うるしのまわり

   塗師の日々から

京都の棗 その3

2010-08-23 | うるしのまわり
お盆を挟んで更新に間が開いてしまいました。

前回の最後に、ロクロで研いで作った棗は美しいと思えないということを書きました。
ちょっと乱暴な言い方でしたね。

世の中には蒔絵師さんや作家さんの手によって
上品で素敵な棗が数多く生み出されています。
そのところにおいて私はなんら疑問はありません。

ここでは、品と格というものを分けて考えたいと思います。

上品、品の良さはとても大事です。

一方で、格、風格、古格の有無も見逃せません。
ごくごくシンプルな姿でありながら、
そこにあるだけで場の空気が変わるような、重量感を意識させるような、
まるで意志を持っているかのような、緊張感のある力強い姿。
蒔絵が入っていても、黒漆一色でも、まとう衣を選ばない美しさ。

棗なんて、お点前で抹茶を入れておく容器に過ぎません。
だから、棗と呼ばれる形をしていて、
きちんとうるしで作られて きっちり塗りが施されていれば、いいのです。

でも、それだけで満足しないのが人間というものでしょう。

利休の頃の棗の名品のあの厳しい姿。。
ブランドに惑わされて贔屓目に見ているのかもしれません。
でも、現代の棗の姿のなんとやさしいことか。。

現在、棗の下地から仕上がりまで一貫して作っている人はかなり少ないです。
もちろん分業制が基本ですから当然といえば当然。
また、コストの問題もありますからロクロを利用して企業努力をするのも当然。
そうなれば徒手で作る人間が絶滅危惧種になるのも自然の流れ。

実は、自分もそんな絶滅危惧種の一員であることの危機感から
この話を始めたわけではありません。

どうもこのところ、商品としての棗の価値基準が
「上塗りは完璧でないとアウト」ということに極端に偏っているようなのです。
これが、京都の業界でもちょっとした問題になっています。

きれいに仕上げるために上塗りするのですから、
何がおかしいの?と思われるかもしれません。
しかし、人間が刷毛で塗っているのですから、刷毛を通した跡が
ごくわずかなうねりとなって残ることがあります。
吹付け塗装のようにはいきません。
また、目立たないところにごく小さなホコリが一粒が残っていることもあります。
それらが全て返品されて戻ってくるというのです。
しかも、返品の理由が、それだけ。

え?それの何が問題なの??
だったら完璧に塗る努力をすればいいだけじゃないの?
と疑問に思われても仕方ありません。

解決策として、回転風呂を導入すれば様々なことがクリアできます。

でも、棗ってそういうものだっけ?
どちらかといえば枝葉末節のことでダメ出しをもらっている印象です。

しかし、売り手 使い手がそちらに重きを置いているのだとすれば
こちらからも思いを発信しなければならないと考えています。
コメント (2)
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