同じ本を読んでも、人によって感想が大きく食い違うことがある。そういうとき、どうしてだろうか、と不思議に思ったことがあるとすれば、その人はすでに読書の本質に一歩近づいたことになる。
目をあけていれば、ぼんやりしていても、いろいろなものが目にはいってくる。これが「見える」ということである。もっとよく見ようとするには、目を凝らして「見る」ようにしなくてはならない。文章を読むには、この「見る」でもまだじゅうぶんではない。文章の理解には、もっと強い心の働きかけ……つまり、読む人の解釈が必要である。同じ本を読んでも、人によって読み方に差が出てくるのは当然であろう。
今かりに、同じ景色を、同じ地点から、同じカメラで、続けて二枚の写真をとったとする。二枚の写真は同じになるはずである。これが、カメラではなくて、二人の画家が同じ所から同じ風景をかくとすると、でき上がる絵はけっして同じにはならない。ものを読むのにも、読む人の個人差に影響されない読み方があるとすれば、これはさしずめ写真のような読み方だと思ってよい。しかし、読書は、実際には、読む人個人の解釈が加わって成り立つもので、読書の印象は、画家のかく絵に似たものということになる。
読書は写真をとるようなものだと考えている人にとっては、読み方が人によって異なるのはなぜであるのかわからないかもしれないが、読書は心の中に絵をかくのに似ていると考えれば、それはいかにも自然なこととして納得されるであろう。
目をあけていれば、ぼんやりしていても、いろいろなものが目にはいってくる。これが「見える」ということである。もっとよく見ようとするには、目を凝らして「見る」ようにしなくてはならない。文章を読むには、この「見る」でもまだじゅうぶんではない。文章の理解には、もっと強い心の働きかけ……つまり、読む人の解釈が必要である。同じ本を読んでも、人によって読み方に差が出てくるのは当然であろう。
今かりに、同じ景色を、同じ地点から、同じカメラで、続けて二枚の写真をとったとする。二枚の写真は同じになるはずである。これが、カメラではなくて、二人の画家が同じ所から同じ風景をかくとすると、でき上がる絵はけっして同じにはならない。ものを読むのにも、読む人の個人差に影響されない読み方があるとすれば、これはさしずめ写真のような読み方だと思ってよい。しかし、読書は、実際には、読む人個人の解釈が加わって成り立つもので、読書の印象は、画家のかく絵に似たものということになる。
読書は写真をとるようなものだと考えている人にとっては、読み方が人によって異なるのはなぜであるのかわからないかもしれないが、読書は心の中に絵をかくのに似ていると考えれば、それはいかにも自然なこととして納得されるであろう。
2010/5/5(水) 午後 2:01