討論の広場

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「投げ返す」について

2005-04-18 18:20:27 | Weblog
コメントありがとうございました。議論したい問題の一つでした。研究者の倫理に関わる問題で、おっしゃる通り、投げ返して投げ返せるものでもないし、現実が簡単に変革できるとも思いません。しかし「何のための研究か」、私(たち)は、この問いを避けて通ることもできません。研究に何ができるのか。それには、研究成果を報告等で現場に問う、つまり、問題の構造(普遍性)と解決の道筋(選択性)を提示する、「返す刀で」行政(権力)に「責任の取り方」を問いつめるといったこと「も」含まれると思います。とはいえ、それが、いかなる点で問題解決への「貢献」といえるのかどうか、答えは簡単でないと思います。結局、私(たち)は、現代の非人間的状況に憤りつつ、研究に何ができるかを「おろおろ」模索し、そのために現場に潜行して、研究の意味を検証し続けることで精一杯なのだと思います。しかしその中で、私(たち)と現場の溝を知ると同時に、現場に越境し続け、「共同性」の万分の一なりとも構築できたらなあ、という「夢」を追い続けることなのだと思います。「研究には何もできない」(虚無)でもなく「研究にいいことができる」(傲慢)でもなく、その狭間で右往左往する。私(たち)は、そのような漂流の孤独に耐えるしかないように思います。それを可能にするもの、それは、知の想像力と普遍性への飢餓感なのだと思います。「投げ返す」とは、本当は「研究者の闘い」といいたいところなのですが、このようにもたもたした話でどうも。(青木)

当事者と知識人の関係

2005-04-18 03:33:03 | Weblog
 本研究所の目的には、「研究の自己研鑽に努め、積極的に議論を交わし、また、現実世界を生きる人々に接し、人々に学ぶとともに、研究の成果を投げ返す、そのような姿勢で研究に臨みたい。」とあります.

 ただ、「研究の成果を投げ返す」という箇所が、私は方向性には共感しているのですが、しっくり理解ができていません.具体的にどういうことをさしており、「投げ返すこと」で現実世界を生きる人々にとって、どのような変化があるのか?というのがイメージできていないといえます.

 おそらく、単純に研究結果や報告書を持参し、説明を試みたとしても、現実世界を生きる人々の現状が変化するほど現状は単純ではありません.かといって、ニヒルになったり,現実世界を生きる人々への想像力を欠いた研究も違います.また、具体的に変化する対症療法も違います.

 先延ばしみたいですが、それでも追究しつづける態度こそが重要だということなのでしょうか?

「近代」について

2005-04-13 05:26:39 | Weblog
「近代」とはいつ始まり、どんな時代的特徴があり、中でも、日本の近代とはどんなものか。大きなテーマである。近代は、人間に個の確立と自由をもたらし(人間の解放)、民主主義を生んだといわれる。同時に、『啓蒙の弁証法』にあるように、近代の理性(合理主義)は、反理性(非合理主義)を生み出した(「ファシズムは近代の産物である」)。近代は、幻想共同体の国家を生み出した。人間は、個を解放したはずの近代の只中で、戦争や差別に翻弄されてきた。国家の罪悪は筆舌につくしがたい。人類は国家(主義)とともに死滅する。そのような予感さえ抱いてしまう。
私が抱える、明治期以降の、被差別の研究、都市下層社会の研究、「こつじき」の研究、象嵌職人の研究。それらに通底するテーマ「近代」。ポスト近代にあるといわれる私たち。今、新たな近代像が立ち現れるのか。「近代」との格闘に終わりはない。(青木)

私の修士論文

2005-04-13 05:10:07 | Weblog
 次回研究会に向けて、2月の連合研究会などの報告に対して、いただいたコメントを、整理して現時点で回答できるものはここで行い、研究会での議論を充実させたいと思い書き込ませていただきました.

 私の修士論文の紹介を最近の活動で簡単に行っているのでご笑覧ください.以下では修論に対する研究会でのコメントを紹介させてもらいました.追加でコメントや、質問があれば、ぜひ書き込んでください.よろしくお願いします.

 また、修士論文そのものもメールくだされば、郵送させていただきます.遠慮なく連絡ください.

 打越正行 [karp@mail.goo.ne.jp]

修士論文へのコメント

2005-04-13 04:40:24 | Weblog
(1)大学院口頭試問にて
A「若者文化による営みが社会や文化の枠組みを再生産するか抵抗かという対立を「ブリコラージュ」で乗り越えるとあるが、そこがよくわからないので再度説明を・・.」
→ 若者自身の多くの行動には、再生産の意識や抵抗の意識は部分的にしか存在せず、〈暴走族〉においては「ケジメ規範」が重視されているということでした.よって、そのケジメ規範ゆえに統制され、また抵抗も行われているという指摘を再度整理してみます.

(2)広島社会学連合研究会にて
B「今回の警察や行政と〈暴走族〉とのやりとりから、そんなに簡単に、〈暴走族〉を負けとしていいのか?」
→ 

B「裁判過程における統制は、合理的に退けられたというのではない.むしろ検察側の論理展開のほうが無理があるのではないか?」
→ 合理的というより、一般化する思考と具体的な事象から構築する思考とのすれ違いとして修正する.

B「〈暴走族〉のケジメ規範について、個人主義と全体主義を共在させるシステムとあるが、詳しい説明を・・.例えば、体育会系の価値観との差異はあるのか?」
→ 

B「若干結論を急いでいる感じがする.あと2・3年は継続してみる必要があるのではないか?」


B「集合的な〈暴走族〉は負けたかもしれないが、〈暴走族〉少年個人は負けていないのではないか?」
→ 

C「内部への排除について、詳しい説明を・・.アンダークラス論で用いられる排除と包摂概念との関係は?」
→ 

C「根源的受動性について、詳しい説明を・・.」
→ 

C「見える/見えない抵抗について、概念間の説明を・・.できれば、概念図隙を用いながら・・.」
→ 

(3)その他研究会やメールにて
D「〈ブリコラージュ〉概念の整理」
→ 

E「〈地続き〉の場所について、「はじめに」の調査方法についての記述が、後半の分析の箇所と関係付けられているか?」
→ 

F「〈暴走族〉を分析する際に用いた、M・セルトーや小田亮の日常的抵抗論の枠組みは、〈暴走族〉から現代社会を議論する際に有効な視覚として十分にいかされているか?」
→ 

※ 回答が空白の箇所は、随時追加していきます.この他にも回答すべき点や、質問などありましたら、よろしくお願いします

米澤日記のこと

2005-04-10 04:40:42 | Weblog
金沢の職人の(明治、大正、昭和初期の)日記分析をしている。関心は2つある。一つ、日記による生活史分析の方法的意義は何か。二つ、職人生活の近代化に、どのような「日本型近代化」像を見ることができるか。分析作業は遅々としている。しかし、2つの関心に独自の展開を期して作業を進めたい。(青木)