抵抗概念への問題提起ありがとうございます.後藤さんへの質問/コメントです.
言うまでもないですが,当事者の営みを私や後藤さんがどう呼ぶかより,そう呼ぶことでなにを提起できるのか?ということが重要です.後藤さんは,「抵抗」を政治的な意味合いが込められたものとし,政治性をともわない営みは「オートノミー」とする必要性を指摘されましたが,それはなぜですか?私はそれでは抵抗概念の問題意識やまた実情にもそわなくなってしまうと考えます.
なぜなら,抵抗概念の問題意識は西澤晃彦さんが,抵抗を「感受性喚起概念」であると述べたように,独立した事象ではないのです.ここでの感受する側は間違いなくマジョリティの方です.だから,後藤さんのいう「オートノミー(※)」では,その問題意識が薄れてしまいます.また,抑圧を被っている人にとっては「抵抗なんてしたくねえよ」ってのが大前提です(もちろん,「抵抗なんて呼ぶな」ともいわれそうですが・・).だから,統制とは独立した「オートノミー」ではダメなんです.抵抗をいうにはその統制とセットで提示することがまた重要な点だと考えています.そうしないと,両者の非対称性が隠蔽されてしまいます.また抵抗の実情もそのようになっていると思います.
※ 私は「なんらかの事柄や人物が,被抑圧者を統制しようとすることからの独立や自由」と訳しました.意訳しすぎか・・.
それと,
>打越(2005)の暴走族の営みをめぐる議論は、政治性の欠如にその抵抗の独自性を見出そうとする.
私は,政治性の欠如した抵抗を議論したつもりはないですが,後藤さんはどこからそのように解釈されたのでしょうか?教えてください.私の提示した〈見えない抵抗〉/〈見える抵抗〉は,当事者の営みにおける主体の仕組みの違いで議論しました.そもそも,後藤さんの政治性(政治的意味合い)っていうのは,どういうことですか?政治的でない抵抗なんて研究する意味あるのですか?
言うまでもないですが,当事者の営みを私や後藤さんがどう呼ぶかより,そう呼ぶことでなにを提起できるのか?ということが重要です.後藤さんは,「抵抗」を政治的な意味合いが込められたものとし,政治性をともわない営みは「オートノミー」とする必要性を指摘されましたが,それはなぜですか?私はそれでは抵抗概念の問題意識やまた実情にもそわなくなってしまうと考えます.
なぜなら,抵抗概念の問題意識は西澤晃彦さんが,抵抗を「感受性喚起概念」であると述べたように,独立した事象ではないのです.ここでの感受する側は間違いなくマジョリティの方です.だから,後藤さんのいう「オートノミー(※)」では,その問題意識が薄れてしまいます.また,抑圧を被っている人にとっては「抵抗なんてしたくねえよ」ってのが大前提です(もちろん,「抵抗なんて呼ぶな」ともいわれそうですが・・).だから,統制とは独立した「オートノミー」ではダメなんです.抵抗をいうにはその統制とセットで提示することがまた重要な点だと考えています.そうしないと,両者の非対称性が隠蔽されてしまいます.また抵抗の実情もそのようになっていると思います.
※ 私は「なんらかの事柄や人物が,被抑圧者を統制しようとすることからの独立や自由」と訳しました.意訳しすぎか・・.
それと,
>打越(2005)の暴走族の営みをめぐる議論は、政治性の欠如にその抵抗の独自性を見出そうとする.
私は,政治性の欠如した抵抗を議論したつもりはないですが,後藤さんはどこからそのように解釈されたのでしょうか?教えてください.私の提示した〈見えない抵抗〉/〈見える抵抗〉は,当事者の営みにおける主体の仕組みの違いで議論しました.そもそも,後藤さんの政治性(政治的意味合い)っていうのは,どういうことですか?政治的でない抵抗なんて研究する意味あるのですか?