うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典など。タイトルは落語「うなぎ屋」より(文中敬称略)

無為こそ過激

2015-01-19 23:00:00 | 教育 学校・教職・授業論
【無為こそ過激】

《小玉重夫『学力幻想』を読んで考えたことなど。特に「無為」「無能」「中断」の効用について。〔2015-01-20追記〕表現の一部を修正》

 小5になる息子が、妻の塾体験を聞いている。中学2年生の時に通い、勉強がビックリするほどできるようになった。テストに出るところを教えてくれるし、小学校の頃に転校した友だちにも会えたし、授業も楽しかったし。
 すると、息子も塾に行きたいと言い始めた。ちょうど中学生の甥っ子(息子にとっては従兄)がこの冬から通い始めたのも影響しているのだろう。もっとも、今すぐにではなく、母親に倣って中学2年生からとのこと。3年先か……。大人の価値基準では本気度を測りかねる「通塾宣言」である。

 私は小・中・高を通して塾(予備校)に通ったことがない。同級生がこぞって通い始めた中学生の頃は時流(?)に背を向け、毎月配達される「トレーニングペーパー」(教育社の月刊教材)で我流の修行を続けていた。それに、学校の授業がそれなりに楽しかった。特に中2の時の担任の授業(社会)はいつも知的刺激に溢れていた。いつか自分もこんな授業をしてみたい、将来は中学校の社会の先生になりたい、と(本気で)思っていた。
 塾に行かないことがアイデンティティの拠り所になったのは、学校や教師への信頼と同時に、ちょうどその頃、「テレビに出ない」ことをステータスにしていた松山千春と自分を重ねる気持ちがあったのかも知れない。

 現在の私の肩書きは「学習塾兼予備校講師」である。その塾や予備校に通う生徒を見ていると、どこまでが本人の能力・努力の所産であり、どこからが与えられた環境・文化の所産なのか、はっきりとはわかりかねるところがある。このような仕事を続ければ続けるほど、環境の重みをよりいっそう感じる。
 特に医学部コースの受験生を見ていると、確かに「医者は、生まれたときから親や家系によって運命づけられている」のではないかと――これは数年前の講師研修会の席上における幹部職員のありがたいお言葉である。

 努力は誰にでもできる、努力すれば学力が身につき学歴が手に入る、努力すれば立身出世も思いのままである――単純化を承知で言うなら、私たちの社会ではこうした「努力共同体幻想」とでも言うべきものがそれなりのリアリティをもって存在している。努力共同体の成員は共通する価値観を持ち、共同体のルールを遵守し、努力原則にのっとって正々堂々と立身出世競争に参加する。不本意な結果や成果に対しては他者を責めず、己の非や至らなさを素直に認め、反省する。
 総じて、努力共同体においては不断の競争が展開されているにもかかわらず秩序が保たれ、結果の不平等は個人の努力不足と責任の名のもとで個別に処理される。不平等・不公平に対する強硬な異議申し立ては、心情的にもシステムとしてもあらかじめ封印されている。

 そのような努力共同体幻想のことを考えていたら、小玉重夫『学力幻想』(ちくま新書、2013年)の「無為」「無能」に関する一節に出くわした。一部は他の研究者の業績を踏まえた叙述のため、孫引きになってしまうが要所を引用してみる。

 田崎〔英明〕は、現勢力(エネルゲイア)と潜勢力(デュナミス)を論じた論考で、ハンナ・アレントによる政治と社会の区別を援用して、「無能な者たちの共同体」としての「政治」と、「有能な者たちの共同体」としての社会を区別してとらえる。
 田崎によれば、まず「政治とは、無能な者たちの共同体」であり、「デュナミスを欠き、ただエネルゲイアだけの共同体」であり、「政治のうちには眠る場所はない」という。これに対して、「社会」とは、「有能な者たちの共同体」であり、「デュナミスにつきまとわれた者たちが住む場所」であり、「眠る者たちの共同体」であるという。〔155頁〕


 これを私なりに敷衍してみると、「エネルゲイア」(現実・現勢力)だけの共同体つまり「政治」の世界は、素人集団が専ら見えるものだけを取り扱っている世界である。そこでは形にならないもの、目に見える結果を生まないものは軽んじられる。
 それに比べ、「デュナミス」(可能性・潜勢力)の世界である「社会」においては、形にならないもの、目に見えないものを含めた価値の世界が展開している。いわば玄人の世界であり、その「生き様(ざま)」自体が絵になると同時に、一見(いちげん)の素人さんはお断りの「排除の論理」がはたらいている――ことになるか。

 しかし、小玉(及び田崎)の筆は、ここから「有能な者たちの共同体」及び「デュナミス」の礼賛ではなく、「できること」(習熟)と「考えること」を区別しつつ、学力の市民化の問題へと向かう。具体的には、「できること」(習熟)は特定の専門家による知の独占につながっているのに対し、「考えること」は誰にでも備わっている能力である。前者の独占的・排他的・特権的な知の在り方を「無能な者たち」に開放する教育は構想できないものか、と。

 たとえば、医者にならなくても医療問題を考えること、大工にならなくても建築問題を考えること、プロのサッカー選手にならなくてもサッカーについて考え批評すること、そして官僚にならなくても行政について考え批評すること。つまり、職業と結びついた専門的知識や技能を、市民化された批評的知識へと組みかえていくこと。ここに、バートルビー〔引用者注:1853年に発表されたメルヴィルの短編小説の主人公〕の無為を超えて、メリトクラティック〔能力主義的・業績主義的〕な学力観を組みかえていく一つの方向性があるのではないだろうか。これを、学力の市民化としてとらえたい。〔157頁〕


 さらに小玉は、(これも孫引きになってしまうが)市川伸一(教育心理学者)の「伝統的な学校教育では、学者とか、芸術家とか、スポーツ選手とか、そういう教科教育を極めたような人を、理想的なゴールとして、扱ってきたのではないか」という批判を引用しつつ、彼の「一般市民をモデルにする」学力の提唱が学力の市民化と重なると述べている〔158頁〕。

 これら一連の指摘を読みながら、私は「できること」(習熟)に重きを置いた「有能な者」たちのための教育に不可避のジレンマについて考える。受験であれ就活であれ出世であれ、私たちは少しでも「有能」になろう、競争の勝者になろうとして努力を重ねる。実際、努力の結果手にした高学歴(学校歴)や一流企業の社員証によって、私たちは(市川が言うところの)「理想のゴール」へよりいっそう近づいていくことになる。
 しかし、もうひとつの現実として、私たちの多くはそのゴールのはるか手前で潰えてしまう。ゴールできない宿命であるにもかかわらず競争に参加する/参加せざるを得ない現実。「有能」のツールを獲得・習得すればするほど競争から降りられなくなり、破滅への道を運命づけられるジレンマ。この種の不条理は、「就職しなければ路頭に迷う、しかし、就職すれば下層に固定化されてしまう」ケースをはじめ、日常生活の端々で見られるものである。
 私なりの解釈をするなら、できること(習熟)の意味をホントに目に見える知識技能だけで判断してしまう(ピュアで)「無能な者たち」は不幸である。純粋に知識の有無を問うはずの公正な競争試験が、実態として階層格差を反映していることが見えないから。かといって、「人物本位」の競争に転じても同じである。今度は見えないデュナミスの格差がストレートに反映されるだけだから。いずれにおいても「有能な者たち」優位のパラダイムであり、その中での競争であることに変わりない。

 「有能な者」たちのための教育にはさらに問題がある。「有能」の中身に偏りがあること、もっと具体的には、理想とされた「教科教育を極めたような人」(市川)を総合的に眺めたときに、明らかに品格・人格・品性に致命的な欠落を抱えている場合が少なくないからである。
 世のカリスマにいちいちイカレる若気の至りの年齢を過ぎてしまったのだろうか、今の私は一角(ひとかど)の人物になりきれていないにもかかわらず、カリスマの人間臭さには敏感である。人格的な障害や疾患を神格化するゲームに参加するほど暇でもなければ気力もない。個人的に軽く心酔する人物があっても、それを全国で一斉に祭り上げる動きにはまったく共感できない――これこそ、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン少年顔負けの若気に他ならないのだろうが。

 小玉の著書で最も印象に残ったのは、この後の部分である。
 彼は、「中断のペダゴジー」を提唱したビエスタ(教育哲学者)の言葉――「教育は与える過程であることを止め、問いを発する過程へ、難問を発する過程へと転化する」を引用しつつ、知識を思考に転換させることによって、無能な市民の政治的判断力を育てる教育の可能性を探っている。その過程において、与える過程を問う過程へと転化させるペダゴジーの担い手としての教師(像)が立ち上がってくると言う〔155頁〕。

 この新たな教師像を確立する際、障害となるのが遂行性(パフォーマンス)のパラドクス――教師の遂行性(パフォーマンス)の自由が拡大されればされるほど、むしろ教師を束縛しているパラドクスである。その原因は教育の成果をどのように評価し、説明していくかに関する基準設定(アカウンタビリティの基準設定)の在り方にある。具体的には、基準設定に教師自身が参加できているか、広く市民に開放されているかを巡る問題である。それに対し、筆者が示す処方箋は次の通り。

 遂行性のパラドクスから抜け出すための一つの鍵は、教師が自らの役割遂行の筋書き、台本を自らで書くことができるかどうか、つまり、教師がアカウンタビリティの基準設定に部分的にではなく、全面的に関与できるかどうかという点にある。〔中略〕遂行性のオーナーとなれるようなシステムが追求されているということである。〔162-163頁〕

 ハーマッハー〔哲学者〕によれば、既存の国家権力を作り出し維持する権力は「遂行的(パフォーマティブ)」であるのに対して、この国家権力を組み替え新しい社会を作り出す権力は「遂行中断的(アフォーマティブ)」であるという。つまり、遂行(パフォーマンス)に先行し、遂行を可能にするとともに、それを廃棄し刷新していくことを可能にするのが遂行の中断(アフォーマンス)である。
 教師が自らの権力を組み替えていく際にも、この遂行中断性という概念は、示唆を与えてくれる。たとえば、前述した文化祭で総合学習の研究成果発表を行う際に、地元の市民団体に協力を要請したり、研究発表の視点を児童や生徒と話し合ったりする場面で、教師としての役割遂行を中断し、市民として、研究者として、あるいは地元住民としての顔を覗かせることがあるかもしれない。〔165-166頁〕


 中断性の保証について、小玉は「具体的にはまず、教師の養成や再教育の場面に、教師としての役割遂行を相対化しそれを中断できるような内容をもっと取り入れることが必要である。それは指導法の訓練などとは異なる、より市民的な、政治的センスを磨くような内容であることが望ましい」〔167頁〕と述べている。
 教育学及び教師教育が「教え方の技術」に矮小化され、およそ学問からかけ離れていく様は今に始まったことではない〔注1〕。「教師である前に市民であること」〔167頁〕、「専門家集団と市民との関係というものが、教師の中断的ペダゴジーを媒介として結びついていく」〔169頁〕――これはいわば「知識人としての教師」像の再来である。

 『学力幻想』はこの後、アメリカで推進されている市場原理に基づく新自由主義的教育改革思想の検証に入る。この点については、時給850円教員時代の到来を危惧する私の問題意識〔注2〕に応えるものではなかったけれど、筆者が追求する「シティズンシップ教育」の片鱗を知る貴重な機会になった。「与える過程を問う過程へと転化させるペダゴジーの担い手としての教師」は考える人、考え続ける人である。勤勉と努力を重ねればなれるというものではない。


1.「我が愛しの師範学校」2014-04-21で引用した大田堯編『戦後日本教育史』(岩波書店、1978年)に紹介されている教員養成を巡る教育刷新委員会内での議論(の一部)を参照――「また、『教育学』に対するさまざまな評価の違い――とりわけ、帝大系の委員たちにはその学問水準と実践的有効性に対する根づよい疑惑があり、一方師範系の委員たちはこれをいずれかといえば教育者精神の養成のための教育内容として、また狭い意味での教育技術学として有用性を主張するという違い――があった」〔158頁。執筆は寺崎昌男〕
2.「私家版 教育はどこへ行くのか?」2014-04-29参照。

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「旧時代の遺物~集団一斉授業のゆくえ~」2014-12-30 *『学力幻想』に言及。
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