恋愛の格差幻冬舎このアイテムの詳細を見る |
このblogでは、村上龍さんに言及することが多いのだが、昔から好きだったわけではない。
「愛と幻想のファシズム」は読んだが、あとは青春小説「69」くらい。
彼の世界が、SMやドラッグ、売春をモチーフとしていた頃は、僕にはつらかった。
彼がJMMを始めた頃、小説のタイトルで言うと「希望の国のエクソダス」や「最後の家族」あたりから関心領域が重なってきて、現在に至る。
「恋愛の格差」はその頃に女性誌に連載されたエッセイで、編集部としては「すべての男は消耗品である」的な辛口恋愛評を期待したのであろうが、本の途中から「なぜ恋愛の話なのに経済のことばかり書くのか読者は不思議かもしれないが」というフレーズが多くなり、彼の関心が移る様がわかって面白い。
印象深いフレーズがあるので、いくつか記しておく。
都心のスノッブなレストランには、きれいな女、金持ちの女、仕事ができる女の三種類しかいない。
もちろん、都心のスノッブなレストランに行くことが出来なければ充実した人生とは言えないというわけではない。しかしおいしい食事やワインは確かに充実感を与えてくれるものだ。ちょっとした悩みが消えることもあるし、豊かな気持ちになれることもある。
都心のスノッブなレストランに行けなくてもわたしは十分に充実した人生を送っていると言えるのはどういう女性だろうか。
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確かに魅力的な女性はいる。外資系で英語と金融工学を駆使しているわけでもなく、ブランドに身を包んでいるわけでもなく、特別に才能や技術があるわけでもなく、特別に美人というわけでもなく、有名大のMBAホルダーでもない。それでも「魅力的だ」と思う女性は今の日本にかなりの数が残っていると思うのだが、彼女たちを形容する言葉がない。
積極的に、ポジティブに生きていて、かつ必死で競争したりせず、他人を押しのけたりもせず、会社で認められるために「頑張ってなんかいない」魅力的な女性をどういう風に形容すればいいのだろうか。
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わたしは、失恋を筆頭とする精神的な苦悩が人生には必要だと思っているわけではない。苦悩が人間を豊かにするなどとも思っているわけでもない。苦悩なんか大嫌いだ。
だが精神的な苦悩に耐えている人は、何も起こらない退屈な人生を送っている人よりもはるかに充実しているように見えるときがある。それが退屈だとしらずに、平穏だと勘違いして、退屈な人生を生きている大勢の人達がいる。最悪なのは、そういう人たちだろう。