コメントありがとうございました。議論したい問題の一つでした。研究者の倫理に関わる問題で、おっしゃる通り、投げ返して投げ返せるものでもないし、現実が簡単に変革できるとも思いません。しかし「何のための研究か」、私(たち)は、この問いを避けて通ることもできません。研究に何ができるのか。それには、研究成果を報告等で現場に問う、つまり、問題の構造(普遍性)と解決の道筋(選択性)を提示する、「返す刀で」行政(権力)に「責任の取り方」を問いつめるといったこと「も」含まれると思います。とはいえ、それが、いかなる点で問題解決への「貢献」といえるのかどうか、答えは簡単でないと思います。結局、私(たち)は、現代の非人間的状況に憤りつつ、研究に何ができるかを「おろおろ」模索し、そのために現場に潜行して、研究の意味を検証し続けることで精一杯なのだと思います。しかしその中で、私(たち)と現場の溝を知ると同時に、現場に越境し続け、「共同性」の万分の一なりとも構築できたらなあ、という「夢」を追い続けることなのだと思います。「研究には何もできない」(虚無)でもなく「研究にいいことができる」(傲慢)でもなく、その狭間で右往左往する。私(たち)は、そのような漂流の孤独に耐えるしかないように思います。それを可能にするもの、それは、知の想像力と普遍性への飢餓感なのだと思います。「投げ返す」とは、本当は「研究者の闘い」といいたいところなのですが、このようにもたもたした話でどうも。(青木)
本研究所の目的には、「研究の自己研鑽に努め、積極的に議論を交わし、また、現実世界を生きる人々に接し、人々に学ぶとともに、研究の成果を投げ返す、そのような姿勢で研究に臨みたい。」とあります.
ただ、「研究の成果を投げ返す」という箇所が、私は方向性には共感しているのですが、しっくり理解ができていません.具体的にどういうことをさしており、「投げ返すこと」で現実世界を生きる人々にとって、どのような変化があるのか?というのがイメージできていないといえます.
おそらく、単純に研究結果や報告書を持参し、説明を試みたとしても、現実世界を生きる人々の現状が変化するほど現状は単純ではありません.かといって、ニヒルになったり,現実世界を生きる人々への想像力を欠いた研究も違います.また、具体的に変化する対症療法も違います.
先延ばしみたいですが、それでも追究しつづける態度こそが重要だということなのでしょうか?
ただ、「研究の成果を投げ返す」という箇所が、私は方向性には共感しているのですが、しっくり理解ができていません.具体的にどういうことをさしており、「投げ返すこと」で現実世界を生きる人々にとって、どのような変化があるのか?というのがイメージできていないといえます.
おそらく、単純に研究結果や報告書を持参し、説明を試みたとしても、現実世界を生きる人々の現状が変化するほど現状は単純ではありません.かといって、ニヒルになったり,現実世界を生きる人々への想像力を欠いた研究も違います.また、具体的に変化する対症療法も違います.
先延ばしみたいですが、それでも追究しつづける態度こそが重要だということなのでしょうか?