うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典など。タイトルは落語「うなぎ屋」より(文中敬称略)

われわれは勝利した〜新入社員研修の断章 その2

2018-05-17 22:00:00 | 随想 ダイアリー
【われわれは勝利した〜新入社員研修の断章 その2】

《企業の新人研修に関わった話のテイク2》

 ご縁があって、ある企業グループの新人研修の一角に食い込んだことについては既に書いた〔注1〕。受講生(新入社員)が日々作成する報告書をチェックする仕事である。研修会場に足を運ぶ仕事が2週間、その後も半月ほど、通常の予備校の仕事の傍ら、在宅で引き受けていた。

 研修では日々の報告だけでなく、タームごとの報告書もつくらせており、またそれ以外に自己評価・相互評価シートなどもあった。文章作成能力に難点のある人間にはさぞかしつらい研修だったことだろう。

 実際、激戦の就職戦線で勝利を収めたはずの"勝ち組戦士"たちの報告書の中には、コントの台本かと思うほど秀逸な「作品」があった。

 手書きの文字が判読できないという、内容チェック以前のレベルの報告はひとつやふたつの話ではない。また、報告書はエッセイではない。自分の幼少期のことや学生時代の思い出話、同じワーキンググループのメンバーの批判等々を語られても困る。与えられた課題を達成できなかった理由をくどくどと書き連ねられるとなお困る。

 歩合制のチェッカー(添削人)としては、一枚あたりにかける時間を極限まで縮小したいところだが、立ち止まっては朱筆を入れることの繰り返し。キーボード入力では見えない「人間性」を見たような気になったが、錯覚だろうか。

 中でも、研修担当講師(複数)や研修企画者(部署)への批判という大胆な「報告」もあった。何をコメントすべきか、かなり神経を使った。

 チェック(添削)しながら脳裡に浮かんだのは、昨年夏の新聞記事のことである。ある企業で新人研修中に新入社員が自殺した。その研修報告書に記された講師の"お言葉"——

男性が書いた研修報告書には、「何バカなことを考えているの」「いつまで天狗(てんぐ)やっている」「目を覚ませ」などの講師のコメントが書かれていたという。〔朝日新聞2017-08-09朝刊13版社会面〕〔注2〕


 体罰に走る教師の自己弁護のいっさいがたわごとに聞こえるように、記事中の「講師」様の浮ついた「金言」様も、講師としての力量の絶対的な未熟さにしか見えない。ここで何を言うべき、何を書くべきかに関する知恵・技法には、研修方針の違いを越えて絶対に譲れない一線がある。それを大胆に冒したこの「講師」は万死に値する。何の躊躇もなくそう思う。

 通勤から在宅に切り替わって引き受けた中に、気になるシートがあった。本来は私の担当外であるワークショップの「相互評価」シートが紛れ込んでいた。紛失しないように報告書とシートをクリップで留めながら、何とはなしにシートの中身を見て驚いた——「同じ班の○○さんは××していたので注意した」「○○さんに××であることを注意された」「○○さんの△△は××が守られていない(からダメだ)」といったネガティブワードの連続。

 日報であれ、タームごとの報告であれ、受講生がお互いに「切磋琢磨」したことや「研鑽」したことが書かれていたのには(もちろん)気づいていた。しかし、どうやら私は勘違いしていたようである。「切磋琢磨」の中身が違った。その凄絶さを思ってしばし絶句する。

 ここでいったん、教採の話に変わる。

 私が教採の二次試験(面接・討論・場面指導・模擬授業等)対策で受講生に相互評価をさせるとき、問題があれば講師の私が指摘し、良い点や可能性・進歩の状況については受講生が相互に評価するというかたちで振り分けている。そして受講生には、他人のあらを探す暇があったら良いところを徹底的に学び、盗むよう説明・助言している。それはそのまま、子どもたちの良いところを見抜く力を徹底的に磨け、というメッセージでもある。

 一方、人を批判することは難しい。吉野弘の詩ではないが、「正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい」〔注3〕。それが本当のことであればあるほど、言い方やタイミングに批判者の見識と力量が問われる。

 問題点、特に致命的な問題点の指摘を講師である私の役割にしているのは、その見識と力量に対する自覚、また問題が発生したときに責任を負う自覚があるからである。もちろん、私の見識と力量が妥当であるかが客観的に保障されていない問題は残るが、とにかく自覚はある。

 先の新人研修の話に戻る。

 相互評価を受けて反省したことについては、報告書の中で頻繁に出てきた。しかし、ストレートな物言いが続出するシートの現物を見てから読み返すと、違和感というか、新鮮さというか、複雑な思いを抱く。彼ら/彼女らは何てきわどいことをしている/していたことか。一歩間違えば拙い批判が人を精神的に追い込み、あるいは人に追い込まれる。これが社会人・企業人・○○〔企業名〕人のさだめなのか。

 しかし一方で、忌憚のない相互批判によって進歩・成長する経験が蓄積され、その効果に対するゆるぎない自信が生まれていたのも事実である。初期研修の最終日に、研修の機会を与えてもらったことに対する感謝の気持ちを示し、今後の目標を高らかにうたいあげる報告書はその代表例である。——研修担当者に対する忖度でなかったらの話。

 そもそも新人研修は、新入社員に一流になることを煽りつつ脱落者を廃人にする場なのか、それとも社会人・企業人としての知的・技能的なセーフティーネットを伝授し、致命的な"底抜け"を防ぐものなのか。

 私は、研修システムが環境条件に最適化する人間を生むことはあっても、独創性とは別物であると思っている。それはAIがどれほど多機能・高性能を誇っても創造性にタッチできない、タッチしたフリしかできないという限界と同じである。知のしくみが違う。

 また私には、一定ラインを越えるとシステムはせいぜい邪魔くらいしかできない、という頑なな信念がある。システムに対する絶対的な不信である。その辺りが、フリーランスの業務委託・委任暮らしの人間、つまり私の意義であり限界である。

 受講生の報告は、初期の研修を終えた後もグループ全体の研修、さらに配属先の専門的な研修と続いている。その先々で生まれるドラマや研修の実態が、ぎこちなく格式張った表現の向こうから伝わってくる。

 特にスパルタ色が濃厚な初期研修と、思いのほか緩く放任主義の専門研修との違いに戸惑う受講生の姿は見ていておもしろかった。あるいは、同じ初期研修でもグループ企業によってスタイルが異なっていたのだろう。グループの全体研修で新人同士が意識や方法を巡って食い違い、ぶつかり合い、戸惑い、苛立つ姿——例えば、グループ他社の新人から「なんだか軍隊みたいだね」と軽く笑われた衝撃を綴った報告には少し同情した(内容はデフォルメしてある。念のため)。

 私の担当分は、昨日発送した資料でひと区切りついた。報告書の範囲内とはいえ、今回の仕事はいわゆる「就職」した経験のないも同然の私にとって、貴重な勉学の機会となった。企業と私たち「添削職人」を取り次いでいるプロダクションの社長兼担当者は、次はミドルリーダークラスの社内論文を扱うという。進行スケジュールを送ってきた。

 新人だった彼ら/彼女らの10年後に一気にワープするわけだ。


1.「われわれは勝利した〜新入社員研修の断章」2018-04-23参照。
2.「迂闊な威嚇」2017-08-09で取り上げた。
3.吉野弘「祝婚歌」、吉野弘著・清水哲男編『吉野弘詩集』角川春樹事務所(ハルキ文庫)、1999年、所収。

関連記事
「われわれは勝利した〜新入社員研修の断章」2018-04-23
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大量生産される「子犬」と「... | トップ | エンカウンターな予備校〜あ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。