。

できれば宿毛・延光寺までを本号に収めたかったのですが、すこし重すぎるようです。動作が鈍くなりました。仕方ありません。次回に回します。
次回は宿毛の兼山に別れを告げ、篠川橋→茶堂→安養寺→札掛→一本松、の予定です。やや変則的なコースですが、ご期待ください。更新予定は4月28日(木)です。

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🎵桃色サンゴが手を振って僕の歩きを眺めていたよ~ (天恢)
2016-04-01 22:31:20
 今年もまた桜の咲く季節を迎えました。 満開の桜の下で、「あと何回、散る桜を見ることができるのだろうか?」 さまざまな思いが胸に去来します。 今回も「中浜~宿毛へ」を楽しく読ませていただきました。
 さて、今回の足摺から宿毛への道中ですが、天恢もいずれ遍路ができなくなる齢がやってきます。 その最後の遍路では、「楽しく遍路」さんが歩かれた中浜⇒土佐清水⇒竜串⇒月山神社⇒赤泊⇒宿毛のコースをためらわずに選びたいです。 この遍路道は決して楽ではありません。 天恢も修業の地にふさわしい? 豪雨の足摺岬を歩いたり、冷たい強風が吹きすさぶ月灘の海岸線を歩きました。 たぶん苦しくともまた歩こうという気持ちにさせるのは、大昔、辺境の地である足摺には修行者が群れていたそうで、この海の彼方にこそ、極楽浄土があり、小舟に乗ってその浄土をめざした先人たちの「補陀落(ふだらく)」への憧れを青い海が宿しているからでしょう。

 さてさて、タイトルの「🎵桃色サンゴが手を振って僕の歩きを眺めていたよ~」は、ご存知「およげ!たいやきくん」の歌詞をもじったものですが、ここ大月では、美しい桃色サンゴに秘められた厳しい、悲しい物語があったようで、6年前に月灘を歩いた時に撮った写真の中に大月小中学校のスクールバスと「珊瑚を胸に抱いた少女の像」がありました。 この日の海は強風のため大荒れで、大きな白波が打ち寄せて、赤泊の浜では強風とゴロゴロ石に悩まされて難渋した記憶が今も残っています。
 まっ、そんなことより、「大月へんろみち」での「励ましへんろ札」のことです。 励ましメッセージは見覚えがあったのですが・・・。 撮った写真の中に小さな「励ましへんろ札」が写っていて、それを拡大してみると菅笠をかぶり金剛杖を持ったお遍路さんの絵と「がんばれ‼ ファイト~ 進め~」のメッセージ、大月小三年の生徒さんによるものでした。 こうなったら是が非とも、もう一度「大月へんろみち」を歩いて、「楽しく遍路」さんが『大月小学校の子供たちにお礼の手紙を、ありがとうの一言だけでも、書き送ってみてはいかがでしょう』 の提案を実現せねばとの気持ちになりました。 あの時「励ましへんろ札」を書いた生徒さんは、この4月からもう高校生です! 広域の過疎地での教育環境には厳しいものがありますが、豊かな自然と歴史の中で心を育んで、地域の担い手として成長されることを願ってやみません。
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月がとっても青いから (楽しく遍路)
2016-04-03 20:54:15


天恢さん こんにちは。楽しく読ませていただきました。
天恢さんの最後の遍路は足摺岬西岸、補陀落への東門とのこと。桃色サンゴのみならず観音様もきっと、天恢さんの歩きを眺めていらっしゃるでしょう。
ただし「入定」はまだ早いと思いますので、「渡海」はお控えくださって、まだまだ何回も桜をご覧いただきたいと思います。

私も許されるなら、再びこの道を歩きたいと思っています。やり残したことがあります。
・・月が海を照らす夜、段丘の高みから、きらめく世界を見る
月と海の世界に身を置く、とでも言いますか、・・・青い月の光を、ナマコが海の底から感じとるように、月読神の世界を堪能してみたい、そんな気がしています。

ただし前回、私は5年後に月山神社を訪れていますから、このペースで再訪できるとすると、今年札をかけた子たちは中学二年生くらいでしょうか。老いの坂道は、これより一層加速されることを計算に入れれば、やはり高校生!ということになりましょうか。
ともあれ、お許しが出る出ないはさておいて、何回も桜を見るつもりでは、います。いましょう。

納め札の俵はずしりと重く固かった。ぎっしりと詰まっているのです。あの道を歩いた人の数を、驚きをもって実感しました。こんなにも多くの、修行者ではない、ごく普通の人たちが、「こんなところ」を歩いた!
しかし、その動機に、私は今も理会できていません。わからない、が正直のところです。補陀落渡海僧についても、同様です。
ただ、ヒントが得られることを願って読み直しているものはあります。「特攻隊員」が残した手記です。
これについては、機会があれば、書きたいと思います。ありがとうございました。

なお若い方のために、・・「月がとっても青いから」は昭和三十年代の菅原都々子さんの歌です。洋一さんの姉さんです。えっどちらも知らない?
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