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2/20から、すこし歩いてきます。そのため、次回更新は25日予定でしたが、数日遅れます。
続 11月15日 雨のち晴 ・・・二の鳥居から山頂・篠山神社へ
二の鳥居
一の鳥居が札掛に、二の鳥居が御在所に、そして三の鳥居が、山頂拝殿の少し手前にあります。この道を往復するのが「篠往還」の道です。もちろん広域農道も、篠南トンネルも、昔はありませんでした。
折り返さず、篠山越えをして祓川温泉の方へ抜け、岩淵・満願寺に至る道もありました。これは「篠山道」ということになります。
予土国境の松尾峠から宇和島方向へ進む道は、他にも、柏坂を経由する「灘道」や、灘道と篠山道の間を抜ける「中道」、がありました。
今回の歩きで私は、篠往還を歩いた後、灘道を通って、岩松→満願寺→野井坂→宇和島、と歩く予定です。
さて、これからが本格的な登りになります。
鳥居の左の道を行きます。尾根筋に出る道なので、やや急です。
墓地
急ではありますが、長くは続きません。ほどなく林道に出ます。
出た所に墓地がありました。私は鳥居の左側を来ましたが、右を巻いて進むと、林道を通って、やはり、ここに出てきます。軽トラも走れる道で、むろん、遠回りになります。
遍路札
墓場のすこし先に二股分岐があります。ここは左にとります。遍路札などの案内標識は、私には見つかりませんでした。
やや不安を感じていたら、先に小さな遍路札が見つかりました。小さいけれど、大きな安堵感を戴きました。
札を付けて下さった方に、私は思い当たりがありました。お会いしたことはありませんが、年来の「知己」に出会った気がしました。宿の食堂に山頂までの所要時間など、コース案内が貼ってありますが、この方が書かれたものです。正確でした。
お地蔵さん
この道に唯一のお地蔵さんだそうです。
伐採跡
間伐ではなく、皆伐です。灌木がわずかに生えているのみで、造林された様子は見られません。
防火帯として伐採しているのでしょうか。他にも、このような伐採跡がいくつか見られます。
道
雨は止みかかっています。しかしポンチョを脱ぐことは出来ません。ときどき風が吹き抜けて、「・・・吾立ち濡れぬ 山のしずくに」ではありませんが、濡れてしまうからです。
道
開けた所に出ましたが、視界は良くありません。この辺からは、左手に宇和海が見えるはずなのですが・・・。
沖の島とビロー島
沖の島が見えました。小さな島はビロー(蒲葵)島です。実は帰途に撮った写真です。
江戸時代、篠山の領地争いに連動して、沖の島の帰属も問題化しました。結局、幕府の裁定で、沖の島の北半分は宇和島藩、南半分が土佐藩の領地とされていたそうです。今日のどこかの姿を見る思いですが、藩と藩の争いとなると、篠南の人たちが小中学校を建てたような具合には、行かなくなるのですね。ましてや国と国では・・・。
松尾峠の純友城から見た沖の島とビロー島
明治6(1873)、沖の島は高知県に帰属することが決まりました。
柏坂から撮った沖の島とビロー島
篠山神社参拝の翌日、柏坂からも沖の島が見えました。その写真です。
松尾峠から、篠山から、柏坂から、息を弾ませつつ沖の島を見るとき、陸路に対する海路の便利さを思います。この辺の海岸は、リアス式海岸で、天然の良港に恵まれています。車の道以前、海の道が主流だったことがよくわかります。
駐車場登山口
今は営業していませんが、篠山荘があります。ここまでは車で来られるわけです。これより山頂まで、約40分の登りです。
車道を右方向(東)に進むと、ヘアピンを繰り返して松田川まで下り、川沿いに宿毛に出ます。
左方向(西)は、やがて分岐し、左は御在所に戻る道、右は、小岩道(しょうがんどう)を経て、愛南町僧都に至ります。僧都-小岩道は、前述の「中道」の一部です。
水場
「水はいっぱい持たなくてもいいよ」、宿の女将さん情報です。
飲んでみました。冷たいとは感じません。夏は冷たいのでしょう。
駐車場の案内板によると、歩きで行くのは少し無理ですが、この辺には滝があります。白滝、虹ケ滝、松ケ滝などです。そして、このように水場もあります。激しく造山活動がおこなわれた結果、複雑な地形が生まれたようです。
水場があるこの辺の標高は、900㍍ほどだと思います。山頂より100㍍余低いところに水が湧いています。この水脈は、山頂の矢筈池と無関係ではないでしょう。
観世音廃寺跡
観世音寺は、40番観自在寺の奥の院で、篠山権現の神宮寺でした。神仏分離→廃仏毀釈で、廃寺となりました。御本尊などなどは、村人の手で、下の権現堂に移されたとのことです。
鹿除け柵
観世音寺跡から上の山頂部は、みやこ笹を鹿の食害から守るため、防護ネットで囲まれています。出入りする人は、かならず閉めておかねばなりません。
石の道
石、岩が多く露出しています。この辺は砂岩、頁岩帯です。雨で濡れているので、慎重に歩かねばなりません。下りは、登りよりもなお時間を掛けるつもりです。
道の脇には、いつ降ったのでしょうか、アラレが降り溜まっています。
天狗堂跡
天狗堂がこの辺にあったそうです。
蕨岡家の楠に飛来してはイタズラをした天狗がいました。庄屋さんに羽を取られてしまい、返してもらう代わりに、庄屋さん宅を護ったのでした。あの天狗のお堂でしょうか。
「入らずの森」入り口
「入らずの森」に入り口があるとは!
なぜ「入らず」なのでしょう、わかりません。今は、アケボノツツジの大群落があり、季節には、多くの人が、「入る」そうです。
石段
石段の沈み込みが年月を感じさせます。上り下りに気をつけねばなりません。
もう頂上です。風が強くなり、ポンチョを巻き上げました。危険なので脱ぎました。寒気がビンビン身に凍みてきます。ポンチョは冷気でゴワゴワになっています。
三の鳥居
石段の上が拝殿で、その裏が山頂です。四国西南山地の最高峰 、1,065 ㍍です。
みやこ笹
篠山は、「笹山」とも表記されるそうで、昔はもっと群生していたそうです。みやこ笹は柔らかく、(ここでは鹿ですが)、牛馬も好んで食べるといいます。
昔、この笹を食べに来る、特別の「馬」がいた、ということです。羽を持った竜馬(りょうめ)でした。そのことから、笹には、病を癒やす不思議の力があるに違いない、そんな話が広まって、旅人や遍路が笹を持ち帰るようになったそうです。特に馬の病には良く効いたと言います。
・・・夜ことに竜馬きたりてはむよし。諸病によしとて諸人持ち去る、馬のやむに猶よしといひつたふ。・・・真念さん「四国遍路道指南」
薄氷の矢筈池
伊予-土佐の国境を示す唄が残っていて、中に「矢筈」が出てきます。
篠 矢筈 正木川分 松尾坂・・・
お篠では 矢筈が境 伊予と土佐とは川境・・・
江戸期の領土争いで宇和島藩は、この唄の「矢筈」は「矢筈池」を指していると言い、土佐藩は、いや、そうじゃない、「矢筈」は矢筈型をした鞍部を指しておるのだ、「二間四方ばかりの(いつ枯れてしまうかもしれぬ)水たまり」なんぞが、なんで国境であるものか、など、喧々諤々であったとか・・・。
山頂から見える海
面白いことには、結局は、「水たまり」ほどでありながら、幕府裁定でも、明治6(1873)の両県の取り決めでも、矢筈池は、国境を示す目印的存在とされているのです。
矢筈池には、五来重さんが指摘する「干満水」信仰が伝わっています。山頂池が海とつながっており、海の干満とともに池の水位が上下している、と信じられていました。海だから涸れることはなく、また海だから、むしろ国境の印としてふさわしい、ことにもなります。
足摺岬の「汐の満干手水鉢」
・・・潮が満ちているときは水がたまり、潮が引いているときは水がなくなる、と案内板にあります。「干満水」は、他に、32番禅師峰寺や51番石手寺などでも見かけました。また、この後、40番観自在寺でも見ることが出来ました。
五来さんは「干満水」信仰の背景を「四国辺路の寺」で、・・・日本民族の古い宗教として、山岳宗教の以前に海洋宗教がありました。・・・人間が内陸に住んで土地を耕すようになりますと、山が宗教的な聖地として機能してきました。・・・熊野辺路も四国辺路も、もともとは海岸を歩きました・・・と、遍路道や札所の、海との深い関わりに注目して説明されています。
篠山はかつて、海洋宗教の聖地だったと思われます。
矢筈池の側の国境領界石
矢筈池は、元は大きな池(海)だった。世の中に異変があるときは、池は水の色を変え、警鐘を鳴らしてくれた。
今は、涸れこそしないものの、小さくなって、潮の干満にも反応しなくなった・・・。
その訳は、次のようです・・・
・・・ある時、登ってきた船頭が、この池でオムツを洗ったんだそうです。以来、満干を示さなくなってしまった、そうです。なぜオムツを洗ったか、それは伝わっておりません。
・・・また、ある時、ある尼さんが、人目を盗み、汗に濡れた肌着を洗濯したのだそうです。以来、池は干満を示さなくなり、水も減ってしまった、のだそうです。
・・・水が減ってしまって困ったのは、この辺に棲む竜でした。飲み水が無くなってしまったのです。竜はどこかへ行ってしまい、この辺は雨が少ない土地になりました。
領界石反対の面
お偉方も立ち会って、領界石が建ちました。明治6(1873)のことです。廃藩置県も版籍奉還も終わっていますので、もう宇和島藩-土佐藩、ではありません。
まだ伊豫国-土佐国、と書いていますが、立会人の肩書きには、愛媛縣、高知縣の文字が見えます。
満願寺への道
頂上から北に向かう道が延びています。冒頭で述べた、篠山道です。右側が高知県宿毛市、左が愛媛県宇和島市津島町です。
この道、いつか歩きたいものです。今回、岩松-祓川温泉のコミュニティーバスを利用し、歩こうとしたのですが、土日に当たってしまい、運休なのでした。
さて、これより下りです。足を滑らせないよう、慎重に下りました。危険な所では、人目も憚らず(誰もいないのですが)、座り込んで尻をずらしました。
駐車場まで下りたところで宿に電話しました。これより先は、ある程度計算できるからです。明るいうちに宿に帰れそうです。
札掛へんろ道
ところが・・・!往路でお世話になったお宅の前を通りかかると、「玄関、開いてま-す」と、内側からお声がかかってきました。そろそろ通りかかると、見ていてくださったようです。
ふたたび、厚かましくも上がらせていただくことになりました。お茶など、ご馳走になりながら、ご夫婦と話し込んでしまいました。
お宅を辞し、歩き始めましたが、宿に心配をかけてもならず、広域農道に入るところでタクシーを呼びました。
11月16日 晴 札掛-赤坂街道-上大道 観自在寺-柏坂-津島岩松
一の鳥居
今日はいい天気です。明日は、強い雨風という予報ですが・・・。
晴でも雨でも、遍路は楽しい(楽しみたい)ものですが、由良半島だけは、晴れていてほしい。快晴の下の宇和海が見たい!
赤坂街道
札掛から上大道(うわおおどう)までを「赤坂街道」と言うようです。惣川が造った谷を下って上る、旧遍路道です。古くは、この坂を「赤坂」と呼んだようです。川に「赤坂橋」が架かっています。
「トレッキング・ザ・空海」を主催なさっている、トレッキング・ザ・空海あいなん実行委員会が中心となり、整備くださっているようです。ありがとうございます。
「トレッキング・ザ・空海」は今年(H22)で13回目になります。第1回はH10(1998)でした。H6(1994)に開かれた、地元民対象の「へんろ道ウォーク大会」が発端になったようです。(HPあり)
上大道の徳右衛門道標
灘道と中道が分岐する辺りだと思われます。文字はよく読めません。
Daddy Long Legs?
前回報告の「流転の海」第二部・「地の星」に、「上大道のててなし子・伊佐男」という人物が登場しますが、「上大道」の読みについて作者は、・・・正しくは「うわおおどう」と読むのですが、昔から人々は「わうどう」と呼んでいた・・・と書いています。
全国津々浦々、いわゆる「標準語」が浸透している時代ですから、はたして今も「わうどう」と呼ばれているかどうか、わかりませんが、私は「わうどう」と呼ぶことに決めました。
道標
城辺豊田町 中尾クニさんの建立です。「豊田」は’とよた’と読むようです。
駄馬
広場がありました。「駄場」です。花とり踊りの「踊り駄場」、闘牛の「突き合い駄場」というように、人たちが集まって何か催しをする広場を「駄場」と呼んだようです。また、そのような「駄場」がある小字をも、「駄場」と呼んでいます。
ここで「虫送り」が行われたといいます。「サネモリ送り」などともよばれる行事です。ここで、篠山大権現の御神火が近在の 村々へ火送りされ、その火を移した松明を、村人が持ち歩きます。稲の害虫を送り出す神事ですが、どのように「サネモリさま」と関わるのかは、諸説が有り、いずれが正しいか、わかりません。「サネモリさま」は、木曾義仲に討たれた斉藤実盛です。
石柱群
駄場に、いくつかの石塔が並んでいます。ほぼ等間隔で、きれいな横並びです。他所から移されてきたものが多いようです。
一番大きな石柱は「四如来碑」と呼ばれ、正面に「本師釈迦牟尼如来」、右側に「南無薬師如来」、左側に「南無阿弥陀仏」、裏面に「南無大日如来」と刻まれています。珍しい組み合わせです。
この駄場は「釈迦駄場」と呼ばれたそうです。
城辺豊田の街並み
かつては勢いのある街だったと思われます。
案内によると、「御荘焼」の代表的な窯として、「豊田窯」があったのだそうです。「御荘焼」は、「砥部焼」と並んで知られていたと言います。
僧都川
僧都川の水源は小岩道です。
とよた茶堂休憩所
「茶堂」は、遍路道に限らず、街道沿いに建っていました。
典型的な形は、入母屋や方形造の、正方形の屋根を四本の柱が支え、三面が吹き抜け、一面に簡素な棚などを設え、弘法大師像やお地蔵さまなどが祀られています。
もちろん、単に建物であるに留まりません。「茶堂文化」と呼ぶべきものだと思います。
茶堂は、土地の行事や集まりに使ったりもしますが、ある時期(盆近くなど)には、里人が詰めて、通りかかる遍路や旅人に、「お茶」をお接待をしたのだそうです。「客人(まれびと)信仰」に深く関わっているように思います。
茶堂はやがて、前にご紹介しました「泊屋」同様、公会堂や公民館に取って代わられ、お接待の文化も衰勢に向かいます。
平城へ
「平城へ二十二丁」と刻まれています。地名の「平城」は、’ひらじょう’と読みます。平城(へいせい)天皇に因んだ地名ではありますが、御名の通りの読みは、憚かられたのでしょう。
側面には「大正十年一月架換」とあります。橋の親柱に道標の役も負わせたようです。
ただし、ここから平城まではほんの10丁ほどで、二十二丁もは、ありません。おそらく、ここより10丁余も上流に架かっていた橋の親柱だったのでしょう。
裏面
反対側の面には、取付用の臍が彫ってありました。
40番観自在寺
平城山 薬師院 観自在寺。山号は平城天皇の勅願所であることからでしょう。院号は御本尊が薬師如来像であることからでしょう。では、寺名は?
境内に、平成10年開眼の観自在菩薩像があります。HPには、「寺名にちなんだ菩薩像で・・・」とあります。寺名は、何に因んでいるのでしょう?
本尊像と脇仏の十一面観音菩薩像、阿弥陀如来像は、弘法大師御自作だそうです。
お忘れぽっくり地蔵
「お忘れぽっくり」とは?言葉的には分かりにくいのですが、「お忘れ地蔵」と「ぽっくり地蔵」が合わさったもの、つまり・・・、
(お忘れ地蔵+ぽっくり地蔵)=(お忘れ+ぽっくり)地蔵 なのでしょうか?
忘れたくても忘れられない悲しみ、不安、あるいは恐怖など、また捨てたくて捨てられない憎悪などをも、おすがりして癒やされたい、そんな気がします。
誰しも「逝く」ことを避けられませんが、「ぽっくり」は、願う「逝き方」の一つでしょう。死への恐怖、苦しみを短くし、安らかに、(周りに迷惑もかけず)、おすがりして逝かせてほしい、そんな気もします。
側の説明板に次のような文がありました。・・・お地蔵さまは私たちの苦しみや悩みを除き、大慈悲心を以て・・・安楽な世界へお導き下さる菩薩さまです。
勅使井戸
僧都川沿いに観自在寺を紹介する看板があり、・・・(観自在寺には)、伝説やトッポ話に登場する勅使井戸や俳句碑があり・・・と書いてありました。
「伝説」とは、井戸を覗き込んで自分の姿がうつれば良いけれど、うつらなかったら・・・という、井戸寺に伝わるような話です。
「トッポ話」とは、この井戸は海につながっていて、潮の干満とともに水位が上がり下がりした、という話です。前述の「干満水信仰」の話でした。「干満水信仰」が、トッポ話(ほら吹き話)に変じています。
海洋宗教の名残をとどめた井戸で、篠山の矢筈池にも通底している、そう信じられていたことでしょう。
篠山大権現
境内に篠山大権現が祀られていました。「当山鎮守」とあります。
ここから篠山は、目には見えません。しかし、つながっています。
なお現在、観自在寺の奥の院は、宇和島の龍光院となっています。明後日、私は参る予定です。
地蔵菩薩
右手に数珠状のものが掛かっています。サンゴ石をつないでいるようです。
あるサイトによると、隠れキリシタンとの関連が考えられるのだそうです。私には確認できませんが、キリシタンが、「隠れ」となる以前にも、この辺にいたであろうことは推測できます。
魚遊牧場
これより柏坂まで、左に海を見ながらの、緩やかな登りです。多くは国道56号線を歩きますが、所々、旧道が保存されています。
さて、この先、柏坂までの灘道については、文字数オーバーとなったため、スキップさせてください。改めて、いつか別の機会に・・・、と思います。
柏坂案内
柏川を越えて、すこし先の愛南町役場内海支所を訪れました。柏坂の資料はないだろうか、と尋ねると、写真の資料を戴くことが出来ました。内海中学校の生徒さん達の作品です。「トレッキング・ザ・空海」などでも配られているようです。とても役に立ちました。とはいえ、せっかく戴きながらも見落とした箇所もあり、申し訳ないのですが・・・。
学校のHPからダウンロードできるようになっていますので、ぜひ、参考になさってください。(かわいらしいミスは、若干、ありますが、愛嬌です)。
道標
すでに柏坂を歩かれた方には印象に残っているに違いない、角の道標です。前を柏川が流れています。
中務茂兵衛道標に「左 舟のりば」の文字が見えます。海の道です。次は龍光寺ですから、宇和島まで舟で往ったのでしょうか。
私は見落としたのですが、内海中資料によると、茂兵衛の添句があるそうです。
・・・以登(いと)嬉し まよひもとけ天(て) 法能(法の)みち・・・
灯籠
建立の時期を確認し忘れました。
左に「若者中」とあります。この辺にも若者組があって、集落の中核を担っていたのでしょう。右の灯籠は、面白い書体の文字が刻まれています。「奉」は、まさに両手で、うやうやしく奉っている様に見えます。「燈」も、火を両手で高く掲げて立つ様でしょう。
道標
坂上り 21丁、 よこ 8丁、 下り 36丁
内海中資料に曰く:・・・柏坂の長さなどを書くということは、どれだけキツイかわかります。
登り口
ここから坂道です。内海中資料によると、登り始めてすぐ、左側に溜め池があるそうです。まったく気づきませんでした。
野口雨情の歌碑が立っていますが、雨情は、昭和12、来村し、一週間ほど柏に滞在した、とのことです。
炭焼き釜跡
南北宇和郡は、愛媛県でも有数の木炭産地だったそうです。
しかし木炭需要は1960年代、石油、都市ガス、プロパン、電気などが普及するなか、急減しました。
焼き子が山を去り、それは里山が放置されることにもつながりました。
柳水大師
弘法大師が往還の旅人の渇きをいやすため、柳の杖を突き立てたところ、甘露の水が湧き出た、とのことです。柳のお杖は根付いて、一本の柳が代々、育っていると言います。
沖の島
沖の島、ビロー島が見えます。手前に小さく写っているのは御荘湾の見当でしょうか。
猪垣
猪垣(ししがき)です。岩松村 土居儀平 築営、と刻まれています。遍路道沿いに、この先も20㍍ほど続いています。
「岩松」は、柏坂を下りて、更に先、岩松川河口辺りで、今日の私の目的地です。土居さんは、だいぶ離れた土地の人です。
猪から、どこを、どのような仕掛けで守ったのか、わからなかったのですが、やがて「清水大師」や「ごめん木戸」の説明から、この辺の土地利用の仕方が、昔と今とでは、まったく様相を異にしていたことが分かり、なんとなく納得しました。
清水大師
・・・ある年の夏、一人の娘巡礼がこの地にさしかかった時、余りののどの渇きに意識を失い、倒れてしまいました。すると、そこへ弘法大師が現れ、・・・真清水が湧き出し、娘がその水を飲むと、持病の労咳がすっかり治った・・・とのことです。
昭和15年頃まで、毎年旧暦7月3日、近郷近在の力士による奉納相撲が行われ、多くの人々が集まり、市が立っていた、と記されています。
奉納相撲?市?どこで?現在の地形から推定することは出来ませんでした。帰宅後、地図を見たところ、等高線が広がっている場所(緩斜面)があることを知りました。前掲の内海中資料「柏坂立体地図」でも、御荘側に比し、津島側が緩やかであることが分かります。
ごめん木戸
説明に曰く、・・・この辺は昭和20年頃まで大草原で、近在農家の草刈り場であった。明治の頃には放牧が行われ、津島の牛が南宇和郡内にまぎれ込むのを防ぐため、頂上(通称ヒヤガ森502㍍)迄、延々と石畳が築かれていた・・・。
等高線の広がりは、ヒヤガ森の北東斜面、南西尾根に見られます。これが大草原であり、奉納相撲の場所でもあったのでしょうか。
なお、「津島」は北宇和郡で、「土居さん」の岩松も、津島に属します。ごめん木戸の側に水準点があり、460.1㍍と標示されていますから、約42㍍の高さを石畳で結んだことになります。
ごめん木戸は、人間用に造られた通用口でした。「ゴメンナシ」と言って通り抜けたのだそうです。
ねぜり松
「ねぜり」は、’根本がねじれた’というような意味のようです。
・・・昔、足が不自由な人が箱車で遍路をしていました。何人もの人達が坂を引っ張り上げて、この大松に差しかかると、一陣の風が吹き、曲がった大松が箱車を押しつぶそうとしたのだそうです。乗っていた人は、思わず箱車から逃げ出しました。歩けるようになったのです。
奇跡話が伝わる松は、お接待の場所ともなり、「接待松」とも呼ばれるようになったそうです。残念ですが、昭和30年頃、伐採されたと言います。
この株は「なんとっ、中学生が二人手をひろげて囲んだぐらい」だそうです。
由良半島
水平線上に薄く見えるのは、きっと、九州です。いい日に来ました。
ともかく由良半島は今回の遍路で、もっとも楽しみにしていた場所です。風もなく、暖かな日差の中、札掛でいただいたオニギリを、パックンパックン、食べました。携帯で撮った写真を、北さんに送ってしまいました。ちょっとイジワルでした。北さんは宇和海が大好きなのです。
かんじざい寺-いなり寺
大きく「へんろみち」とあり、左に「四十番かんじざい寺」(これは正しい)、右に「四十番いなり寺」(正しくは四十一番)とあります。石工が間違えたようです。
「いなり寺」とは、もちろん、稲荷山 護国院 龍光寺。赤い鳥居が立っているお寺です。
茶堂休憩所
内海中資料に、「ここは注意!! 看板がないので気をつけてください」、とあるにもかかわらず、茶堂大師を素通りしてしまいました。
休憩所を過ぎた辺りで、東京から来た女性と出会いました。five-fingers の靴を履いて、達者な歩きをしています。私もなんとか付いて、津島まで一緒に歩きました。初めての出会いでも、遍路同士、話題に困ることはありません。
坂を下って
驚くことが起こりました。
ワー! 突然、彼女が道路工事をしていた男性に抱きついた(と思えた)のです。ハグです。男性も手を回してハグしています。
後で事情を聞くと、6ヶ月前の区切り歩きで出会い、とてもお世話になった方なのだそうです。まさか、こんな所で会えるとは!前に会ったのは徳島だった、というのです。ハグにも、話にも、ホント、ビックリでした。
彼女は、しばらく久闊を叙した後、ふたたび歩き始めました。とくに再会を約した風もありません。一期一会。会えるなら、また会える、そんな感じでした。さわやかでした。
津島
今夜泊まる津島の宿は、かつて獅子文六さんが「てんやわんや」を執筆した宿、として知られています。
「てんやわんや」は昭和23年、毎日新聞が連載を開始して大人気となり、映画化もされました。物語は昭和20年12月から始まります。
主人公の犬丸順吉が言います:・・・こいつは面白い世の中になったぞ。鎖が解け、(配給品のための)行列が不要になり、われ勝ちの世の中がきたらしい・・・。
宮本輝さんの「流転の海」で主人公松坂熊吾が・・・敗戦から2年たった大坂の街の、延々とつづく闇市を見つめた・・・のとは大違いです。8.15を「敗戦」と捉えて流転する熊吾と、「終戦」と捉えて流れに身を任せる犬丸順吉。その違いでしょう。
しかし順吉は、「われ勝ちの世の中」を生きるには、あまりに小心でした。獅子さんは昭和31、「大番」を書いて、「牛ちゃん」という、時代を泳ぐ人物を描き出します。
熊と犬と牛。今回の遍路は、実に楽しい読書の機会を与えてくれました。
岩松川沿いの家並み
「てんやわんや」に、岩松川で大ウナギを捕まえるシーンが描かれますが、実際、かつてはウナギがたくさん獲れたそうです。 (→石ぐろ漁) が行われていました。(この記事を書く数日前、日本ウナギが絶滅危惧種に指定されました)。
さて次回は、岩松から、満願寺→野井坂→龍光院→三間の報告です。大雨強風注意報の中、歩きます。東京の彼女は、松尾坂を越えたようです。
アップロードは2月25日の予定です。
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へんろみち保存協力会編・【地図編】に 「遍路修行の道」として「古来、金剛福寺を打ち終えた遍路は、次のいずれかの道程を選ぶことを不文律としてきたと伝えられている。
1. 打ち戻って延光寺から篠山詣りする。
2. 月山詣りを終えて延光寺を打つ。」 と書かれています。
最近は、38番金剛福寺を打った遍路は打ち戻って、下ノ加江から三原村を経由して39番延光寺への道をたどるのが一般的なコースとなっています。 これは月山詣りのコースより一日早く39番に着けるからです。それで、一日早く着いた遍路が篠山詣りをするか? となると、これは皆無に近いようで、松尾峠を越えて40番観自在寺へ向かいます。
ここで天恢が提起したいのは、「楽しく遍路」さんはH22年に月山詣りをされて、今回は篠山詣りをされていますが、最近は多くの遍路さんは ①月山詣りも ②篠山詣りもされてないことです。 現代の遍路の風潮は、八十八ヵ所の札所をできるだけ早く回って、とにかく納経を済ませてしまうということのようです。 ま、これじゃあ歩き遍路といっても、車遍路やツアーバス遍路と同じで、いつも時間との戦いで、遍路を「楽しむ」などの「余裕」はなくなってしまいます。 昔の遍路さんの苦労に比べれば、恵まれているはずの現代人に心のゆとりが何故ないのか? 異論は承知しておりますが・・・。
今回も、人さまの土俵の上で好き勝手に書かせていただき感謝しております。この続きは、また次回にまとめさせていただきます。
私は時々、己がハンドルネームのノーテンキ振りを恥じています。重い物を背負い廻っていらっしゃる方々の中で、なんというお気楽な名乗りをしてしまったことだろう、お腹立ちの方もいらっしゃるだろう、そんな悔いのようなものを、ときどき感じていたりするのです。
しかし、また一方で、多くの方たちとの出会いを楽しみたい、見るもの聞くことを楽しみながら歩きたい、そんな気持ちを(そして体力を)、いつまでも持ち続けたい、との思いもあって、我が遍路スタイルを表す名として「楽しく遍路」も悪くないか?などと思ってみたりもしています。
つまりは、いいかげんなのですが・・・。
こんな歩き方をするきっかけとなった体験があります。車でしか行ったことがない所へ自転車で行ったとき、思いもよらず多くのことを見聞きし、「ゆっくり」の良さに気づいたのでした。知り合いに会って、ひょいと自転車を止めて話したり、車では気づかなかった坂に気づいたりしました。もっとゆっくり、歩いてみたら、もっと面白いかもしれない、そんなことを考えたのでした。今から考えると、「歩き遍路」につながる体験だったのでした。
大仰ですが、四国遍路を歩き始めて、「地続きの所」なら、どこへだって行ける、そんな感覚が生じています。私の夢は、北九州から釜山に上陸し、文化伝来の道を歩いてさかのぼることです。
人それぞれに歩き方はあるものですが、「異論は承知」の天恢さんの提起、しっかり受けとめていたいと思います。