泣きながら、撤退同盟

このブログの半分は、薄情でできています。。。

オペラ座の夜

2018-11-27 | paradaise weekend!



わたくしももういい加減「いいおとし」なので
元からQUEENの楽曲は幼少期よりよくよく存じあげております。

まあその「よく存じている」一番大きな理由は、
9つ離れた姉がQUEENの大大大大大大ファンだったせいで、
連日レコードを大音響で流していたのを無理やり聞かされていたからなのですが。。。。


・映画『ボヘミアン・ラプソディ』日本オリジナル予告編解禁!


見ましたよ、話題の、これ。


わたくしめの屈託の無い映画の感想を言わせてもらえれば
たいへん「良い伝記映画」でした。。。
類似映画を挙げれば、たとえばモーツアルトの生涯を描いた『Amadeus』とか
シューベルトの生涯を描いた"創作"映画である『未完成交響曲』とか
そんな感じで、
フレディー・マーキュリーの生涯を描いた「いい作品」だったと思います。



だれもが耳にしたことのある楽曲である「ボヘミアン・ラプソディー」とか「Rock You」とかの製作秘話なんかは大変面白かったのですが、
それよりお話の流れとしては「フレディーの性癖(ゲイであること)」がメインなのは、どうなのかとは思いましたが。

そして映画のクライマックスは、超満員の会場でのLive Aideでのライブ。。。。
賛否両論の『ボヘミアン・ラプソディ』5回見てわかった「ラスト21分」4つのウソ : 文春オンライン

ドローンを活用しまくった再現Liveもよかったのですが、
わたくしめとしては、そのLiveAideで演奏するQUEENメンバーを舞台袖で見守る「フレディーの元嫁と現嫁」の構図が面白かったです。
(そのことを誰か突っ込んでくれないかしら?



さて、
この映画に不満があるとすれば、
冒頭に挙げたように「QUEENはワシが育てた」と当時の多くの日本人が思っている点が
綺麗にスルーされている点かしら?

その点に関して
映画『ボヘミアン・ラプソディ』、そして1991年のブライアン・メイのインタビュー記事を題材にたどる史実との相違 - YAMDAS現更新履歴

日本のクイーンファンにとって映画に対する不満の一つに、日本絡みの場面がほぼ皆無なことがあるかもしれない(トレイラーであった、日本と思しきライブ場面が本編ではなかった気がするのだが、ワタシの見落としか?→見落としらしいです)。

またそれに関連して、映画公開前後に「クイーンを最初に見出したのは日本のファン」、「クイーンは本国よりも先に日本でスターになった」といった言説をツイッター上で見かけた。これはさすがに言い過ぎで、個人的にはそうした「日本age」はちょっとアレだと思う。

クイーンの日本における受容については東郷かおる子の証言に詳しいが、それを見ても初来日公演より前に「キラー・クイーン」というシングルヒット曲がちゃんと出ていることが分かる。第一、セカンドアルバムの時点で全英トップ10入りしているバンドを無名呼ばわりするのはおかしいだろう。

しかし、である。「クイーンを最初に見出したのは日本のファン」と言いたい気持ちも分からないでもない。日本におけるクイーンの人気が、他の国とは次元が違った熱狂的なものだったことは、以下のブライアンの発言からも分かる。

「そして日本で何かがパチンと外れたんだ。東京の空港の税関を通ってさ、いざ空港のラウンジに出てみると三千人もの少女達が僕達に向かって悲鳴を上げていたんだよ。突然、僕達はビートルズになっていたわけだ。そこを通り抜けるためには文字通り、担ぎ上げられながらその子達の頭上を通るしかなかったんだ。さすがにこっちも怯えたけどね。あれはもうロック・バンドっていう現象じゃなくて、完璧にアイドル歌手ノリになってたよ。とはいえね、あれを僕達も楽しんでいたということは正直に白状しなくちゃならないな(笑)」


Wikipediaの「クィーン(バンド)」にも

初来日した1975年4月の時点で、クイーンは「キラー・クイーン」や『シアー・ハート・アタック』の大ヒットなどもあり、必ずしも本国に先駆けて日本で最初に人気が出たというわけではなかった。


とある。(たぶん上のブログ記事は、Wikiを参考にしたんだろうなぁ~)


しかし、多くの当時の日本の若者の意識の中で
未だに「QUEENはワシが育てた」思っている事実があるのはたしか。

だとしたら、「元から人気グループである」との認識と「ワシが育てた」という2つ認識の齟齬は
どこから生まれたのだろう?


イギリスでも無名だったクイーンを日本で売り出すことを決めて意欲を燃やしたプロデューサー・渡邊晋の慧眼:TAP the POP

イギリスでも無名だったクイーンのアルバムを出すに当たり、渡邊晋はまず日本で火を付けておいてから、逆輸出の形で世界に売り出すことを考えた。というのもアメリカの発売元であるWEAが当初、まったくといっていいほど興味を示さなかったからである。
クイーンは1974年の5月に行われたモット・ザ・フープルのアメリカ・ツアーで、セカンド・アルバム『クイーンⅡ』のプロモーションのために、前座として同行する予定になっていた。
その時に渡邊晋が社長を務めていたワーナー・パイオニアは、日本から5人ものマスコミ関係者を取材としてアメリカまで連れていった。
社史「抱えきれない夢~渡辺プログループ40年史~」には、WEA側とW・Pのスタッフとの間の会話で行われたやり取りが会話形式で記してあった。

日本のW・Pは、このアメリカ公演の取材に五人を送り込んだ。
WEAは驚いた。
「なんで五人もはるばるきたのだ?」
「クイーンのアルバムを日本で発売するので、その取材と調査を兼ねている」
「それにしても五人は多いだろう」
「これは美佐の意向である」。
相手は不服そうに黙った。
じつは、W・P側も充分な自信を持っていなかった。

このエピソードはいかに渡辺晋と美佐がクイーンの売出しに力を入れていたのか、その具体的な例のひとつといえるだろう。
クイーンは雑誌「ミュージックライフ」との連携がうまくいったこともあり、ルックスがいいし音楽もカッコいいと、若い女性ファンの間でアイドル的な注目を集めていった。
そうした用意周到なプロモーションの成果もあって、日本でのスタートは1974年3月の『戦慄の王女』から好調だったが、イギリスでも3月に出した『クイーンⅡ』によって人気が出始めていく。
さらに1974年11月にリリースする3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』から、先行シングルに選ばれた「キラー・クイーン」がイギリスだけでなく、アメリカでもヒットして人気に火がついたのである。

これによって風向きが大きく変わってきて、1975年4月17日に初来日してツアーが行われたときには、クイーンの知名度と人気はかなり上がってきた。



その、ミュージックライフ誌の記者としての思い出
Queenハイレゾ配信記念インタビュー 『ミュージック・ライフ』元編集長 東郷かおる子さんが語る、Queenとの出会いと編集者人生 : moraトピックス

東郷 クイーンがまだ海のものとも山のものともわからないときに、モノクロのプロモーション写真があったんです、一枚。それを「今月の新人」っていうところに載せたら、すぐに反応があって「レコード会社教えてください」とか、そのときはメンバーの写真があるだけで、誰が何の担当なのか、ブライアン・メイがどの人なのかわからないわけですよ。……そう、どれがフレディなのか全然わかんないんですよね。だからそれを教えてくれとか。反応があったんですよね。たしかに私が見ても「あ、これルックス悪くないな」と思ってたんです。で、そうこうしてるうちに当時アメリカとイギリスでレコード会社が違ってて、アメリカはEMIじゃなくてエレクトラだったんですね。で、1stアルバム『戦慄の王女』がイギリスでリリースされたのは1973年なんですが、その前後すぐアメリカでも発売されて全く駄目で、ただそのときエレクトラから『ミュージック・ライフ』宛てにいつも「今月の推し物」みたいな感じで白盤(テスト盤)が送られてきてたんですね。私はそういうの聴くのすごい楽しみにしていて――当時は人より早く聴くのがステータスでしたから――で、白盤なんですけど、顔も名前も何もわからないんですよ。ただ白くて、「Queen」というスタンプがボンと押してあるだけで。イギリスのバンドなのかアメリカのバンドなのかもわからないけども、まあとにかく聴いてみようと思って聴いたら、「Keep Yourself Alive(炎のロックンロール)」がドンドコドンドコ……って流れてきて、「えっ何コレ!? すごいかっこいい!!」って思ったわけですよ。で、全編聴いて改めて写真を見たらルックスも悪くないと。ただそんなにいいとも思わなかったんですけど。じゃあ、ちょっとやってみようと思ってやったのが最初ですね。

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東郷 それでそうこうしてる内に、イギリスのバンドで同じCBS・ソニーでモット・ザ・フープルっていう、野中(規雄)さんが担当してたバンドですけど、全米ツアーを取材しませんかって連絡がきたわけですよ。で、なんでモット・ザ・フープルをNYで取材したのかっていうと、ロックバンドが初めてブロードウェイでコンサートをする。それも非常にシアトリカルなステージをやるんで、それを取材してくださいってことで。私も「はいはいはい」って。これはいい機会だと思いましたね。実はその裏で前座がクイーンだってことを知ってたわけですよ。「しめたー!」って思って、ソニーさんには本当に申し訳ないんですけど(笑)。

――(笑)

東郷 で、私が今イチ不安だったのは、クイーンというのは生のステージはどうなんだと思ったわけですよ。レコードはかっこいい。プロモーションビデオを観ても、ある程度はかっこいい。だけど実際に見たら演奏が下手で、ルックスも写真より悪い……だとしたら、もうだめだなと思ってたんですけど、それを見極めるいい機会だったんですよね。それで行きました。それでモット・ザ・フープルの取材もしまして、イアン・ハンターにもインタビューしました。クイーンのステージもそのとき観たわけですよね。で観て、これはイケる!と思ったわけですよ。なんせこれ(衣装)でしたから、ステージに躍り出てきたときに。

――もう、このままの。

東郷 ひらひらの、白鷺ルックと当時言われていました(笑)。

――2ndアルバムぐらいのタイミングですか?

東郷 そうですね。2ndが出るか出ないかぐらいでしたね。そのときにステージを観て、これは十分ファンにも説得できるテクニックはある。曲もいい。見た目のルックスも「ハイいらっしゃい!」で(笑)。これはやるしかないなと、モット・ザ・フープルには悪いけど(笑)。



ナベプロの祖、渡辺晋氏の妻であり、「ロカビリーマダム」として名高い美沙女史のインタビュー
日本のクイーンの母・渡邊美佐さん、フレディ宅でお泊り?!:コシノジュンコ MASACA

出水:渡邊美沙さんと言えば、クイーンのフレディ・マーキュリーと会食をしたことがあると聞きましたが?

JK:会食どころじゃないわよ! クイーンを有名にした人よね。

出水:エエエエ~ッ?!

渡邊:うちの主人が、ヨーロッパ視察旅行のときにいろんなミュージックハウスを訪れて、むこうの社長にまだ新人のクイーンの音を聞かされて。それで日本に招待しようとなったんです。まだ全然無名で、結局日本でプロモーションをして。それが、クイーンが来た時には羽田に若いファンがワーッと押し寄せてましたね。

JK:若い女性もよく知ってたわね。今だとインターネットだのですぐわかるけど、あの当時はそんなのないし。日本人ってすごいねー!

出水:空港でしか会えないと思うと、みなさん大挙して駆けつけたんでしょうね。お会いしてどんな印象でしたか?

渡邊:すっごく素直な人たち。それで新人でしょ? 初めての日本だし。「僕たちにこんなにもファンがいる!」「みんな知ってる!」ってビックリして。

JK:美佐さん、クイーンのためにご自宅でパーティをしたでしょ?

出水:お宅で?!

JK:そう。屋台とかあって。ちっちゃな小山があって、みんなで集合写真を撮ってね。

渡邊:あの時は何度もパーティをやったんですよね。なぜかというと、フレディは9月生まれでね。お誕生月がいっしょだから、一緒に誕生日パーティをやって。

JK:あら、じゃあ今日はタイミングいいですね! クイーンのためにも。

渡邊:いまでも思い出す。でも、すっごいセンスもいいのね。一緒に買い物にも連れて行って、日本の洋服も好きで。Tシャツみたいなの? たしかジュンちゃんのところの体操着トップみたいなのをもらったわね。いろんな柄や色のを。

JK:最後に私、とびきりいいブラウスをフレディに差し上げたの。着てくれるかな~と思って夢見てたんだけど・・・ついに着てくれなかった(T.T)

出水:1961年、NYへ視察に行ったのが初海外だったそうですが、何を視察しようと旅立ったんですか?

渡邊:やはり、日本の音楽レベルを世界の水準に持っていこう、というのが私たちが会社を始めた理由だったので、ミュージカルを間近で見ましたね。ブロードウェイで。「プロデューサー」をまず紹介されて。


渡邊:これも私がプロデュースしたのよ。食の本のハシリですよね。

JK:渡辺出版ですものね。美味しいものいっぱい食べられたし(笑)いまでも続いているお店もあると思うんだけど、この本を見ると中の様子がだいたいわかる。

出水:当時のメニューもそのまま載っていて、新しいなぁって思いました。

JK:値段は当時とは違うけどね(笑)

渡邊:それでどこに泊まったか知ってる? フレディ・マーキュリーのマンション!

JK:ええーっ?! そうなの??

出水:「貸して」って言ったら「いいよ」って泊めてくれたんですか?

渡邊:そうなの! ホテルなんかに泊まってたら、予算がかかりすぎて本が作れないんですよ。だからね、フレディはNYにもマンションを持ってたから。

JK:何丁目あたり?

出水:ずいぶん詳しく聞きますね(^^;)

渡邊:5thアヴェニューのどまんなか。56丁目とか57丁目とか、その辺。

JK:ほーぅ、さすがね。すごい。

出水:フレディ・マーキュリーのマンションに泊まったというのは衝撃的!・・・当然本人はいないんですよね?

渡邊:いないです。妹夫婦がむこうにいたんで、みんなで集まって合宿状態です(笑)




QUEENが来日公演をする前に、全米や全英で売れていたことは確か。
だけど、
日本のプロモーター(ナベプロ)やファンはそのさらに前の、少なくとも全米で売れる前から注目して居て、
すでにプチブレイクしていたのは確かだと思われる
(「Last Christmas」で有名なWham!なんかもこの「日本先行」パターンよね。米国ではデビューすらしていなかったし)

それがあったから、来日公演は米国や英国の公演のような「そこそこのヒット」ではなく、
武道館での大ヒットになったわけで。。。。


その点が、日本人に未だに残る「QUEENはワシが育てた」という意識の表れであり、
QUEENが「親日バンド」である所以だと思われるのだけど。

どうよ?



も一つ。ナベプロ関連記事
【音楽評・分析】日本で2度の大ブレイク果たしたクイーン、背景を追う : MusicVoice(ミュージックヴォイス)

クイーンが本国、イギリスでデビューしたのは1973年7月。この時期に渡英していた音楽評論家の大貫憲章さんは、ロンドンで彼らのサウンドに触れ衝撃を受ける。大貫さんは1974年3月にリリースされた日本でのデビューアルバム『戦慄の王女』のライナーノーツも書き、ラジオや雑誌「音楽専科」等で積極的にクイーンを紹介していく。同じ頃、クイーンに魅了されたもうひとりの日本人がいた。音楽雑誌「ミュージックライフ」の東郷かおる子さんだ。大貫さんがクイーンを正統派ブリティッシュ・ロックの新星として男性ロック・ファンにアピールしたのに対し、東郷さんはサウンド面もさることながら、彼らのビジュアルに着目し女性ファンに訴え出た。この頃のクイーンは、メンバー4人が揃って足が長く長髪(しかも一人はブロンド!)でイケメン。当時の洋楽ロックスター=不良というイメージとは対極の全員が高学歴でお坊ちゃん揃いという王子様キャラは、日本女子の琴線に多いに触れた。ミュージックライフのこの戦略は当たり、クイーン・ファンの女子が増大。洋楽ロックは男子が聴くものという当時の風潮に風穴を開けたのだ。

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クイーンにアイドル的資質を見出した渡辺プロは1975年春に招聘を決める。当時のクイーンはシングル『キラー・クイーン』のヒットこそあったが、日本でいえば渋谷公会堂クラスのホールでワンマン・コンサートが出来る程度のデビュー3年目の新人。そんな彼らに渡辺プロは武道館を含む国内7カ所のツアーをブッキングした。これは大きな賭けでもあった。当時、渡辺プロの朝礼で渡辺晋社長がクイーンのポスターを掲げて「今度はこれをやる!」と発表。「なぜウチで外タレ?」と社員も最初は大いに戸惑ったそうだ。ともあれクイーン招聘プロジェクトは走り出した。渡辺プロ、ワーナー・パイオニアそしてシンコーミュージック3社がタッグを組んだ強力なトロイカ体制で、ラジオやTV、新聞雑誌等のメディアにクイーン初来日を煽るプロモーションが始まった。

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 興行的には成功とはいえなかったが初のジャパンツアーだったが、世界に先駆けてクイーンを売る! と決めた渡辺プロの慧眼は、以降のクイーンにとって大きな影響を及ぼす事になる。日本で経験した一連のスーパースター扱いが、彼らをいい意味で勘違いさせた。帰国後、条件面で不当な待遇を受けていた所属プロダクションのトライデント社に対して契約見直しを訴え出る。交渉は粘り強く続けられ8月には晴れてトライデント社から独立を勝ち取る。長らく悩まされていた契約問題も解消し、日本での成功もあってこの頃の彼らはデビュー以来、初めて平穏の時間を過ごせたといえよう。精神的な余裕はクリエイティブ面に反映される。この夏彼らは、後に歴史的名盤となる『オペラ座の夜』の録音に入る。1975年10月31日、アルバムからのリードシングル『ボヘミアン・ラプソディ』が発売され4週目にして初の1位を獲得。11月21日に発売された『オペラ座の夜』は3週目に1位になり、以降44週に渡ってチャートインする大ヒットとなり、クイーンは一挙にスーパースターの仲間入りを果たしたのである。収録曲『預言者の歌』には日本のファンに貰った“おもちゃの琴”を使用しているクレジットもあり、日本のファンは大いに喜ばせた。

(下線部はわたしが引きました)

そうそう、映画で語って欲しかったところはここなのよ!!

事務所移転の騒動、ボヘミアン・ラプソディーが成立するにあたっての騒動については、なんか当たり前に(わがままに)
メンバーの勝手気ままに決まったことのように映画では語られていたけれど、
そこまで考えるに至った起爆剤はいったい何だったのか!
おれたちはスーパースターなんだぁという自信はどこから醸し出されたのか
ということを語って欲しかったのよ!!


映画では適当に米国ツアー回って、適当に日本「も」回ったかのように描かれていたけれど、
その「も」である日本での、「まるでビートルズが来日したかのような大熱狂!!」を体験したことが
まだ若かった彼らの中でどのような精神作用を及ぼしたのか。。。。。

また、映画にある「フレディのパーティー狂い」が真実ならば、
その原因はひょっとしたら渡辺美沙による「連夜の誕生パーティー」が
原因かもしれないし。。。。。



(続き)

 翌1976年3月、クイーンは再び日本の地を踏む。2週間の滞在で6都市11公演(大阪や福岡では昼夜2回公演も!)という強行スケジュールの中であったが、今回は全公演即日完売の大盛況。世界で最初にブレイクさせた国は我がニッポン!という自信と誇りが当時のファンの間にはあり、再び日本中でクイーン・フィーバーを巻き起こしたのである。

 もちろん、これは日本からの一方通行的な思いではなく、クイーンにとっても日本は特別な国という意識があった。1976年12月10日(日本発売1977年1月9日)にリリースされた5枚目のオリジナル・アルバム『華麗なるレース』のジャケットを開いて、それこそ腰を抜かさんばかりに驚いた。アルバムラストに、なんと日本語の曲『手をとりあって(Let Us Cling Together)が収められていたのだ。当時、日本で人気のあるミュージシャンが日本語の詞で歌った曲をリリースする事は珍しくなかった(あのポリスですら発表している)。しかしいずれも日本のみでの発売で、オリジナル・アルバムに日本語曲を収録するアーティストは誰もいなかったのだ。ああ! クイーンは私たちの事をこんなにも思ってくれていたんだ! と我が同胞は大いに溜飲を下げたものである。その効果あってか同アルバムは初のオリコン初登場1位となっている。

 以降、クイーンは『伝説のチャンピオン』『ウィ・ウィル・ロック・ユー』『バイシクル・レース』といったヒット曲を連発し世界規模のトップスターへの階段を上って行く。

 歴史に「たられば」は無いと言うが、もし1975年の初来日公演で、あれほどの歓待を受けなければ、クイーンの成功はもう少し時間がかかっていたかもしれない。唯一の弊害といえば日本ではアイドル的な売れ方をした為、クイーンが男性ファンに敬遠された事であろうか。




わたしがQUEENを身近に感じていた原因と言えば、
前述した「9つ離れた姉がいつもレコードを大音響で流していた」ことと
もう一つは、

マカロニほうれん荘とクィーン(というか、ロック) : グラハムボネ太郎の部屋

そんなわけで、マカロニほうれん荘

ギャグ漫画どして最高に面白かったんだけど、ギャグ以上に惹かれるものがあった❗️

それがちょいちょい出てくるロックネタ

まだ名前も知らない大人のロックバンド

ジミー ペイジなんかはよく出てた(笑)
・・・小学生当時はそれが誰だか知らなかったけどね

クィーンなんかはそのまんま
普通にクィーン学生が入店(笑)


ロン毛のクィーン

しかも


ブライアンが『華麗なるレース』のリクエストしてるし(爆笑)

しかも

トシちゃんにじゃまされて聴けてないし

中学になって、ロックを覚えてから読み返したら、ギャグも最高だけど、ロックへのリスペクトも最高❗️

二度おいしい漫画だったな



「その頃」はまだわたくしめは幼児であったので、
QUEENのブームはもちろんよく知らないのだけれども、
「ドカベン」「らんぽう」「750ライダー」「ブラックジャック」が掲載されていた当時の週刊少年チャンピオンに連載されていた人気漫画「マカロニほうれん荘」を読むかぎりでは、
QUEENは男子ファンも多かったのでは?と思うのですが。。。

さて、いかがだったのでしょうか?


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NHKがこの映画の大ヒットを受けて、
こんなインタビューをしています
News Up クイーン単独インタビュー【前編】ロジャー・テイラーさん : NHKニュース

(記者)
映画のプレミアの時だったと思いますが、あなたはフレディはミュージシャンとして、もっと注目されるべきだと話していました。どういうことかお話しいただけますか?

(ロジャー)
フレディのメディア受けする要素ーーそれは私生活やもろもろあるけれど、そうしたことが時に大げさに伝えられ、人々が彼がミュージシャンであり、その中でも一流だったいうことを忘れがちだと感じていたんだ。ショーマンで歌手というところから切り離しても、彼は偉大なミュージシャンであり、作曲家だった。だから映画ではそうした側面がきちんと描かれていることを重視した。新聞が好んで書くような話だけじゃなくてね。音楽は人々が聴くものであって、新聞が書くものじゃないからね。

(記者)
映画では、移民やゲイというフレディのマイノリティとしての苦悩が描かれていました。フレディにもっとも近しい存在だったあなたから見て、そうした苦悩を感じることはありましたか?

(ロジャー)
あった。彼には二面性があったように思う。あの時代は今とはずいぶん違って(偏見が強かった)から、もっといろいろなことが秘密にされていたし、フレディはすごく困惑していたと思う。彼はとても美人なガールフレンドもたくさんいたんだよ。その1人をめぐってもめたこともあったかな(笑)。だから…そうだね、彼の中で常になにかが対立していたし、映画はフレディのこうした心情を正確に描いていたと思うよ。

(記者)
なにか具体的なエピソードを教えてもらえますか?

(ロジャー)
それは一切言わないよ(笑)



(記者)
ライヴ・エイドについて聞かせてください。映画ではライヴ・エイドがクライマックスでした。グループにとってライヴ・エイドはどのような役割を果たしたのでしょうか。

(ロジャー)
クイーンは当時、解散の危機というわけでは…、まあ、解散の危機に近い感じにはなっていて、僕らはバンド活動に飽きて、そして疲れた感じになっていたんだけど、ライヴ・エイドで、その時期から脱したというのはあった。自分たちはイケてるバンドで、人々の間にクイーンに対する愛があふれていることを思い出させてくれて、僕たちは大きな自信を取り戻したんだ。

(記者)
その時期を脱した結果として、クイーンは、フレディがいないけれども、今も活動を続けているということになりますね。

(ロジャー)
そのとおり。バンドの活動メンバーは、今はブライアン・メイと僕の2人だが、関係性はある意味、一層近くなった気がするよ。僕らは、これこそが人生で、運命なんだと思うようになったし、楽しんでいる。
今はアダム・ランバートというすばらしい歌手とともに、美しいコンビネーションを作っている。僕らよりはるかに若いけど、うまくいってるんだ。彼は聡明で、最も美しい声の持ち主だね。だから僕らはこれこそが今やることだって思っているし、活動ができるかぎり楽しくやるんだって思っているよ。
いつまで続くかわからないけど今は演奏するのが楽しいし、次のツアーがいつかわからないけど楽しみにしているよ。


(記者)
映画が日本で公開され、改めて日本ではクイーンが日本のことが好きなバンドという側面も注目されています。クイーンは日本のファンが最初に見いだしたんだ、と言う人もいますが、正確にはどうでしょうか?

(ロジャー)
ちょっと複雑なんだ。僕らはイギリスで少し人気で、アメリカでも少し人気だった。でも日本に行ったら、大人気だった。日本は最初にクイーンに夢中になってくれた国なんだ。初めて羽田に着いたときのことは忘れられない。ツアーはまるで夢みたいだった。僕たちは日本の文化が大好きになった。フレディはとくにとりつかれていたね。ショッピングのためだけに東京に2週間も行ってしまうんだ。

(記者)
これまでに何度日本を訪問しましたか? 日本に来たときに必ず行く場所などはあるのでしょうか。

(ロジャー)
日本でやったあるツアーでは、あちこちに行ったよ。あれは、カナザワ?海沿いの町だよね? そこにも行ったし、いろいろな町を訪れた。東京と大阪だけで公演ということも少なくなかった。僕のヒーローでもある、ジョニ・ミッチェル、ボブ・ディランと一緒にコンサートをしたこともあった。大阪の郊外にある大きなお寺で、YOSHIKIと演奏したよ。

(記者)
最後に、日本のファンにメッセージをお願いします。

(ロジャー)
どんな世代であろうと、クイーンが好きな人たちに感謝したいし、うれしく思っている。日本とはすばらしい歴史があるからね。日本はわれわれに多くのものを与えてくれたし、僕たちが日本の皆さんに喜びと、もしかしたら、時には感動の涙も提供できたのであれば本当にうれしいよ。ありがとう!




News Up クイーン単独インタビュー【後編】ブライアン・メイさん : NHKニュース


(記者)
映画は日本でも大ヒットになっています。なぜこの映画は人々の心をつかむのか、そして映画が伝えるメッセージとは何なのでしょうか。
(ブライアン)
日本でそんなにヒットしていると聞いて興奮するし、クイーンというバンドがここまできたことを語るうえで日本は欠かせない要素だからね。初めて日本に行ったとき、世界のほかの場所ではクイーンはまだこれからのバンドだったのに、日本人は僕らがビートルズであるかのように扱ってくれたからね。

知っての通り、日本とはすばらしい過去を共有している。だから映画で改めて日本とつながることができたことの意味は大きいんだけど、聞いた話では日本ではこれまでのファン以外にも受け入れられているというんだから、すごいことだよ。なぜかはわからない。僕はこの映画には誠意、心に響くような誠意があると思う。僕にとっては長い道のりだったよ。


(ブライアン)
取りかかる前は伝記映画というのがいったい何なのか、理解していなかったと思う。僕が考えるに、伝記映画はドキュメンタリーのように映像と意見をつなぎ合わせるのではなく、物事の表層より深く入り込もうという試みだ。その人の外見を描くだけでなく、その人が何を考え、何が突き動かしたのかも絵の中に描こうという試みなんだ。

(ブライアン)
最終的にはそれがいい形で達成できたと思う。簡単ではなかった、困難な道のりだったけど、フレディという並みはずれた男の良質な肖像が完成したと思う。そこには何よりも彼の傷つきやすさ、それに強さも、さらに彼の中の葛藤もあり、映画はそれを描くことに成功した。フレディがそのとき口ひげを生やしていたかとか、どの出来事がいつ起きたかとかそう言う事実を追い求めるのではなく、フレディの内面までも理解できるような肖像画をどうやったら描けるのか、その追求だった。だからこそ、世界的にそうだと思うんだけど、映画を見始めると、観客にとってはイメージしていたものと少し違うかもしれない。

批評家は表面だけを見て「ここは正しくない、このツアーの描写は間違っている」と言うんだけど、これはドキュメンタリーじゃなくて、ある人物を描いた絵であり、肖像画なんだ。その点を理解していないと思う。そしてその人物は僕らにとってとても大切な人だったからね。映画がフレディの良い肖像だと納得するまでに9年もかかったんだ。時間をかけただけのことはあったと思っているよ。


(記者)
あなたは過去の発言で、ライヴ・エイドの前、フレディがバンドと険悪になるシーンに心を揺さぶられたと話していましたね。なぜでしょうか。

(ブライアン)
あのシーンが特に気に入っているのは、(主演の)ラミ・マレクにフレディがそのまま宿っているかのように見えたからだと思う。ラミは驚くべき才能を持った俳優だ。もちろん脚本がいいということに尽きるけど、ラミは脚本の世界をさらに超えてフレディの中に入っていった。フレディがいらいらして歩き回っている姿からは、彼の頭の中で何が起きていたのかがわかるんだ。「こんなことは言いたくないけど、バンドに言わなければいけない」ってね。僕たちにとって苦しい時期だったんだけど、フレディの心情をよく表現していたと思うよ。

彼にはソロ活動で自分の違う面を探求したいという強い思いがあったんだけど、僕らが家族であったがゆえに痛みも伴った。心が動揺していることを人に知られたくないんだけど、明らかに心をかき乱されている。そうした描写が好きなんだ。いかにもフレディらしい。フレディはどこかサバサバしたところがあって「このことは話したくない、これはオッケー」のような感じだったんだけど、内面に葛藤を抱えていたことはわかっていた。そんなシーンが映画で描かれてうれしかったよ。

(記者)
あのステージは伝説的だと語られています。ロジャーとのインタビューでは、「Radio GaGa」の途中に観客を見渡すと、盛り上がっているのが見えて「いい感じだ」と思ったと話していました。あなたにとってそう感じた瞬間はありましたか?

(ブライアン)
僕もその瞬間だね。「Radio GaGa」で観客がこんなふうに手拍子をして、一緒に歌ってくれたときは、みんな鳥肌がたったよ。そこにいるのはクイーンのファンじゃないと思っていたのが、実はみんな僕らのことを知っていて、何をすべきかも知っていた。ぼくらの一員になったんだ。ああ、まさに特別な瞬間だったよ。顔を上げて見えたあの光景は忘れられないよ。

映画でも、あの瞬間、バンドに新たな力が吹き込まれるのがわかる。(フレディ役の)ラミや、僕の役を演じてくれたグウィリムの演技はすばらしかった。僕たちの容姿だけでなく、どんなことを感じていたかも見事に表現してくれた。出来事を描いただけでなく、僕たちの心情を伝えてくれたのが、映画が成功した秘けつだと思う。

(記者)
日本について質問させてください。クイーンは私たちの国と長く、良好な関係を築いてきました。武道館でのライブがバンドの転換点となったことはよく知られています。初来日の前、日本については何か聞かされていましたか?

(ブライアン)
ほとんど何も知らなかったんじゃないかな。月に行くような感じだったよ。日本の写真は見たことがあったけど、日本人に会ったことがあるかどうかすらわからない、とにかくイメージができないくらいだったんだ。

何が起きるか予想もしていなかった。別の惑星みたいなものだったんだ。考えてみると、あの頃は国によって全然違ったよね。インターネットと国際化で、「異なる」すばらしさをいくぶんか失ってしまったと思う。恥ずべきことだと思うよ。

日本に行ったとき、全てが違った。全ての色が異なり、全ての通りが異なり、街には英語表記なんてなく、ほとんどの人は英語なんて話せなかった。だから東京を歩いていて道に迷うということは、本当の迷子になるということだったんだ。あの頃は街に出るとき、ホテルの住所を書いた紙切れを持って行かなければならなかったよね。

文化の違いにも驚いたよ。空港に着いたら何千人もの女の子が叫んでいたんだ。「ビートルズでもないのに、なんでこうなるの?何が起きてるんだ?」って思ったよ。そして初めて武道館で演奏したとき、突然巻き起こったような興奮とエネルギーのうねりにやられてしまって、僕らは全く新しい舞台に立たされた感じだった。その環境で僕らはこれまでとは違う人間になった。異常なパワーだったよ。とにかく理解できなかった。

ファンたちは美しい木や紙でできたおもちゃや人形、日本刀をくれて、僕らはあっという間にこのすばらしい異文化に魅せられてしまった。そしてみんな優しかったよ。イギリス人はよそよそしくて冷たい傾向があるんだけど、日本の人たちは初対面でもあたたかく優しく、僕らに会って喜んでくれた。忘れることのない、信じられないような体験だった。

それ以降、日本に行くたび同じ気持ちになるんだ。またその気持ちがわき起こってくるのがわかる。日本を去るときはいつも大変で、とても深い関係を作ったような気持ちにさせてくれて、ホテルを出るときも、空港でも、とにかく心が張り裂けそうになるんだ。だから日本を去るときは本当に大切なものを奪われるようで、泣きたくなる。日本との関係は特別だよ。また行きたくてしかたがない。

親しい友人の(女優の)ケリー・エリスが日本に行くって言うから、いくつか情報を教えてあげようと思うんだけど、何も言わないのがいちばんだろうね。行けばすべてわかるから。

(記者)
アルバムに収録された日本語の曲「手をとりあって」は震災当時よりもずいぶん前に作られた曲ですが、人々を再び前向きにさせる力があります。曲はどのようにしてできたのでしょうか?はじめから日本語で歌うことを念頭に作ったのですか?

(ブライアン)
曲の誕生というのはいつも複雑で、はっきり説明するのが難しい。でも一気に降りてきたんだ。

僕には、自分たちが日本との間に感じている絆を表現する曲を作りたいという思いがあって、まずおおまかな英語の歌詞のアイデアが浮かんで、サビの部分の歌詞はかなり早くできた。そして当時通訳をしてくれていたすてきな女性、鯨岡ちかさんが一緒にいるときに、日本語の歌詞をつけてみたいと持ちかけてみたら、すぐにできると返事があったんだ。感謝してもしきれないよ。そして彼女にひとつひとつの音節を追いながら言葉がどんな意味を持つか教えてもらった。

だから日本語のサビの歌詞をつくるのにはかなり時間をかけた。それ以外の部分はそれに加えていったんだ。サビは曲の核となる部分で、日本語と英語でできている。メロディはどこからきたのかわからない。メロディがふっと思いつけばラッキーだし、そのまま忘れてしまえば…謎めいた作業なんだ。

でも作業をしているときは、とても充実した気分だった。そして帰国してレコーディングをしたんだ。曲の中に「それぞれに同じ月は輝き、同じ風が吹く」って言う歌詞があるんだけど、それは僕らは外を向いているんだけど、同じ宇宙を見つめている、同じ人間なんだということを言い表している。永遠につながるという考え方にとてもはっとさせられたんだ。

もちろんファンのことを言っているんだけど、日本でのひとつひとつの出会いのことも指している。ぼくにとってとても大切だからね。そして宇宙のことも指している。歌にはいくつもの異なる層があると思っていて、それに気付いていなかったとしても歌詞を書くと、いくつもの層が生まれる。日本の人たちが困難な状態にあったとき、何らかの影響を与えられたのであればうれしいよ。

(記者)
最後に、日本のファンにメッセージをお願いできますか?

(ブライアン)
コンニチハ、やあ日本のみんな、日本のファンの人たち、日本の友人たち。ブライアンだ。僕も、みんなも、映画「ボヘミアン・ラプソディ」がみんなの心をつかんだと聞いて本当にうれしいよ。何回も観てくれているなんて、僕たちにとってとても大きな意味を持つし、僕たちと日本のつながりはさらに強くなるね。みんな大好きだし、近いうちにまた日本に行きたいな。だから「もし僕らが生きながらえていたら」-母さんの口癖だったんだけど-、また会おう。神のご加護を。(投げキッス)



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