よほど平(いわき)に先乗りして前泊しようかとも思いましたが、当日上野7時発のスーパーひたちでいわき入り。
《『いわき七浜巡り』第1弾〜「小名浜さんま街道をゆく」ツアー日程 第1日目》
①小名浜港水揚げ見学⇒②漁協さんから震災と漁業のお話し⇒③放射線検査室見学⇒昼食⇒
④富ヶ浦開港記念碑⇒⑤江名 諏訪神社⇒⑥片渕須直監督『花は咲く』取材地巡り(豊間)
⇒⑦四倉大川魚店⇒⑧津波伝承「大石仏(でぇぶついし)」⇒⑨久ノ浜
泉駅でツアー参加の皆さんと合流して、まず小名浜港へ。
ここに降りるのは、何年振りだろう・・・子どもの頃に何度か来たきり。
実家に船を背景にした写真があるはず(掘り出さないと、出て来ない)。
3日に予定されていた試験操業が台風の影響で中止になって、再開を待つ漁船(↓)。
水揚げ風景は、またの機会に。この天候では、致し方なし。
魚市場の2階に上がって底曳網(そこびきあみ)漁協の方から、今までの状況とこれからの試験操業についてお話を伺う。
いただいた資料とかつをうちわ。(↓) かつを 《正面顔》のキャラは、アクアマリンの館長さんのデザインだそうです。
水揚げ港が違っていても、かつおが獲れる場所は同じなのです。 (↓)
放射性物質検査を続けてわかってきた県水産試験場のデータ(↓)。
こういうデータはなかなか広まらないのに反比例して、
報道がネガティブな現象(たまに出る基準値越え、良くわかっていない汚染水洩れなど)を先んじて
しかも強調して取り上げる風潮は、本当にどうにかならないのか。
《 漁協の自主検査 × 明星大 × 県水産試験場 》 の三重の検査体制を敷いて、
「 今まで検査に引っ掛かった魚は、市場に出していない 」
放射能検査体制を確立し、福島の魚が流通に乗るかどうか見極めるのが、
試験操業の目的。
それに加えて印象に残った言葉が、
「 生産者側から見ると、
『安全だから大丈夫、気にしないで食べる人が2割、
食べて良いか、どうするか迷っている人が6割、
何を言ってもダメ、拒否する人が2割』 」
市場とは別棟の検査室を見学。
建物入り口で靴を脱ぎ、検査室の入り口でも一度スリッパを履き替え、かつ粘着マットで埃を取ります。
ミンチにした検体(魚介類の可食部分)をここに入れて、測定します。
検体を入れるマリネリ容器(↓) 。
これ(↑)にミンチ状にした検体1キロ分を詰めて、30分測定/検出限界3㏃。
こちら(↓)は、試験操業に合わせて導入された100g×50種類の検体を測定出来る新型機。
試験操業が予定通り実現していたら、この測定器が稼働している所が見られたはず。
隣の部屋で検体を処理(ミンチ状にして)、左側の小窓から受け取ります。(↓)
2点(↓)とも所内に貼り出されたデータ(クリックすると、大きな画像が開きます) 。
砂利の敷かれている所は、市場を取り壊した跡(↓)。アクアマリンの向こう側の埠頭に、新しい市場が再建されるそうです。
震災の被害を受けなくても、40年超の建物でしたからねえ。私が行ったの、小学生の時だもの(⇒昭和34年生まれ)。
港近くで9月に再開したばかりの「さすいち」さんで、お昼。 金目鯛の煮付け膳を頼みました(↓)。
メヒカリの唐揚げ。
さんまの刺身。 新鮮でないと、刺身には出来ません。
見るからに美味そうな黄金色をした、さんまの酒盗焼き(↓) 、
コレも頼みたくて、金目鯛の煮付けとどちらにするか注文する時にすごく迷いました。
トマトのゼリー(↓) 、レモンの香りづけがさっぱりしていい塩梅。トマトも、いわきの名産品ですよー
昼食後、富ケ浦公園へ。(↓)
昭和初期の小名浜開港時、内閣が替わってチャラにされた開発予算再獲得のために尽力~奔走した
浜の男たち「白襷隊(しろだすきたい)」の記念碑。
あの頃、成り行きとは言え100人を超す人数で東京に向かう決意・覚悟は、いかばかりのものかと。
治安維持法があって、特高に目をつけられたらもうヤバい、という時代です。
隊員のひ孫にあたるツアー参加の方が、判りやすく解説してくださいました。
復興の黒松。
次は、江名の諏訪神社へ。
参道から江名の港を臨む(↓)。町並みの向こう・崖の手前の、黄色いクレーンや白く並んでいるあたりが、港の建物。
来る途中にも、傷みが目立つ家が目につきました。
ここの港も津波の酷い被害に見舞われましたが、この神社に避難して助かった人も少なからずいたのでは。
調べてみると、いわきにはここの他に、四倉・小名浜・泉・中釜戸・小川・豊間にも諏訪神社があり、
殆どが海の側(小川の諏訪神社は、川沿い・小玉川、夏井川の側~合流地点近く)に勧進・建立され、
漁業・商売の神様として親しまれています。
海沿いに、豊間へ。
ここ(↑)でトイレ~お茶休憩に寄った時、見つけました(↓)。
「あんばさま」=おばあさん …ちなみに、おじいさんは「おじんつぁま」「おじんつぁ」
震災前の地域の姿を、住民の方々による記憶と証言を元に再現しています。
これはこれで、もうひとつの「花は咲く」の姿・成果と言って良いのかもしれません。
いわきで演じられる演目にしたくて作った紙芝居を地元からの参加の方に見てほしくて、
紙芝居実演をサプライズにする提案をした所、豊間の津波跡を見た後に時間を取っていただけました。
あいにく風が強く、小雨もちらつく中の実演になってしまいましたが、
参加していたお子さんもにもじっくり見てもらえて、かさ高い紙芝居の舞台を持ってきた甲斐がありました!
実演の様子は、こちらで。
薄磯海岸へ。防波堤の花々は、震災後に描かれました。
薄磯から太平洋を臨む。昔は、この監視台にも屋根があったのですが・・・
防波堤と道路を挟んで反対側の豊間中学校跡(↓)。
校庭に積み上げられた瓦礫の風化具合や雑草の伸び具合が、震災からの時間の経過を物語ります。
また海岸線を北上して、四倉の大川魚店へ。
相馬で水揚げしたミズダコが売られてました。 宿呑み用のおつまみにお買い上げ。
社長さんに挨拶してから、次の目的地・大仏石(でぇぶついし)を目指します。
所在地付近と思しい近辺に着いても、一向にそれらしい祠が見当たりません。
一度車を止め、近所で聞いて回ってもさっぱり分かる人にも出会いません。
たまたま「あそこかも・・・」と教えてもらった場所に向かう途中にも いろいろあって、
やっとたどり着くと、 もうびっくりするような場所に目的の大仏石の祠を発見。
最終的に案内してくれたおじさんが見せてくれた新聞記事(↑)。
およそ600年前、大津波で海から転がってここ(丘の裾)まで運ばれて来たという由来のある石は、
「戦時中、この石にお参りしてから出征した人は、皆無事に帰ってきた」とも伝えられているそうです。
このあたり(四倉)の奥の鉱山ではかつて石灰石が掘り出され、
セメント工場も建ち(←駅から見える場所に工場があったのを私も記憶している)
そこに勤める人たちが住む住宅がこの近くにあって「セメント長屋」と呼ばれ羽振りが良かった時に、
大仏石を祀る祠を作ったとも話してくれました。
こちらのブログにも、詳しい由来・伝説が綴られています。
この後さらに、津波の被害が酷かった久ノ浜へ。
カメラのバッテリーが心細くなったのと、豊間・薄磯もですがよく遊びに行って昔の風景を覚えているせいか
どうしても被災の跡を撮る気になれなくて、結局写真は1枚も撮りませんでした。
今日のお宿・小名浜神白(かじろ)温泉の国元屋にチェックイン後、小名浜の栄寿司での懇親会へ。
付き出し(さんま佃煮、〆鯖、鯨ベーコン⇒これが今まで食べたことのない味!くどくないのに濃厚で・・・
「そこらには売っていない」と店の人が言うくらいお高いのは、判る気がしました)。
握り寿司。
アカジの焼き物。
さんま汁。
宿に帰って風呂上りに、酪王カフェオレ。知らないうちに県内メジャー(どこのコンビニにもある!)になっていた・・・
(私の学生時代には、浜通りでは見かけなかったんですよ)
宿呑みの肴各種。本当はこの時皆さんに「花は咲く」DVDをかける予定でしたが、
私の手落ちで(再生用PCのことをすっかり忘れていた・・・)見ていただけませんでした・・・
すみません、片渕監督(レジュメだけは、お渡ししてきました)。
(画像見直している時に、旅館の写真を撮り忘れていたのにも気付きました・・・)
《 いわき七浜めぐり① 10/6 に続きます》
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