アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

人気取りの選挙にはもううんざり

2016年06月16日 | 政治・国際情勢について

昨日、東京都知事の舛添氏が辞任する決意をしたが、今度は、50億もかかる都知事選挙費に対して都民から苦情が出ているそうだ。

その前にも、東京都庁には舛添氏に対する苦情の電話が後を絶たなかったらしいが、これらの苦情を申し立てた人達は皆、選挙に行ったけれども舛添氏に投票しなかった人達なのであろうか?おそらく、舛添氏に投票した、もしくは選挙さえも行かなかった人達が大半ではないのか?

2年前の都知事選挙の投票率は、昭22年からの統計を見ると、昭62年、平成15年に次いで過去最悪の投票率(46.14%)だった。つまり、都民の半数以上が選挙に行ってないのである。勿論、今回の騒動の責任の大元は舛添氏にあるのだが、彼を選んだ東京都民の責任も大きいであろう。その結果、50億の選挙費だけでなく、今回の騒動だけでも相当の経費のロス、業務の停滞が発生していることを考えると、かなりの金額になり、結局、そのツケは都民に回ってくるのである。

そのお金を児童待機問題につぎ込めば、一気に解決するかもしれないものを、なんと無駄なことをしてしまっているのか。舛添氏を批判したい気持ちも分かるが、そもそもその様な人物を選んだ都民が原因なのだ、ということを良く知らなくてはならない。もちろん、舛添氏を後押しした自民党・公明党にも責任があるが、最終的には都民が選ぶのである。

聖書で書かれている通り、自分達の撒いた種は、自分達で刈り取らなくてはいけないのである。悪い種をまけば、悪いものを刈り取ることになるが、良い種を撒けば、良い実を刈り取ることができると聖書では教えている。また、悪い木から良い実を成らすことはできない、と聖書でははっきり述べている。(ルカの福音書6章43~45節より)

悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。


5年程前のブログで、福沢諭吉の「愚民の上に苛(から)き政府あり」という言葉を紹介したが、これは、今の日本の政府の状態は、私達国民の状態の反映である、と述べているのである。

愚かな政治家がいるのは、私たちが愚かだからである。愚かにならない為に、どこかの有名人や、スポーツ選手、タレントなどの知名度の高い候補者に目がくらまないように、人を見る目をきちんと養うことが大事であろう。

次の都知事の候補者を各党では既に考えているようだが、現在、自民党からは有名タレント桜井翔の父親である桜井俊氏の名前があがっている。それに対する自民党側のコメントに呆れてしまうのだが、彼は有名タレントの父親だから、若い人達の票が得られるかもしれない、という理由で彼を押している。もちろん、それだけではないかとは思うが、結局はまた人気取りか、と思ってしまう。では、彼が桜井翔の父親でなければ、いくら仕事ができたとしても、候補者にはおそらく上がらなかったであろう。ご本人の桜井俊氏は、自分の器ではない、と都知事選候補の可能性を否定しているが、自民党のこの浅はかな考えは、まさに私達国民を愚弄していることではないのか、と思う。

残念ながら、私達国民は、人気者を出せば選挙に投票してもらえる、と政治家達によって安易に思われているのである。彼らは国民の状態を良くみており、どうすれば勝てるのかが分かっている故に、この様な愚策に出るのである。従って、たとえ政治の経験がなくても、政治家としての適性や人格が備わっていなくても立候補できてしまうのが、今の日本の政治の状態であり、その様な状態を生み出したのは、まぎれもなく、私達国民なのである。

いい加減に私達も目を覚まさないと、本当に日本の将来は本当に壊滅的な状態になるだろう。


芸能人の不倫問題から感じる世の中の不条理さ

2016年06月12日 | 人間について
最近、芸能界では不倫問題が次から次へと発覚され、子供の教育上、はなはだよろしくない報道が後を絶たないと感じている。

ベッキーの不倫問題から始まり、ファンキー加藤、そして落語家の円楽、と後を絶たないが、芸能人に限らず、政治家、経営者、そして一般人も入れると、一体、不倫している人は日本だけでも何人いるのだろうか?

それにしても、ベッキーさんの不倫にはあれだけマスコミから叩かれていたにも関わらず、円楽さんは何故そのような扱いにならないのだろう?、と疑問に感じている人もいるのではないかと思う。不倫の程度の問題、とか、円楽さんは潔く不倫を認めた、とか言っているのがあるが、どちらも、一方が結婚している相手との不倫であり、また、ベッキーも記者会見では不倫をちゃんと認めたのではないのか?にもかかわらず、ベッキーさんへはあれだけ攻撃をし、円楽さんに対しては笑いで済ませる、なんていうことを子供が見たら、どう感じるのであろうか?

これを考えると、人間の判断というものは、とてもいい加減で曖昧なものであるということを痛感せざるを得ない。

先日、ある番組でパワハラについて、若い男性のサラリーマンが、仕事中にスマホで遊んでいたことが原因で解雇されたことが報道されていた。それに対してその男性は、「他の人もスマホで遊んでいるのに、何故、俺だけなんでしょう。」と発言。この方は、上司からずっとパワハラを受けていたそうなのだが、おそらく気に入られなかったのだろう。スマホで遊んでいるのを発覚したことを契機に、解雇に追い込んだものと思われる。

もし、この男性の言うことが正しいのであれば、解雇された男性は不条理さを感じ、自分はパワハラで解雇されたのだと思っても仕方ないであろう。けれども、この男性の発言のおかしいところは、「他の人もやっているんだから、自分もやっていい」と、心のどこかで思っていることである。原則、業務中は遊んではいけないのである。会社のパソコンでの私用メールはもちろん、パソコンやスマホを使ってゲームやインターネットサーフィンなどはやってはならず、それが原因で、解雇になっても文句は言えないのである。

けれども、この男性の言う通り、他の社員もスマホで遊んでいるにも関わらず、彼だけが解雇されて、他の人が解雇されなかったのは何故なのか?様々な要因が考えられるし、人それぞれの見方によって様々な見解があるだろうと思われる。そこが人間の弱いところでもあり、曖昧さなのである。人間の判断は絶対的に正しいものではないし、同じ人でも時間が経つと意見が変わったりもする。

何故、ベッキーさんがあれだけ叩かれたのか?単に女性だから、又は以前からマスコミ受けがあまり良くない、などの要因があるかもしれないが、人が何かを判断しようとするとき、その様な自分の感情や主観、私情を本来は挟んではいけないはずである。にもかかわらず、私達はどうしても自分達のメガネで人を判断しようとする。人間とは、そういう不確定かつ曖昧な、とても弱い生き物なのである。

しかし、神様はそういう見方を決してしない。浮気の程度の差は、神様にとって全く関係ない。勤務中でスマホで遊んでいて運よく解雇されなかったとしても、同じ罪として神様は見ており、それを覚えているのである。

浮気について、聖書では姦淫としてはっきり罪である、と述べており、不倫をする人達をこの様に述べている。(箴言5章3~6節 リビングバイブルより)

売春婦は甘いことばと調子のいいお世辞が売り物です。

それにのせられると、あとで苦しまなければなりません。
鋭(するど)い剣で突き刺されたように、良心がずきずき痛むのです。

苦しみもがけばもがくほど、ずるずる地獄の底へ引きずり込まれます。

彼女は自分でも正しく生きる道を知りません。
迷路(めいろ)を、行き先も知らずによろよろ歩いているだけです。


ここでは、「売春婦」という言葉が使われているが、男性・女性に関わらず、複数の相手と関係を持つ人は姦淫を犯すことになり、大変罪深いものとして聖書では述べている。

人間は、誰一人として100%正しく生きることができない生き物。故に、神様からの導きが常に必要なのではないでしょうか。イエス様を救い主として受け入れる人は、これまでの罪が許されるだけでなく、永遠の命が与えられると約束しています。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)


この世で生きている限り、世の中の不公正さ、不条理さを感じざるを得ないが、これは人間の不完全さ故なのだと改めて感じる。


7歳の子供の置き去り事件から学ぶ子供のしつけのあり方

2016年06月04日 | 人間について

日本中ばかりか、世界でも騒がれた、北海道の山林で親から置き去りにされた7歳の男の子が無事、発見されたが、親のしつけのあり方について、テレビやインターネットなどで賛否両論が沢山出ていた。

テレビの報道や、ネットの情報を見ていると、親のしつけの行き過ぎが問題視されているようだが、よく見ると、そもそもこの子供が置き去りになってしまったのは、人や車に対して石を投げていたとのことで、これは行為自体、とんでもない行為である。下手すると相手の目などに当たって大怪我をする可能性だってある。7歳の子供だったら、父親から厳しく言われれば大抵の子供はすぐに止めると思うのだが、この子供は相当に言うことを聞かん子だったように思われる。

また、車からは2度も降ろされており、最初に降ろされた後は、その子は泣きながら車を追っかけたというではないか。本来なら、子供はここで懲りるはずなのだが、また降ろされてしまった、ということは、それでも懲りず、親の言うことを全く聞かなかったのが原因だったとしか思えない。この子は相当に言うこと聞かん子、頑固者、という印象を受けた。

子供は、残念ながら中には、非常に頑固で、小さいのになかなか言うことを聞かないツワモノがいることは事実なのである。これは小学校に上がる前に、やっておくべきしつけを厳しくやらなかったり、親が甘やかしてしまったりするケースに非常に多いのだが、こうなってしまった子供は、小学校に上がった後では、非常にしつけが難しくなる。なので、自業自得とはいえ、その親がキレてしまい、とんでもない行動につい出てしまったのは、何となく分かるような気がする。本当に言うことを聞かない子供は、大人でもイライラしてしまうものなのだから。

子育てに関しては様々な議論があり、また、情報や養育書が溢れるほどにあるが、聖書では非常に単純明快に書かれている。新約聖書のエペソ6章1~4節の、たった4節の言葉に凝縮されている。

”子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。

「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。

すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。 ”

「父と母を敬え」、これが最も基本的なしつけであると聖書では述べている。つまり、親は最初から子供達が親を敬うように育てないといけないのです。戦後から、だんだん「友達親子」のような親子が増え、結果、基本的なしつけもちゃんとできない親が多くなったが、親と子供の関係は、あくまで親子の関係であって、友達ではない。物わかりの良い親、というと聞こえが良いが、これはあくまで子供を尊重して一人の人間として扱う範囲のことであり、何でもかんでも子供の要求を聞くことではない。尊敬、というのは、親という立場を尊敬することであり、それは子供が小さい時から親が子供を尊敬するように教えないといけないのである。ある程度大きくなってから、では遅いのである。

小さい時から親を敬うように育てられた子供は、親の言うことをよく聞くし、結果、外にでても学校の先生や習い事の先生などの言うこともよく聞くようになる。そのような子供は、「しあわせになり、地上で長生きする」と、神様は約束している。

敬うということは、親と子のある一定の距離、ラインを保つ必要があることを意味しており、親がむやみに子供の領域に土足で入って踏みにじってはいけないのである。これは、子供への虐待も含むが、親に対して、「子どもをおこらせてはいけません。」と警告しているのは、そういうことなのである。

今回のこの事件で、アメリカのAP通信では、「日本の文化として、子どもの個人の権利を尊重するより、子どもは家族の所有物だという認識が強い」と指摘されているが、私が思うに、この男の子が親の言うことをなかなか聞かなくなった原因として、無意識のうちにご両親が子供を自分の思うようにコントロールしようとしていたかもしれないことは十分考えられる。

子供は、親がコントロールしようとすればするほど、ますます反発するだけなのである。聖書の考え方では、子供は神様から一時的に親に授けられたものであり、あくまで一人の独立した人間であって、親の所有物ではないのである。従って、自分が望む通りではなく、神様が望む通りに育てることが大事なのである。

日本では、そのようなキリスト教的な考えが浸透していないが為に、子ども個人の権利を尊重する、という考え方がなかなか理解できないと思うのだが、子育ては不可解な部分があまりに多く、また親自身も不完全な人間である為、全知全能である神様から知恵をもらい、神様に従って育てることが鍵となってくるのである。

聖書には、旧約聖書も含め、人としての在り方や、子育てに関するヒントが沢山書かれているので、興味のある方は是非読んで頂きたい。