討論の広場

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『何も共有していない者たちの共同体』に寄せて

2006-06-03 21:45:47 | Weblog
(感想文の一部です。興味が出ましたら、当書のご一読をお勧めします。)

『何も共有していない者たちの共同体』を読みました。平易で、まろやかな日本語文体で、一気に読み進みましたが、哲学調の文体に私の力では追いつけない箇所もありました。しかしそれでも、フレッシュで、シャープなメスの切り口にハッとさせられたことしばしばで、面白く読みました。思えば、私も、ホームレスやスラムや被差別などの「他者」の「もう一つの共同体」に住みたいと願いつつ、現実には社会学という合理的共同体に住んで、わが身は行ったり来たりしながら、また、表現世界では2つの世界を架橋したいと願いつつ、それをなしえない自己矛盾に苛み、それでもその苦痛から「逃げてはならない」、研究を選んだ時点で、その苦痛を生涯引き受けることを覚悟したはずなのだ、と開き直る、そのような自分自身の姿を、反射鏡のように鮮やかに映し出してくれた、私にとってそのような本でした。その上で、当書をみずからの身に引き寄せて、次のような感想を抱きました。
社会学にも、現象学的社会学や生活史法など、「何も共有していない者たち」のノイズを、語りがもつ多義的な意味の森となし、木々の間から聞こえる声に耳を傾けてこそ、合理的科学が看過し、排除してきた「もう一つ別の共同体」が見えるのだという議論があります。私もかつて、寄せ場労働者の「意味世界」という窓からその実践を試みてはみました。しかし、そこで私はいつも、永遠に解決できないかに思われる2つの難問に突き当たってきました。一つ、「何も共有していない者たち」のノイズにどれほど懸命に耳を傾けようと、結局は、聞き取ったものを科学・論理の鋳型に嵌めこんで(加工して)、知の共同体に持って帰らざるをえないのであり、その意味で、研究は自己疎外であり、暴力なのだということです。その暴力を些かでも和らげるには、リンギスが文章の間に間に世界放浪の自己体験の逸話を散りばめたように、まずは、徹底的に耳を研ぎ澄まし、繊細でまろやかで柔らかな、つまり、ノイズを最大限に記号化した文体を綴るしかないように思います。二つ、「何も共有していない者たち」のノイズを、そもそも完全に聞き取ることなどできるのかという、他者と私の存在の溝にかかわる問題です。心は、彼・彼女らとともにあり、彼・彼女らとともに生きかつ死にたいと思っていても、彼・彼女らのノイズの理解不可能という問題は、厳然として残るのであり、また、彼・彼女らの共同体に住みきることはできないし、永遠に願い続けるしかないということです。他者の生に共感し、笑い、泣き、怒りながら、次の瞬間には、恐怖の孤独が待ち受けている。結局、研究という行為は、他者との瞬時の共存に賭けて、延々と続く孤独に耐える営みである(瞬時の共存は、それが可能なほどに強烈な励ましではありますが)、そのことの拒絶は、研究の「死」をしか意味しない。研究する者は、どこにも落ち着く世界をもたないパーリアである。このように思います。
私自身は、これら2つの知の地獄から、瞬時にでも脱出しようと、ときどき、恥ずかしい詩作の世界に旅立ち、そこで元気をつけて舞い戻るといった、たわいないことを試みています。いつか社会学と詩の中間で人びとのノイズの叫びを記述してみたい。そのような「あほな」ことを考えています。
リンギスの本は、合理的共同体の知や認識との闘い、ないし「何も共有していない者たちの共同体」の知的現前を主題にしたものです。その点、私の感想は的外れなものです。それを承知の上で、あるかもしれない誤読も含め、私なりの体験的(経験主義的?)感想を綴った次第です。(青木)