わたしのちいさなたからもの

2009年11月公開の劇場アニメ「マイマイ新子と千年の魔法」を追いかけて

裏アクアマリンツアー~その②~

2014-09-26 15:29:39 | 故郷のよすが

(前回の続き。アクアマリンでの集合時間まで 余裕でホテルをチェックアウトしたはず・・・)

ですがーーー!!!

陽気の良さに周辺をうろつきながら大回りして、西側通路から正面入り口にたどり着くつもりが

肝心の通路がふさがれてて、西側駐車場の向こう側を迂回する羽目に!

ギリギリで集合時間に間に合いました(何のための前泊だ)。

 

 さっそく、ツアー出発~見学開始。

 

 ブレていますが、カブトエビ。イメージよりも、白い…

シーラカンスの模型と化石(レプリカ)。 

 

脊椎動物のご先祖・ナメクジウオ。

「動かないけど、生きてます」の注意書き付きの展示。 

 

チョウザメは淡水性で案外飼育が易しく、大きな水場で飼えば3メートルぐらいに育つ。

日本国内で養殖している所もある。 

 

ふくしまの川と沿岸。展示に使っている植物も、全部福島産。  

 ウグイ、赤い婚姻色が出ています。 

 

 

 潮目の海にようこそ。

 シイラが大水槽から飛び出してしまうので、アクリル板を継ぎ足しました。(↓)

飛び出したシイラが、外で干乾びて死んでいたこともあったそうです。 

カタクチイワシとマイワシの群れ。

小さい方がカタクチイワシ(煮干しになるやつ)、

側線に点々の七つ星がついているのがマイワシ(丸干しになるやつ)。

 

 河口の汽水域の展示。

海水と淡水の境目(もやもや)が、はっきり見えます。(↓)

たまたま水道を締め忘れて翌朝こうなっていたのを、そのまま展示に生かしたそうです。

 鮫川河口にもよくいるスナモグリ(↓)は、クロダイ釣りの良い餌になります。

  

参加者からの「フグの背びれと腹びれの動きが、マンボウのそれとよく似ている」 の指摘に、

富原さんから「フグとマンボウは、同じ仲間」という答えが。

確かに、顔つきも似てる…

 

海獣ゾーン。こちらは女子組。 

 こちらが、男子。 

 

  ハワイアンズの近くで獲れたウナギ。(↓)

獲った人が大き過ぎて気持ち悪いと持込んできた、いわくつきの子です。

あまりの大きさに、昔放流されたヨーロッパウナギかと思われたものの、

良く調べたらニホンウナギであることが判明。

ウナギは意外に寿命が長く、また海で過ごす時期も長い。

ここ10年ぐらい川の環境が良くなって、いわきにもシラスウナギが遡上してくる川があるし、

ウナギもけっこうたくさん生息している。

(…子どもの頃、上遠野に住んでいた父方の祖父が獲ってきたウナギが、

大きく太くて気持ち悪かった、と母が言っていたのを思い出した。

・・・アイツもニホンウナギだったのかなあ・・・)

 富原さんいわく「イケメンのウナギ」。 

 

この環境(↓)を保つには、指先くらいの魚4,5匹が限界。

それ以上になると、排泄物や苔が溜まって循環がうまくいかず水が汚れてしまう。 

 

県外(奄美大島・和歌山・北海道)にある蓄養施設。 

熱帯ゾーン。 花がきれいでした。

 ベニスズメ。 この他にも鳥が何種類もいます。(目当ての文鳥は見つけられなかった)

 マングローブの林。

 水槽のアクリルガラスの断面。角度によって、層がはっきり見えます。

 

ソフトコラールより、ハードコラールは入手が難しい。 

 

自然光が良い具合に来て、何にもしなくてもホントにキレイに撮れる!(↑)

 群れているキンメモドキは「スイミー」 のモデル。(↓)

 履物を履いていると何か踏んでもわからないことがあるので、

水槽内の手入れをする時は裸足が原則。岩についた苔を清掃中です。

 魚を見ながら、魚を食べられる寿司処(↓)。 

 ただし、「たくさん獲ってもいなくならない(=資源が尽きない・持続可能な)魚種」に限る。(↓)

  

 

 

マメダンゴ。 

話題のオオメンダコは、暗くてうまく撮影出来ませんでした。 

 

大きな泡が銀色に光りながら昇っていく様は、いくら見ていても飽きない。 

左が黒潮、右が親潮。(↑)

 

《 ふくしまの海 》 のコーナーに欠かせないメヒカリサンマ

サンマ、泳ぎが速くてブレまくり。(↓)

サンマの産卵期は5・6月で、長い海藻に産み付けられた卵(大きさ2㎜ぐらい)を目視確認・選別し、

その部分だけをはさみで切り取り、

(ここまですべて船上での作業。普段どんなに船酔いしない人でも、絶対に気持ち悪くなってしまうそう)

持ち帰って孵化させて、展示するのはなかなか大変な仕事だというお話でした。

 

 お待ちかねのお魚ワークショップ。これは、前日にツアー主催のぴぽさんが釣ってきたメバル。

約30㎝の「尺もの」と呼ばれるめったにない大きさのもの。およそ、14年ものだそうです。

 こちらは、70㎝のスズキ。 

 アイナメも大きさ違いで3匹。 小さいものは震災後生まれ。

この3種類は根魚(ねざかな。海底近くで生息する種)

事故直後には、セシウムが溜まりやすいと考えられていた魚種です。

  さっそく、おろし始めます。

 卵巣(↓)。スズキは《オス⇒メス》に性転換する(性転換する魚は、わりと多い)。

ちなみに、この日の卵巣には珍しい寄生虫がいて早速冷凍保存されました。

 スズキの心臓。単心室・単心房。

メバルの胃に入っていた餌のカタクチイワシ(未消化)。 

あっという間に、3枚おろしの完成。

 皮を引きます。包丁を当てて、皮の方を引っ張るのが、コツ。 ふむふむ。

 サクにしたのをラップで包んで、容器に入れ、

  このアロカで、 放射性物質を 測定します。

セシウムは筋肉(⇒刺身で食べる部位)に溜まりやすい。

今回のスズキとメバルは震災前生まれの個体(成魚)で、セシウムが出る可能性もある。

PCに繋いだ測定結果がリアルタイムで反映されます。  

 スズキの皮は、熱湯をかけて

 氷水でよく引締めから、 

 もみじおろしと青ネギをかけて完成。 

 ぶつ切りのアラに塩してしばらく置いてから洗い、酒を加えてアクを取りながら水から煮出します。

あら汁、最初は塩味+生姜で。 

  測定結果もNDで大丈夫ということで。 

…いただきます。 

 今回は、ありがたいことに主食付き♪ 

 お米作り隊遠野のお布団農法による「綿幸姫(わたゆきひめ)」の塩むすび。

 スズキの刺身(すでに食べてしまってから、撮影w)は、

本当は3日ぐらい置いてからの方がさらに!美味しくなるそうです。

 

 これは、メバルの刺身。淡いピンク色がきれい。歯応えよく、美味しい。

 そして、アイナメの刺身。アイナメは、鮮度が良い方が美味しい。

  小川きのこ園さんのエリンギ惣菜も、一緒に。

左から、ピリ辛青唐エリンギ・白醤油味エリンギ・旨辛カクテキ風エリンギ。

 あら汁、今度は味噌味で。 3杯もお代わりしてしまった。

ひれの付いているとこや、頬のとこの身が美味しい!スズキの皮の湯引きも、後を引く味と食感です。

 

お腹一杯になったところで、いよいよ本チャンのバックヤードに突入。 

 大水槽の上からの眺め。 

籠の底に居るのは、 エイの赤ちゃん。

 

 ここからが海獣ゾーンのバックヤード。 

この向こうに、さっき見てきたトドがいます。(↓) 

  そして、さらにその向こうに…

 … いました。餌を出すと、モリモリ食い付きます。

 昨年夏に保護したオットセイ。

 なついて後追いをする様子が犬みたいで、可愛い。 (↓)

 ここは、病気になった子が入る保健室みたいなスペース。(↓) 

 … なんと。いわきの海にはいるんですよ海獣が!

実は、私もつい最近まで知らなくて。 釣りが趣味のぴっぽさんから教わりました。

調べてみると、海獣は大昔の人たちにも馴染み深い存在で、

いわき市内の遺跡から出土する遺物にも、海獣モチーフのものがたくさんあるそうです。

 

 屋根の上からの展望。

 富原さんは、この辺で釣りをするそうです。(↓)

曰く、

「いわきの海で獲れる魚種は、他所と比べてそんなに多い方ではない。

でも種類は多くなくても、非常に美味しい魚が普通にたくさん獲れる。そこが良い」

「《当たり前・普通》が美味しい。」 

 

 先月行ってきたうみラボ報告会を思い出しました。

意外にも、住んでいる時には地元のアベレージの高さに気づきにくく(自分がそうでした)、 

 他所から来た人・一度出て戻った人の方が、より敏感にわかるものなのですねえ。

同じ市内とは言え、まだまだ知らない場所がたくさんあり、今回初めて体験したこともありました。

 知ったつもりになってしまうと、見えないものごとは案外多いのかもしれません。

私が知っているいわきは、昭和のごく限られた時期・地区のことなのをまたあらためて感じてきました。

 

普段の帰省絡みの行き帰りは何かと慌ただしく、

用のあるところ以外はつい駆け足で回ってしまいがちですが、なんとか時間作れないものか。

帰ってきてから、そんなことを考えています。

 

当日参加の皆さんのつぶやきは、こちら(↓)にまとめられています。

こちらもぜひ合わせてご一読下さい。

第二回裏アクアマリンツアーの様子

 

 

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裏アクアマリンツアー~その①~

2014-09-26 13:45:22 | 故郷のよすが

 

 アクアマリンバックヤードツアーのお誘いを受けて、時間を調べると

実家から直だと当日の集合時間に間に合わないのが判明。小名浜に前泊することにしました。

で、小名浜に向かう前に、最終日だという(↑)(↓)を平でのぞいてみました。

(1ヶ所だけ、回れませんでした)

 

 

会場のひとつ・3丁目のもりたか屋の屋上にて。

西側の空を仰ぐ。(↓)

 

 本町通り側を見る。手前が店の建物。(↓)

以前、住宅として使っていた2・3階と屋根裏・屋上を使ってアート作品が展示してあります。

 

いわき駅のデッキから見た、湯ノ岳に陽が落ちかかる西の空。  (↓)

 

 バスで小名浜へ。

この日は夕焼けがきれいだったのですが、ホテルから港に向かう10数分で

あっという間に消えてしまいました・・・

わずかな暮れ残りを背景にしたアクアマリン。(↓)

暗くなってから眺めると、建物の外観がメヒカリを模したものだというのがよくわかります。

  夕食は、さすいちさんで。サンマの刺身定食。

去年食べられなかった黄金焼きは、まだメニュウに載っていませんでした。

 

 

 明けて、小名浜の町に散策へ。

「海に面した町=海からの日の出」と思い込んでいましたが、小名浜の朝日は

山の向こうからやってきた。 

地図で確認すると、小名浜の街自体からすると、海がほぼ南側。

海に向かっていくと、左側から陽が昇るのでした。

「海からの夜明け」は、どこまで行けば見えるのか。

 

実は小名浜の街と言っても、

港(三崎公園も含む)とショッピングセンターだけのピンポイントの記憶しかないのです。

「街中」をちゃんと歩いたのって、去年の七浜めぐりの時が初めてで、

一人で歩くのは今回初めて。

 

 本町通りを東側に向かって臨む。(↓) 

打ち続くすずらん灯の列が、往時の賑わいを思い起こさせます。

 同じく、本町通りの西側。(↓) 

 本町通りを通り越して、海側に近付くといわゆる歓楽街のゾーン・エリア(↓)なのですね。

船を降りた人たちがここで《航海の垢》を落としてから町へ向かう、その名残りの町並み。

 

 

 

 

(↑)のタイヤの看板の下、 ガムテープが貼ってあるラインまで、津波が到達。(↓) 

 

 白いサッシについた汚れの落ち具合が、津波の寄せ~引きの激しさを物語っています(↓)。

 

臨海鉄道の貨車。(↓)

もし鉄道が小名浜と平との間を繋いでいたら、

ずいぶんその後のいわきのいろいろなことが違った展開をしていたかもしれない

・・・なんてことを、つい思い浮かべてしまった。

少なくとも、人・モノの行き来はもっと盛んになっていたはず。

いくら合併しても旧市町村の括りは根強くて、

普段住む地元以外の人と交わる機会は多くなかったから、

高校に入学してから、

平以外(相双郡部からも)から通ってくる同級生や先輩後輩の話に驚くことが多かった。

 鉄道の踏切りを越えて、3号埠頭まで足を延ばします。

 

 

 来た道を、戻りながら。

 

ここでもう、10000歩間近。 

昨日、アクアマリンまでの道を確認して余裕を持ってチェックアウト、したんですが。

ですが… 

 

《 その②に続きます 》 

 

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いわき爆走!《超高速!町歩きツアー》その②

2014-06-24 12:23:36 | お出かけ

 勿来の「丸鮮」さんでお昼。

  店の前から。まだ、小雨が降ってます。

  付き出しはブリの煮付けと茶碗蒸し~

  今日もメヒカリ唐揚げ~連日だ~温かいうちにいただきます~♪

  お昼の刺身盛り合わせ~9種も~♪

 

アロハの柄が可愛かったので、撮らせてもらいました。

フタバスズキリュウ(↓) 

 こちらは、フラ~ハワイアンのモチーフ柄。踊っているフラガールのシルエットも。 

 

 お腹をいっぱいにしてから、勿来関文学歴史館へ。

 

見るめかる  あまのゆききの  湊(みなと)ぢに

なこその関も  わがすゑなくに

小野小町

 『新勅撰和歌集』恋654

お通いになるのが間遠になってしまわれましたが、海松(みる)藻(め)を

刈り取る海人(あま)が行き来する湊路(私の心を奪ってしまったあなたが通ってくる道)に、

もう来ないでという関所など、私は設けてはおりませんのに。

 

…晴れていれば、海が見えるのです。ここから。 

企画展示「日本の武具」と常設展示を見学。 

 解説の副館長さんによると、復元した甲冑師さんが張り切り過ぎて、

出来上がりがえらく重くなってしまった大鎧(おおよろい)。

複製なので、触れます。鹿革が手触り良かった~

  こちらは、具足。見るからに実用的。

 

次は 篠突く雨の中、勿来の切通しを目指します。

 

 ここには、標識はあるんです(強調) 

 …あるのですが、ここから先は草が深過ぎて進めません。お~~い~~

  

 さらに海沿いを南下、県境を越えて平潟へ。

戊辰戦争時、官軍が上陸した地。今回の震災時にも津波被害を被りました。

いわきも実は戊辰戦争時に戦場になっていまして、

平には山門に弾痕の残るお寺があります。調べてみたら、良善寺というお寺でした。

平の町並みが焼けたのは、太平洋戦争末期の空襲だけではなかった)

なんとか雨が降り止みました。  

 

平潟は、風光明媚でよく知られた港です。どこの角度を撮っても 「絵」になる風景。

  

太平洋戦争時末期の

「震洋(しんよう)(中古トラックエンジンと爆薬を搭載したベニヤ製モーターボート)と

航空機の部品を利用した「海竜(かいりゅう)の基地があった平潟。

その格納庫跡。(↓)  

 

往時を忍ばせる建物。  

かつては「洗濯屋」と呼ばれた言わば男性向けお宿があったそうです。

  

さらに戦争の跡を訪ねて、大津港へ。唯一残る、風船爆弾放球台

和紙を貼り、こんにゃく作った糊で固めた風船に水素を詰めて打ち上げ、

偏西風(ジェット気流)に乗せて、

太平洋の向こうまで到達させ(だいたい2日ほどで届いたという)アメリカ本土を爆撃しようという、

聞きようによってはなんとものどかな作戦ですが…

ベニヤ、中古エンジン、和紙、こんにゃく…

先ほどの「震洋」「海竜」といい、内容を打つ度に脱力感にも似た気持ちが湧いてきます。

 

 北茨城市漁業歴史資料館「よう・そろー」にて。 

 大津町の「大津御船祭り」で使用される「祭事船」(↓)。

豪華で手の掛かった装飾が施されています。

これを実際に海上に浮かべるさまは、さぞ華やかでしょう。 

 2階には、アンコウの展示があります。

紙芝居「アンコウたいちょうとメヒカリたいいん」作者としては、素通りは出来ません。

アンコウの吊るし切りの再現。近所の魚屋で毎冬見た景色。    

 

 世界のアンコウ(↓)。クリックすると、大きな画像が開きます。

 

 帰り際の車窓越しに、去年の七浜めぐりの時に傍まで行った常磐共同火力勿来発電所を臨む。

いわき南半分~茨城北端を駆ける文字通りの超高速!な歴史を爆走するツアーでした。

お世話になった皆さま、ありがとうございました。

 

今回いただいた資料の数々。

ある時代をテーマに絞ったコースがあれば、

その時代にこだわりを持つ人にも魅力あるものになりそうだし、

知られていない歴史を広く知らしめる形もありかと思えました。   

 

今回はお土産は「ようー・そろー」で購入したこれだけ。

植田の鮮場で思い切れなかったのが、最大の敗因でした。

 この教訓を次回の目標・リベンジとしたいです。

 

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いわき爆走!《超高速!町歩きツアー》その①

2014-06-24 12:23:06 | お出かけ

 平で用事があったため、当日昼前にいわき入り。駅ビルの半田屋で腹ごしらえしてから、目的地に。 

サンマのみそ焼き、甘じょっぱくて美味しかった。

ごはんは、ミニ(一番少ない)でコレ。とことん、食べたい人向けのお店です。

 

 20分前にポレポレに行くつもりが、気がつけば15分前。

あせあせ!で駆けつけました。

 上映館いわきポレポレのロビーにて。いつの間にか、いわきにもご当地アイドルが~ 

アイくるガールズ、ですって!!

 ツアー一行の皆さんと合流して映画鑑賞。

上映中の会場でたびたび巻き起こる爆笑。役者さんたちも楽しんで演じてます。

家老役・西村雅彦さんのなりふり構わぬ奮闘っぷりは、見物です!

次の回の列が階段にまで並んでましたー 。

 

 上映後、湯本に移動して懇親会。付き出しのカツオの荒煮がすごいボリューム!

 ウニの貝焼き。これはまださすがに地物ではない。…が。

「地物がとれるようになったら、国内各地・他国産との食べ比べがしたい!」の声が。

  お待ちかねのメヒカリちゃ~ん  

  映画のお殿様が鯛を食べていたのにちなんで…ツボダイも注文♪

「裏返した二日目が、美味いのお」

 

  これがなければ呑みは始まらない!お刺身の盛り合わせ―♪

カツオは、やっぱり腹(前列一番左端)が美味い。

クラゲ刺しも頼んだのに、撮り忘れた…(こりこりした食感が良かった)

 

宿泊は湯本の古滝屋さん。浴場の脱衣所前には、ぬかりなく木村牛乳の自販機!   

 

その後ろにさり気なく展示されている「岩城平城内外一覧図」。

同じものを綺麗に写したものが平駅前のいわき総合図書館5階の

「いわき四藩のお殿様~平・泉・湯長谷、 藩主の変遷~」で展示されています。(~9/28まで)

実家の在った辺りが、家中のお屋敷があったと思しいのがわかったり、

馴染みのある地名がたくさん。

 

 

そして、自販機の裏(というか、展示ケースの一番左側)も、ちょっと覗いて確かめてほしい。 

私は、良い絵だと思いました。

 

 

 白牛乳は風呂上りに、ヨーグルトは翌朝の朝食の時にいただきました。

 

 翌日はあいにくの小雨模様ながらツアー開始。

この日一日、この旗がツアーの先頭。映画の宣伝に使われているのと同じグッズです。  

まず最初に訪れたのは、 

 法界寺にある湯長谷藩初代・遠山政亮(まさすけ)と内室・真田氏が寄進した梵鐘。(↓)

震災で鐘楼が壊れたものの、復旧~原状に復帰しました。

いわきのお殿様は、いろいろと縁戚を通じて真田氏・伊達氏とも所縁が深い。

一番よく知られているのが、伊達家に嫁ぎ独眼竜こと伊達正宗の祖母となった久保姫(くぼひめ)。

戦国時代に詳しい人にとっては、平藩・内藤家の役回りはすごく面白い立ち位置のようです。 

人間関係が複雑過ぎて予備知識がないと、 その面白さが半分しかわからない所がちょっとツラい。

でも、その凄くマニアックな解説が

バスの隣の席に座っていた(戦国ゲーム大好きの)某氏には大受け。

クリックすると(↓)大きな画像が開きます。 

本堂も堂々たるもの。この日も法事が執り行われていました。 

 

 クリックすると(↓)大きな画像が開きます。 

 取材の方(一番奥)が同行、撮影中。

 

移動して、いわき市考古資料館の「近世いわきの藩展 ~湯長谷藩~」を見学。

 

 クリックすると(↓)大きな画像が開きます。  

 湯長谷藩の石高で建てるのが許されたのは、城ではなく「館(やかた)」だったそうで、

実際には映画に出てきたような石垣はなかった。   

湯長谷藩家中の見取り図によると、

親戚が住んでいるあたりも家中に引っ掛かっていそうだわ… 

 

 竜勝寺には映画の主人公・湯長谷藩主第4代・内藤政醇(まさあつ)の墓所(↓)があります。  

  

  次に寄ったのが、

駒ヶ佐和地蔵尊・別名・袈裟懸け地蔵。確かに、バッサリと切られた痕が。

夜な夜な通る人を脅かすため、内藤候に命じられた武士が退治・斬りつけた痕と伝わる。  

(傷痕を撮影する度胸、私にはありません…qでも、本当にスパッ!ときれいになっていました)

ここも、住宅と住宅にはさまれた「えっ?!」と思うような場所にあって、

つい昨年の七浜巡りの時にみんなで探した「大仏石(でぇぶついし)を思い出しました。

 クリックすると(↓)大きな画像が開きます。  

 

「どうやって車庫証明取ったんだろう…」の声が上がった路傍の光景。(↓) 

 

(↑) (昭和生まれの推測;昔、防空壕用に掘ったとこを転用?したんじゃなかろうか。

車庫証明を取ったかどうかは、確信持てず

 

湯長谷藩館跡に向かう途中に見えた、御濠の跡。 

 

 磐崎中学校校庭の石碑。この辺が映画で武芸の稽古をしていた辺り(かもしれない)。

揮毫は、木村守江元知事。

 

湯長谷藩歴代の藩主。クリックすると(↓)大きな画像が開きます。  

 

雨のそぼ降る中、戊辰戦争の激戦地・新田峠へ。

この峠に入る手前の道路の下を常磐線が通っています。 

右側の方が持っているのが(ボロボロになった)標識。 

  ここは、そのままドラマや映画の撮影に使えそう。

昔はこのもっと奥の途中におばあさんがやっている茶屋があったそうです。

 

 

 お土産を見繕いに、植田の鮮場に。

 いわき産の魚は見つからなかったけど、原釜のニクモチが…!!

 

買って持ち帰るか、それとも宅急便で…頭の中でぐるぐる。 

他を見て回りながら、思案。 

  うに飯も、売ってるんだ!(《 うに飯=駅弁=平の住吉旅館 》の刷り込みがある世代)

 

お昼前に買い食いする人も(↓)。

そういえば私の実家では、揚げ浸しよりも竜田揚げの方をよく作ってました。 

お弁当にも入ってたのを、思い出した。

…ニクモチお買い上げは、あきらめました。… 

 

 《その2に続く》

 

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いわき七浜めぐり① 10/6

2013-10-07 14:32:20 | 故郷のよすが

 

 

《『いわき七浜巡り』第1弾〜「小名浜さんま街道をゆく」ツアー日程 第2日目》

①常磐共同火力発電所 ⇒ ②小川きのこ園 ⇒ ③新舞子浜で芋煮会

 

・・・ぎゅうぎゅうだった昨日の日程に較べたら、一見ゆとりのあるプランに見えますが・・・

そうはいかないのが、いわき市という場所の怖い所。

①と②の間が軽く60km、車で約1時間の行程。市内を、海から山にかけて半日で南北縦断します。

 

まずは、常磐共同火力勿来発電所へ。

温排水に寄ってくる魚目当てに釣りに来る人たちの車が、防潮堤の向こう側にずらりと駐車中。

震災前は夏冬のピーク時期だけの操業だったのが、震災以降はフル稼働中。

ここからの電気が首都圏(=東電管内)にも送られて、原発停止中の生活を支えています。

( 『原発なくても、何とかなってるでしょ』 とおっしゃる方には、よくよく覚えておいていただきたい )

昨日より少し静かになった海。

 

 小川きのこ園へ。

 きのこの培地になるおが粉(=粉末状の木屑)に混ぜ込むいろいろ。(↓)消石灰は、ph調整用。

 ふすま(小麦の殻。米でいう糠、ですね)も混ぜます。 放射性物質対策に、ゼオライトも使用。

 ここで全部混ぜます(↓)。 

 混ぜたものを、ここから⇒ 

 

⇒ ここに移して、高温で消毒ののち⇒

⇒ この部屋で、冷まします。 奥にチラッと見えている銀色のファンが、冷気を送り込みます。

 これは、収穫を終えた培地の瓶。(↓)

きのこが出る時に二酸化炭素(CO2)が発生して熱がこもるため、各部屋の温度・湿度を調整します(↓)。

 培地用のおが粉を詰めた瓶の山(↓)。 菌を植えるのに良い環境を作ります。

 こんな感じになって盛り上がってきたのを(持っているのは、社長さん)⇒

⇒この機械(↓)に逆さまにセットして、 余分な部分を取り去り穴を開けると⇒ 

 ⇒こんなふうに。真ん中の穴・くぼみに、きのこの菌を植えて⇒

⇒菌糸が早く良く伸びるように、逆さまにしたまま置くと⇒

⇒こんなふうに(↓)、みっしりと培地の色が変わってくるくらいに育った状態に。  

 伸びる、伸びる⇒

 ⇒伸びてきた。 ここまで来ると、逆さまから元に戻して⇒

 ⇒瓶ごとの育ち具合を人の目で確かめながら、育成段階に合わせて環境を整えた部屋へ移動します。

 

出荷間近の部屋。 (↓)

 出荷を終えたら、室内は一旦清掃~消毒し、休ませてからまた使用します。(↓) 

 別棟の包装・パッケージをするエリア。 (↓)

 収穫されてパッケージ待ちのエリンギ(↓)。立派ー♪ 

  

 作業中(↓) 。

 椎茸もしっかりしていて、美味しそう。

 放射能測定も、自前でやっています。(近所から持ち込まれたものを測ってあげることもあるそうです)

きのこだけでなく、おが粉も検査して使っているそうです。

 

 

お話を伺った後は、お買い物タイム。

エリンギと椎茸、ヒラタケ、白醤油味の加工品をお土産に買いました。

帰ってから、きのこのパスタにしてみました。(↑) 

新舞子に行く途中で、寄り道。平の台所・(通称) やっちゃば

 小川きのこ園のエリンギが売り場に並んでいました。(↓) 

 かんぽの宿を目印に、芋煮の会場へ。 

 芋煮が出来上がるまで、BBQで腹つなぎ。 

 お好み焼きも。 

 待つ間、浜を歩いてみる。

まだ何もなかった頃、この辺りはハマボウフウや防潮林のきのこを採りに来た浜でした。

この潮見台も、(私にとっては)かなり後になって(かんぽの宿より新しく)出来たもの。

震災前に、一度か二度来たきり。

 薄磯方面を臨む。灯台のシルエットが、小さく見える。 

 

 そろそろ、芋が煮えてきた。福島は、《豚肉+里芋+味噌味》が定番。 

上京してほぼ同じものを「豚汁」と呼ぶのが、何だかピンと来なくて解せませんでした。

「豚汁」だと、芋がじゃがいもやサツマイモになっても大丈夫ですが、

「芋煮」はやはり里芋でないといけません。

 

 いただきます。 

 

 台風の接近で海が時化たため、試験操業が中止になったのが残念でした。

美味しいものをたくさん見て・食べて回りましたが、良い話ばかりではなく、残念な話・言い方にも出遭いました。

地元であれ福島県外であれ、考えて良い方向に持っていく努力~意識、時間、

そして正確な情報と、その普及・浸透 がまだまだ必要です。  

私のような地元出身者も含めて、地元にあるもの(産物・名所・歴史など)の素晴らしさ・貴重さに気付くことも

その一歩になりはしないだろうかとも思いました。 

 

移動中の車内の会話で、印象に残ったやり取りがあって・・・

「夏井川って、良い呼び方だよね。学園ものに出てくるみたいな」(東京在住の人)

 私(出身者)、Nさん(地元在住)「えー。そうかな?ずっと聞いてるから、わからない…」

(…どこの学校の校歌にも、閼伽井(赤井)岳 とセットになってるし…)

さらにもうひとつ。

「魚や食べ物が美味しいし、きれいな所があるから自分はいわきに来るんだけど、

いわきに住んでいる友達には『いわきのどこがいいの?』って言われる」(もう一人の東京在住の人)

 

・・・私も関東に出てからいかに美味い魚を食べていたかやっと分かったように、

自分の住んでいる環境の《日常》の水準の高さというものは、なかなか気付き難くて

かつ、良いものとして認識していない(はっきりとプライドを保持していないから、

外から批判されると(有り体に言えば、風評にさらされたりすると)、意外に脆く揺らいでしまうのではないか。

 

「このままではいけない。少しでも前に進むために、

被災地だからこその厳しい検査をした産品を 市場に出します」

 

試験操業について話してくれた漁協の職員さんたちのきっぱりとした言葉は、

震災以降の逆風にさらされ続けたから言える決意。

 10日に延期された試験操業が、再度延期になってしまいましたが、

私たちもめげずに、水揚げの喧騒・活気が小名浜港に戻るのを待ちたいです。

 

 

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いわき七浜めぐり① 10/5

2013-10-07 14:11:21 | 故郷のよすが

 

 よほど平(いわき)に先乗りして前泊しようかとも思いましたが、当日上野7時発のスーパーひたちでいわき入り。

《『いわき七浜巡り』第1弾〜「小名浜さんま街道をゆく」ツアー日程 第1日目》

 ①小名浜港水揚げ見学⇒②漁協さんから震災と漁業のお話し⇒③放射線検査室見学⇒昼食⇒

④富ヶ浦開港記念碑⇒⑤江名 諏訪神社⇒⑥片渕須直監督『花は咲く』取材地巡り(豊間)

⇒⑦四倉大川魚店⇒⑧津波伝承「大石仏(でぇぶついし)」⇒⑨久ノ浜

 

泉駅でツアー参加の皆さんと合流して、まず小名浜港へ。

ここに降りるのは、何年振りだろう・・・子どもの頃に何度か来たきり。

実家に船を背景にした写真があるはず(掘り出さないと、出て来ない)。

 3日に予定されていた試験操業が台風の影響で中止になって、再開を待つ漁船(↓)。 

水揚げ風景は、またの機会に。この天候では、致し方なし。

 魚市場の2階に上がって底曳網(そこびきあみ)漁協の方から、今までの状況とこれからの試験操業についてお話を伺う。

 いただいた資料とかつをうちわ。(↓) かつを 《正面顔》のキャラは、アクアマリンの館長さんのデザインだそうです。

 水揚げ港が違っていても、かつおが獲れる場所は同じなのです。 (↓)

 放射性物質検査を続けてわかってきた県水産試験場のデータ(↓)。 

こういうデータはなかなか広まらないのに反比例して、

報道がネガティブな現象(たまに出る基準値越え、良くわかっていない汚染水洩れなど)を先んじて

しかも強調して取り上げる風潮は、本当にどうにかならないのか。 

《 漁協の自主検査 × 明星大 × 県水産試験場 》 の三重の検査体制を敷いて、

 「 今まで検査に引っ掛かった魚は、市場に出していない 」

放射能検査体制を確立し、福島の魚が流通に乗るかどうか見極めるのが、

試験操業の目的。

それに加えて印象に残った言葉が、

「 生産者側から見ると、

『安全だから大丈夫、気にしないで食べる人が2割

食べて良いか、どうするか迷っている人が6割

何を言ってもダメ、拒否する人が2割』 」

 

 市場とは別棟の検査室を見学。

建物入り口で靴を脱ぎ、検査室の入り口でも一度スリッパを履き替え、かつ粘着マットで埃を取ります。

  ミンチにした検体(魚介類の可食部分)をここに入れて、測定します。

検体を入れるマリネリ容器(↓) 。

 

 これ(↑)にミンチ状にした検体1キロを詰めて、30分測定/検出限界3㏃。 

 こちら(↓)は、試験操業に合わせて導入された100g×50種類の検体を測定出来る新型機。

試験操業が予定通り実現していたら、この測定器が稼働している所が見られたはず。

隣の部屋で検体を処理(ミンチ状にして)、左側の小窓から受け取ります。(↓)

 

2点(↓)とも所内に貼り出されたデータ(クリックすると、大きな画像が開きます) 。

 

 

 砂利の敷かれている所は、市場を取り壊した跡(↓)。アクアマリンの向こう側の埠頭に、新しい市場が再建されるそうです。

震災の被害を受けなくても、40年超の建物でしたからねえ。私が行ったの、小学生の時だもの(⇒昭和34年生まれ)。

 

港近くで9月に再開したばかりの「さすいち」さんで、お昼。 金目鯛の煮付け膳を頼みました(↓)。 

メヒカリの唐揚げ。 

 

さんまの刺身。 新鮮でないと、刺身には出来ません。

 

見るからに美味そうな黄金色をした、さんまの酒盗焼き(↓) 、

コレも頼みたくて、金目鯛の煮付けとどちらにするか注文する時にすごく迷いました。

トマトのゼリー(↓) 、レモンの香りづけがさっぱりしていい塩梅。トマトも、いわきの名産品ですよー

 昼食後、富ケ浦公園へ。(↓) 

昭和初期の小名浜開港時、内閣が替わってチャラにされた開発予算再獲得のために尽力~奔走した

浜の男たち「白襷隊(しろだすきたい)の記念碑。

あの頃、成り行きとは言え100人を超す人数で東京に向かう決意・覚悟は、いかばかりのものかと。

治安維持法があって、特高に目をつけられたらもうヤバい、という時代です。

 隊員のひ孫にあたるツアー参加の方が、判りやすく解説してくださいました。

 

復興の黒松。 

 次は、江名の諏訪神社へ。 

 

参道から江名の港を臨む(↓)。町並みの向こう・崖の手前の、黄色いクレーンや白く並んでいるあたりが、港の建物。 

来る途中にも、傷みが目立つ家が目につきました。

ここの港も津波の酷い被害に見舞われましたが、この神社に避難して助かった人も少なからずいたのでは。 

調べてみると、いわきにはここの他に、四倉・小名浜・泉・中釜戸・小川・豊間にも諏訪神社があり、

殆どが海の側(小川の諏訪神社は、川沿い・小玉川、夏井川の側~合流地点近く)に勧進・建立され、

漁業・商売の神様として親しまれています。

 

海沿いに、豊間へ。

 ここ(↑)でトイレ~お茶休憩に寄った時、見つけました(↓)。 

 

「あんばさま」=おばあさん  …ちなみに、おじいさんは「おじんつぁま」「おじんつぁ」

震災前の地域の姿を、住民の方々による記憶と証言を元に再現しています。

これはこれで、もうひとつの「花は咲く」の姿・成果と言って良いのかもしれません。
 

いわきで演じられる演目にしたくて作った紙芝居を地元からの参加の方に見てほしくて、

紙芝居実演をサプライズにする提案をした所、豊間の津波跡を見た後に時間を取っていただけました。

 あいにく風が強く、小雨もちらつく中の実演になってしまいましたが、

参加していたお子さんもにもじっくり見てもらえて、かさ高い紙芝居の舞台を持ってきた甲斐がありました!

 実演の様子は、こちらで。 

薄磯海岸へ。防波堤の花々は、震災後に描かれました。 

 薄磯から太平洋を臨む。昔は、この監視台にも屋根があったのですが・・・ 

 防波堤と道路を挟んで反対側の豊間中学校跡(↓)。

校庭に積み上げられた瓦礫の風化具合や雑草の伸び具合が、震災からの時間の経過を物語ります。 

  また海岸線を北上して、四倉の大川魚店へ。 

 相馬で水揚げしたミズダコが売られてました。 宿呑み用のおつまみにお買い上げ。

社長さんに挨拶してから、次の目的地・大仏石(でぇぶついし)を目指します。 

所在地付近と思しい近辺に着いても、一向にそれらしい祠が見当たりません。

一度車を止め、近所で聞いて回ってもさっぱり分かる人にも出会いません。

たまたま「あそこかも・・・」と教えてもらった場所に向かう途中にも いろいろあって

やっとたどり着くと、 もうびっくりするような場所に目的の大仏石の祠を発見。 

最終的に案内してくれたおじさんが見せてくれた新聞記事(↑)。

 およそ600年前、大津波で海から転がってここ(丘の裾)まで運ばれて来たという由来のある石は、

「戦時中、この石にお参りしてから出征した人は、皆無事に帰ってきた」とも伝えられているそうです。

このあたり(四倉)の奥の鉱山ではかつて石灰石が掘り出され、

セメント工場も建ち(←駅から見える場所に工場があったのを私も記憶している)

そこに勤める人たちが住む住宅がこの近くにあって「セメント長屋」と呼ばれ羽振りが良かった時に、

大仏石を祀る祠を作ったとも話してくれました。 

こちらのブログにも、詳しい由来・伝説が綴られています。

この後さらに、津波の被害が酷かった久ノ浜へ。

カメラのバッテリーが心細くなったのと、豊間・薄磯もですがよく遊びに行って昔の風景を覚えているせいか

どうしても被災の跡を撮る気になれなくて、結局写真は1枚も撮りませんでした。

 

今日のお宿・小名浜神白(かじろ)温泉国元屋にチェックイン後、小名浜の栄寿司での懇親会へ。

 付き出し(さんま佃煮、〆鯖、鯨ベーコン⇒これが今まで食べたことのない味!くどくないのに濃厚で・・・

「そこらには売っていない」と店の人が言うくらいお高いのは、判る気がしました)。

 握り寿司。 

 アカジの焼き物。 

 さんま汁。

宿に帰って風呂上りに、酪王カフェオレ。知らないうちに県内メジャー(どこのコンビニにもある!)になっていた・・・

(私の学生時代には、浜通りでは見かけなかったんですよ) 

 宿呑みの肴各種。本当はこの時皆さんに「花は咲く」DVDをかける予定でしたが、

私の手落ちで(再生用PCのことをすっかり忘れていた・・・)見ていただけませんでした・・・

すみません、片渕監督(レジュメだけは、お渡ししてきました)。

(画像見直している時に、旅館の写真を撮り忘れていたのにも気付きました・・・) 

 

 《 いわき七浜めぐり① 10/6 に続きます》

 

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秘めたる顔(かんばせ)~定点観測~

2013-05-25 10:13:31 | 感想・つれづれ

 

 いつものウツギをチェックしたのが、5/15。(↓)

 

 まだ、咲き切っていない。加えて今年は、藤蔓が絡んだままであまり見栄えが良くない。

ちょっとがっかりして、別用を足しに出かける・・・と。

 

別な道路沿いの植え込みに、新顔を発見。

スーパーの側の交差点でここの前を何度も通っていたのに、知らなかった・・・

写真を撮っている向こう側を、車がびゅんびゅん走っていきます。傍目には、アヤシイ行動・・・(汗)

道の向こうは、スーパーの駐車場と某靴流通センター。

西陽が当たる場所、なのだ。 

 

 

 

 

1週おいて、また行ってみる。(5/23) 

 

あー、ちゃんと藤蔓刈ってくれたんだー。

ごっつい、満開―♪ 咲き切ると、華やかー

(↓)クリックすると、大きな画像が開きます。 

 

 

例の今年見つけた子も、見に行ってみる。

  

 

こっちも、満開♪・・・少し早く咲き出したせいか、しぼむ寸前の眩しさ。

 

 

 

 

 

 

おまけ。図書館の向かい側で見つけた。 

 

 

ハコネウツギ。咲いて行くうちに、色が 《 ピンク 》 と変わっていくんですね。

 

 

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東北復興観光◎南相馬市編 【 僕らの原町無線塔 ~相双旧軍遺構と産業めぐり町歩き 】11/4

2012-12-14 17:37:52 | 故郷のよすが

 

朝の松川浦。太平洋からの日の出が見られるロケーション。遠くに連なる砂州も見えます。

 

 朝の松川浦から、山を見る。満潮で海面が岸壁を越しています(地盤地下のため)。

 今朝、近くの宇多川で上がった鮭の卵(はらこ)を取り出し加工中。

 

 

いさみやさんの朝食。 

  

今日の街歩きは、いちごハウスから。

震災前は《松川浦の魚+和田のいちご》が仙台~近郊の定番行楽だったそうで、

多い時には1000~2000人のお客さんが集まることも。

私も、原町女学校出身の母から同窓会のお楽しみとして同級生の皆さんたちと

 《 新地の鹿狼山(かろうさん)温泉に一泊、松川浦でお昼、和田の苺狩り 》

・・・何回も寄ったことがあると、聞いています。   

 

苺観光組合の方に、震災後再建した新しいハウスを案内してもらいます。

水耕栽培を自動で温度管理、ミツバチを使って人工授粉。正式オープンは1月から。今回は見学のみでした。  

  

 苺の花が咲き出していました。実をつけると5月くらいまで収穫出来るとのこと。

このハウス裏手にもさらに新しいハウスが立つそうです。 

 

 宇多川の鮭簗場(で、いいのかな?)とにかく鮭の水揚げをする所。

おこぼれを狙った水鳥たちがわらわらと泳いでいました。網で川を仕切って鮭の遡上をせき止めています。 

 

 

 百尺聖観世音尊像。

もう少し南に下った大悲山に磨崖仏があるのは知っていましたが、これは知りませんでした;;

  

この日のお昼。たこ八さん。(松川浦にもお店あり)  

 

 これが噂の復興チャレンジ丼。

  

 相馬地方名産ほっき飯丼。残念ながら現在は北海道産使用中。

いわき人のうに・めひかり、相馬人のほっき貝は《 ソウル・シーフード 》

一日でも早い漁の再開を願いつつ完食。

 

昨日のタコに続き相馬産イカ焼きも。

良い焼き具合の表側、内側の半生なとこがとろけるように美味しい。  

 

 

午後は原町・朝日座から。どこに行くのかという細い小道を抜けると・・・

レトロな外観でありながらバリバリ現役の上映館です。

案内してくれた地元の方も、「ここでガンダムを見た」と言ってました。  

 

ここは私がお願いしてコースに入れていただいたのですが、

以前ネットで見た画像と看板の文字や壁面の色が変わっていました。

この建物が用済みではない、まだ町の一部として生きているが故の化粧直しでした。

窓口の台のタイルは古いものですが、壁面のタイルは後から貼り直したものなのがわかります。

 屋根の尖塔を見て、震災で倒壊~解体された平本町通のナカノ洋品店の青い塔を思い出しました。

 ちなみにこれがかつてのナカノ洋品店(↓)

東隣の堀薬局とともに、古い写真には必ず写っている平本町通のアイコンでした。

震災で倒壊、今は取り壊されて更地になっています。

 

 

 原町から小高駅へ。

駅は鍵がかかっていますが、屋根の棟瓦が崩れた後にはブルーシート。

落ちた瓦はひとまとめに片付けてあり、決して放置されてたままのわけではない。

 小高駅ホーム

今はそこまで宅地になっていますが、昔はホームから海まで見渡す限りの田んぼでした。

 

 小高駅の駐輪場。

震災が起きた頃は、自転車を置いて行った学生がまだ学校にいた時間帯。

どうやって帰宅~避難したのだろうか。またここに自転車を取りに戻って来れるだろうか。

  

再び原町へ。原町火力発電所を海岸から見る。 良い具合の西日に照らされて。 

ちょうど前々日の11月2日が震災以降の操業停止以来の試験運転初日だったそうです。

昨日見学した相馬共同火力発電所東京電力・東北電力に送電していますが、

こちらは、東北電力の施設。

震災の被害を受けた発電所は、福島第一原発だけではありません。

  

 太平洋を臨む。

 津波の引き波の爪痕。 (↓) 

 

 南相馬市立中央図書館へ。

昨日ガイドしてくださった郷土史家・二上さんの展示。今回のツアーに合わせての開催だそうです。

 

 展示の一部。これが機銃掃射したグラマン。

平の鎌田辺りの田んぼでグラマンに追い回されたと、高校の地学の先生に良く聞かされました。

 

 

昨日見てきた正門~格納庫跡は、(↑)の上半分の辺り。

大きい画像は、こちらをクリック⇒

 

 

山並に落ちる夕陽を見ながら松川浦へ。ひと時、残照を楽しんでから亘理へ移動して解散。

いろいろな方のお世話になった密度濃い2日間でした。 

 

福島駅にて。さんまの蒲焼きが福島風。 

 

お土産①

これは南相馬の道の駅で。「地域限定」にはつい引かれるww

みそ饅頭は撮る前にパック開けてしまった;;   

  お土産②

同じく道の駅で買った凍み豆腐。関東では同じものを高野豆腐と言いますが、

福島では厚さ半分ぐらいの薄さ。最近は汁の具にするような小さいのを良く見かけます。

 

 お土産③

これは福島駅で。チン!すると風味増します。

 

【 旅を終えて 】   

「原町に無線塔がある」ということは、取り壊しが決まった時に報道されて知っていましたが、
実物をちゃんと見たことはありません。 
また、祖母の実家があったり父が戦後の一時期働いていたりと何かと関わりがある割には、
原町の町自体を良く知りません。
元々、野馬追自体が遡ればかつての軍事演習に由緒を持ち、馬産地であったのを思い起こせば
ここに軍事施設が出来る理由が思い当りますが、
最初の特攻部隊に相馬出身の人物がいたのは今回初めて知りました。
案外、父(大正生まれ・出征経験あり)は今回尋ねた軍事施設のことを知っていたのではないかと言う気もするし、
日清戦争辺りからの記憶があったらしい明治生まれの祖母や、もろに挺身隊世代(=昭和ひとけた)の母、
伯父伯母たちが亡くなる前に、もっといろいろな話を聞いておけば良かったとこの頃しきりに思います。

自分の子供時代(昭和30~40年代)が思いの外、戦中・戦後の影響を残していた時代だったというのも、
最近思うことのひとつです。

 今回コースを設定する際に、母の実家に寄りたいという私の希望を下見から準備していただき、叶えてもらいました。
震災の数年前に行って以来、母屋の一部を取り壊したり別棟新築したりと様子が変わっているため、
Googleの航空写真で震災後の周りの様子は大体チェックしていましたが、
1年半以上人が住まない家の状態は実際見てみないとわからない。
それでも埼玉に住む従兄夫婦が何度か一時帰宅に通っているせいか、
家の中は辛うじて外~庭のような荒れ方を免れていたのがうかがえて安堵しましたが、
隣家のはがれ落ちた外壁の一部が庭に散乱したままだったり、
慌ただしく何も出来ずに家を出たのがうかがい知れる《日常》がそのまま断ち切られた様子や、
道を挟んだ向かいの古い長屋(母の子供時代から立っていた建物。築70~80年以上?)が潰れたまま
立ち入り禁止の黄色いテープが張られているのを目にすると、何とも言いようがありませんでした。

それでも、道路を車が走れるような状態に片付けてあり、駅にもノートが設置されたりと人の手が入り、
以前と同じ賑わいや佇まいが戻っていなくても、かすかに人の気配があるだけでも救われた思いがしました。

 現在の小高区は、無人ではない 

    消防・警察・ボランティア、わずかだけど外から通う人もいる。

    報道などで《 神隠し という言葉をただ「賑わい・人の姿がなくなった」意ならまだしも、

    明らかに「人が住めない、帰れない場所」の意味・前提で使われると、

    大いに違和感・抵抗があります。(というより、使い方を間違っているのに誰も指摘しない)

    あの《 兵糧攻め 》の頃のいわきの扱いと同様に、

    この《 神隠し 》や《 ゴーストタウン 》、《 死の町 》という言葉が使われるせいで、

    「南相馬=もう誰も住めない町」という漠然とした思い込み~誤解が

    外部に広がって定着する裏付け~遠因になっているのではないか?

    首都圏にいて「南相馬が…」と口にした途端にその場の空気が一瞬固まるのを、

    何度か体験している。

 
同じ南相馬市の中でも、
原町区と小高区では《 町として機能している(=インフラがあり、住民の暮らしが成り立っている) 》面で、
明らかに差がついてしまっています。
しかし、原町区でもすべてが震災前と同じに戻っているわけではありません。

私はいわきでの津波被災地をほとんど見ておらず、今回の旅で実際にその跡を見たわけですが、
正直、何の根拠もなく「いわきには津波が来ない」と思い込んでいた自分には、
何も言う資格がない気がします。(写真も撮りませんでした)

「いわきには津波が来ない」
を裏返せば「津波が来るのは、三陸だけ」

…そういう思い込みは、ある意味

「原発は田舎(地方)に、作ってもらった電気は(都会で)使うだけ」の構図を
無自覚に甘受しているのと大して変わらないのではないか。

 被災地の光景は、明日そうなるかも知れない自分の住む町の光景でもあるのに。

現地で実際に住んでいる方たちから、そこに居なければわからない話をたくさんうかがいましたが、
それをそのままここに書くのは、控えます。
現地に行って直接聞くか、
伝えるためのそれなりのスキルとモラルを持った人のきちんと取材を踏まえた報告でなければ、
結果的に実際にあったことを捻じ曲げてしまいかねないからです。
私には、ただ見てきたこと・感じたことだけを並べあげることしか出来ません。

かつて「いつでも、見に行ける」と思えたのは、当たり前の《日常》があったからこそであり、
断ち切られた《日常》を取り戻すために、見たかったものを今(+これからも)見に行く。 
そうやってささやかに積み上げていくことで、新しい《日常》を作り直し、
その時見た光景は記憶に焼き付け、自分にやれる形で残していく。

相馬・原町の町中を車で走りつつ、ゆっくり歩いて見てみたいと思えるような家並みを目にし、
帰って来てから思ったのは、

キレイに整った「見て下さい」と言わんばかりの名所旧跡を訪ねるより、

町の中に何もかも混ざり合い、今も住む人と共に呼吸しているようなそんな場所を尋ねてみたい。

そんな旅が自分には向いているし、自分が行きたい旅
なのだということでした。

今回、主催の井上リサ先生を始め同行の皆さんといろいろと話をしながら、濃い時間を過ごせました。
自分とは違う立場からの気づきや意見を知ることが出来て、かつ楽しい1泊2日の旅でした。

2日間案内して下さったり、行く先々でお話しを聞かせて下さった皆さん、ありがとうございました。

また今度は、苺狩りをしに伺います。

 

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東北復興観光◎南相馬市編 【 僕らの原町無線塔 ~相双旧軍遺構と産業めぐり町歩き 】11/3

2012-12-07 20:48:33 | 故郷のよすが

 

南相馬市は、いわゆる「平成の大合併」により 

《 小高町 》《 原町市 》、《 鹿島町 》が合併して出来た

福島県浜通り北部にある地方都市です。 

何度かこちらでも触れてきましたが、旧・小高町には私の母の実家があり、

原町市にも親戚・縁者が住んでいたこともあって、子どもの頃から何度も足を運んでいます。

小高の実家には震災の数年前から従弟家族が住み、

原町の鹿島区(旧・鹿島町)には従姉一家が在住していました。

昨年の原発事故により、市の南部にあたる小高区(旧・小高町)の一部が立ち入り制限区域と指定されましたが、

この4月に立ち入り制限が解除され、交通手段(=車)があれば出入り可能になりました。

 

「マイマイ新子と1000年の魔法」とマイマイ探検隊をご紹介したことをきっかけに、

度々お話している井上リサ先生が企画・主催されたツアーに11月3日・4日と一泊2日で参加してきました。

先生がTwitterで提唱されている《 着地型観光 》の一環として、地元の歴史も掘り起こしながら、

さらに被災地の実状も知り地元の復興にも役立とうと言う主旨の旅です。

《 着地型観光 》とは、

いわゆる「名所・旧跡、特定スポットを《点》で回る一般的な観光」ではなく、

「その地元に残されている歴史・つながり・住んでいる人も含めて《面》として捉え、楽しむ観光」。

最近の《聖地巡礼》がその一例とも言え、

マイマイ探検隊は、まさに 《着地型観光》の優良なモデル と言っても良さそうです。

そして今回のツアーは、私にとって震災後初めての小高訪問になりました。 

 

( 以下、Twitterのまとめに使った写真を中心に載せていきます。まとめは、こちら )

 

******************

 

当日(11月3日)は、10時に亘理駅へ現地集合。

乗り換え予定の福島駅直前で新幹線が地震で一時停電・停車と波乱の幕開け。

なんとかぎりぎりに集合地・亘理駅に到着、皆さんと合流しました。

このお城は、亘理市の郷土資料博物館。早く着いたら、中を覗くつもりでしたが残念。 

 

まずお宿へ。松川浦目の前のいさみやさん。   

 

 

 

 原ノ町駅へ。

伯母一家が原町に住んでいる頃良く遊びにいっていたのだけど、小高からバスで行くことが殆んどで

実は原ノ町駅に来たのは今回が初めてでした。

ここで地元の郷土史家・二上先生と合流。以降、案内をしていただきました。

  駅構内の壁画(↓)。構内は2階建てではなく、吹き抜け構造。

  駅前通りを見る。(↓)

スーパーひたちが、震災の日から停車したまま。 

 全面復旧が待たれる常磐線。せめて《原ノ町以北~仙台》が繋がってほしいです。 

 お昼はみうら食堂に寄って。

  肉うどんを注文。麺の茹で具合、昔食べたうどんを思い出した。

  

昼食後、まず夜ノ森公園へ。  

 神風特攻隊敷島隊中野磐雄隊員の銅像。

 

特攻隊護衛の零戦隊員の像も。(↓) 

 

元・原町陸軍飛行場。言わばパイロット養成所、飛行学校の跡地。

滑走路は舗装せず、ただ広い草原をその日の風向きに合わせて離陸していたと聞いて、びっくり。

全然想像がつかなくてボー然とする私に、同行のMさんが補足してくれました。

「昔のプロペラ機は、今の飛行機に較べたら紙みたいに軽かったから、

向かい風に向かえばそんなに長い滑走路飛ばなくても

ふわっ!て揚がって大丈夫だったんですよ。

いまでもアメリカに行けば、地面剥き出しの滑走路を使っている所はあります」 

 

この石柱(↓)を別角度から見ると… 

 

 グラマンの機銃掃射の跡(左側の削れた箇所)。

無線塔があったために原町は何度も爆撃されている。

 

 飛行機格納庫の礎石(↓)。この傍にももう1列残っている。

来る前に見た画像から想像していたより、はるかに大きかった。

(↑)の右隅向こうにも同じ礎石跡が見えます。これがなぜか民家の敷地のすぐそばで、

民家の向こう側にもさらに同じものがあって…民家を挟んでこういうものが残っているのでした。

周りは、草地と畑です。

  

 陣ケ崎公園墓地原町飛行場関係者慰霊碑

特攻など戦線のみならず、原町各所の爆撃でも犠牲者が出ている。

名簿の中には、朝鮮半島出身者の名前も。現在でも新たに判明した名前が刻まれていく。

 

 

南相馬市立博物館無線塔頭頂部メモリアル

関東大震災の第一報を世界に発信した無線塔は、長く原町のシンボルとして親しまれたそうです。  

案内役・二上先生による無線塔に関するまとめは、こちらを⇒

 頭頂部本体は、逆光入ってうまく写真が撮れませんでした。

 

次は 相馬共同火力発電所 わくわくランドにて。

 

震災被害説明のパネル状の赤いライン(↓)が津波最高到達点

説明してくれた担当の方も当時現場に居て、見学者をタービン建屋まで誘導・避難。 

 

  一般見学者と共に約1000人以上の構内関係者が頑丈なタービン建屋に避難、

在庫の防寒着などで寒さをしのぎながら救助を待った話を伺いながら外へ。

高さ200mの排気塔(左)と高さ90mのタービン建屋(右)(↓)。

この角度からでは排気塔がそんな高さには見えないのに、帰りに反対側から見たらすごい迫力。

共同火力発電所のある新地町から宿に帰る間に一気に陽が落ちて暗くなりだした中、

先週再開したばかりのスーパーシシドに寄り道。

元の店舗は松川浦にあって津波の被害が大きく、このたび相馬市に移転。

この土地が以前のフジコシの跡地と聞き、感慨深いものが。  

 フジコシは平に本店があった浜通り中心のスーパー。(今は倒産して店舗はありません)

昔、平の谷川瀬にあったフジコシの流通センターでPOPを描き各店舗に送るアルバイトしていましたが、

ここでフジコシの店名を聞くとは思っていませんでした。

平には、いくつもお店があってずいぶんと買い物しました。  

 店内で販売されていたさんまのすり身(↓)。浜通りのつみれは、これが材料なのです。

私は、上京してから初めていわしのつみれを食べました;;

  

 私の実家では、大晦日に必ずかれいの煮付けを食べたのですが、

《大晦日⇒年取り⇒加齢(かれい)》の単なるシャレなのか相馬地方の風習なのか、未だ謎です…

 鮭のチャンチャン焼き。浪江の請戸川でも鮭が捕れたのですよね。 

最近では、いわきの好間川でも鮭の遡上が見られるようになりました。

 

帰りに寄ったスーパーシシドでリサ先生が見つけてくれた相馬産ミズダコの刺身。(↓)

やわらかいのに噛んでいると旨味が・・・美味しくて、みんなでたいらげました♪ 

 

《東北復興観光◎南相馬市編 【 僕らの原町無線塔 ~相双旧軍遺構と産業めぐり町歩き 】11/4》 へ続く 

 

 

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《不安》を飼い馴らす~「1973年」という分水嶺を越えて~

2011-12-06 16:30:30 | 感想・つれづれ

 

3月の震災から、もうじき9ヶ月。

周囲の日常は、震災以前と同じに戻ったかに見える。

私自身も3月以前と変わらずに、絵を描き、家事をし、時にはアニメや映画を観に行き、

こんな文章を書いている。 

でも、どこかが決定的に変わってしまった。
 

3月のあの日、出身地である福島~いわきとの通信がすべて途絶えた。

TVに流れる続ける被害を眺めながら連日夜遅くまで
ネットにいわきの様子がUPされていないか探し回っていた。 

私がそんなことをしている間、
首都圏で同時進行していた様々なパニック騒ぎは、ただ傍観しているよりなかった。 

気が付くとスカスカになっているスーパーの商品棚、ガソリンスタンドに連なる長蛇の行列、
上空に絶え間なく響くヘリと飛行機の爆音、緊急地震速報の警告音、
計画停電を伝える市の防災無線、間引き運転される公共交通機関、

そして原発事故を巡る憶測や噂。

 「逃げて、どうなるの?」 

放射性物質は、目に見えない。

「なぜ今度は、チェルノブイリの時に報道でずいぶん見せられた

拡散予測図のようなものが出ないのだろうか?」

私は訝しく思いながら、いわきの状況を注視していた。

 

「首都圏も、汚染されてしまった」

「東京は、東北は、東日本は、もうお終いだ」

「西に逃げないと、ダメだ」

 

そんな言葉を聞きながらも、不思議なことにやみくもに逃げようとは思わなかった。
子どもが小さくなかったからと言えばそれまでだが、
常にどこか頭の片隅にこんな思いがあったからもしれない。 

「これは、本番だ。何度も、何度も、見て来たことが現実になっただけだ。

今は、試されているだけなんだ」 

当日、JRの乗り継ぎ駅の高架ホームで揺れに遭った。
本震で揺れている間中、そして余震が続く間中、
私はずっと肯定と否定の間を行き来していた。 

「本当に、東海沖地震が来たの?」「いや、ちがう」

「でも、今までと全然揺れ方が違う!」「なんで、こんな時に」

「今、来るわけが、ない」「なんで、こんなに揺れるの??」

逃げられない、後戻りの出来ない、やり直しなんて利かない・あり得ない

《 本番 》。

 私の両親は、戦前~戦中~戦後、高度成長、石油ショック、バブルと崩壊後、
ありとあらゆる《天国~地獄》を往復して来た《大正~昭和ひとケタ》世代。

昭和半ばに生まれた私は、高度成長の入口から《団塊世代》には頭を抑えられ、
《団塊Jr世代》からは突き上げられて、どっちつかずに押し出されながら生きて来た世代だ。

正直、経て来た経験の凄まじさゆえに親世代には、一生頭が上がらないだろうと思っていた。

あの日までは。

 
 バブルがはじけた後に今まで当然だった
いくつもの《何か》が崩れ出していくのをうっすらと感じながら、
崩れた後に見出す答えを言葉にも、行動にも出来ずにやり過ごしていた最中に

今度の震災と言う《 本番 》が、来た。 

避けて通れない、自分ではエンドマークを打てない
《現実》と言う名の《 本番 》だ。 

「逃げて、どうなるの?」

 
すべてを放り出して逃げなければらなくなった時は、何もかも一切合財が終わる時。
誰かを非難したり、罵倒したり増してどれがいいのか・どっちがいいのか
選んでいる暇なんて、ないはずだ。

 

私が学校に通い社会人になるまで過ごした1960年代後半~1970年代にかけて
断片的に現れる《 世界 》のイメージには、
常に東西冷戦下の不穏な陰があちこちに落ちていた。

 アメリカ・ソビエトの2大大国の対立。中東で、アジアで、戦端が火を噴く。
 

《 世界中には、

人類を100回滅ぼすぐらいの(量・数)の核兵器が配備されている 》

 《 毎年・毎月、世界のどこかで核実験がある 》

 
成層圏まで届く爆発時の雲から《 死の灰(フォールアウト) 

あまねく、逃れようもなく地球上のあらゆる場所に降り注いでいた。

大人も子供も、誰しもが今よりも放射性物質を多く浴びた食べ物を食べ、
今の首都圏よりももっと空間線量の高い空気を吸いながら歩いて学校に通い、
屋外プールで泳ぎ、道草を喰い、外を遊び回っていた。

そんなことが当たり前だった時代。


★ 

 そんな一方、その頃の日本のマンガ界は本当に凄かった。

メジャーな少年誌に《 終末・滅亡 》をテーマにした作品が
2本も(!)時を置かずに連載されていたのだから。 

1969~71年 少年マガジン連載  石森章太郎(当時) リュウの道

1972~73年 少年マガジン連載  永井豪  デビルマン

(どちらも、原作マンガとは同名・別設定キャラ×別ストーリーによるTVアニメが作られている)

 「デビルマン」は、人間を巻き込んだ神と悪魔の戦いと世界の終末を描き
(この作品で、新約聖書の《ヨハネの黙示録》を知った少年少女も多いはず)
「リュウの道」では、宇宙船のコールドスリープから目覚めた主人公が降り立った
《 核戦争以後の地球 》が舞台になっている。 

 

「リュウの道」は、映画「2001年宇宙の旅(1968年公開)」の影響が濃い作品としても
知られているが、作中で語られる

《 人類社会の変容と、滅亡に至る過程 》

《 情報社会とポピュリズムの関係 》に関して

シビアに言及している点で、むしろ今こそ再読すべき先見性~価値がある作品だ。

実際に2011年の今現在が、その中で語られているどの段階に差し掛かっているのか
思い当たる節を探し、思い定めるのが心寒くなる気さえするくらいだ。 

「リュウの道」「デビルマン」両作品ともに、
現在の雑誌には載らないのではないかと思われる表現が数多く登場する。
だが、当時の対象年齢読者だった私や友人たちが読んでいる最中に
「残虐だ」「気持ち悪い」「読みたくない」と思った(話し合った)記憶は、ない。

それは、《 エンターテイメント 》として良く出来ていた証明でもあり、
多分、《 破滅美 》《 異形美 》を認識した
(ほぼ)初めての経験だったからだと思う。 実際、あれほど
 今まで見たことのないもの・世界を見た 」気分になったことは、なかった。

 

 

 そして何よりも、両作品のラストは

決して 《 絶望 》 に終わっていたわけではないのだ。 

 

 

1973年。

小松左京「日本沈没」がベストセラーになり映画化され、
同時に五島勉「ノストラダムスの大予言」もベストセラーになったいわゆる

《 「現代社会の滅亡・終末」を描いて作品を成立させるエンターテイメント 》

メジャーな世界に出現したという、後にも先にもない年だった。

 現実の社会でも、第4次中東戦争によるオイルショックが起こり
戦後初のマイナス成長となったこの年は、「デビルマン」の連載が終了した年でもあり

言うなれば、マンガの世界では1960年代末~1970年代初頭の時点で

小説・映画に先んじて

【《現代社会の滅亡・カタストロフィ》を描いて、

エンターテイメントを成立させる力技・荒業】

やってのけていたことになる。

 しかし。

アニメーションの世界では、

マンガよりも早くその【力技・荒業】に手をつけていた。

 

今年10月の池袋新文芸座のオールナイトを観た後の席で
交わされていた、こんな会話(↓)があった。 

宮崎(駿)さんは、「どうぶつ宝島」の海賊船沈没シーンを撮りたくて
「天空の城ラピュタ」を作ったんだけど、実際に作ってみると
どうしても悲惨な場面になるのが避けられなくて・・・

 人間抜きでカタストロフィを描くなら、人以外のものを殺すしかないですから。
「もののけ姫」のシシ神殺しは、そういうところから出て来たのかも。
宮崎さんはほとんどのことを「未来少年コナン」でやってしまっていますから
あとはそのバリエーションという見方も出来るけど。 

  

なぜ、かくのごとく《 カタストロフィ 》がいつの間にか

《 アニメの中で語られるべき要素 》のひとつになっていたのか。

その先駆け・ルーツは一体どこにあったのか。

 

この(↑)会話を元に、私の解釈も加えて逆算してみよう。 

***********************

⑤ 「もののけ姫」のシシ神殺し(1997年

④ 「天空の城ラピュタ」の大崩壊(1986年

                        ↓   ←風の谷のナウシカ(1984年)

③ 「未来少年コナン」の舞台となった文明崩壊後の世界(1978年

                           ↓    ← 宇宙戦艦ヤマト(1974、77年)

             ↓    ←日本沈没、
                                   ノストラダムスの大予言(1973年)

                       ↓    ←デビルマン(1972~73年)

② 「どうぶつ宝島」1971年)の海賊船沈没シーン

↓                     

                      ↓    ←リュウの道(1969~71年) 

 「空飛ぶゆうれい船」1969年の都市崩壊・市街戦描写

 

 

 

「空飛ぶゆうれい船」の公開は、1969年。

先日の記事で引いた論文にもある通り、公開前年の1968年チェコ侵攻の報道や
第2次大戦を描いたイタリア・ネオリアリズム映画の影響とともに、
池田宏監督自身の戦時体験も映し込まれながら
「ゆうれい船」の都市崩壊のシーンが描かれていることになる。

 そして「空飛ぶゆうれい船」の魅力的なエッセンスのひとつ

《 船を、飛ばす 》発想を得て甦り、世に羽ばたいたのが

「宇宙戦艦ヤマト」なのは、すでに《周知の事実~アニメ界の常識》だ。

 遊星爆弾の攻撃にさらされた地球のありさまは、
「空飛ぶゆうれい船」で破壊された都市のさらに《 向こうの姿 》であり、
彼方まで墓標の続くイスカンダル星の光景は、
もっと先に仮定された《 カタストロフィ(本当の滅亡・終末) 》の行き着く果てだった。

 怪獣映画の怪獣たちは《 災害~災厄 》のごとく現れ来たりて
成敗され鎮まり滅びるか、あるいは元の古巣へ帰って行くが、
スクリーンに投影された《 現代社会を襲うカタストロフィ 》は、
観客と地続きの足元を呑み込んで行く。

  

 

 

1954年 第五福竜丸事件                    ←←← ゴジラ

1961年 ベルリンの壁が築かれる

1962年 キューバ危機

1963年 ケネディ暗殺                      ←←← 鉄腕アトム(TVアニメ初放映)

1964年                               ←←← サイボーグ009(原作マンガ)

1966年 文化大革命(~76年)                ←←← ウルトラマン

1967年 第3次中東戦争

1968年 テト攻勢 ソンミ村事件                ←←← 太陽の王子ホルスの大冒険
       チェコ侵攻(プラハの春)                     2001年宇宙の旅

1969年 東大安田講堂事件                  ←←← 空飛ぶゆうれい船
       アポロ11号月面着陸                      長ぐつをはいた猫
                                           リュウの道

1970年 大阪万博                        

1971年 バングラデシュ独立                 ←←← どうぶつ宝島
                                          仮面ライダー

1972年 北爆                           ←←← デビルマン 
       あさま山荘事件                          バイオレンスジャック
       ニクソン米大統領訪中
       田中角栄首相訪中、日中国交正常化
       「日本列島改造論」ベストセラーに

1973年 第4次中東戦争                    ←←← 日本沈没
       オイルショック 狂乱物価                   ノストラダムスの大予言
       戦後初のマイナス成長

1974年 ウォーターゲート事件                 ←←← 宇宙戦艦ヤマト(TV) 
       連続企業爆破事件

1975年 サイゴン陥落

1976年 毛沢東・周恩来死去
       ロッキード事件

1977年                          ←←←←←←← 宇宙戦艦ヤマト(劇場版)

1978年 成田空港開港                      ←←← 未来少年コナン

1979年 スリーマイル原発事故                 ←←← 機動戦士ガンダム
       アフガン侵攻

       ******************************

 60年代~70年代にかけて、それまでの《何か》が失われていく予兆・萌芽を
リアルタイムで体験しながら、同時に
制作者サイドの第一次体験(戦中・戦後体験×当時の危機意識)を重ねた作品
そこから派生した作品を通して、
いつか来るかもしれない明日の《 カタストロフィ 》を
二次体験していたかつての少年少女たち。

 それが、《谷間の世代》だった私たちだ。

 21世紀の今、量産されるフィクションの中で
《 物語としての滅亡 》が繰り返し再生されていく。
それは、あくまで《実際にあり得ない、架空の世界》
ボタンひとつ、コントローラーのスティックひとつでリセットされる
《プレイ》に組み込まれた《 消費 》の一環に過ぎない。

 

あの頃、《死の灰》を知らずに浴びながら
《 作品の中の滅亡・カタストロフィ 》を通して
自分の未来に《 いつか来るかもしれない明日 》を体験しながら
私たち=あの頃の少年少女たちは、

この世界が見せる《 漠然とした不安~絶望 》を紛わせ、消化し、

そして、飼い馴らしていた。 

「これは、本番だ」「何度も、何度も、見て来たことだ」 

《デジャヴ》が見せた《 いつか来る明日 》が、来た。
昨日までの《明日》、《 今日、いま現在 》になった。

 もし、《不安》という《毒》を自らのうちに飼い馴らすことなく
直に《 本番 》を迎えてしまったら・・・

一体ひとは、どうなるのか。どんな行動を取るのか。

 現在、様々な場面で起きているいくつかのこと、何分の一かの出来事は

《 自らのうちに不安を見出さず、飼い馴らして来なかった 》

その結果なのではないか。

  

《 千年に一度の災害 》 《 原発事故 》

 どちらも、「絶対に起こらない」という保証も確信もなかったのに
目を、耳を、塞いできたのは誰なのか。

 「これは、本番だ」「ただ、試されているのだ」

 残念なことに、今目についてしまうのは
《 カタストロフィを作品に反映させて、エンターテイメントとして
昇華~成立させる 》叡知やセンス、力技の顕示ではなく、

 《 現在進行中の災害を、現実の娯楽にすり換える 》

《 実際起きている被害と被災した人々を【おもちゃ】にする 》

 荒業とすら言えない無神経野蛮な卑しい所業だ。

  

《不安》という《毒》を【煽り・脅し】のネタに使って扇動に加担し

まともに《不安=毒》を喰らった人たちから暴利を貪り、生活を狂わせておきながら

自分は影響の及ばない《高み~遠く》から見下ろしている者たちがいる。


《善意》の衣をまといながら、正しい答えがないのをいいことに

自分の仮定・仮説を裏付けたい為だけ

わずかに見える《事実》さえも蹴散らし覆い隠して(あるいは、無視して)

《高み~遠く》から、本当に苦しんでいる人々へ

鞭打ちつつ石を投げ、あまつさえその《 死 》すら願うたちもいる。

 

 そうした者たちも、そうでもない者たちも、
まとめてもろともに
今、試されているのではないか。

 《不安》に怯えるのは当たり前で、恥じ入ることではない。
ただ怯えるあまり出す大きな声やアクションは、
さらに周りや本人自身を掻き回すだけでどちらにも幸せな結果をもたらしはしない。

《本番》の《不安》に耐えて行くには、
日頃から多少の薄まった《毒》に慣れておく必要があるのかもしれない。

そんな気がする。 

「逃げて、どうなるの?」

平成生まれのムスメたちに、東西冷戦下の雰囲気を伝えるのは難しい。
グローバル化が進み、よく言えばボーダーレス、悪く言えばすべてグズグズな今、
「2大大国の対立」そのものがひどく遠く、実感の薄い昔話にしか聞こえないらしい。

ただ言えるのは、

逃れようのない不安が覆いかぶさるあの頃を

精神の平衡を保ちつつ少年少女たちが生き延びるために

《 作品(フィクション)の中のカタストロフィ 》が、必要・必然だった。

 

最近、よく思い出す。

福島で流れる民放チャンネルが2つしかなかったあの頃、
夕方の時間帯には外国もののアニメや再放映のアニメ・特撮が放映されており、
本放映で見られなかった番組を埋め直すように見ていた。
《カタストロフィ》を二次体験する一方で、普通に対象年齢向けの番組もちゃんと流れていたのだ。

 高校受験を控えた冬、放課後の補習をサボる生徒が続出した「タイガーマスク」最終回の日。

 そんな日もあった、あの頃。 

  

今、目の前にある先の見えない困難を乗り越えていくために
何が出来るのか、何をしなければいけないのか。

今度は私たちが考え、最前線に立ち向かって行く立場になっている。

 かつて自分たちの第一次体験を作品に託した世代と同じように、

今の私たちが 《 伝えていくべきこと 》は何なのか。  

 

私たちは、一切合財を失ったわけではない。

《カード》は手元に残っているはずだ。必ず、どこかに。

 

パンドラの箱の底に、《希望》が残っていたように。

  

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