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「人は生きてきたようにしか死んで逝けない」、・・・・・・・。

2010-09-18 00:08:07 | 日記
宗教、仏教、道元
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人は生きてきたように死んでいく
 「人は生きてきたように死ぬ」、「人は生きてきたようにしか死んで逝けない」、・・・・・・・。

 この始めてのフレーズ、ある仏教雑誌、『大法輪』であるが、で一度に二箇所で接したのである。もうすぐ満65歳になるが、約65年間で始めてなのに一時間内外、サラッと目を通すなかで二度も、・・・・・・。

 私は、過去の知識を消費するだけでなく新しい知識欲を持ち続けている自分を嬉しく思う。

 「人は生きてきたように死ぬ」、女性詩人・エッセイストの堀口すみれ子さんという人が、この題での随筆で、お父さまの最後の様子を、”母に手をとられ、私に抱かれ、何よりも家族を愛した最後”だったと短文を寄せているものがまずひとつだった。ただ、ここではそんなにフレーズの重い意味にまで想い至らなかった。

 私を釘付けにしたのは、千石真理さんという浄土真宗本願寺派布教師・鳥取大学医学部精神科博士課程のひとの”仏教ビハーラ・チャプレンとしての模索と気づき”という小論だった。
 ビハーラとかチャプレンという用語からの関心の発展性、私が常々思っていた仏教の精神医療領域への力への同感度の高まり、私が好意的に追及している禅系でなく浄土系の、しかも写真での綺麗な女性のひとの論であることへのちょっとした煩悩、・・・・、とにかくこの論文はいろんな面で今後の私のまた別の関心の源流になると思われるのだが、当面、上記等はここでは措くとして、この論文の中ほどに、
 ”「人は生きてきたように死んでいく」、「人は生きてきたようにしか死んで逝けない」、これは、鹿児島のあるホスピス医の言葉である。”で始まる小節がある。
 これまで数多くの癌患者を見送ってきたこの医師の哲学の凝縮されたものだろうという。心安らかに最期を迎えたいとホスピスなりに入っても望むようには必ずしもいかないし、癌の場合、痛みのコントロールもプロの医師からみて、日頃感謝の生活をしている人、不平不満ばかり言っている人、・・・差がでてきている、ということである。

 そして、同じように、「人は生きてきたように老いていく」ということなのか・・・・。
 元気な頃に何を考え、行動されたかが、老いてくると顕著に現れる、認知症になると、その傾向はさらに大きくなり、その人の性格や、秘められていた思いがはっきりと出る、ということがいわれるが納得できるように思う。

 私は、つい先月会ってきた母を思い浮かべる。明治と大正の重なった1912年の明治側、明治45年5月18日生まれ、97歳になっていた。母のことについて最新につぶやいたのは、おじんカテゴリー第99号(08年7月)であったが、そのときは私達夫婦をしっかり認知できたが、その4ケ月後の11月訪れたときは私達夫婦が判ってもらえなかった。そして先月、妹と二人で尋ねたときもやはり、誰であるという認識はしてもらえなかった。耳も遠く、片方の目も不自由で話も少なく十分な会話にはなりえなかったが携帯電話のカメラで施設の人に写真を撮ってもらうときの笑顔を初め、一貫した”安らかさ”は私達兄妹にとってなによりの救いであった。「人は生きてきたように老いる」、一朝一夕でない母のいままでの姿を思い起こしてみる。
 私のこの半生カテゴリー、第23号、第24号に書いた母に関する想いは6人兄妹同じだったろうと思う。6人もいたのだから各人ベッタリとはいかなかったが、兄妹みなが母に大いなる感謝の気持ちを日常からもっていたことを母も無意識に受けいれてくれていたのだろう。また、第24号にも触れたように、下の妹のことで悩んだ結果として、”毎日の生活をありがたく生きる”ことを中心にしたある宗教心で、自己のこころも克服していっているように見え、それを周囲も暖かく見守った。トイレに、生を感じ、感謝する意の単文の紙が用をたす目の前に貼ってあったのを思い出す。
 人の死亡率は100%である。母も何れは来る「死」を安らかに受け入れることができるだろう。そう願っている。

 そしてなによりも、自分である。”自分の、いま” をポジティブに生きる、正しく(八正道という指針もある)生きる、・・・・、明日事故で死ぬ可能性を含めて心安らかな死は”いま”の生き方にかかってくるのである。死だけではない。今後の「老い」のためにも”良きいまの生”を生きなければいけないと思うのである。


 ちなみに「人は生きてきたように死ぬ」でGoogle検索した。二つのブログやHPの部分を転載させていただく。

1. http://bloom.at.webry.info/200808/article_4.html
先生によると、
「人は生きたように死んでいく」 のだそうです。

しっかり生きてきた人はしっかりと亡くなっていく。
ネチネチ生きてきた人はネチネチと亡くなっていく。
だらしない人はだらしなく亡くなっていく。
普段から感謝してる人は、感謝しながら亡くなっていく。
不平ばかり言って生きてきた人は不平ばかり言ってなくなっていくらしい。

死に際に現れるのは、地位や職業ではなく、その人の生き様、人生への態度だそうだ。

2. http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001897/0/kouza/section3.html
患者さんから教えていただいたことは、「人は生きてきたように死んでいく」ということです。これも本当にそのように思います。しっかり生きてきた人は、しっかり亡くなっていかれますし、ちょっと変な表現ですが、べたべた生きてきた人は、べたべたと亡くなります。そして、周りの人に感謝をしながら生きてきた人は、私たち医者やナースに感謝をしながら亡くなっていかれますし、不平不満を言いながら生きてきた人は、我々に不平不満を言いながら亡くなっていかれます。最後の一ヶ月というのは、それまでの人生の凝縮です。ですからそういう意味で、人は、生きてきたように死んでいくのです。
 それを言い換えますと、「良き死を死すためには、良き生を生きる必要がある」と思うんですね。そこで、良き生とは何ぞやということが非常に大きな問題になります・・・・・・

 余談 : 「人は生きてきたように死ぬ」、こんな長くしかも単語でなく文章、これでもGoogle検索はいろいろ手繰り寄せてくれる。さすがに私の意図どおりのものは3件で、1番、2番、10番。1番と10番が上記引用、この10番が”鹿児島のあるホスピス医”のページか?。1、2番はこの”柏木”先生の対談記事から引っ掛ったもののよう。10番が本来1番だ・・・・。

 余談を書く意図はまた別で、この検索で、ちなみに3番は、
 ”人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答 (新潮新書): 茂木 健一郎, 南 直哉: 本. ... 良い頭=良い心から出てきた良いことばのオンパレード。 どのような職種においても、仕事の質を追求していくと、こういうところに行き着くかな ..”.  アマゾンの本の案内である。
 茂木 健一郎、 南 直哉、二人それぞれの著書、茂木 健一郎『クオリア入門』、南 直哉『「正法眼蔵」を読む』が両者とも難渋しているものの読書進行形なのである。それぞれをそれなりに通読し終わる必要があろうが、二人共書ということになると見過ごせない。当然、購入図書候補としてメモされることになる。

第壱回 「天」とは何ぞや?

2010-09-18 00:04:38 | 日記

第壱回 「天」とは何ぞや?

 第1回はやはり、「天」について考えてみます。
 ではまず、劇中で「天」について語られた部分を見てみます。

  • 「森羅万象あまねく統べし、神なる力」「神なる無限の力」(天人の夢)
  • 「ですが、”天”を手中にすれば、我らにも勝機は得られましょう」(リュウケイ)
  • 「巫女を失い、気脈の構築の出来ぬ今、このマンダラ・システム以外には”天”への道はないのでな」(魔天王)
  • 「”天”の素質は、人には作れん」(老師)
  • 「魔天八部も俗人に過ぎぬということよ。なればこそ、あやつらに”天”の力は渡せんのじゃ」(老師)
  • 「所詮、魔天は天の影、天に光満ちあふれし時、影たる魔天は消えるが定め」(天人王)
  • 「天なくして、人の世は、あり得ぬ」(天人王)

 これらから、以下のようなことが判明します。

  • 天の力は、生まれつきで手に入るものである
  • しかし、後天的な努力でも手に入る(そう信じられている)
  • 魔天と対成す存在である

 さらに、天人王の次のセリフがあります。

  • 「・・・我、人の始まりに、大いなる混沌より生まるるものなり。天の意志、人の命、地の恵を受けしものなり。我は神の意志なり!!」

 ここで「神」という単語が出てきます。"天"には上位者が存在するわけです。すると当然想像されるのが、「天=救世主」

 という図式です。天人王の言葉通りにとらえるなら、

人<天<神

 となり、"天"は地上における神の代行者、ということになります。

 ですが、"天"はそれ単体では地上に現れることができませんでした。
 劇中、"天"は他者の肉体(天人)を介してでしか地上に現れることができず、しかもその肉体の持ち主の意志に反することもできませんでした。
 "天"は天人とは別個の存在であると言えます。つまり、キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった唯一神教的な意味での救世主ではありえないわけです。

 では劇中にさんざん用語が出てくる仏教的な意味ではどうでしょうか。
 仏教における救世主と言えばご存知弥勒菩薩ですが、これはもう菩薩という単語で判るように神そのものです。
 また仏教における"天"とは、仏法を守護する天竜八部衆の最上位に位置するもの、つまりこれもまた天上に住まう神々そのもの。
 仏教おいては人はおろか木や動物、果ては物にも魂が宿り、それらが神になることもあります。神は上から下まで八百万とも言われるように数え切れないほどたくさんいて、神々の世界とされる須弥山には住みきれずに地上にいるものも数多い、という状態です。天人王の言う「神」は口振りからしてそういった言うなれば「下っ端」の神を指しているとは考え難く、やはりこれも違うようです。

 さらに宗教的に考えてみるなら、"天"と"魔天"という構図はゾロアスター教の光と闇の二元論を思わせます。
 ゾロアスター教にも確かに救世主は存在します。(=サオシュヤント。エメラルドドラゴンですね。同作にはやたらとゾロアスター教用語が出てきます)しかし、ゾロアスター教では光や闇よりさらに上位の概念として「時間」があり、ある時点で強制的に両者の戦いを終わらせてしまうのです(だから常に光が勝利する訳です)。ところが幻影都市には、時間を超越したもの、カイが存在します。よってこれもダメ。またこいつのせいで・・・

 やはり、あの世界に既存の宗教を当てはめようというのが無理でした。"天"がある意味においては救世主であることは間違っていないと思うので、ここはやはり本道に戻り、純粋に劇中から"天"とはどういったものかを推測しましょう。これではただのウンチク野郎だ・・・

 で、気になるのが魔天王が巫女を使って"天"の力を得ようとしたことです。巫女のみで"天"が得られるのならばわざわざ魔天教を作り、儀式を行う必要はなかったはず。儀式に参加するのは一般の市民で、彼らの多くは巫女(シャオメイ)の個人的魅力で集められているわけで・・・
 つまり、人々の「意志」や「願望」を集めること、それこそが魔天王の目的であったのではないでしょうか。巫女はそれを集積し、具体的な力に変換するジェネレーターの役割を果たすことになります。あの荒廃した世界で「幸せになりたい」という個々人の利己的な願望を吸い上げ、ひとつの巨大なエネルギーに纏めあげるのです。

 この考えに沿ってゆけば、

天=人間の意識の集合体

 となります。
 人間の願望が"神"を、そして"天”を作り出した、という考え方です。近代ヨーロッパにおける哲人思想で出てきた考え方ですね。

 では、マンダラ・システムによる"天"への道は?
 これに関してはネットワーク端末を用いて人々の意識を吸い上げる、という考え方はデビルサマナー・ソウルハッカーズでも語られました。香港のネットワーク整備は当然SIVAが行ったわけで、こうした環境を整えるのは難しくはなかったはずです。また全ての市民がID登録制となっている香港ではあらゆる住民が日常的に何らかの形でネットワーク端末に触れているはずで、魔天教の儀式によって強力な念を集める一方でこちらはより微弱な念を広範に集めるものとして機能したと思われます。

 魔天王はSIVAを通し、大多数者のアウター市民を抑圧する施政を行わせます。抑圧された市民のエネルギーは魔天教、あるいはマンダラ・システムへと流れ・・・というわけで、魔天王は人々の感情によるエネルギーを自給自足、さらには拡大再生産できる立場にあったわけで、いずれにせよ彼はこれらの方法で"天"に到達できたことになります。こう考えてゆくと、"天"が人の意識の集合体であるという説は概ね正しいと思えます。そして、少なくとも魔天王はそのことを理解していたようです。メシュメルも同様であり、またフェイは、その方法論を持たなかったために"天"の力を持つ者を見つけ出し、懐柔する方法を選んだのだと考えられます。

 では、"天"と"魔天"との違いとはなんなのでしょう?
 思うにそれは、集められた感情の質の差ではないでしょうか。言い換えれば、それが「陽」の感情であったか、それとも「負」の感情であったか、ということです。

 人々が純粋に「幸せになりたい」と願う気持ち、自然発生的な感情の集積からは"天"が生まれ、反対にSIVAによる抑圧から発生したマイナスの感情の蓄積からは"魔天"が生まれる、というわけです。幻影城召還による香港崩壊の中で、人々が一番強く願ったことは「生きたい」「死にたくない」といった、最も原始的で、それゆえに純粋なことのはずです。
結果、純粋な感情エネルギーの集合体"天"の力は"魔天"を凌ぎ、魔天王は天人の前に倒れることになります。

 では、なぜそれほどまでに強大化した"天"を、一個の人間にすぎない天人が拒絶し得たのでしょうか?
 また、なぜ"天"を拒絶してしまうような人間に"天"たる資質が与えられたのでしょう?
 "天"たる者を選ぶのが"神"であるならば、"人"によって"天"が倒される、という終末は"神"が"人"を見放したということを意味するのでしょうか・・・?

 "天"が"神"によってもたらされた救世主であろうことは、天人王の口ぶりからほぼ間違いないと思えます。かつては"天"が地上に降り、世界を変えたこともあるのでしょう。が、しかし・・・
 あるいは"天"が倒されることもまた、"神"の予定のうちだったのかも知れません。"人"が自らの力で運命を切り開くために・・・

 つまり、"人"は自ら生み出した"天"を倒すことで"神"を乗り越え、新たな次元へと進んだ、ということになるわけです。ニーチェ風に言うならば、「神は死んだ」ということになります。

 神のいない町、「幻影都市」。
 そこではただ、人々の営みが営々と続くのみ。

 最後に一言。

「神は心の内にあり」