だいたい、数年前から流行りだした風習(全国的には)であるのにここ数年で一気に広がっいて、
しかもこれのブームを仕掛けたのが、すし屋とコンビニとジャスコに違いない!
ということまで分かっているのに、
なんでそんなにやすやすとみんな、ブームに乗っかるのだろう?
それだけコンビニやジャスコなど、目に付きやすいところで否応無くディスプレイされていると、なんとなく便乗してしまうのだろうか?
ということで、明日は節分。
ということは、あさってが立春!
まだ寒いですが。。。。
で、話がずれましたが、節分の話です。
このわたくしめ、生まれも育ちもこの日本国であり、
少々の海外渡航歴はあるものの、国外に住んでいた経験も無く、
いわゆる純粋な日本人の部類に値すると思われます。
(たぶん)
ですが、ある意味「異邦人」だとも思っております。
それがいわゆる、
「日本人としてあたりまえにすごしている生活習慣上の宗教行事を、ことさら忌み嫌うようにしていること」があるからだと思います。
たとえば、初詣。
多くの日本人は、あまり意味など考えずに寺社仏閣へ。
もしくは、本当に願掛けに寺社仏閣へ。
もちろん、我が家は行きません。
寺社仏閣の故事由来を、今流行の「ブラタモリ」よろしく調べたり、たたずんだりするのは楽しいと思っています。
しかし、間違っても願掛けなどはいたしません。
そこには、人間の思いがつまっていたとしても、
わたしたちを真に守ることの出来る神が存在しない、
と思っているからです。
で、節分です。
豆を撒くのは、邪気を追い払うため、と伝え聞いております。
掛け声はもちろん、「鬼は外!福は内!」。
1年の無病息災を願い、邪気をはらい、体を清め、1年が守られるように願を掛け、福の神を読んで幸福と商売繁盛を願う。
そこまで考えて行っている人、なんとなく年中行事だからなんとなく行っている人、いろいろあると思います。
(まあ、日本人は元来、「行事計画」というのが大好物ですから)
でですね、その行事を惰性でなんとなくではなく、本当に自分にとってどのような意味を持っているのか?
と考えた時に、
大変な意味を持っていることが多いのですよ!
何の話を言いたいかというと、子供の保育園の話。
あす、子供の保育園で豆まきを行います。
公立の保育園ですので、特に宗教的な意味は無く、年中行事の一貫として行う行事であります。
保育園の先生方もそのつもりで準備なされているようです。
で、「どうされますか?」と問われました。保育園の先生にです。
この世から切り離されて生きているわけでなはく、色々怠惰な事由もあるこの世の中と地続きに生きているわけですから、それら世の中の色々な事由に合わせることも大切だし、とは言え一番大切な規範(この場合聖書)を大事にすることは忘れてはいけないと思います。
ですから「豆を撒くという行為」をことさら忌み嫌う必要も無いかもしれません。撒くこと自体は公園で鳩に餌をやるのと同じですから。
ですぐさま宗教的に合わないから、隔絶して「この世と調子を合わせない」ようにする、必要はわたくしめは無いと思っています。(そのような方針を持っている方もいらっしゃいますが)
しかし、そこに込められた意味を再確認した時に、
さて、
自分に対してどのような意味を持つのかを再確認した時に
自分はどうすべきなのだろうか?と考えさせられたのです。
先ほど申しました「1年の無病息災を願い、邪気をはらい、体を清め、1年が守られるように願を掛け、福の神を読んで幸福と商売繁盛を願う。」と言う行為をすることはどのような意味を持つのか、
「わたしたちを真に守ることの出来る神」を本当に知っているはずの人間としては、他の神仏に願掛けをすることはNGでしょうし、
病気や息災、色々な不幸ごとなどが有っても、それはすべて「わたしたちの全生活を益にしてくださる」ために必要な事柄である、
という思い(信仰)を持っているので、
病気だからだめ
悪いことがあったからだめ
儲からないからだめ
ということは一切無いんだよ!
ということを昨夜4才の子供に言って聞かせました。
もちろん分かるわけがありません。
でも言わなければもっと分かりません。
ですので、色々と準備に骨折ってくださった保育園の先生には大変申し訳ないのですが、
明日の豆まきは、豆まきの部分を欠席させていただくことにしました。
問題なのは、上の子の時、
なんとも思わずに
「きょうまめまいたよ!」
「ふーん」
で終わってしまったこと。(何にも考えてなかった)
悪い親ですね
しかもこれのブームを仕掛けたのが、すし屋とコンビニとジャスコに違いない!
ということまで分かっているのに、
なんでそんなにやすやすとみんな、ブームに乗っかるのだろう?
それだけコンビニやジャスコなど、目に付きやすいところで否応無くディスプレイされていると、なんとなく便乗してしまうのだろうか?
ということで、明日は節分。
ということは、あさってが立春!
まだ寒いですが。。。。
で、話がずれましたが、節分の話です。
このわたくしめ、生まれも育ちもこの日本国であり、
少々の海外渡航歴はあるものの、国外に住んでいた経験も無く、
いわゆる純粋な日本人の部類に値すると思われます。
(たぶん)
ですが、ある意味「異邦人」だとも思っております。
それがいわゆる、
「日本人としてあたりまえにすごしている生活習慣上の宗教行事を、ことさら忌み嫌うようにしていること」があるからだと思います。
たとえば、初詣。
多くの日本人は、あまり意味など考えずに寺社仏閣へ。
もしくは、本当に願掛けに寺社仏閣へ。
もちろん、我が家は行きません。
寺社仏閣の故事由来を、今流行の「ブラタモリ」よろしく調べたり、たたずんだりするのは楽しいと思っています。
しかし、間違っても願掛けなどはいたしません。
そこには、人間の思いがつまっていたとしても、
わたしたちを真に守ることの出来る神が存在しない、
と思っているからです。
で、節分です。
豆を撒くのは、邪気を追い払うため、と伝え聞いております。
掛け声はもちろん、「鬼は外!福は内!」。
1年の無病息災を願い、邪気をはらい、体を清め、1年が守られるように願を掛け、福の神を読んで幸福と商売繁盛を願う。
そこまで考えて行っている人、なんとなく年中行事だからなんとなく行っている人、いろいろあると思います。
(まあ、日本人は元来、「行事計画」というのが大好物ですから)
でですね、その行事を惰性でなんとなくではなく、本当に自分にとってどのような意味を持っているのか?
と考えた時に、
大変な意味を持っていることが多いのですよ!
何の話を言いたいかというと、子供の保育園の話。
あす、子供の保育園で豆まきを行います。
公立の保育園ですので、特に宗教的な意味は無く、年中行事の一貫として行う行事であります。
保育園の先生方もそのつもりで準備なされているようです。
で、「どうされますか?」と問われました。保育園の先生にです。
この世から切り離されて生きているわけでなはく、色々怠惰な事由もあるこの世の中と地続きに生きているわけですから、それら世の中の色々な事由に合わせることも大切だし、とは言え一番大切な規範(この場合聖書)を大事にすることは忘れてはいけないと思います。
ですから「豆を撒くという行為」をことさら忌み嫌う必要も無いかもしれません。撒くこと自体は公園で鳩に餌をやるのと同じですから。
ですぐさま宗教的に合わないから、隔絶して「この世と調子を合わせない」ようにする、必要はわたくしめは無いと思っています。(そのような方針を持っている方もいらっしゃいますが)
しかし、そこに込められた意味を再確認した時に、
さて、
自分に対してどのような意味を持つのかを再確認した時に
自分はどうすべきなのだろうか?と考えさせられたのです。
先ほど申しました「1年の無病息災を願い、邪気をはらい、体を清め、1年が守られるように願を掛け、福の神を読んで幸福と商売繁盛を願う。」と言う行為をすることはどのような意味を持つのか、
「わたしたちを真に守ることの出来る神」を本当に知っているはずの人間としては、他の神仏に願掛けをすることはNGでしょうし、
病気や息災、色々な不幸ごとなどが有っても、それはすべて「わたしたちの全生活を益にしてくださる」ために必要な事柄である、
という思い(信仰)を持っているので、
病気だからだめ
悪いことがあったからだめ
儲からないからだめ
ということは一切無いんだよ!
ということを昨夜4才の子供に言って聞かせました。
もちろん分かるわけがありません。
でも言わなければもっと分かりません。
ですので、色々と準備に骨折ってくださった保育園の先生には大変申し訳ないのですが、
明日の豆まきは、豆まきの部分を欠席させていただくことにしました。
問題なのは、上の子の時、
なんとも思わずに
「きょうまめまいたよ!」
「ふーん」
で終わってしまったこと。(何にも考えてなかった)
悪い親ですね
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