心&身魂のアセンションブログさんから、一部転載です。
いつ死んでもおかしくない世の中なので、私もこの世に未練を残さないように、出来るだけのことは、しておこうと考えている今日この頃です。
このブログもその中の一つです。
みなさまにどうしても伝えたいのは、日月神示でいう『○の中に・入れる』という解釈のひとつです!
『あなたの中に神を見る!?』
のコラム読んで頂いた上で、今度は、視点を変え解りやすく文章で表現してみました!
初めに昭和を駆け抜けた劇作家、言葉の錬金術師と呼ばれた寺山修司さんの言葉を紹介します。
『天動説に眼を射られ、地動説には釘を打ち、身は囚われて船底に、人動説の時を待つ』
ここで彼のいう、『人動説』とは一体なんなのでしょうか?
以前のブログで、『この世の中の出来事は宇宙創造神である監督が、悪役や善役を配役して、スペクタクル映画を撮っているようなもの』と記しました。
なので、それぞれの立場の人がその役柄を演じているだけで、その配役はその人が生まれ育った環境が大きく影響しています。(そうとも言い切れない生粋の役柄の方もいますが…)
私だって今世において、闇権力者の家系に生まれ育っていたならば、今頃、人工地震であちらこちらを破壊しているかもしれません。周辺にはそうせざるえない状況が差し迫っているからでしょう・・・。
そう考えると本来は悪人も善人もないのかもしれません。
映画の配役とわかっていて、本気で悪役の俳優さんを憎む人は、まさかいないからです。
まあ、そんなこんなで撮影が終わり、一本の映画が出来上がるとします。この映画はあなたの他生でのカルマなどの問題を複雑に絡めたシナリオで形成されていますが、本当は映画というよりも、テレビゲームに近いものがある気がします。
昔「ときめきメモリアル」というTVゲームが流行ましたが、イベントごとに「A子を振って、B子を選ぶ」、「B子を振って、A子を選ぶ」という選択をプレーヤーに迫ってきて、その選択によってゲーム上の人生が変化してきます。
このように枝別れしていく人生のフローチャート(時には、同じ分岐点に戻ることもあり)のようなものは、一見なんの枠組みもない自由自在のものとも思えますが、実際は映画ゲームという全体の外枠がすでに作られています。コレが人間の「運命」に相当します。(運命については『あなたの中に神を見る!?②』を参照)
だから、津波だろうと何だろうと、記憶に無いだけで、本当は想定外のことはおき得ないのです。
『人間に自由はないのであるぞ。真の自由は、大神にのみあるものぞ。大神の自由の一部が御喜びと共に神に流れ入り、神に流れ入った自由は、又神の喜びとなって人間に流れ入るから、人間自身は自由をもってゐると信ずるのであるぞ。本質的には自由はないのであるぞ。人間には自由の影があり、反影あるのざ。それを人間は自由と心得てゐるのであるぞ。』日月神示 第25巻 白金の巻第五帖
では、次にこのように考えてみてください。
3次元世界に肉体を持つ前の、魂状態のあなたは、あの世での仕事は映画監督だとします。
自分で作った先ほどのゲーム映画を自分自身で楽しもうというわけです。監督兼主演です。
本当は原作などで、アドバイスを与えてくれる協力者もいますが、最終的にその作品に同意し、Goサインを出しているのはやはりあなた自身です。
完成した映画のタイトルは『○○(ここにあなたの名前)の一生』。3Dバーチャルリアリティー体感映画です。
プロジェクターは、魂状態のあなたのオデコのところにあり、そこにウィーンとフィルムをセットします。完璧にバーチャルリアリティーを再現する映画なので、あなたの両目からは映像が映写され、鼻からは臭覚が、耳からは聴覚が、知覚されます。ご丁寧に手足までついていて、触覚も知覚できます。
例えばあなたが、この映画を体験中、既に完成しているビルを目にしたとします。それはあなたが知らない間に建設さたのではなく、元々完成品として、その映画の世界に設定されていて、あなたが外界にそれを投影していることになります。
建設中のビルは、わざと建設中の姿をのあなたから映写しているわけです。この映画ゲームはそれぐらい物質世界のリアリティを追求しているのです。
『地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ』日月神示 第17巻 地震の巻 第五帖
気付いたときには、「オギャー、オギャー」と泣き喚く赤ん坊の声。自分に微笑んでくる両親の顔を目にします。そう、あなた自身の誕生です。さあ、映画のスタートです!
勿論、映画の世界を最大限に楽しむために、そのあらすじの記憶は一切消去されています。
でも、あなたの奥底の魂は、自分自身が作成した映画なので、本当はあらすじを全て知っているのです。この点が後で大変重要なミソとなります。
成長しながら、映画の世界だということも忘れ、自分の人生に没頭していくわけですが、この映画の世界から抜け出る方法は今のところ、「死」だけです。
映画で起こるイベントを満足にクリアしてから、大往生を迎えるシナリオもあれば、志半ばで無理やり映画を終わりにされるシナリオもあります。そしてその時期は何パターンかはすでに決定済みです。
選択肢はあるもののイベント自体は決まっているので、重要なのはこの映画の世界で何をしたか?ということではありません。起きたことから何を学んだか?どんな感情を味わったか?ということが本質といえそうです。これも実際の映画と同じですね。
ここで重要なのは、『あなた自身が、映写機である』ということです。あなたの周囲360度の物質世界(これが○に相当)は、あなた自身が映写機となって投影しています。実はあなたが存在するからこそ存在します。
(この事をニールス・ボーアなどの量子物理学的に言うと、あなたが視ていないときは空間中のエーテルは波状で存在し、視た瞬間(意識した瞬間)に波状から粒子として粒になって固体化したように見えるのです。これを『観測者効果による波束の収縮』といいます。
このように考えると私達は現在も食事をしているようでエーテルを食しているんですね。ミロクの世で不食が可能な意味がなんとなく理解できます。本当は不食ではなく生粋のエーテル食に変わるということなのではないでしょうか?)
もし、あなたという存在(これが・に相当)が、消滅した場合は、あなたが体験している映画の世界も、それごと消滅してしまいます。目にしている人や車は勿論、ビルや街という風景はおろか、太陽や月といった天体、宇宙丸ごと消滅してしまいます。
言い換えると、あなたという存在(・)は、あなたが存在するゲーム世界(○)の中心であり、その世界の『創造源・創造主』であるとも言えます。
要は、自分自身が、自分の世界の神であったということです。
神といえども、神社仏閣にいらっしゃる御神霊ではなく、「宇宙創造神」に匹敵する存在ともいえます。あえて「古事記」で申しますと、スサノオやアマテラスではなく「アメノミナカヌシ」という事でしょうか。
これが、よく言われるところの「自分の中に神を見る」、西洋圏でいうところの「グノーシス」といったことなのかもしれませんね。
『各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。』日月神示 第25巻 白銀の巻 第一帖
『小の中に大あるぞ。無の中に有(ウ)有るぞ。もの益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、益々純なものあるぞ。神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。 (ウム)よく見て下されよ。』日月神示 第25巻 白銀の巻 第三帖
『山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。その自分出来たら天を自分とせよ。天を自分にするとはムにすることぞ。 に化すことぞ。ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。』日月神示 補巻 月光の巻 第二十五帖
しかし、この時点ではまだ、不完全な神でしかありません。何故なら映画監督で神である、あなた自身が作成した物理法則やシナリオに縛られているからです。
これは結局映画の最後まで一貫しているかもしれません。
『生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。
~中略~永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。』日月神示 第17巻 地震の巻 第八帖
また、その映画に登場する対象の人物は、ただのエキストラもいれば、あなたの魂を最大限に成長させてくれる人もいます。その相手も、他の映画ゲームから、オンラインゲームのようにあなたのストーリーと同期してるのかもしれないですし、意味も無く一瞬だけ入り込んでいるのかもしれません。
『他の世界と交流するは、他の世界に住む人間を通じてするのであるぞ。世界とは人間のことでもあるぞ。人間が世界であるぞ。よく心得なされよ。』日月神示 第25巻 白金の巻第五帖
しかし、その一人一人も各々の映画世界の創造主ということができます。結局あなたの人生ドラマの主人公は、あなた自身にしか出来ないということです。
『日は父、月は母、地は自分であるぞ。自分拝まねば どうにもならんことになって来るぞ。』日月神示 第24巻 黄金の巻 第五十八帖
また、あなたが自分の学びのために、完全に映画上の登場キャラとして作り上げている人物もいるのかもしれません。学びのイベントが終われば、その人の存在はいつのまにかゲーム上から消滅していることでしょう。そしてその場合は、その人も完全に自分自身だったということになります。
鏡の法則の真実は、あらかじめ自分の内面と同じ悪い癖をもつ人物を、最適な時期に登場するように、あらかじめあの世で設定しているか、あるいは登場をお願いしているのでしょう。
『人が悪く思へたり、悪くうつるのは己が曇りてゐるからぞ。』日月神示 第06巻 日月の巻 第三十四帖
『何事もウラハラと申してあろが、ひとがひとがと思ってゐた事 我の事でありたであろがな、よく神示読んでおらんと、キリキリ舞ひせんならんぞ』日月神示 第13巻 雨の巻 第二帖
あなたの人生のストーリーに、その対象となる人物が大きく関わる場合、映画上でのその人との出会いは偶然の形でも本当は『必然』だったと理解されるでしょう。逆に、そんなにあなたの人生と関わらない場合は、その人との出会いはそのままただの『偶然』なのかもしれませんね。
結局、敢えて記憶を消して、映画の世界に飛び込んでいるので、判断するのは己自身ということになります。色々心配事を他人に相談する人もいるでしょうが、本来自分のことは自分の魂が一番知っているのです。
『心せよ、何んな事あっても不足申すでないぞ、不足悪ざぞ、皆 人民の気からぞとくどう申してあろがな、人民キから起って来たのざぞ、我の難儀、我が作るのざぞ、我恨むより方法(ほか)ないぞ、人民の心さへ定まったら、此の方 自ら出て手柄立てさすぞ、手柄結構ざぞ。』日月神示 第13巻 雨の巻 第十六帖
『自分はよいが、世の中が悪いのぢゃと申しているが、その自分省みよ。自分が神の理(ミチ)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。輝いているぞ。自分にふりかかって来る一切のものは最善のものと思へ。如何なる悪いことも それは最善のものであるぞ。この道理よくわきまへて下されよ。真の神を理解すれば、一切の幸福 得られるのぢゃ。世を呪ふことは自分を呪ふこと、世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。このこと悟れば一切はそこからひらけくるぞ。十のもの受けるには十の努力。』日月神示 第27巻 春の巻 第十三帖
また、ゲーム映画の進行に重要な場合は、人物に限らず、色々な形であなたにシグナルを送ってきます。これがいわゆるシンクロニシティ現象です。全く説明出来ないような、自分の行動と対象物とのシンクロ、これも映画上のワンシーンとすれば説明できます。
シンクロにおいても、映画の進行上重要な意味を成すシグナルの場合もあれば、意味をまったく成さない時もあります。後者はおそらく、人生のストーリーが順調に進行していますよ、というチェックポイントシグナルと捉えることが出来るかもしれません。
『上の、より高いところから来るから奇跡と見へ、偶然と見へるのぢゃ。神からの現われであるから、その手順が判らんから偶然と見へるのぢゃぞ。偶然の真理さとれと申してあろう。これが判れば大安心。立命。』日月神示 第27巻 春の巻 第十五帖
逆に、シンクロが起こらないと感じる時は、、何かすべき行動を忘れてしまっているのかもしれませんし、シンクロは起こっていても察知する能力が弱まっているのかもしれません。あるいは逆に、それを敢えて思い出させてくれるようなシンクロが発生する場合もあるでしょう。
そして、それとは別に、あなたを試すような、ノイズも沢山設定されていることでしょう。それは、自分が他人の意見に耳を傾ける経験を促しているかもしれないし、他人が何を言おうが自分を曲げない強さが求められているのかもしれません。ケースbyケースですね。また、ノイズは映画上の自分が取り違いして作り出すことも多々ありそうです。
『 ・がよろこびであるぞ。また ・の ・はムでもあるぞ。内から外に向って行くのが ◎(○の中に・の意)のやり方、外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。 ○から ・に行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。
元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。今の世は逆様ぢゃ。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。 ◎から出て ・にかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。マコトの理解者には甘露の水ぞ。』日月神示 第28巻 夏の巻 第十五帖
このような、3次元3Dバーチャル映画ゲームを楽しむ上で、先ほどのべたミソでもある一番重要な事。
それは、真のプレーヤーである『あなたの魂』自体は、映画のシナリオを初めから終わりまで全部知っているということです。
では、記憶を消されてしまっている映画上のあなたが、その映画の作者でもあるあなた自身の『奥底の魂=真我』と、繋がることが出来たとしたら一体何が起こるでしょうか?
シンプルなところでは、『未来予知』が可能となります。次に起こることがなんとなくわかるのです。なぜなら、あなたに起こりうるイベントを設定したのがあなたの魂だからです。また過ぎ去ったと思える『過去』の出来事の意味を捉え直す事も出来、変な後悔などに苦しまずに済みます。
また直感力が冴えわたります。とくに重要なシーンが起きている時は、その真意が手に取るように理解できます。
また、ゲーム映画を作成上のプログラムを思い出す事ができれば、重力や時の流れといった3次元物質世界の物理的法則を、全く無視することもできそうです。空中浮遊やテレポーテーション、物質化現象などを現に起こせる人は、そのこと完全に知っていて、使いこなしているのでしょう。
まあ、これらの現象は「あの世」では当たり前のことなので、敢えて3次元世界でそれを起こすことを希望しているかどうかは人それぞれのシナリオではありますが・・・。
何はともかく、『3次元世界は一種の映画であり、自分自身がこの世界を映写していて、そのシナリオを作ったのが自分の魂=真我である』ということに気がつき、そして真我と繋がることが出来た場合、あなたは本当の意味で、この映画のシナリオを大安心立命で過ごすことが出来、勤めや使命を果たす事が出来るということになります。
『・ばかりでもならぬ、○ばかりでもならぬ。 ◎がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民は◎でありたが、・が神国に残り○が外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。・もかたわ○もかたわ、・と○と合はせてまことの◎(かみ)の世に致すぞ。今の戦は・と○との戦ぞ、神の最後の仕組と申すのは○に・入れることぞ。○も五ぞ ・も五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのざ。一厘の仕組とは○に神の国の・を入れることぞ、よく心にたたみておいて呉れよ。』日月神示 第02巻 下つ巻 第二十一帖
『この道でたま入れて呉れよ、この道は・ぞ、○の中に・入れて呉れと申してあろうが。臣民も、世界中の臣民も国々もみな同じことぞ、・入れて呉れよ、○を掃除して居らぬと・はいらんぞ、今度の戦は○の掃除ぞと申してあらうがな』日月神示 第05巻 地つ巻 第十二帖
『身魂みがけた人から救ふてやるのざぞ、神うつるのざぞ、身魂曇りた人にも○はうつるのざぞ、◎のうつりた人と○のかかりた人との大戦ぞ、・と ○とが戦して、やがては・を中にして○がおさまるのぞ。その時は ○は○でなく、・も・でないのざぞ、◎となるのざぞ、・と○ のまつりぞと申してあらうがな。どちらの国も潰れるところまでになるのぞ、臣民同士は、もう戦かなはんと申しても、この仕組成就するまでは、神が戦はやめさせんから、神がやめる訳に行かんから、今やめたらまたまたわるくなるのぞ、○の世となるのぞ、○の世界となるのぞ。今の臣民九分通り ○になりてゐるぞ、早う戦すませて呉れと申してゐるが、今 夜明けたら、臣民九分通りなくなるのざぞ。お洗濯第一ざぞ。』日月神示 第05巻 地つ巻 第二十二帖
『まだ ○のみ追ふてゐる人民 沢山あるなれど、○では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、・でなくてはならん、と申して ・だけでもならんぞ、・ が元ぢゃ、内ぢゃ、 ○は末ぢゃ、外ぢゃ、・ から固めて下されよ、 ○はおのづから出来てくる、ふさはしい ○が出来てくるのぢゃ。今の世はひらけたひらけたと申しているが、それは半面だけのこと、半面がひらけると半面がとざされる世の中、開け放しの明るい世が目の前に来てゐるぞ。用意はよいか、真中うごいてはならんと申してあろう、動くのは外ぢゃ、忙しい急しいと申すのは外側にゐる証拠であるぞ、気つけて早う中心に飛び込めよ、真中結構、日本は真中の国であるぞ、日本精神は真中精神、末代動かぬ精神であるぞ、三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、くどう申してゐるのぞ。』日月神示 五十黙示録 第02巻 碧玉の巻 第十三帖
まあ、この・と○の関係によりこの宇宙が成り立っている仕組みを気付かせないように、闇権力は黒魔術の儀式などを利用したりするんでしょうが、それは恐らく私も他生でやってました(笑)・・・だから今世では逆パターンをしております。
そして、これからの時代ますます上記のような傾向は、度を増して強くなっていくことでしょう。
まあ、上記があまり意味が解らなくても、遊びだと思ってあなたが今現在生活している世界は自分自身がプロジェクターとなっている映画であるという意識で過ごしてみてください。だんだん面白いことが起こるかもしれません。 下記ではムがあなたの意識で、ウがその投影の世界の事だと思います。
『・が無なればなる程○は有となるのであるぞ。このことよく判りて下されよ。』日月神示 第28巻 夏の巻 第十一帖
『無限のものと、有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、人民の頭は兎角ウになりがちぢゃぞ。慾、浄化せよ。』日月神示 第28巻 夏の巻 第二十三帖
『ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。ウム組み組みてと、申してあろうがな。今の人民の智では中々解けん。ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。中心は無限、周辺は有限であること知れよ。』日月神示 第28巻 夏の巻 第十三帖
とはいえ、結局「勤めや使命」を果たすには、その映画上の3次元世界に働きかけていくしかないので、結局は自己を内省しつつ、外に行動あるのみです!
ここでまわりの世界を動かすには、自分自身である中心はブレずに、周りの世界全体を右回転させるような動きで動かすイメージが必要です!周りの世界が回転すればするほど、中心軸のあなたはそこに強固にねじ込まれていきます。
(ここら辺を、瞑想による内省ばかりに走っていて、達観してるが行動が伴わない人もいますが、実際はその瞑想から得たインスピレーションを外への行動に移す行為が必要なのではないでしょうか?要は内への働きかけと、外への働きかけの両方が必要なのでしょう。)
『・なくなってゐるのざぞ、・ない 渦ざぞ、渦の中の・でないと、まことできんのざぞ、わかりたか。・なきもの悪ざぞ、・は○ぞ、火ぞ、一(はじめ)ざぞ。くらがりの世となってゐるのも、・ないからざぞ。この道理わかるであらうがな。』日月神示 第15巻 岩の巻 第一帖
『山も友、川も友、動物も植物も皆友ぞ。大地も大空も皆友となるぞ。何も彼も皆友ぢゃ、皆己ぢゃ。皆々己となれば己はなくなるぞ。己なくなれば永遠に生命する無限の己となるのぢゃ。御神前で拝むばかりでは狭いぞ。野菜拝めば野菜が、魚拝めば魚が己となるのぢゃ。』日月神示 補巻 月光の巻 第五十六帖
(まあ、余談ですが、私は・と○は、それぞれインナーアースと外側地球にも連動しているのではないか?なんても思っております。それも時節が来たらわかりますね!)
こんな、時節です!残り時間はわずかだと思います!
遠慮せず善いと感じたことはガンガン行動に移しましょう!
多少、問題があっても、神道の世界では「見直し聞きなおし、身のあやまちはのりなおし」を推奨しています。
失敗しても反省して、次こそは!という気概の方が重要視されるわけです!
懐手せず、行い、反省しつつまた行う!人生それの繰り返しなんでしょう!
是非あなたもこの3次元世界において、肉体死後にも行き続ける魂に一つでも多くの学びと行動をしてくださいませ!
心よりお勧め申し上げます!
では、最後に有名なあの人この言葉を!
『明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。』マハトマ・ガンジー
転載以上