秋風千恵さんの『軽度障害者の意味世界:障害の重篤さは生きづらさと比例するのか?』(修士論文)を読んでの感想.(メールでコメントさせて貰ったものを一部修正したものです)
本論文では、障害の重さに序列化されがちな生活困難に対する通念を、軽度障害者の意味世界から問い直してありました.
彼らの苦しみには、大きく2つの理由があると指摘されます.
まず1つ.「ディスアビリティ」といえないもどかしさによるもの.重度の人の状態にくらべて、自身の身体障害が軽く映ってしまうことにより、社会に対して、周囲の障害者と一緒に反差別を訴えられないこと.
健常者から見れば、障害が不可視の当事者による発言は納得の範囲を超えたものとして聞こえてくる.それは社会秩序を揺るがすほどの主張とは聞き入れられず、むしろ個人の努力の問題へと、いつの間にか土俵が変更されてしまいがちになる.
さらに、周囲のより重度な障害者(同級生、家族など)からは、「健常者」とまなざされてしまい、現実に直面しているさまざまな困難についての悩みを発言、それを他の人と共有するという機会を奪われてしまう結果となってしまっていること.ここには、重度が軽度の苦しみを覆い隠す構造が存在するを指摘することができます.
そして2つ.障害が軽いこと、それぞれの経歴上の理由から、自身が障害者であるという認識を確立しないまま成長してきたことで、おおいかぶさる苦しみをどう捉え対処してよいのかわからないでいること.
周りの多数の人に比べて確かに存在する格差.でもそれは個別・個人的な問題として扱われてきたという経緯.あるとき、自分は障害者というカテゴリーに含まれる人間だと気づかされる.でも、生活のごく一部でしか「障害者」という実感が持てず、やはりアイデンティティのよりどころの見つけられない「根無し草」のままでしかいられない状態.どの定義(カテゴリー)にも収まりきらないゆらぐアイデンティティ(存在論的不安)と、それが自分の行為・相互行為に与える影響に関する固有のつらさが論じられていました.
障害者の社会生活上の戦略は、ウォルフェンスバーガーに系譜をもつ「パッシング(身元隠し)」から、自立生活運動に象徴される社会の差別的構造への異議申し立て(暴露)へ移ってきていますが、軽度障害者はその中間に立たされ・置き去りにされている現状でないかと思います.
いま、Z.バウマンを読んでます(『リキッド・モダニティ』).
社会が「重い近代」から「軽い近代」へと移行している中で、人々の苦悩がこれまでにないほど個別化していると彼はいいます.さまざまな紐帯の取れた社会で、人々が共有するのは不安のみであるのだけれども、依然それらは結び付けられることはなく個人の問題のままであり続けます.いやむしろ、個別化された問題はソフトな近代においては諸個人の主観の域を出ることができません.それは他者の抱える問題と比較・共有することができないことを意味します.ある一節に、「説明でなく見本を!」とシンボリックに現代人のメンタリティを要約している箇所があります.つまり、あるとしても、それは他者の様子を参照することでしかない.それらが、個々の足し算を超えた別の可能性につながることは期待されません.
軽度障害者のライフヒストリーが映し出すものはバウマンの診断に合致するように見えます.社会の排除構造を告発するのに、インペアメント(機能障害)の共有は十分ではなくなりました.障害者のカテゴリーは断片化され、相対的、さらには主観的なものになって行きます.重度障害者の自立生活(おそらく生活保護を受けている)を見て、軽度の視覚障害者の女性が「カッコええなあと思った.違和感はない.それがでけへんのが軽度っていう.」と述べる箇所が示すのは、インペアメントから自他を区分し、互いの様子は見聞きしあうけれども、現実の生活実践では個人の努力しか頼るものはない、ということを如実に表しているように思えます.
異なったインペアメントとの交流、そしてディスアビリティの共有、それらを構築する社会的権力へのまなざしが、次に求められる議論ではないかと思います.
(ごとう)
本論文では、障害の重さに序列化されがちな生活困難に対する通念を、軽度障害者の意味世界から問い直してありました.
彼らの苦しみには、大きく2つの理由があると指摘されます.
まず1つ.「ディスアビリティ」といえないもどかしさによるもの.重度の人の状態にくらべて、自身の身体障害が軽く映ってしまうことにより、社会に対して、周囲の障害者と一緒に反差別を訴えられないこと.
健常者から見れば、障害が不可視の当事者による発言は納得の範囲を超えたものとして聞こえてくる.それは社会秩序を揺るがすほどの主張とは聞き入れられず、むしろ個人の努力の問題へと、いつの間にか土俵が変更されてしまいがちになる.
さらに、周囲のより重度な障害者(同級生、家族など)からは、「健常者」とまなざされてしまい、現実に直面しているさまざまな困難についての悩みを発言、それを他の人と共有するという機会を奪われてしまう結果となってしまっていること.ここには、重度が軽度の苦しみを覆い隠す構造が存在するを指摘することができます.
そして2つ.障害が軽いこと、それぞれの経歴上の理由から、自身が障害者であるという認識を確立しないまま成長してきたことで、おおいかぶさる苦しみをどう捉え対処してよいのかわからないでいること.
周りの多数の人に比べて確かに存在する格差.でもそれは個別・個人的な問題として扱われてきたという経緯.あるとき、自分は障害者というカテゴリーに含まれる人間だと気づかされる.でも、生活のごく一部でしか「障害者」という実感が持てず、やはりアイデンティティのよりどころの見つけられない「根無し草」のままでしかいられない状態.どの定義(カテゴリー)にも収まりきらないゆらぐアイデンティティ(存在論的不安)と、それが自分の行為・相互行為に与える影響に関する固有のつらさが論じられていました.
障害者の社会生活上の戦略は、ウォルフェンスバーガーに系譜をもつ「パッシング(身元隠し)」から、自立生活運動に象徴される社会の差別的構造への異議申し立て(暴露)へ移ってきていますが、軽度障害者はその中間に立たされ・置き去りにされている現状でないかと思います.
いま、Z.バウマンを読んでます(『リキッド・モダニティ』).
社会が「重い近代」から「軽い近代」へと移行している中で、人々の苦悩がこれまでにないほど個別化していると彼はいいます.さまざまな紐帯の取れた社会で、人々が共有するのは不安のみであるのだけれども、依然それらは結び付けられることはなく個人の問題のままであり続けます.いやむしろ、個別化された問題はソフトな近代においては諸個人の主観の域を出ることができません.それは他者の抱える問題と比較・共有することができないことを意味します.ある一節に、「説明でなく見本を!」とシンボリックに現代人のメンタリティを要約している箇所があります.つまり、あるとしても、それは他者の様子を参照することでしかない.それらが、個々の足し算を超えた別の可能性につながることは期待されません.
軽度障害者のライフヒストリーが映し出すものはバウマンの診断に合致するように見えます.社会の排除構造を告発するのに、インペアメント(機能障害)の共有は十分ではなくなりました.障害者のカテゴリーは断片化され、相対的、さらには主観的なものになって行きます.重度障害者の自立生活(おそらく生活保護を受けている)を見て、軽度の視覚障害者の女性が「カッコええなあと思った.違和感はない.それがでけへんのが軽度っていう.」と述べる箇所が示すのは、インペアメントから自他を区分し、互いの様子は見聞きしあうけれども、現実の生活実践では個人の努力しか頼るものはない、ということを如実に表しているように思えます.
異なったインペアメントとの交流、そしてディスアビリティの共有、それらを構築する社会的権力へのまなざしが、次に求められる議論ではないかと思います.
(ごとう)