うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典など。タイトルは落語「うなぎ屋」より(文中敬称略)

Majiで転ぶ5秒前

2018-06-08 23:00:00 | 随想 社会・文化私論

【Majiで転ぶ5秒前】

《人は転ぶ前にどんな顔を見せるのだろう。きっと憑き物が落ちた知的で誠実な「真人間」の顔に違いない。〔2018-06-08追記〕2016-09-02の同記事の一部を加筆修正して再掲》

 小説家でも評論家でもミュージシャンでも、自分の気に入った人物がどれくらいの「才能」「知性」「生命力」を持っているかは、リアルタイムではなかなかわからない。

 例えば中高生、大学生の頃の「文化財(ひと・もの)」との出会いは偶然の要素が強く、動物的な本能でホンモノを見きわめることもあれば、とんでもない食わせモノを何のためらいもなくつかんでしまうこともある。また、たとえホンモノをつかんだとしてもあっさりと捨てたり、食わせモノにすっかり慣れ親しみ、価値観を一体化させたりすることもある。

 そんな青年期の選択が、20年、30年の時を経てなおアタリだったときの快感はひとしおである。具体的には、若き日に心酔したカリスマが老いてなお凛としている姿を見たときの誇らしさは何ものにも代え難い。

 一方、ハズレだったときには不快感を存分に味わう。ただ、そんなときは「クロ歴史」という便利な言葉がある。深刻になる必要はない。「く・ろ・れ・き・し」という呪文を3回唱えれば成仏されるのだ。私も何人かの「カリスマ」を呪文とともにていねいに埋葬したことがある。

 青年期に比べ、成人してからの出会いはかなり慎重になる。人物の査定にそれなりの知見と技術と自信を持っている(持ってしまう)からだ。だから極上の「文化財」を見つけたときの喜びは青年期の比ではない。「文化財」のすばらしさだけでなく、そのような選択眼を持つ自分に対するこの上ない自信になる。

 しかし同時に、この期に及んでスカを引いてしまったときの徒労感・自己嫌悪感も青年期の比ではない。スカがスカであること、クズがクズであることを罵っても何ひとつ癒されない。どうあがこうと、選んだのは自分自身である。罵れば罵るほど、あがけばあがくほど泥沼にはまるだけである。

 ブログを書き始めて6年余り(2018-06-08現在)。これまでどれくらいの「文化人」に言及したことだろう。それほど多いとは思わないが、少ないわけでもない。偶然目にした著書やアクションに共感しながら、これがホンモノなのかニセモノなのか、ひょっとするととんでもない食わせモノをつかんでいるのではないかなどと警戒しながら取り上げることが多かった。私の中で殿堂入りが決まった「テッパン」のカリスマを除き、恐る恐る触れたというのが正直なところである。

 既に何度か書き記しているが〔注1〕、私の中に割と単純なリトマス試験紙がある。具体的には、「天皇」「共産党」「中核/革マル」の3つ。これらへの言及の仕方によってその人の思想性、誠実さ、人格を値踏みする。三者に共感するかどうかということより、その人がこれらについてどのように言及するか、あるいはしないか、その論じ方に注目する。

 「天皇」「共産党」「中核/革マル」……我ながら、ずいぶんとエッジの効いた試験紙だと思う。思いのほか使い物になるのは、私の単なる錯覚か、それともそれぞれのラベルの背後にもっと本質的なテーマが隠れていることの証(あかし)か。後者だとは思うが、うまい言葉が見つからない。

 これらは何を象徴しているのだろう。

 ふと、エリクソンのゴーリキー論の一節〔注2〕を思い出す——

 革命が定着するにつれて、高度の教育を受け、多くの面で西欧化されていた知的エリートたちは引退し、計画的に、注意深く訓練された政治的、産業的、軍事的技術者のエリートが現われた。彼らは自らを歴史的過程そのものから生まれた貴族であると信じていた。こういう人間は、今日では、われわれの冷酷で危険な敵である。〔注3 下線は引用者による。以下同じ〕

 アリョーシャが避けようとするいくつかの誘惑は――それらはプロテスタントが顔をそむけ、また嫌悪を抱いたものだが――初期の新教徒たちがローマから発していると感じた誘惑と、どこか似たところがなくはない。ステンドグラスの窓からさし込む光や、香の薫煙や子守歌のような聖歌のように、感覚を通して入ってくる霊としての神の魔力、ミサへの神秘的な没入、魂の児童期の病として人生をみる「臨床的」な人生観、そして、何よりも有難い「他人の良心のうしろに隠れ」てもよいという許しなどの、さまざまなカトリック的誘惑である。〔注4〕



 人は転ぶとき、それまで自分に取り付いていた「憑き物」(観念、思想、信条その他)がとれる。その時、「計画的に、注意深く訓練された政治的、産業的、軍事的技術者のエリート」になるか、「ステンドグラスの窓からさし込む光や、香の薫煙や子守歌のような聖歌のように、感覚を通して入ってくる霊としての神の魔力、ミサへの神秘的な没入、魂の児童期の病として人生をみる「臨床的」な人生観、そして、何よりも有難い「他人の良心のうしろに隠れ」てもよいという許しなどの、さまざまなカトリック的誘惑」に跪く人になる。

 前者であれば、それまでの「憑き物」を冷笑し、自分が「リアリスト」であることを殊更に誇示する。後者であれば、やはりそれまでの「憑き物」を冷笑し、自分がsomething greatに包まれたhappinessの存在であるとか何とかspiritualなことを口走る。もっと具体的には、「共産党」を、そして/もしくは「中核/革マル」をののしり、あるいは「天皇」の前に跪く。いずれにも共通しているのは、「憑き物」の落ちた自分が知的で誠実な「真人間」であることへのゆるぎない自信である。これを「転向」または「保守ジャンプ」という。

 しかし、エリクソンはそこで「真人間」にならなかった、つまり「転向」「保守ジャンプ」しなかったゴーリキーに着目してこの小論を書いた。それは後に、ルター論(『青年ルター』)へと展開した視点でもある。


1.「今日のゼニより明日のユメ」2015-11-10ほか。
2.「虎穴麻呂日津(こけつまろびつ)」2015-09-22参照。
3.E=H=エリクソン『幼児期と社会 2』仁科弥生訳、みすず書房、1980年、174頁。
4.同前、175-176頁。

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