先日、『ドキュメンタリー沖縄戦~知られざる悲しみの記憶』という映画を観ました。
ドキュメンタリー沖縄戦は新宿k’s cinemaという映画館で一日一回10時に上映します。
初めての場所なので迷いながら上映5分前に到着。
慌てて購入したチケット番号が39番で、私の後ろでチケットを購入された40番の方が締め切りになりギリギリでした。座席はコロナ対策で前後両隣の席が空席となっています。(入り口で検温と手指アルコール消毒)
1945年、日本で唯一の地上戦が行われた沖縄。
アメリカと戦争をして広島と長崎に原子爆弾が投下され8月15日に降伏した...沖縄で地上戦があったことをよく知りませんでした。
沖縄戦を体験したその当時子供だった12人の方の証言と専門家8人による解説が、今も数多く残されている沖縄戦の戦跡や、アメリカ軍が残した沢山の映像とともに次々と語られます。
アメリカ兵約54万に対し日本兵約11万、少ない日本兵を補うため沢山の沖縄の民間人もかりだされました。
法的には18歳頃から徴兵がはじまるそうです。しかし沖縄戦では年齢を引き下げ14歳~17歳から学徒兵が召集され、その学徒兵のことを『鉄血勤皇隊』と呼んでいて、子供の兵隊に「鉄血勤皇隊」と命名する残酷さにギョッとしました。
沖縄の人は日本軍を『友軍』と呼び信頼していた
激しい空爆で防空壕で避難していると、その友軍である日本軍に「防空壕から出ろ」と言われる
避難していた母親が堪らず
「防空壕は家族のために掘ったものです。この防空壕を出たら子供二人をどう守ればいいのか」と日本軍に訴えると「国賊、スパイ、売国奴」と罵られ日本刀を振り回し切りつけられ泣く泣く出て行く。友軍だと思っていた日本兵が豹変した。
鬼畜米英
一億一心
生きて捕虜となる辱めを受けるな
集団自決
皇民化教育
教育勅語
軍国主義教育
大東亜共栄圏
八紘一宇
......証言者の言葉が次々と突き刺さる
日本人の戦死者20万656人。県民だけを計算すると、当時の人口の3人に1人が死亡したことになるとパンフレットにありました。
沖縄の専門家、元読谷村議会議員の方が言った言葉
「軍隊は住民を守らなかった」
「教育の恐ろしさ 大切さ」
が頭の中で渦巻いた
それから
沖縄戦をもう一回観に行きました。
今度は早く行ったのでチケット番号が11番
二回目の沖縄戦は、出て来た重要な言葉を反芻しながら観ました。
これから何かを調べたくても、言葉を知らないと調べられないので記憶しようと思いました。
ドキュメンタリー沖縄戦を観終わると
九段下にある『昭和館』に行きました。(こちらも二回行く)
昭和館では
占領から独立までの軌跡
~1945-1952~
戦後75年特別展が開催されています。
(7/18~9/6まで開催・無料)
この戦後75年特別展のチラシに、
_______________________
昭和20年(1945)、この年を境に日本人の価値観は大きく変容します。
同年8月15日正午、ラジオから流れる玉音放送により敗戦を告げられた日本国民は、戸惑いと生活苦を抱えながら「復興」にむけて歩み始めました。
しかし、家族を亡くし、住む家と財産を失い、食糧と物資が不足する過酷な状況の中で、
自力で「復興」を成し遂げることは困難を極めます。....
_______________________
と書かれていて
自力で「復興」を成し遂げた、の『自力』の言葉が気になり、展示に行きたいと思いました。
ポスター中央に新橋の闇市の上空写真
国からの配給だけでは餓死する人もあり、現実は闇市に頼らざるを得ないと展示にありました。
敗戦の8月15日16日に、集団疎開先で小学6年生の女の子が書かいた日記や、勤労動員先で中学生の男子が書いた手紙が展示されていて、何回も読み返して小6の女の子の日記の文章は書き写しました。そして小6の女の子の書いた日記と、中学生の男子の書いた手紙の要点が同じだと気が付き少し驚きました。
『占領から独立までの軌跡』の展示はとても勉強になり憲法で謳われている
「基本的人権の尊重、国民主権、平和主義」がずっと守られるようにと願う気持ちが強くなりました。
お昼に大好物の肉汁うどんを食べました。(二回行った)
何回食べても美味しいです