討論の広場

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「近代」について

2005-04-13 05:26:39 | Weblog
「近代」とはいつ始まり、どんな時代的特徴があり、中でも、日本の近代とはどんなものか。大きなテーマである。近代は、人間に個の確立と自由をもたらし(人間の解放)、民主主義を生んだといわれる。同時に、『啓蒙の弁証法』にあるように、近代の理性(合理主義)は、反理性(非合理主義)を生み出した(「ファシズムは近代の産物である」)。近代は、幻想共同体の国家を生み出した。人間は、個を解放したはずの近代の只中で、戦争や差別に翻弄されてきた。国家の罪悪は筆舌につくしがたい。人類は国家(主義)とともに死滅する。そのような予感さえ抱いてしまう。
私が抱える、明治期以降の、被差別の研究、都市下層社会の研究、「こつじき」の研究、象嵌職人の研究。それらに通底するテーマ「近代」。ポスト近代にあるといわれる私たち。今、新たな近代像が立ち現れるのか。「近代」との格闘に終わりはない。(青木)

私の修士論文

2005-04-13 05:10:07 | Weblog
 次回研究会に向けて、2月の連合研究会などの報告に対して、いただいたコメントを、整理して現時点で回答できるものはここで行い、研究会での議論を充実させたいと思い書き込ませていただきました.

 私の修士論文の紹介を最近の活動で簡単に行っているのでご笑覧ください.以下では修論に対する研究会でのコメントを紹介させてもらいました.追加でコメントや、質問があれば、ぜひ書き込んでください.よろしくお願いします.

 また、修士論文そのものもメールくだされば、郵送させていただきます.遠慮なく連絡ください.

 打越正行 [karp@mail.goo.ne.jp]

修士論文へのコメント

2005-04-13 04:40:24 | Weblog
(1)大学院口頭試問にて
A「若者文化による営みが社会や文化の枠組みを再生産するか抵抗かという対立を「ブリコラージュ」で乗り越えるとあるが、そこがよくわからないので再度説明を・・.」
→ 若者自身の多くの行動には、再生産の意識や抵抗の意識は部分的にしか存在せず、〈暴走族〉においては「ケジメ規範」が重視されているということでした.よって、そのケジメ規範ゆえに統制され、また抵抗も行われているという指摘を再度整理してみます.

(2)広島社会学連合研究会にて
B「今回の警察や行政と〈暴走族〉とのやりとりから、そんなに簡単に、〈暴走族〉を負けとしていいのか?」
→ 

B「裁判過程における統制は、合理的に退けられたというのではない.むしろ検察側の論理展開のほうが無理があるのではないか?」
→ 合理的というより、一般化する思考と具体的な事象から構築する思考とのすれ違いとして修正する.

B「〈暴走族〉のケジメ規範について、個人主義と全体主義を共在させるシステムとあるが、詳しい説明を・・.例えば、体育会系の価値観との差異はあるのか?」
→ 

B「若干結論を急いでいる感じがする.あと2・3年は継続してみる必要があるのではないか?」


B「集合的な〈暴走族〉は負けたかもしれないが、〈暴走族〉少年個人は負けていないのではないか?」
→ 

C「内部への排除について、詳しい説明を・・.アンダークラス論で用いられる排除と包摂概念との関係は?」
→ 

C「根源的受動性について、詳しい説明を・・.」
→ 

C「見える/見えない抵抗について、概念間の説明を・・.できれば、概念図隙を用いながら・・.」
→ 

(3)その他研究会やメールにて
D「〈ブリコラージュ〉概念の整理」
→ 

E「〈地続き〉の場所について、「はじめに」の調査方法についての記述が、後半の分析の箇所と関係付けられているか?」
→ 

F「〈暴走族〉を分析する際に用いた、M・セルトーや小田亮の日常的抵抗論の枠組みは、〈暴走族〉から現代社会を議論する際に有効な視覚として十分にいかされているか?」
→ 

※ 回答が空白の箇所は、随時追加していきます.この他にも回答すべき点や、質問などありましたら、よろしくお願いします