トルクメニスタンに住んでます。

トルクメニスタンの首都アシガバート(Aşgabat/Ashgabat)での暮らしを綴ります。

2017-09-10 22:15:17 | 日記
アシガバートでは、実に様々な顔を目にします。
白い肌に金髪のロシア系、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちのペルシャ系、そして、平たい顔のモンゴロイド系、さらに洋の東西が混じり合ったエキゾチックな顔立ちも。
来たばかりの頃は、あまりのバリエーションの豊富さに少々パニックに陥りました。

人は未知のものに出会ったとき、これまでの経験や知識と照らし合わせながら、カテゴライズしラベリングをすることで安心しようとするものだと思うのですが、ここアシガバートでは、それが通用しなかったためです。一日も早く「トルクメン人ってこういう人」と自分自身を納得させたくて、無意識のうちにカテゴライズとラベリングを試みていたのでしょうが、それがうまくいかず、きっと脳の回路がショートしそうになったのだと思います。
しかし、ここでの生活にも慣れ始めた頃、「これもトルクメン人」「あれもトルクメン人」と思えるようになっていました。カテゴリー分けもラベル貼りもしようとしなくなりましたし、それをしなくても不安に思わなくなっていました。

ところで、いわゆるトルクメン顔ってどんな顔なのでしょうか?
ボワ~ンと何となく浮かんでは来るのですが、まだはっきりとした像は結びません。
あと数か月後か、1年後には、「こんな顔」と描写できる日が来るでしょうか?

■文房具屋で手に入れたチラシ

トルクメン人男子ってこんな感じです。黒い上下に白いシャツ、黒ネクタイ、タヒヤと呼ばれる伝統的な帽子が男子学生の制服。“私服”姿の二人の垢抜けなさが微笑ましい。


右の男子・女子は、制服を着た小学生。どちらもロシア系でしょうか?幼児の方は…うーん、わからない。ただ、まつ毛が反り返るほどに長く、この歳にして完成された顔立ちはお見事です。



羊たちの沈黙

2017-09-05 12:49:13 | 日記
イスラム教の2大行事の一つ「犠牲祭」が、今年は9月2日から4日まで行われました。
これは、イブラヒームが信仰の証として自分の息子を生贄にしようとしたという故事に基づき、羊などの家畜を屠り神に捧げる行事です。
エジプトでは「イード・アル・アドハー(Eid ul-Adha)」と呼ばれていましたが、こちらでは「クルバン・バイラム(Kurban Bayram)」と呼ばれています。

カイロでは、犠牲祭が近づくと、羊飼い(?)に連れられた羊の群れを街中で見ることができました。また、その前に暮らしていたサウジアラビアのリヤドでは、「ドナドナ」よろしくトラックの荷台に乗せられ運ばれていく羊たちを見ることもできました。いずれも犠牲祭の風物詩だったのですが、ここアシガバートでは、群れはおろか1匹の羊すら見られませんでした。
9月1日にはテケ・バザールに行ってみましたが、そこにも羊の姿はなく…。

2日、近所を歩いてみましたが、家畜が屠られた痕跡はどこにも見当たらず、何だか物足りなさを感じてしまいました。
カイロでは、犠牲祭初日の夜明け前にコーランが響き渡り、人々は自宅のガレージなどで家畜を屠っていました。日中街を歩けば、水で洗い流された家畜の血がそこここに溜まっていて、むわっとした匂いが漂っていたものでした。懐かしい…。
そういえば、サウジアラビアでは地面が血で汚れるのを嫌い、砂漠で屠るのだと言っていました(車で10分も走れば、そこは砂漠でした)。アシガバートも郊外には荒野が広がっているので、羊たちはそこに連れていかれたのかもしれません。

バーバー②

2017-09-01 21:38:41 | 日記
再び1か月が巡り、髪を切る時期がやってきました。
今回は、前回見つけた「さらにイケてそうな店」にトライ。
その後に人と会う約束が控えていたため30分しかなかったのですが、そんなに手のかかる髪でもないので十分だろうと思い飛び込みました。
…が、…甘かった。

この店の理容師も、やはり「職人」でした。
とりあえずサイドと襟足だけを短くしてくれるよう頼んだのですが、左右の長さに1ミクロンの狂いもあってはならないとばかり、バリカンを巧みに操りながら、ちょっと刈っては鏡の中の私をねめつけ、またちょっと刈る…という具合で、いっこうに終わる気配がありません。さすがにイライラし、「もうOKだよ」と何度か言ったのですが、人差し指を一本立て、「あと1分」とかなんとか。うーむ…。
寸分違わず揃えては面白みもないだろうに、そういう「面白み」とか、「あえての不揃い感」とかいう概念は無用なのかもしれません。とにかく、左右はきっちり正対称。それ以外はありえないという感じ。

ようやく満足のいく出来になったのは、約束の時間の2分前。
前髪を切るかと聞かれたのですが、また何分かかるかわからなかったため断り、シャンプーも辞退し、店を飛び出しました。(ちなみにこの店は、仰向けになるタイプのシャンプー台でした。顔をざらりと撫でられることはなかったでしょう。)

さて、その翌朝。
何気なく額に触れたときに、ジョリッという違和感。
慌てて鏡をのぞき込み愕然。

剃り入ってる…。

■イメージ①


■イメージ②


額の左右からもみ上げにかけて生え際が剃られ、「きれいな」ラインに仕上げられていました。

昨日、不可思議なバリカンさばきで何やら施していたのは、こういうことだったのか。
地肌に食い込むほど刃をあてて、ジョリッ!ガリッ!と「刈って」いると思ったのは、実は「剃って」いたのか。
そして、なるほど、これが「トルクメン的に美しい」生え際なのか。

その瞬間、こみ上げる悔しさ。剃りを入れられたことに対してじゃありません。
「頼んでもいないのにやられた!」
「されるがままになっていた自分が情けない!」

もうあの店には行かないと心に決めたのでした。