プロバイダが変わったので、HPがいよいよ6月30日で閉鎖になります。
おそらく、7月以降はアクセスできません。
順次HPのコンテンツの一部をこちらに非難させます。
面白人物伝をまず移動します。
「面白ければOK」ってことで昔書いた歴史豆知識みたいな。
あくまで参考程度にとどめてくださいね。
【バチカン市国の話】
2005年のこと。新教皇「ベネディクト16世」誕生のニュースを見ていて、「そういや、ヴァチカン市国ができるまで、紆余曲折があったんだよなあ・・・」てなことをふと思い出した。でも、高校の世界史でちょこちょこっとやった程度の知識なので、細かいことはウロ・・・。この際なので、ちょっとネットで調べてみた。
ヴァチカン市国は、ローマの西側にある世界最小の独立国家。教皇を元首として、教皇庁が治めている。責任者は国務長官。2009年時点では、ベルトーネ枢機卿という人が勤めている(この人、「クレリクスカップ」という聖職者のサッカー大会なんか開いたこともあり、大のサッカー好きとしても有名)。そして実際の統治は「ヴァチカン市国行政庁長官兼ヴァチカン市国委員会委員長」の役目。やっぱりこの人も枢機卿。
「ヴァチカン」という名前は、あの辺りがキリスト教の誕生以前から「ヴァティカヌスの丘」と呼ばれていたことに由来する。ちなみに通貨はイタリアと同じユーロ。切手も独自のものを発行しているが、イタリアの切手も同様に使える。
市民権を持っているのは、2002年度で555人。枢機卿、大司教などの高位聖職者、駐ヴァチカンの司祭、行政官、教皇庁職員、スイス人衛兵などに対し、教皇の勅許によって与えられる(ということは、市民は当然男ばっかりってことか)。
ちなみに、FIFA未加盟だけど、サッカーのナショナルチームも持っている。ヴァチカンのナショナルチームかあ。国民が永住してるわけではないから、選手の出入りが激しくて、あんまり強くなさそうだけど…。やっぱり、チームは当然全員カソリックなんだろうなあ。当り前か。
兵力は持たず、スイス人衛兵が警護にあたっている。一定以上の身長がある未婚のスイス国籍の男性が勤務している。ヴァチカンでなんだか派手な服を着たお兄さんを見かけたら、それがスイス人衛兵。中世そのままのようなデザイン。ミケランジェロが作ったとかいうけど・・・どうなんでしょうか。下士官に昇進すると、結婚が許可される。
なんでスイス人かというと、戦争大好きだった教皇ユリウス2世(在1503~1513年)が、勇猛果敢なスイス人傭兵に目をつけたからだそう。その伝統が、ずっと続いているわけだ。その頃の教皇領は広大で、北はボローニャ、南はローマまであった。
この教皇領、始まりはフランク王国の宰相・ピピン(いつも思うが可愛い名前だ・・・)がカロリング朝を廃してメロヴィング朝を起こした時に、時の教皇ザカリアスに王朝の正当性を認めてもらったお礼として、ラヴェンナ地方を寄進したことから。
要するに「王朝のっとったの、ぜ~んぜんずるくないよ~」と教皇に言ってもらったお礼に、どどーんと領地をあげちゃったわけです。756年の話だから、相当昔ですな。
その後も教皇領は着々と広がっていき、「カノッサの屈辱」で有名なグレゴリウス7世(在位1073~85)の時にトスカナ地方の一部を、教皇権が最大になったインノケンティウス3世(在位1198~1216)の時にロマーニャ地方を獲得し、最大版図となった。
・・・が、ナポレオンの時代になると、教皇領は一度消滅。ナポレオンがエルバ島に流されたあと、ウィーン会議で領土は一度復活するが、イタリア統一運動(リソルジメント)の影響でどんどん削られていく一方。
そんなこんなで、1870年にはイタリア王国が成立。ローマを占領され、とうとう教皇領は完全に消滅する。
イタリア王国は教皇の不可侵性とヴァチカンの領有権を保障した「教皇保障法」を制定するが、「ざけんなコラァ! 領土返せ!」とキレた教皇ピウス9世はこれを拒否。
その後、歴代の教皇たちはヴァチカンにこもり、イタリア政府との交渉を拒み続ける。
結局、1929年にムッソリーニとピウス11世との間でラテラノ条約が締結されるまで、およそ60年のあいだ、教皇と教皇庁はイタリアと断絶状態だったわけですな。
で、このラテラノ条約により、世界最小の独立国「ヴァチカン市国」が誕生した。
「イタリア政府の干渉を受けない」ということを銘記したこの条約、お互いギリギリの譲歩だったんだろうなあ。
それでまあ、現在に至るわけですが・・・。教皇って聖書には全く書いてない存在なのに、あれだけの力を持っているというのは、(今更だけど)なんだかとても不思議。
ところで。
2005年のコンクラーヴェ(教皇選挙)で選出された第265代ローマ教皇は、教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿(当時78)。投票が始まってわずか2日で当確。比較的早く次代の教皇が決まったというわけだね(前回ヨハネ・パウロ2世のときは3日で決着)。「天使と悪魔」のように殺人事件は起こらなかったよ(そりゃそうだ)。新しい教皇の名前は「ベネディクト16世」。
ベネディクト16世は、1927年にドイツのバイエルン州マルクトルに生まれる。
ドイツ人教皇は950年ぶり、ヨハネ・パウロ2世に続いて二人目の非イタリア人の教皇となった。
ミュンヘン大学で哲学と神学を学んだあと、1962年の第2ヴァチカン公会議で発言し、注目を集めた。枢機卿に任命されたのは77年。その後は枢機卿団のナンバーワンとして実力を発揮、ヨハネ・パウロ2世の葬儀も取り仕切った。
…というわけで、教皇には本命中の本命が選ばれたということのよう。
この教皇は保守的な立場をとっており、ヨハネ・パウロ2世からの路線については、「妊娠中絶・同性愛反対」などは踏襲するものの、他の宗教との対話・平和路線については反対のよう。保守的な教皇が誕生したことで、当時の周囲の反応は「新教皇に不満ではなく、不安を抱く」という感じだったそう。
78歳の教皇。選出時の年齢としては過去300年間で最高齢。
今回は在位期間が短そうな気がしなくもない・・・。
で、この「教皇の名前」ですけど。
本名ではないことは皆さんご存知かと思いますが、命名については特に決まりがあるわけではなく、1009年からの慣例によるもの。新教皇が選出された時に、自分で好きに決めていい。
別名を使うかどうかは強制ではないようで、1555年に教皇に選出されたマルケルス2世は、本名を使っていた。
新教皇に選出された枢機卿は、主席枢機卿から二つの質問をされる。
まず、「教皇となることを受諾しますか?」
これに「はい」と答えると、次に「教皇としてどのような名前を選びますか?」と尋ねられる。このとき答えた名前を、ずっと名乗っていくことになる。いわば、「名前を選ぶこと」が教皇の初の仕事といっても過言ではないかも。
コンクラーヴェが終了すると、すぐに新教皇についての発表がある。あのタイミングを考えると、おそらく名前について迷っている暇はない。だから教皇候補の枢機卿たちは、前々から自分の名前を考えているはずだ。尊敬する教皇や聖人の名前を取ることが多いようだ。
前教皇のヨハネ・パウロ2世(ポーランド人初の教皇)は、その前任者で、就任後一ヶ月足らずで亡くなってしまった教皇ヨハネ・パウロ1世に敬意を払い、同じ名を選んだ。改革的だった路線も、そのままそっくり踏襲したかたちとなった。
世界11億のカトリック信者を導く宗教的指導者、教皇。
何かといえばサン・ピエトロ広場に集まる人々の様子を見ていると、本当に教皇というのはカソリック信者たちの心のよりどころなんだな、という気がしてくる。
「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」がバカ売れしようが、日曜日に教会に行く人が少なくなって、教会の権威というものが失墜しようが、信仰というものは確かに人々の間に存在している、という気がしてくる。
おそらく、7月以降はアクセスできません。
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「面白ければOK」ってことで昔書いた歴史豆知識みたいな。
あくまで参考程度にとどめてくださいね。
【バチカン市国の話】
2005年のこと。新教皇「ベネディクト16世」誕生のニュースを見ていて、「そういや、ヴァチカン市国ができるまで、紆余曲折があったんだよなあ・・・」てなことをふと思い出した。でも、高校の世界史でちょこちょこっとやった程度の知識なので、細かいことはウロ・・・。この際なので、ちょっとネットで調べてみた。
ヴァチカン市国は、ローマの西側にある世界最小の独立国家。教皇を元首として、教皇庁が治めている。責任者は国務長官。2009年時点では、ベルトーネ枢機卿という人が勤めている(この人、「クレリクスカップ」という聖職者のサッカー大会なんか開いたこともあり、大のサッカー好きとしても有名)。そして実際の統治は「ヴァチカン市国行政庁長官兼ヴァチカン市国委員会委員長」の役目。やっぱりこの人も枢機卿。
「ヴァチカン」という名前は、あの辺りがキリスト教の誕生以前から「ヴァティカヌスの丘」と呼ばれていたことに由来する。ちなみに通貨はイタリアと同じユーロ。切手も独自のものを発行しているが、イタリアの切手も同様に使える。
市民権を持っているのは、2002年度で555人。枢機卿、大司教などの高位聖職者、駐ヴァチカンの司祭、行政官、教皇庁職員、スイス人衛兵などに対し、教皇の勅許によって与えられる(ということは、市民は当然男ばっかりってことか)。
ちなみに、FIFA未加盟だけど、サッカーのナショナルチームも持っている。ヴァチカンのナショナルチームかあ。国民が永住してるわけではないから、選手の出入りが激しくて、あんまり強くなさそうだけど…。やっぱり、チームは当然全員カソリックなんだろうなあ。当り前か。
兵力は持たず、スイス人衛兵が警護にあたっている。一定以上の身長がある未婚のスイス国籍の男性が勤務している。ヴァチカンでなんだか派手な服を着たお兄さんを見かけたら、それがスイス人衛兵。中世そのままのようなデザイン。ミケランジェロが作ったとかいうけど・・・どうなんでしょうか。下士官に昇進すると、結婚が許可される。
なんでスイス人かというと、戦争大好きだった教皇ユリウス2世(在1503~1513年)が、勇猛果敢なスイス人傭兵に目をつけたからだそう。その伝統が、ずっと続いているわけだ。その頃の教皇領は広大で、北はボローニャ、南はローマまであった。
この教皇領、始まりはフランク王国の宰相・ピピン(いつも思うが可愛い名前だ・・・)がカロリング朝を廃してメロヴィング朝を起こした時に、時の教皇ザカリアスに王朝の正当性を認めてもらったお礼として、ラヴェンナ地方を寄進したことから。
要するに「王朝のっとったの、ぜ~んぜんずるくないよ~」と教皇に言ってもらったお礼に、どどーんと領地をあげちゃったわけです。756年の話だから、相当昔ですな。
その後も教皇領は着々と広がっていき、「カノッサの屈辱」で有名なグレゴリウス7世(在位1073~85)の時にトスカナ地方の一部を、教皇権が最大になったインノケンティウス3世(在位1198~1216)の時にロマーニャ地方を獲得し、最大版図となった。
・・・が、ナポレオンの時代になると、教皇領は一度消滅。ナポレオンがエルバ島に流されたあと、ウィーン会議で領土は一度復活するが、イタリア統一運動(リソルジメント)の影響でどんどん削られていく一方。
そんなこんなで、1870年にはイタリア王国が成立。ローマを占領され、とうとう教皇領は完全に消滅する。
イタリア王国は教皇の不可侵性とヴァチカンの領有権を保障した「教皇保障法」を制定するが、「ざけんなコラァ! 領土返せ!」とキレた教皇ピウス9世はこれを拒否。
その後、歴代の教皇たちはヴァチカンにこもり、イタリア政府との交渉を拒み続ける。
結局、1929年にムッソリーニとピウス11世との間でラテラノ条約が締結されるまで、およそ60年のあいだ、教皇と教皇庁はイタリアと断絶状態だったわけですな。
で、このラテラノ条約により、世界最小の独立国「ヴァチカン市国」が誕生した。
「イタリア政府の干渉を受けない」ということを銘記したこの条約、お互いギリギリの譲歩だったんだろうなあ。
それでまあ、現在に至るわけですが・・・。教皇って聖書には全く書いてない存在なのに、あれだけの力を持っているというのは、(今更だけど)なんだかとても不思議。
ところで。
2005年のコンクラーヴェ(教皇選挙)で選出された第265代ローマ教皇は、教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿(当時78)。投票が始まってわずか2日で当確。比較的早く次代の教皇が決まったというわけだね(前回ヨハネ・パウロ2世のときは3日で決着)。「天使と悪魔」のように殺人事件は起こらなかったよ(そりゃそうだ)。新しい教皇の名前は「ベネディクト16世」。
ベネディクト16世は、1927年にドイツのバイエルン州マルクトルに生まれる。
ドイツ人教皇は950年ぶり、ヨハネ・パウロ2世に続いて二人目の非イタリア人の教皇となった。
ミュンヘン大学で哲学と神学を学んだあと、1962年の第2ヴァチカン公会議で発言し、注目を集めた。枢機卿に任命されたのは77年。その後は枢機卿団のナンバーワンとして実力を発揮、ヨハネ・パウロ2世の葬儀も取り仕切った。
…というわけで、教皇には本命中の本命が選ばれたということのよう。
この教皇は保守的な立場をとっており、ヨハネ・パウロ2世からの路線については、「妊娠中絶・同性愛反対」などは踏襲するものの、他の宗教との対話・平和路線については反対のよう。保守的な教皇が誕生したことで、当時の周囲の反応は「新教皇に不満ではなく、不安を抱く」という感じだったそう。
78歳の教皇。選出時の年齢としては過去300年間で最高齢。
今回は在位期間が短そうな気がしなくもない・・・。
で、この「教皇の名前」ですけど。
本名ではないことは皆さんご存知かと思いますが、命名については特に決まりがあるわけではなく、1009年からの慣例によるもの。新教皇が選出された時に、自分で好きに決めていい。
別名を使うかどうかは強制ではないようで、1555年に教皇に選出されたマルケルス2世は、本名を使っていた。
新教皇に選出された枢機卿は、主席枢機卿から二つの質問をされる。
まず、「教皇となることを受諾しますか?」
これに「はい」と答えると、次に「教皇としてどのような名前を選びますか?」と尋ねられる。このとき答えた名前を、ずっと名乗っていくことになる。いわば、「名前を選ぶこと」が教皇の初の仕事といっても過言ではないかも。
コンクラーヴェが終了すると、すぐに新教皇についての発表がある。あのタイミングを考えると、おそらく名前について迷っている暇はない。だから教皇候補の枢機卿たちは、前々から自分の名前を考えているはずだ。尊敬する教皇や聖人の名前を取ることが多いようだ。
前教皇のヨハネ・パウロ2世(ポーランド人初の教皇)は、その前任者で、就任後一ヶ月足らずで亡くなってしまった教皇ヨハネ・パウロ1世に敬意を払い、同じ名を選んだ。改革的だった路線も、そのままそっくり踏襲したかたちとなった。
世界11億のカトリック信者を導く宗教的指導者、教皇。
何かといえばサン・ピエトロ広場に集まる人々の様子を見ていると、本当に教皇というのはカソリック信者たちの心のよりどころなんだな、という気がしてくる。
「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」がバカ売れしようが、日曜日に教会に行く人が少なくなって、教会の権威というものが失墜しようが、信仰というものは確かに人々の間に存在している、という気がしてくる。