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Q. キリスト教では、人は死んだらどうなるんですか?

2010-09-17 18:15:26 | 日記
 Q. キリスト教では、人は死んだらどうなるんですか?

 A. わかりません。でも、決して自分で確かめたりしないでくださいね。

■聖書における死と死後の世界(6)

▼偽パウロ書簡では……


  次に、パウロの名によって執筆されながらも、パウロのものではない、とされた手紙類を見ていきましょう。偽パウロと呼ばれてはいますが、キリスト教の形成に大きな役割を果たしている手紙です。


(65)すでに我々は復活している(エフェソ:1)

  まず、エフェソの信徒への手紙です。
  
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 〔中略〕 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソの信徒への手紙2章1-6節)。
  こうなると、ここで使われている「死」であるとか「復活」というのは、心の持ちようの問題であって、生物として我々が実際に死ぬこととは、何の関係もない、ということになってしまいます。
  パウロの場合は、ところによって違いはありますが、「世の終わり」、「死」、「復活」を、実際の自分の生物としての命と死の問題としてとらえていた面がありました。象徴的な意味での生死と、生物としての個体の生死が、ないまぜになった形で論じられていました。いずれにしても、「復活」は彼にとっては(差し迫っているとはいえ)未来のできごとでした。
  しかし、このエフェソ書では、信徒はすでに「死んでいた」状態から「復活させ」られた状態に移されているので、信仰における象徴的な死と復活の問題ではあっても、死生観の問題ではなくなってしまいます。
  さすが、「偽」パウロ書簡というだけあって、手紙の冒頭ではパウロの名を語っていますが、パウロとは全く違う神学に立っています。


(66)あなたがたは死んでいる(コロサイ:1)

  次に、コロサイの信徒への手紙です。
 
 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(コロサイの信徒への手紙3章3-4節)。
  これも、生死というのは信仰による心の状態のことのように読めます。
  生きているコロサイの教会員たちに対して「あなたがたは死んだ」と言っているのですから、生物的な死の問題ではありません。そうなると、キリストが再臨するとき栄光と共に、隠されていた「あなたがたの命」が現れるというのは、復活のこととも言い切れません。どうも歯切れが悪い描写のように思えます。


(67)苦しんでいる信仰者は休息に(Ⅱテサロニケ:1)

  その次は、テサロニケの信徒への手紙(二)です。
  
「それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。 〔中略〕 そして、神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」(テサロニケの信徒への手紙(二)1章4-8節)
  これはもう、信仰のない人あるいは迫害者に対する呪いの言葉で、そのまま受け取るのは危険な考え方でしょう。話のテーマも、信仰者の喜びや安息といったものよりも、信仰に入らない人への罰のほうがおおいに強化されています。
  それはともかく、いま迫害の中で苦しんでいる信徒は、世の終わりに際してイエスが再臨するとき、休息に入ると言われています。眠りとは違う、休息なのですね。あまり具体性はありません。


(68)私たちは何も持たずに生まれ、何も持たずに死ぬ(Ⅰテモテ:1)

  
「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」(テモテへの手紙(一)5章7節)
  終末や復活について何も述べていませんが、自然な死生観が現れているところです。旧約聖書のコヘレトの言葉に、
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ」(コヘレトの言葉5章14節)という言葉があるのを連想させます。


(69)主の再臨を待つ人には栄冠がさずけられる(Ⅱテモテ:1)

  
「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(テモテへの手紙(二)4章6-8節)
  この手紙の著者は、信仰者は神から栄冠を授かると信じています。ただ、終末における人間の状態や。すでに死んだ人はどうなるのか、などといったことには触れていません。


▼偽パウロ書簡に関する中間的なまとめ

  さまざまな著者によって書かれているので、これといって統一されたテーマが見つかるわけではないのは分かっていたのですが、それでも傾向には2つあって、1つは、生物としての人間の生死の問題から離れて、死というものが抽象的というか観念的に取り扱われる傾向がありました。それからもう1つは、世の終わりにあたってキリストが再臨し、休息なり栄冠なりを受けられるのだと鼓舞する傾向がありました。
  どちらも、いま、いつ終末が来るかもわからない、というより、終末などひょっとしたら来ないんじゃないかと思っている現代人にとっては、あまり参考にはならない死生観だったと思います。ある宗教学者(島田裕巳氏)によれば、終末論というのは、その予言が外れるときを経験しないわけにはいかない、とのことです。
  「教団が終末を予言し、それで信者を集めたとしたら、必ずその予言が外れるときを経験しなければならない」(『日本の10大新宗教』幻冬舎新書、2007、p.188)
  おそらく終末予言が外れてしまって今日に至るクリスチャンにとって、これらの終末論をどう受け止めるかは、重要な課題だと言えるでしょう。

どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう

2010-09-17 18:10:10 | 日記
どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう
 
 わたしは基本的にものぐさである。
 だいたい朝起きることそのものがなんとも面倒くさい。「人はなぜ起きなければならないのか」と心底疑問に思う。しかし、寝たままでいるとおなかが空く。しかたがないので起きる。

 もしわたしが大金持ちだったら、執事が「お嬢さま、お目ざめでございますか?」とかなんとか言いながら、朝食をベッドへ運んできてくれるところだろう。
 けれども残念ながらわたしはそんな身分ではない。人類の大多数の人々と同様に、労働しなければ食べ物を口に入れることができない。
 わたしは大金持ちの家に生まれたわけではないので、一日中寝ているわけにもいかないのである。

『人は生まれる時と場所を選ぶことはできない』

 人生とは不条理なものだ。そもそもわたしは自分で望んで生まれてきたわけではない。生まれてきてしまったこと、まさにそのことがわたしにとっては不条理なのだ。

 それにしても生きるということは、なんと面倒くさいことなのだろう。わたしなどは時々、食事をとることさえ面倒くさく思うことがある。息を吸ったり吐いたりするのさえも面倒くさくなる。
 そんなふうに思うのなら、いっそのこと死んでしまえばいいではないか、と思う人も多いだろう。ところがやっかいなことに、死ぬことさえも面倒なのだ、わたしは。困ったものである。

「生きているのが面倒だ~。しかし、死ぬのも面倒だ~。あ~面倒だ~」と、かつて高田渡(60~70年代のサブカルチャーを代表するシンガーソングライター)が蚊取りマットのコマーシャルソングを歌っていたことがある。その時わたしは思わず大きくうなずいてしまったものだ。わたしはつくづくしみじみ思うのである。

『人はどうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう』

 どうせ死ぬのに、わざわざ生まれてくる。これはまったく理にかなっていないのではないか。
 生きるのも面倒、死ぬのも面倒、そういう人間にとっては「なぜ生まれてきたのか」、このことが最大の謎となり、まるで影のようにいついかなる時も自分に寄り添っていることになる。

 仕事がうまくいかない時、失恋した時、お金がない時、「なぜ自分は生まれてきて、こんなつらい目にあわなければならないのだろうか」と空を見上げて神さまに恨みつらみを言いたくなってしまう。逆に、仕事がうまくいった時、素敵な人に出会った時、美しいものを見た時、そういう時は「生きていて良かった」と思うのも事実である。

 しかしわたしは、そういう感覚は長くは続かないことも知っている。人生は喜びの時間よりも苦しみの時間の方がはるかに長いのだ。また皮肉なことに、苦しみがなければ喜びという感覚も人間にはないのだ。人間は複雑だ。不条理だ。人間は苦しみと喜びの波間を漂いながら、そしてある日ある時必ず死ぬ。この営みに何か「意味」とか「価値」とかがあるのだろうか。

 生物学的な観点からみると、「死」については最近『アポトーシス』という考え方が理にかなっているとされてきている。

『アポトーシス』とは、簡単にいえば「生物個体の生命を維持するために制御されて起こる細胞死」のことである。
 つまり、生命を保つために人間の細胞は日々新しく生まれているが、細胞が新しく生まれるためには、古い細胞は死ななければならないのである。古い細胞が死ななければ、人間は人間の形態を保つことができなくなる。そのバランスが狂ってしまったのがガン細胞だ。ガン細胞は不死なのである。不死であるがために、人間の生命活動を阻害するのだ。

 そのシステムを人類というスパンに拡大して考えてみると、人類が生き延びるためには新しい人が生まれる必要があり、そのためには古い人(老人)は死ななければならないということになる。
 新しい人を生むために、人類は男と女に分かれて様々な組み合わせで生殖を繰り返している。なぜかというと、なるべく遺伝子の組み合わせをを多様にしておいた方が、どんな環境の変化が起ころうとも適応できる可能性が増えるからである。
 つまり、世代交代を頻繁に繰り返した方が、人類が発展できる可能性が大きくなるというわけだ。

 人類を発展させるために、人類は「わたしの死」を選んだのだ。つまり、わたしは人類のために死ぬというわけだ。「ああそうだったのね」と納得したいところだが、わたしはどうしても納得できないのである。

 わたしは単なる水とカルシウムと有機化合物の集合体? わたしはDNAの自己再生のプロセスのひとつにすぎないの? ただ機械的に子孫を残していけば、それでいいの? もしそうだとしたら、なんだかわたしはみじめである。

 そもそもわたしには、人類の発展が、それほど重要なことだとは思えない。わたしは人類が発展することに「意味」や「価値」を見いだすことができないのである。それよりも「わたし」や「あなた」が納得できる人生を送ることができることの方が重要だ。もし、人類の発展のために「わたし」や「あなた」の人生が納得いかないものになるのであれば、人類なんぞ滅んでもいいのではないかとさえ思う。この「わたし」というものは、よくよく考えてみると実にやっかいなしろものだ。

 わたしは自分で死ぬのは面倒だから死なないでいるところもある。しかし、だからといって、他人に殺されるのはまっぴらごめんである。なぜそう思うのかというと、やはり生まれてきたからには、自分の人生は自分でコントロールしたいという気持ちが強くあるからだ。自分が自分の人生の主体であること、自分の「納得」を大切にすること、自分の「尊厳(意地?)」を守ること、このことに関しては、わたしは面倒がらずに闘う意欲がある。不思議だ。

 なぜそうなのかというと、それは「納得」とか「尊厳」というものが、人間にとって重要なものだからなのだと、わたしは考えている。
 生まれてきたことと「納得」と「尊厳」は深い関係があると思うのだ。


「人生それ自体に意味はないが、意味がないからこそ生きるに値する」

2010-09-17 18:02:49 | 日記
人生

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人生を一言で J001
「人生それ自体に意味はないが、意味がないからこそ生きるに値する」
★アルベール・カミュ
≪ALBERT CAMUS1913-1960 フランスの作家≫

J002
「人生とは、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ちの連続にほかならない」
★ショウペンハウエル


J003
「人生とは、つまるところ、運命の玩具箱だ。人間はその玩具箱に投げ込まれた人形だ」
★有島武郎
「迷路」

J004
「人生は短いのではない。我々がそれを短くしているのだ」
★セネカ
-

J005
「人生は、ひどいものと悲惨なものに分けられている」
★ウッディ・アレン
-

J006
「人間は生き、人間は堕ちる。このこと以外の中に、人間を救う便利な近道はない。」
★坂口安吾
「堕落論」より

J007
「人生の時計は一度しかネジを巻かない」
★山田俊夫
「生きがいのある人生」より

J008
「人生・・・二つの永遠の間のわずかな一閃」
★カーライル
人間が生まれる前と、人間が死んだ後は、計り知れない永遠が存在する。

J009
「人生とは不充分な前提から十分な結論をひきだすという技術である」
★サミュエル・バトラー
-

J010
「人生の意義は終わるところにある」
★フランツ・カフカ
1883~1924年 チェコスロバキアの作家

J011
「人生は、大胆な冒険か、無か、そのどちらかだ。」
★ヘレン・ケラー
-

J012
「人生とは、病人の1人1人が、寝台を変えたいという欲望にとりつかれている、1個の病院である」
★ボードレール
『パリの憂愁』

J013
「人生は短い。たとえ、それを長いと思って過している人たちにとっても」
★A・モーロア
1885-1967 フランスの作家

J014
「人生は短く金は少ない」
★ブレヒト
『三文オペラ』

J015
「人生って、生まれながらにして死ぬ時のその対応の仕方をいかに模索していくかが人生のような気がする」
★ビートたけし
-

J016
「人生は真剣に語るにはあまりに重要すぎる」
★オスカー・ワイルド
-

J017
「人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している」
★芥川龍之介
-

J018
「人生には無条件の意味がなくてはならないものなのです」
★フランクル
-

J019
「人生は、歩き方を教わる前に道を誤る迷路である」
★シリル・コノリー
-

J020
「人生とは、時間という文の無意味な句読点さ」
★クリス・ギャラット
イギリスの漫画家

J021
「人生は一冊の書物に似ている。馬鹿者たちはそれをぺらぺらとめくってゆくが、賢い人間は念入りにそれを読む。なぜなら、かれはただ一度しかそれを読むことができないことを知っているから。」
★ジャン・パウル
『全集』

J022
「人生には二つの悲劇がある。一つは心の願いが達せられないこと。もう一つはそれが達せられること。」
★バーナード・ショー
『人と超人』

J023
「人生は地獄よりも地獄的である」
★芥川龍之介
『侏儒の言葉』

J024
「われわれの人生とは、われわれの思考が作り上げるものにほかならない」
★マルクス・アウレリウス
-

J025
「君が忙しく別の計画をたてている時、君におこること、それが人生さ」
★ジョン・レノン
-

J026
「人生なんて考えつめるほど深刻じゃない。かといって、考えただけでわかるほど甘くもない」
★梅田晴夫
『未知なるもの』≪≫

J027
「人生とは、切符を買って軌道の上を走る車に乗る人にはわからないものである」
★モーム
『作家の手帳』≪≫

J028
「人生なんてそんなものだ。いつか変わるだろうと期待するときしか幸せでない状態。そんな変化は無意味なのだが。変えることができたら、次に望むことは、また変えることなのだから」
★サミュエル・ジヨンソン
-

J029
「人生はわれわれをからかうのだ。人生は諸君に本物を愛しているような錯覚を与えて、にせ物を愛させる。恋にはちゃちな情事をもたらし、名誉にはくだらない成功をもってくる」
★ジュリアン・グリーン
『真夜中』

J030
「人生は強制収容所だ。君達は閉じ込められ、出口はない。迫害者に無力な怒りをぶちまけることしか、君達にはできないのだ」
★ウッディ・アレン
-

J031
「人生における大きなよろこびは、君にはできないと世間がいうことをやることである」
★ウォルター・バジョット
-

J032
「人生はいつもひどい終わり方をする」
★マルセル・テーメ
≪MARCEL AYME 1902-1967 フランスの作家≫

J033
「人生さいしょの四十年は私たちにテキストをあたえてくれる。それからの三十年はテキストについての註釈をあたえる」
★ショウペンハウエル
-

J034
「人生に執着する理由が無い者ほど、人生にしがみつく」
★エラスムス
-

J035
「人生は生きねばならぬ。生きるためには戦わねばならぬ。名は揚げねばならぬ。金はもうけねばならぬ。命がけの勝負はしなければならぬ」
★徳富蘆花
『思出の記』

J036
「人生は旅行であって、死はその終焉である」
★ドライデン
-

J037
「人生は不安定な航海だ」
★シェイクスピア
『アテネのテイモン』

J038
「人生は夢であり、夢ではない」
★沢庵
≪沢庵宗彭 1573-1645 臨済宗の僧≫

J039
「人生は悪しき冗談なり」
★ゲーテ
『西東詩編 観察の書』

J040
「人生は色どられた影の上にある」
★ゲーテ
『ファウスト』

J041
「人生は、だんだん諦めていくことである」


人間とは何ぞや

2010-09-17 18:00:20 | 日記
人間とは何ぞや



人間には本質的要素と付属的要素、すなわち本性と属性があり、

もう一つ大事な習性というものがあります。



本質的要素とは、これがあるゆえに人間は人間であって、

これを失えば形は人間であっても人間でない、という大切なものです。

これに対して、あればあるほどよいに違いないが、

それは程度の問題であって必ずしも大小多寡を問わない、

少しぐらい乏しくともさして変わりがない、というのが属性であります。



それでは人間の本性は何かというと、言うまでもなく徳性です。

徳性にはいろいろありますが、例えば明るいということがそうです。

人間は日月光明から生まれたのですから、

明るいということは最も大切な本質であります。

また、したがって清いとか汚れがないとか、

あるいは努めるということも大切な徳性です。

(天地・宇宙は限りないクリエーション(創造)でありますから、

われわれも常に何者かを生む努力をしなければなりません)

そのほか、人が人を愛する、人に尽くす、報いる等々、

一々数え上げれば限りがありませんが、いろいろな徳性があります。



こういうものがあって初めて人間であり、

明らかにこれは「人間たるの本性・本質」であります。

“貴様、それでも人間か”とはよく口にする言葉ですが、



仮に“なぜ人間でないと言うのか、人間とは何だ”

と反噬(はんぜい)(恩義ある人にはむかう)されたときに、

言下にぴしゃっと答えられないようでないといけません、

今日の親子の悲劇の費筒は一つは、

そういう人間の大事な問題について親がはっきり答えられないところにあるのです。

せがれは学校でくだらぬ講義を聴いたり、

愚にもつかぬ新聞・雑誌などを読んで、なかなか屁理屈を言うのがうまい。



ところが父親の方は、実務について経験や常識は発達しているけれども、

理論・イデオロギーなどというものから遠ざかっているために、

せがれから反噬(はんぜい)されるとへどもどして、“お父さんもう古いよ”などと言われると、

つい“そうかなあ”ということになってまいってしまう。

そういうところからくる混乱や断絶が意外と多いのです。

父たる者は少なくともせがれの屁理屈などに対しては

言下にぴしゃっとやるだけの教養・識見を持っている必要があります。



知能とか技能というものは人間の属性、すなわち付属的要素であります。

なるほどわれわれの知識・技術とか才能というものは、あればあるほどよろしい、

結構なものであります。

そしてこれがあるゆえに近代文明というものが津々(しんしん)として発達してきました。

しかし、こういうものは、通常の人間であれば皆ある程度持っているのであります。

よくできるとかできないとかいっても、それは程度の差であって、

人間たることにおいて別段何の関係もありません。

それどころか、かえって知能や技能が人間たることを損なうことが多いのであります。



その証拠にバカはあまり犯罪をやりません。

罪を犯すのには相当知能や技能がいるからです。

ことにこの頃は知能犯、技能犯が多くなっておりますが、

知能・技能というものはともすれば人をだめにします

その点、バカは自然のままの人間ですから、大体は善人で、

人間味が豊であります。

これは子供も同じことで、幼いときほど自然ですから、それだけ正直であります。

そこで知能・技能というものは、徳性を待って初めて好ましいもの、

嘉(よみ)す(ほめる)べきもの、尊いものになるのでありまして、

反対に徳から離れるに従って悪くなり、いつわりになります。



これを称して「偽(ぎ)」と言います。偽は人が為(な)すと書きますように、

第一に技(わざ)という意味があり、第二に「いつわり」という意味があります。

知能・技能というものは徳性から離れると、往々にして

偽になったり、

「奸(かん)」(悪がしこいこと)になったり、

「邪」(よこしまなこと)になったりいたします。



その最大の例が近代文明です。

近代の科学技術文明というものは、つい最近までは人類の非常な誇りでありました。

ところがそれが次第次第に自然を汚し、

自然の理法を破るという思わざる問題が発生してまいりまして、

その結果今日では、人類は文明によって発達したが、その文明によって滅亡する、

と言われるようになってきておるのであります。



最後に習性でありますが、これは「習(ならい)、性となる」とか「人生は習慣の織物なり」と

いわれるぐらい人間にとって大事なものでありまして、

その意味では本質的要素の中に加えることもできます。

すなわちひな鳥がだんだん成長して、親鳥の真似をして羽をひろげて翔ぶ稽古をする、

という意味であります。



そこで人間はなるべく早いうちに良い習慣を身につけさせる、

これは徳性に準じてたいせつなことであります。

ところがこの大切な根本問題を、明治の日本は忘れて、

それこそスターリンや毛沢東ではないが「追いつけ・追いこせ」の大躍進を実行して、

西洋近代文明の吸収に熱中したわけです。



そうしその結果、世界の奇蹟とまでいわれるほどの偉大な成績を上げたのはよいのですが、

やはり速成には手落ち・手抜かりがあるものでありまして、

最も大切な人間教育(徳性を涵養して良い習慣を身につけて、

それに基づいて知識・技術を受ける)という点において大きく抜かってしまったのです。



その結果、文字通り偏向知識人、非人間的技術者が続出して、

日本の近代文明、近代文化というものはすっかり歪曲されてしまいました。

これが今度の終戦の時に日本に大いに祟(たた)ったばかりでなく、

今日の社会的混乱もそこに原因があると申してもよろしいと思います。



すべて今日の悩みはそういう錯誤からきておるのです。

例えば公害問題にしても、

もっと早くシンギュラー・ポイント、ハーフウェイに気がついて対策を講じておれば、

こういう問題にならなかったはずであります。



政治の混乱も、またしかり。

個人の健康、国家・民族の健康、政治・教育の健康、

すべてが今大変な危機にあると申してよかろうと思います。

にもかかわらずそれを意識し自覚する人は非常に少ないのであります。

それどころか、たまたま早く気がついてそれを警告すると嫌がる。

「予言者、郷にに容れられず」と申しますが、

民衆というものは真実を言われることを好まない。

かえってそういう先見・先覚の人をアラーミスト(警告家)だの、

クライシスモンガー(危機屋)だのと言って排撃します。

すべてこれ人間の錯覚から起こっておることでありまして、

病気にしても犯罪にしても、政変にしても戦争にしても、皆、同じであります。

具体的に申せば通貨危機、ドル・ショック問題がそのよい例であります。

これはベトナム戦争が進行するにつれて十分予想されたことであります。

けれども政府当局者はそれを採り上げなかった。

それで今になって政府の責任を云々するのでありますが、

しかし迂闊であったのは経済界も同罪であります。



*シンギュラー・ポイント

水であれば沸騰点や氷結点のことをいう。徐々に徐々に加熱され、

100度に達した時点で水は煮えたぎり、水蒸気となる。

シンギュラー・ポイントを過ぎた時点で、誰の目にも明らかになるが、

こうなってしまうと、

火を消しても、水を注ぎ足しても暫くは手の付けられない状態が続く。



「人物を修める」 安岡正篤著;致知出版社