討論の広場

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闇の子供たち―巧妙に日常に入ってくるネオリベラリズム―

2008-10-29 10:12:52 | Weblog
非常にセンセーショナルな内容の映画でした。
舞台はタイ。
臓器移植が生きたままの子供を使ってやられているという情報を手に入れた主人公、江口洋介がタイ中を飛びまわり、事件について追求していくという物語。
この映画では、幼児売春、生きている子供から臓器をぬきとり、そのまま臓器移植に使用する光景、役に立たなくなった子供を生きたままごみ収集者に突っ込む、という目を覆いたくなるような内容でした。
売春で男の子、女の子を買う大人は、西欧・日本人を中心に描かれていました。
おそらく、するっと忍び込む、西欧・日本のネオリベという名の「お金の魔力」を描きたかったのでしょう。
この映画を見て思ったこと。特に社会学をプロパーとしているものとして、二つの感想を抱きました。
① 社会学者に正義はいらないのか?
② ネオリベという思想を現前としたとき、お金でしか物事が解決しないのか。
という二点です。
① については、どのような社会学の分野でも言われていることかもしれません。この前、指導教官に、「あなたには、社会的正義感が感じられない」と言われました。しかし、この映画をみて、感じたことは、「COOL に社会を記述することの大切さ」でした。
この映画のあるシーンで、NGO団体のボランティア(宮崎あおい)と江口洋介が、実際にタイで移植手術を行う家庭へ訪問するということがありました。
NGOボランティアの宮崎あおいは、
「今すぐ止めて下さい、あなたのせいで一人のこどもが死んでしまうのです」
というのですが、江口洋介は必死に
「僕たちの仕事は、実際に社会を撮って語ることだ。それで救われる生もある」と説得していました。
「君の立場になれば、君が正しい。僕の立場になれば、僕が正しい」というボブディランのコトバを思い出しました。
宮崎あおいのとった行動のような、「単純な正義感」はネオリベを前にすると無に近い状態になるのではないかと思いました。ネオリベの恐怖は、そんな単純な正義感さえも無にする、お金を前にするとすべての出来事に太刀打ちできないということではないかなと思いました。
そんなネオリベにたいし、我々社会学者ができること。
「素直に対象者に耳を傾けること」しかできないのではないだろうかと思ってしまいました。その対象者が語る語りには、うそも、捏造もいろいろな困難があるのかもしれません。
ただ、そうしてしまった(そう言わせてしまった)社会に対して「語り」で訴えていくというのは、間違いではないと思うのですがどうでしょうか。僕は、宮崎あおいのような大胆な行動には出られませんが、社会学者としての正義というのは、今、現前にある事実を「書き取る」ことではないでしょうか。また、このような社会の仕組みを生まないために「書き取る」。だからこそ、社会学者は権力に対して繊細にならなければならないのだと思います。
② については、散々この文章の中で語ってきたのであえて詳しいことはいいませんが(私自身、ネオリベを理解していないのかもしれませんが)ネオリベという悪魔は、お金に物を言わせて、権力をも「買い取る」巧妙かつ大胆な仕組みなのかなと思いました。
とにかく、この作品では「社会学者の正義とそれに立ち向かう術」がいったいなんであるかを考えさせられるとてもいい映画でした。

吉崎一(ヨシザキハジメ)広島大学総合科学研究科 hyyoshiアットマークyahoo.co.jp

2 コメント

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Re: (ウチコシ)
2009-02-25 18:05:54
 「闇の子供たち」はチェックしていたにもかかわらず結局見れなかったので、吉崎さんの映画の紹介とコメントの書き込みは興味深く拝見しました。他にもこの映画を見た方の話を聞く機会がありましたが、とても衝撃的で重い映画のようですね。今後機会があれば、必ず見たい映画です。

 ところで私も短期間ですが、以前にベトナムとフィリピンに行ったことがあります。また韓国には9ヶ月ほど住んでいました。ベトナムとフィリピンには物乞いの子どもたちがたくさんいましたし、韓国には子どもの物乞いはいないものの都市、地方に限らずホームレスの方がたくさんいました。吉崎さんのコメントは、このような場面で社会学者はなにができるのかという問いかけのように(勝手に)読みました。

 「偽善的だ」「結局、自立にならない」「何様のつもりでお金をわたすのか」「一人にあげたら、他の子どもが集まってくる。すべての子どもにあげることはできない」「しっかり直視して日本での生活を改めるべき」など、いろいろな考えがあると思いますし、私も自問自答してきました。そして最終的に、私は物乞いの子どもたちには小額ながらお金を渡すことが多いです。社会学を学ぶものとしては恥ずかしいですが、私のその行為を論理的に説明することを放棄した結果です。目の前に苦しんでいる子どもたちがいるのにそれを助けるために理由なんて必要ないということです。行為に動機や説明を求めるのではなく、共感にもとづいて行っています。この共感は、あなたが私であったかもしれないし、私があなたであったかもしれないという感覚にもとづく共感だと思います。そして、このような共感によっても(もちろんこれだけじゃないですが)社会は維持されていると強く感じています。

 そして話は変わりますが、この共感をネオリベラリズムは破壊するのではないでしょうか?私自身いまだにネオリベラリズム自体がなんなのか勉強中なのですが、人をモノとみなすという意味では、資本主義や植民地主義なども同様の思想です。ただ後者が労働者や奴隷を矯正してモノ扱いするのに対して、外部から調達し矯正することなく使えなら捨てるというモノ扱いのようです。もう少し勉強してそれらの違いを明確にしていきたいと思います。また何か映画を見たり、考えたことがあれば書き込みをお願いします。コメントが遅れて失礼しました。(打越)
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返答 (吉崎)
2009-03-06 15:03:04
「偽善的だ」、「正義面している」と思われがちな、ある意味では「薄っぺらい」正義感の前に社会学者はどのように振舞って良いのかわからなくなります。現前に「食えない少年少女たち」がいたら、多少の恵みをほどこしてしまうのは、ある意味では仕方ないのかもしれませんね。
ただ、そのような「語れない」人たちのことを代弁していくことが、知識人の仕事であるようにも思います。
現実をいかに描写するのか。簡単そうでなかなか難しい問題なのかもしれませんね。
ネオリベに関しては、私の認識が薄いせいもあり中途半端な論調になってしまったことをお詫び申し上げます。どちらにしても「資源」として有用であるものであれば、何を商品としていいという思想に対しての、カウンターカルチャーだったように思えます。
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