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生か死か、このままでいいのか、いけないのか

2010-07-31 22:13:50 | 日記
生か死か、このままでいいのか、いけないのか


「To be, or not to be」
 これは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』のあまりにも有名なセリフだ。
 そしてこれは人間にとって、あまりにも普遍的な問題だ。西欧文化の影響を受けた国の若者は、一度はこのたぐいの苦悩の経験があるのではないだろうか。この作品が書かれたのは約400年前である。その頃も現代と変わらない問題を抱えた若者がいたということなのだろう。そう考えると、感慨深いものがある。
 このセリフは「生か死か」と訳すべきなのか、「このままでいいのか、いけないのか」とすべきなのか見解が分かれているが、どちらにも一長一短があり、いっそのこと「生か死か、このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」と合体してしまえばいいのではないかとさえ思う。

 意味的には「このままでいいのか、いけないのか」の方が近いのかもしれないが、その意味を理解するためにはまず「生死」の問題を考えておかなければならないので、「生か死か」の方が、どういうたぐいの問題なのかということを推測しやすい。
 また、このセリフを舞台で言うのであれば、歌舞伎の見栄やオペラのアリアと同様に、やはり一般には定番になっている「生か死か」の方が観客は喜ぶのではないだろうか。

 さて、オフィーリアという恋人もあり、これからの幸せな人生を夢みていたハムレットは、ある日、亡くなった父を殺したのが、今は母の夫となっている叔父ではないかという疑いをもつ。
 このまま知らぬふりをしていれば、オフィーリアと結婚してデンマークの王子としてそれなりに幸せな生活を送ることはできる。しかし、知ってしまった以上、自分を偽ることもできない。だが、自分を偽らずに生きるには、この問題の「オトシマエ(決着)」をつけなければならない。それには死の危険がつきまとう。彼は初めは死を恐れて「決断」を迷うのである。彼は自問する。

「生か死か、それが問題だ。どちらが男らしいか。凶暴な運命の矢と弾を耐え忍ぶのと、苦難の荒海に立ち向かい闘って終止符を打つのと。死ぬこと。死は単なる眠りにすぎない。眠れば心の憂いも肉体の苦しみも消えてなくなる。願ってもない幸いというものだ。しかし、眠れば夢を見る。それが嫌だ。この現世のつらさから逃れても、その先で見る夢を思うと心が鈍る。だからこのみじめな人生にも執着が残るのだ。でなければ、誰が世の非難に耐え、権力者の横暴を黙って忍ぶだろうか。誠意なき裁判や不実な恋の痛手も、その気になれば短剣の一突きで死ねる。なのに人生の坂道を汗水たらして上ってゆく。死後に不安があるがゆえだ。旅立った者が1人も戻らぬ未知の世界。心が鈍る。慣れぬ苦労をするよりも現世で耐えようと、思慮が人を臆病にしてしまうのだ」【※1】

 死についての考えは、わたしも同感である。たいていの人もたぶんそうだろう。死ねば楽になるとは思う。理論的に考えてみれば、死ねば無になる。死んだ者はその時点でもう何も感じることはないはずだ。夢など見るはずもないし、死後の世界などあるはずもない。
 しかし、多くの人はそう簡単には割り切ることができないのではないだろうか。そう簡単には割り切れない「何か」が人間にはある。わたしはその「何か」を否定することができない。考えてみれば不思議なことだ。

 で、自分の頭で考える人間は、ここで次の問いを発するのである。「死ねば楽になるじゃん」と言い切れない思考や感情を人間がもつのは何故かと。
 ハムレットは次のような問いを発する。

「人間とは何だ。死ぬまで寝て食うだけの日々を過ごす存在か? それでは獣と全く同じだ。客観的に考え行動する力を、神は人間に与えた。それを使わずにカビさせるためじゃない。違うさ。その力を忘れたか。…(中略)…真の勇気は無造作に剣を取ることではなく、名誉のためには藁くずにでも命をかけて闘うことだ」

 ハムレットは苦悩の末、「死ぬまで寝て食うだけの日々を過ごす存在」ではなく、「名誉(尊厳)のために闘う存在」になることを「決断」する。そのことで、もはや死は彼にとって恐れる対象ではなくなってしまうのである。

 これはどういうことかというと、自分がいずれ死んでしまう存在であるという事実に真っ正面から向き合って、では自分はどう生きるべきかということを理論的に考え、その結論に「納得」したからだと思う。
 また、賢いハムレットは「運」のことも忘れてはいない。最後に彼は次のように言う。

「死は今くるか、後でくるかだ。とにかくいつかくる。覚悟が肝心だ。現世は仮の宿、早死にもあるさ。運に任せる」

 やるべきことを決断した後は「ケセラセラ、なるようになるさ、Let be」なのである。カッコいいのである。

 というわけで、400年前も今も、人がこだわるのは自分の「尊厳」であるということがわかる。戯曲『ハムレット』が今も繰り返し上演されるのは、人々にとって「生か死か、このままでいいのか、いけないのか」という問いが重要なものだからなのではないだろうか。

 誰もが生まれてくることで偶然か必然か環境による苦悩を背負う。ハムレットの場合は血縁の人間関係が問題を抱えていた。彼は自分で望んでそのような環境に生まれてきたわけではない。運命なのである。誰に文句を言っても仕方がないことなのだ。自分で背負うしかないのである。

 そういうふうに考えていくと、人というものは、それぞれ個別の問題を抱え、一生をかけてその問題に「オトシマエ」をつけていく生き物なのではないかとさえ思えてくる。

「このままでいいのか」と思ったときは、たぶん「このままではいけない」ということなのである。ときには立ち止まって「いずれ死ぬ存在」である自分の来し方行く末を考えるのも一興ではないだろうか。




どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう

2010-07-31 21:11:47 | 日記
どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう


 わたしは基本的にものぐさである。
 だいたい朝起きることそのものがなんとも面倒くさい。「人はなぜ起きなければならないのか」と心底疑問に思う。しかし、寝たままでいるとおなかが空く。しかたがないので起きる。
 もしわたしが大金持ちだったら、執事が「お嬢さま、お目ざめでございますか?」とかなんとか言いながら、朝食をベッドへ運んできてくれるところだろう。
 けれども残念ながらわたしはそんな身分ではない。人類の大多数の人々と同様に、労働しなければ食べ物を口に入れることができない。
 わたしは大金持ちの家に生まれたわけではないので、一日中寝ているわけにもいかないのである。

『人は生まれる時と場所を選ぶことはできない』

 人生とは不条理なものだ。そもそもわたしは自分で望んで生まれてきたわけではない。生まれてきてしまったこと、まさにそのことがわたしにとっては不条理なのだ。

 それにしても生きるということは、なんと面倒くさいことなのだろう。わたしなどは時々、食事をとることさえ面倒くさく思うことがある。息を吸ったり吐いたりするのさえも面倒くさくなる。
 そんなふうに思うのなら、いっそのこと死んでしまえばいいではないか、と思う人も多いだろう。ところがやっかいなことに、死ぬことさえも面倒なのだ、わたしは。困ったものである。

「生きているのが面倒だ~。しかし、死ぬのも面倒だ~。あ~面倒だ~」と、かつて高田渡(60~70年代のサブカルチャーを代表するシンガーソングライター)が蚊取りマットのコマーシャルソングを歌っていたことがある。その時わたしは思わず大きくうなずいてしまったものだ。わたしはつくづくしみじみ思うのである。

『人はどうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう』

 どうせ死ぬのに、わざわざ生まれてくる。これはまったく理にかなっていないのではないか。
 生きるのも面倒、死ぬのも面倒、そういう人間にとっては「なぜ生まれてきたのか」、このことが最大の謎となり、まるで影のようにいついかなる時も自分に寄り添っていることになる。

 仕事がうまくいかない時、失恋した時、お金がない時、「なぜ自分は生まれてきて、こんなつらい目にあわなければならないのだろうか」と空を見上げて神さまに恨みつらみを言いたくなってしまう。逆に、仕事がうまくいった時、素敵な人に出会った時、美しいものを見た時、そういう時は「生きていて良かった」と思うのも事実である。

 しかしわたしは、そういう感覚は長くは続かないことも知っている。人生は喜びの時間よりも苦しみの時間の方がはるかに長いのだ。また皮肉なことに、苦しみがなければ喜びという感覚も人間にはないのだ。人間は複雑だ。不条理だ。人間は苦しみと喜びの波間を漂いながら、そしてある日ある時必ず死ぬ。この営みに何か「意味」とか「価値」とかがあるのだろうか。

 生物学的な観点からみると、「死」については最近『アポトーシス』という考え方が理にかなっているとされてきている。

『アポトーシス』とは、簡単にいえば「生物個体の生命を維持するために制御されて起こる細胞死」のことである。
 つまり、生命を保つために人間の細胞は日々新しく生まれているが、細胞が新しく生まれるためには、古い細胞は死ななければならないのである。古い細胞が死ななければ、人間は人間の形態を保つことができなくなる。そのバランスが狂ってしまったのがガン細胞だ。ガン細胞は不死なのである。不死であるがために、人間の生命活動を阻害するのだ。

 そのシステムを人類というスパンに拡大して考えてみると、人類が生き延びるためには新しい人が生まれる必要があり、そのためには古い人(老人)は死ななければならないということになる。
 新しい人を生むために、人類は男と女に分かれて様々な組み合わせで生殖を繰り返している。なぜかというと、なるべく遺伝子の組み合わせをを多様にしておいた方が、どんな環境の変化が起ころうとも適応できる可能性が増えるからである。
 つまり、世代交代を頻繁に繰り返した方が、人類が発展できる可能性が大きくなるというわけだ。

 人類を発展させるために、人類は「わたしの死」を選んだのだ。つまり、わたしは人類のために死ぬというわけだ。「ああそうだったのね」と納得したいところだが、わたしはどうしても納得できないのである。

 わたしは単なる水とカルシウムと有機化合物の集合体? わたしはDNAの自己再生のプロセスのひとつにすぎないの? ただ機械的に子孫を残していけば、それでいいの? もしそうだとしたら、なんだかわたしはみじめである。

 そもそもわたしには、人類の発展が、それほど重要なことだとは思えない。わたしは人類が発展することに「意味」や「価値」を見いだすことができないのである。それよりも「わたし」や「あなた」が納得できる人生を送ることができることの方が重要だ。もし、人類の発展のために「わたし」や「あなた」の人生が納得いかないものになるのであれば、人類なんぞ滅んでもいいのではないかとさえ思う。この「わたし」というものは、よくよく考えてみると実にやっかいなしろものだ。

 わたしは自分で死ぬのは面倒だから死なないでいるところもある。しかし、だからといって、他人に殺されるのはまっぴらごめんである。なぜそう思うのかというと、やはり生まれてきたからには、自分の人生は自分でコントロールしたいという気持ちが強くあるからだ。自分が自分の人生の主体であること、自分の「納得」を大切にすること、自分の「尊厳(意地?)」を守ること、このことに関しては、わたしは面倒がらずに闘う意欲がある。不思議だ。

 なぜそうなのかというと、それは「納得」とか「尊厳」というものが、人間にとって重要なものだからなのだと、わたしは考えている。
 生まれてきたことと「納得」と「尊厳」は深い関係があると思うのだ。



[心霊写真] 串崎ケープホテルの心霊

2010-07-31 20:31:01 | 日記

[心霊写真] 串崎ケープホテルの心霊

心霊写真

福岡県行橋市にお住まいの、トイレット博士さんから送られてきた心霊写真です。
この写真は、九州の有名な心霊スポット?と言われている(た?)串崎ケープホテルを撮影した写真です。
建物の右側面の一番左の窓に、女性の横顔のような心霊が写っています。

心霊写真

貞子より:はじめまして。トイレット博士さん。貴重な心霊写真の投稿どうもありがとうございます。
いつ頃の写真でしょうか?串崎ケープホテル、もう消滅したって噂も聞きましたがどうなのかな?
私も、何度か前を通った事あるけど、怖ろしい廃墟でしたね。


八王子の霊合星人さんから送られて来た心霊写真です。

2010-07-31 20:22:34 | 日記

心霊写真 子供の霊

八王子の霊合星人さんから送られて来た心霊写真です。

霊合星人さんのコメント

久々の休日を家族でドライブしていた時、息子(小学2年生)が車内から外の景色をデジカメで写していました。
そして、その1枚に、世にも奇妙な物が写っていましたので、投稿致します。

心霊写真

道路の向こう側に、子供の霊が立っています。

心霊の拡大

貞子の鑑定 : 貴重な写真どうもありがとうございます。事故死された子供でしょうか。成仏される事をお祈り致します。