「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き(朝日新聞デジタル3/24(土) 21:39配信)
言わんとすることはわかる。
介護保険制度導入後、「痴呆症」は、「認知症」と言い換えられた。
当時私も何も考えず「ぼけ老人」や「痴呆はいっちゃったよ~」なんてよく言ってた。当時、言葉を変えたことによって、「痴呆」と言う言葉の意味を考えるようになった。名称変更は、一定の効果があったとは思う。
でも、現在はどうか??
「認知はいっちゃったわ」「それって認知っぽいわ」とか、「痴呆」とは言わなくなったが、言葉は変わっても、やはり「認知症」という言葉が「痴呆症」と言う言葉に成り代わり、同じような言い回しとして使用されている。
結局、言葉だけの問題じゃあ、ないんじゃないかな…
障害者…障がい者…障碍者…しょうがいしゃ
子供…子ども…こども…
これらの表現も、こだわりがある人は多い。
言い回しを変えればよいのか?
言葉を変えれば、侮蔑的な表現をする輩はいなくなるのか?
いなくはならないだろう…一定数はどんなに言葉を変えても、侮蔑的表現として使用する輩はいなくはならないと思う。
言葉の問題ではなく、もっと認知症に対する理解教育の徹底のほうが良いと思う。
また、端的に現状を表す言葉を使用するのは必要だとは思う。専門職同士での申し送りや議論、論文の記載等に長々と言い回しを変えて表現するよりは、短くすませたい。
それに、当事者が言えばすべて正しいかと言えば、そうでもないと思う。
記事中の認知症の男性は、「徘徊と呼ばれるのは受け入れられない」という。勿論、嫌がっていようが嫌がっていなかろうが、当事者に使うべきではない。
朝日さんは、誇らしげに「~今回の見直しは『私たちは使わない』という朝日新聞の姿勢を示す~」らしいが、言葉遊びに終始しないで欲しい。
あれはダメ、これもダメとやっていると、本質的なことから遠のいていく気がしてならない…
逆に、「徘徊」という単語を、悪意をもって使っているかのような状況を生みださないで欲しい。
当事者が言っているから正しいと言って、表現をあっさりマスコミが変更するのもどうかね…
もっと、本質的な議論を提示してうちはこうすると言って欲しいなあ…
言われたから変更しますは、単に当事者への迎合した浅い考えだと思う。
言わんとすることはわかる。
介護保険制度導入後、「痴呆症」は、「認知症」と言い換えられた。
当時私も何も考えず「ぼけ老人」や「痴呆はいっちゃったよ~」なんてよく言ってた。当時、言葉を変えたことによって、「痴呆」と言う言葉の意味を考えるようになった。名称変更は、一定の効果があったとは思う。
でも、現在はどうか??
「認知はいっちゃったわ」「それって認知っぽいわ」とか、「痴呆」とは言わなくなったが、言葉は変わっても、やはり「認知症」という言葉が「痴呆症」と言う言葉に成り代わり、同じような言い回しとして使用されている。
結局、言葉だけの問題じゃあ、ないんじゃないかな…
障害者…障がい者…障碍者…しょうがいしゃ
子供…子ども…こども…
これらの表現も、こだわりがある人は多い。
言い回しを変えればよいのか?
言葉を変えれば、侮蔑的な表現をする輩はいなくなるのか?
いなくはならないだろう…一定数はどんなに言葉を変えても、侮蔑的表現として使用する輩はいなくはならないと思う。
言葉の問題ではなく、もっと認知症に対する理解教育の徹底のほうが良いと思う。
また、端的に現状を表す言葉を使用するのは必要だとは思う。専門職同士での申し送りや議論、論文の記載等に長々と言い回しを変えて表現するよりは、短くすませたい。
それに、当事者が言えばすべて正しいかと言えば、そうでもないと思う。
記事中の認知症の男性は、「徘徊と呼ばれるのは受け入れられない」という。勿論、嫌がっていようが嫌がっていなかろうが、当事者に使うべきではない。
朝日さんは、誇らしげに「~今回の見直しは『私たちは使わない』という朝日新聞の姿勢を示す~」らしいが、言葉遊びに終始しないで欲しい。
あれはダメ、これもダメとやっていると、本質的なことから遠のいていく気がしてならない…
逆に、「徘徊」という単語を、悪意をもって使っているかのような状況を生みださないで欲しい。
当事者が言っているから正しいと言って、表現をあっさりマスコミが変更するのもどうかね…
もっと、本質的な議論を提示してうちはこうすると言って欲しいなあ…
言われたから変更しますは、単に当事者への迎合した浅い考えだと思う。