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椿の杜

キャメリアの花に囲まれて・・・

男らしさ、女らしさ・・・

2009-01-29 | 温故知新


 日記文学の先駆けとなった紀貫之の『土佐日記』、「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり」
 本来日記は男性の書くものであったが、つらちゃんは、自分が女になりすまして書いた。
 その後、蜻蛉日記→式部日記→更級日記→交換日記→ブログへと女性が発展・継承させていく。
 スポーツの世界では更に顕著!女性がサッカーやゴルフ、野球まで男性スポーツ界へ進出、凌駕している。

 その逆に「女がすることを男もしたがる」現象が云われて久しい。
 事実、化粧品、エステ、雑貨、グルメ、カフェ、お料理など男性顧客の消費が拡大している。
 男性の晩婚化によって自由裁量所得の増大が、男女の消費の同質化を益々進めている。

 否、これは男性の消費の女性化だ! まさに 「女がすなることを男もすなる」 そのものだ。

 これまで、女性層をターゲットにしたマーケティングが、消費拡大の鍵を握っていたが、
 今は、メンズ市場拡大の為の購買行動・意思決定の研究・分析が重要になってきている。

 男性消費者の一般的特質(女性対比)を整理した資料(日本総研)を見た。
 プロへの憧れ、薀蓄、女性の応対・評価に傾倒受容、オリジナリティ、プロセスの楽しみ ・・・ なのだそうだ。



                      


                   トイレの向こう側のカウンターに可愛いフィギアを飾る親父
                   その横に, 直ぐ手に取れる英語の雑誌を常備している親父
                   しっかり手洗い器の横には常に新しいタオルを吊るす親父
                   男の象徴 : 立ちションを放棄して、小でも便器に座る親父
                   毎週土曜に便器の掃除とTPの買い足しを欠かさない親父
 
                   最後に、毎日このブログ日記を綴る事を自分に課した親父




本音と建前

2009-01-11 | 温故知新


      


  本日は、建前の日だ。上棟(じょうとう)とか棟(むね)上げとかとも言う。
  写真の中央部、ヤネの一番高い部位を棟と呼び、最終その棟木まで構造材の組み建てを完了させる事をいう。

  ところで、この建築の建前と、「本音と建前」の建前とは違うのだろうか?それとも同じか?

  以前から、建築や住宅の”シキタリ”にも色々あって、業界に携わりながらずっと疑問が解決できない事も多々ある。
  『何故敷居は踏んではいけないのか?』 未だに大工さんでも明確な答えを教えてくれない。

  本音と建前の たてまえ と、上棟の たてまえ の関係には、こんな秘話があった。

  昔、その名を知らない者はいないくらい腕のいい有名な大工棟梁がいました。
  その棟梁が、建前の前日、自分の失敗で玄関の柱の高さを短くしてしまい、収まらなくなってしまいました。
  棟梁は、己の未熟さに極度に落ち込み死のうと考えます。が、それを見た棟梁の妻が、自分が亭主の身代わりなっ
  ても良いと思い込み、棟梁が寝た後も徹夜で考えたのが、マス組と言う名誉挽回の工法でした。
  翌朝目覚めた棟梁は、女房から差し出された3つ枡を受け取ると、瞬時に妻の考えを悟り、柱の足りない分を、一升・
  五合・一合の枡を組み合わせる事で、自分がしくじった柱の短さを補って建前を納めたという事です。
  ところがなんと、この棟梁は己の恥が表に出るのを恐れ、口封じの為に女房を殺してしまいます。
  自殺を考え自分の身代わりにもなる決意をし、自分にお酒を飲ませて眠らせた間に、一生懸命夫の汚名を補おうと
  寝ずに考えた自分の恋女房を、自分の手にかけて殺してしまったのです。
  その後棟梁は、己の犯した罪を悔い、未来永劫、女房を弔うと心に誓い女の七つ道具を棟の上に飾って供養したと
  言うのが始まりで、建前の儀式となったそうです。

  完璧な「タテマエ」にこだわるあまり妻を殺してしまった棟梁の生き様に、「ホンネ」で応じた棟梁を愛する妻の悲話が
  ここに在ったと言われています。

  建前の儀式の始まりとして、日本の大工さんたちによって永く語り継がれてきたこの切ない建前の神話は、お施主
  様の家を堅実に建てる事を自分の聖職と信じて止まない男のすさまじいばかりの執念と、その男の生きざまに本音
  で殉じた女の物語が、タテマエとホンネの語源となったようです。

  
  この話を聞いて私は、この仕事に就いた自分も本当に幸せだと思います。

  ちなみに、女の七つ道具とは、口紅・おしろい・くし・かんざし・鏡・かつら・こうがい だそうです。 こうがいって何?



                              ★写真の後姿の棟梁は、この秘話とは全く無関係です、悪しからず



成人の日

2009-01-10 | 温故知新


   「今日の晴れやかな日を迎えた君達も、明日からは自主独立し、気宇壮大な望みを持って、

   勇往邁進すれば、君たちの将来は前途洋洋だ」  なんて来賓のスピーチをどんな心構えで

   新二十歳人たちは聞くのだろうか・・・?

   はたまた、俺はどんな気持ちで聞いたっけ。



   殆ど形骸化してしまった成人式も、最近は新成人自身で運営する新しい試みがあるそうだ!

   実際、以前の市の成人式は、大ホール一箇所に全成人達を集めていたが、最近は各地区

   の公民館や集会場で行われているらしい事を親しい友人で成人を迎えるお嬢様に聞いた。




             



   さて、明後日はどんな成人の日のニュースが聞けるのか、2009年の成人気質が今から楽しみだ。




四字熟語 続き

2009-01-08 | 温故知新


 頭の体操ゲーム ・・・ 一から九までの数字を使った尻取り風四字熟語大行列

 
     一石二鳥 → 二○三○ → 三○四○ → 四○五○ → 五○六○ → 七○八○ → 九○一○ 



              


              ○ン○ン という言葉で最後の ”○ン” で四文字の尻取りゲームというのもアル。

              シンコン → コンバン → バンカン → カンベン → ベンジン → ・・・・・


医食同源

2009-01-07 | 温故知新

       そう言えばこんな四字熟語もあった。 なかなか普段使わない!


       1月七日は昔から " 七種粥 " を食べるという。お正月の間、贅沢になったお腹を少し休める為らしい。

       無理もして疲れた胃腸をいたわり、不足しているビタミンを補う、という意味でも、七種粥をこの時期に

       食べることは道理にかなっているそうな。それが即ち【医食同源】  病気を治療するのも日常の食事を

       するのも、共に生命を養い健康を維持する為に欠くことができないもので、源は同じだという考えらしい。


                                               さて、明智君・・・  今夜は何を食う!




       さて、明智君・・・  七種を全部君は言えるか!?  

       実はこれは、”春の七草・秋の七草”とは違う意味らしい!

       七種粥(ななしゅがゆ)とは、米、小豆、ささげ、黍(きび)、粟、稗(ひえ)、麦、などの七種が入った粥

       というらしい。 それも地方によっては様々に違うらしい・・・



                            さて、明智君、今回のブログには珍しく ”らしい” が多用されている。

                           実際の処、今晩何を食おうか、ただ単に迷っているらしいだけなのだ。



           


       君がため 春の野に出でて若菜摘む わが衣でに 雪は降りつつ  光孝天皇

       ちなみにこの句の若菜は春の七草であ~る! これだけはらしい、でなく断言!



神仏習合と分離 Ⅱ

2009-01-01 | 温故知新



    
                                             今年の初詣は、松山城の袂、東雲神社本殿


  お寺と神社の違いを明確に答えられる日本人は、極めて少ないと思う。
  お寺では仏像を拝顔し、神社は御神体を崇拝する場所、ここまでが私も精一杯の答え。
  仏事と神事をそれぞれ執り行うと言っても、そのもの事体が分らない。
  除夜の鐘はお寺で突いて、新年の初詣は神社へ行く。共通なのは、賽銭箱だけは両方に置いてある。

  日本元来が無宗派であり、「八百万(やおよろず)の神」として多様な神々が祭られてきたが、
  実はこの事自体を 【 神仏習合 】 とは謂わない。

  歴史の解説書を紐解けば、六世紀半ばにあたる飛鳥時代に朝鮮半島経由で仏教が伝わる。
  仏教には有益な科学知識や先進技術が多く含まれていて、寺院がつくられ広まっていく。
  平安時代に入ると、神社側では「このままでは時代遅れになってしまう」という声が広まった。
  そこでなんと、神社を支配する豪族や武士が僧侶を雇って神前で仏事行わせ、布教を進めていく。
  神宮寺と呼ばれる神社と寺院の寄贈を兼ね備えた神社も現れた。これが習合の始まりだと云われる。
  がしかし、仏教側も神道と結びつく事によって布教を有利に進めて来た事実がある。

  それが明治初年に 【 神仏分離 】 が発令。寺院と紛らわしい形をとっていた神社から仏教色が排される。
  神道と仏教とは別物とされ、神社で仏像がまつられることは無くなったのだ。
  特に廃仏毀釈という運動で、多くの伝統ある寺院が破壊され、または強制的に神社へと改組された。
  一体あれは何だったのか? 歴史に ”たら・れば” は無いとしても、非常に残念な史実だと思う。
  明治国家の神道国教代政策への地ならし政策として神道擁護、神仏混淆の廃止を目的として出された
  神仏分離令で、復古神道・天皇の神聖化を目的としとことが一番の原因だった。
  

  しかし、大切な事は、仏教と神道は対立するものではない。
  長期に渡って我が家の氏神様の神道と、それに共利共存してきた仏教宗派や特定の寺院を信仰しても
  全く差し支えないことだと思う。


  お四国巡りをしていると、札所の敷地の中に神社があって入り口に鳥居が立っている 伽藍 をよく目にする。
  最初はとても違和感があった。少なからずお寺を廻って行くとその縁起や歴史的背景も一緒に学ぶ。
  それぞれのお寺に、それなりの理由が確かにあったのだ。
  学問の神様は、菅原道真を祭った天神天満宮と受験生やその親の相場は決まっていたが、かつては本山:
  京都の北野天満宮には、観音菩薩様も同時に祭られた事実もある。

  信仰の自由を誰もが咎めたりしないこの国は、本当に良い処だと思う。
  だからこそ去年の私は、長男の合格祈願に高知のお寺/竹林寺 にも行った。
  信仰の自由の精神こそ、お四国様八十八箇所札所巡りの精神が、世界遺産の精神に共通すると信じたい。


全然OK!

2008-11-11 | 温故知新


     最近少し綺麗になった親父の会社のマイデスク
     
                                                            いつまで続くやら・・・・  


またまた親父の無知(愚痴)をひとつ


全然OKは全然おかしくないかい??? 全然の後は、否定形が来る、日本語の常識と、思っている事自体が実は
間違いであると最近知った。



明らかに辞書にも、肯定用法についても「俗に、否定表現を伴わず、「非常に」の意にも用いられる。」と書かれている。

なんと、「全然」の肯定表現は、明治時代には夏目漱石も使っていた伝統的で「正しい」表現だったのだ! 



「全然」の後に否定表現がこなければならないという方が、最近の若者に対して教条的になった親父の言い出した
間違いであると最近知った。



「 全然OK 」 という言い方は、全然OKであり、 今の俺の机は、全然綺麗である と言ってイイのだ。


死語②

2008-09-27 | 温故知新


世間という言葉は、仏教用語だそうだ。

更に、出世間(しゅっせけん)という言葉もあって、世間とあわせてこの世を二分して見る言葉であり、

世間とは移り変り、破壊を免れない迷いの世界という意味だそ~だ。 <・・・勉強の秋!>



最近の日本人は、 ” 世間の目 ”と言うものを忘れているのではないか!?

TVでもよく語られる、昨今の国民の安全を脅かすお役所や企業の背徳行為  = <イコール>

『 バレなければなんでもあり 』 は、完全に世間の目を無視したインモラル行為ですネ。 

人間や企業が社会に嘘をついたことがバレた時、その嘘が大きければ大きいほど、世間から受ける

欺瞞の代償は大きいという事を忘れているのだ。あんなに儲けたお金も一晩で水の泡だよネ。



一方、世間の目というと全く逆のニュアンスで語られることもある。



「世間」をある種の権力に喩えたり、村八分などとバッシングの意味にも捉えて、個人の自由な言動を

抑止する力、強制力を持つ意味では、生活しにくい ”煩わしい掟 ” なんだと思う。



この国では世間は、仏教用語とは思わず一般名化して、「この世」「世の中」「社会」のことを表す用語

として使われる。まさに我々が生きているフィールドそのものだ。


「世間」と書いて「よのなか」と読むこともある。 人は決して自分一人では生きていけない。

いくら世間が移り変わっても、やっぱり人間は世間の目を大切にしなくてはいけないヨ、という事をこの

地蔵離れした顔を持つ道端の地蔵は、毎日雨風夜露に晒されながら見守ってくれているのだ。





         


死語①

2008-09-20 | 温故知新


                『 衣食足りて礼節を知る 』 と 『 武士は喰わねど高楊枝 』

            私は、この二つの諺と大学のマーケティングの授業で初めて出合った。



            前者は、[原文] 倉廩 ( そうりん ) 実ちて 則 ( すなわ ) ち礼節を知り、
             衣食足りて則ち 栄辱 ( えいじょく ) を知る。という菅子の出典であり、
           現代風に言えば、米蔵が一杯になると人は初めて礼儀や道徳に関心を持ち、
           己の立場をわきまえる事になり、衣食が十分に足りて生活が安定すれば、
            人間の名誉とか恥辱というものを理解出来るようになる、という意味だ。

                  又、後者の意味は、武士は貧しくて喰う飯が無くても、
                 あたかも腹いっぱい食べたかのように楊枝を使って見せる。
                    日頃の武士の清貧や体面を重んじる心得だ。





何故この言葉がマーケティング学と関連があったのか・・・?



マーケティングとは、個人や企業の目標を満足させる商品を創造するための、アイデア、

サービス、価格、流通を計画し、供給するプロセスである。

平たく言えば、 ” 顧客の創造 ” であり ” 利益追求の手段” だ!



しかし、実際に大切な事は、売上を上げて利益を獲得するということは、その企業が提供

する商品やサービスが一般社会から必要とされ、満足と言う価値を顧客に与える役割を

本当に果たしているかが企業存続の大命題なのだが、実際のところは、上記二つの言葉

の意味の通り、人の満足と言う尺度は十人十色であるということだ。



勿論このふたつの諺は、最近あまり使用されないのは至極当然の事だ。

最近の飽食の日本人に礼節を知ることもなければ、高楊枝を気取る気質も無い。

金があるのに給食費を延滞したり、高速道路の料金所を強行突破したりと

この国の住民の礼節は極端に低い。



生活の基礎である 【 衣 食 住 】 のうち、衣食が足りていれば、礼節を知ることが出来る

なら礼節と住は同一になる。

今の日本人の礼節の貧困は、すなわち住まいの貧困さ(うさぎ小屋)にやはり繋がるのか






適当・・・!?

2008-09-16 | 温故知新


まさかの1回戦負けした次男に、

       「 まァ~、次があるさ!適当にいこうぜッ 」

               というメールを送ろうとして思い留まった。



適当にいこうぜッ という言葉は、我々の世代は、 【 ある状態や目的にほどよく行動する事 】 

という意味に使ったと思うが、今の若い子にすると、【 その場にあわせて要領よくやる事、いい加減

と言う意味に執るらしい・・・




真剣に野球をやっている息子に、まさか親父から、

        いい加減でイインだよ・・・ 

               なんて励ましのメールを送るわけにはいかない。



時代と共に言葉の意味が変化してきた、あるいは全く使用されない言葉も多々在る。




『 惻隠の情 』※ なんて言葉は、我々の世代でも死語になっている。

                         ※「他人の不幸への敏感さ」「敗者、弱者への共感、同情」

これは、孟子の有名な「性善説」に繋がっている。他人のことを痛ましく思って同情する心は、
やがては人の<最高の徳>である ”仁” に通ずるものだそうです。 惻隠の心は仁の端なり





当時の私の日記より・・・ 元祖:適当男の植木等氏がお亡くなりになった1年半前の雑記。

私は、一緒に「スーダラ節」を歌った世代ではないが、日本の高度成長期、未来に希望を持つ人々に
シンクロする笑いを提供した故人の偉業はスゴイと思う!
植木等さんにまつわる面白い記事を以前読んだので記録しておく。
『 解っちゃいるけど止められない 』 という彼の台詞は、歎異抄で有名な親鸞法師の「悪人正機」と呼
ばれる思想につながるらしい。
親鸞は、善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無いと申された。
この意味は、<人間は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。人間はすべて
悪(往生の手段とならない行為)しかなせない。だから、悪人と自覚している人間の方が、自分は善人
だと思っている人間より、救われる道を自覚している>という逆説的思想だそうだ。
・・・解っちゃいるけど止められない!・・・なるほど・なるほど・解ったような!?
それにしてもあんなに底抜けに明るい人(実は本来はとっても生真面目は方だそうだ・・・実際お会いし
たことは無い)は、もうTV界には現れないのだろうか・・・!?





最近のTVに暫し登場する、高田純次や石塚のいっちゃん、所ジョージ、関根勉等々のタレントの影響で

適当 という言葉の意味が変化した事も否めない。



もう一度、忘れられた(られそうな)日本語や既に死語になった言葉、意味が変化した単語を拾い集めて

後世の日本人 (といっても私の子供達がメイン、ウザイと云われても・・・) へ私なりに残しておきたい。




旧い男

2008-08-27 | 温故知新

テレサ・テン が今でも好きだ、と言うと、相手は大体失笑する。
が、それくらいならイイ! 誰それ?と、問われる時代に入った。

数多くの彼女の曲を手掛けた作曲家:三木たかし氏は、
今もテレサが愛される理由を「日本女性が失ってしまったけなげさ、
奥ゆかしさを思い出させてくれるから」と説明される。
一方で、「歌うことで自分の悲しみを慰めていた。品性とおびえが混じった、
深い目をしていた」と回想される。

確かに彼女に目は、僅かな懼れと人知れぬ情熱、謙虚さと強い信念・・・
その矛盾したものが同居しているから、歌を聴く人に訴えかけてくる。
テレサの歌詞の語尾の繊細さと優しさは、私はおろか日本男児の心を和ませた。

と、ここまで書くと、私のごく親しい女性は必ず 『貴方も旧いネ』 と言う。
そう、私は間違いなく、自他共に認める、absolutery 旧い男である。


        

           悪いか?????


好きな書物は?と聞かれると、間髪を入れず、山本周五郎の『小説日本婦道記』と応える。
好きな歌謡曲は、KANの『 愛は勝つ 』 ・・・・ 既に歌(虚構・フィクション)の世界でしか語れないから


そんな旧い私が最近考える。【男は度胸、女は愛嬌】 の中の愛嬌って何だろうか?

男には怠惰を挫く勇猛心と矜持を持たなければならない、
それを実践する為の体力も必要不可欠だ!
強きに恐れず立ち向かい、弱きを助ける包容力 など等が男の度胸ぉーだろ!

女の愛嬌ってナンだ?! いつもニコニコかい?
愛想が良く、色気もあって可愛らしく憎めない事・・・・・



う~ン、一言でゆうならズバリ 〔表現力〕 だと思う。

自己表現の出来る女性は、相手に理解があって自分と現状を瞬時に把握でき、且つ内面も美しい。




           違うか!!!???


あすからもあいかわらずわたしはまちがいなくきらわれる!どーせわたしはふるいおとこだから・・・




I look up when I walk down

2008-08-12 | 温故知新

作詞:永六輔 作曲:中村八大 歌:坂本九 の六八九トリオが作った名曲 『上を向いて歩こう』 の

誕生秘話はあまり知られていない。これは、永六輔の失恋ソングだった。“上を向いて歩く”のは

“涙”がこぼれないようにと歌った切ない曲であり、すべての日本国民にシンクロしたはずだ。

朗らかな歌声、一度聴いたら忘れないメロディは、「スキヤキ」の名で61年に全米リリースされ、

ビルボード・チャートにて見事No.1を獲得。日本人として空前の快挙であり、日本国内の歌謡曲

が世界的ヒットとなることは絶後であろう。


  ***日本人・北島康介の金メダルを祝し、今日の坂本九を偲んで、僕自信へ捧ぐ***







雑草雑言

2008-05-17 | 温故知新

        


シュークリームは、モスバーガー同様なんとも食べ方が難しい。
そのままかぶりつけば、必ずと言っていいほどクリームが零れ落ちたり、口の周りに残ってしまう。
フォークやナイフを使うには少し仰々しすぎる。
かといって他にベターな食べ方は無いのではないか!

と思っていたあの頃、かのケンちゃんが良きご指南をくれた。

1969年から14作も続いたTV○○屋のケンちゃんシリーズにおいて、72年から約1年の放送枠では、
ケンちゃんちはカムラというケーキ屋さんだった。

この 『ケーキ屋ケンちゃん』 の主題歌は、今でも私は口ずさむ事が出来る。

      ♪ シュークリームはね、ふたですくって食べるんだ
        だけど無理しちゃいけないよ、喉につかえてヒョッ、ヒョッ、ヒョッ、てなこっとになるからね  ♪

素晴らしい!

70年代に少年期を過ごした諸兄は、21世紀になってもこの永遠のシュークリームの食べ方を忘れてはいない。

      ♪ うちへおいでよご馳走するよ、だって だって だって ぼくんち、ケーキ屋なんだもん  ♪

と終わる。 

続くおもちゃ屋ケンちゃん、おそば屋、カレー屋と青春時代を共に過ごした諸兄は、最後に洗濯屋へ行き着く。


        やはりシュークリームとケンちゃんは永遠だ!    


神仏習合と神仏分離

2008-03-21 | 温故知新


       
                 <41番龍光寺の狛犬と太師堂と赤い鳥居>



   お遍路をしていると写真の様な光景をよく目にする。同一敷地内でのお寺と神社の共存だ。

   四国八十八箇所は、お寺を廻る旅だ。お寺は仏様(先祖)を祭る場所であり、神様ではない。

   だから寺院にはお墓があって、当然檀家もある。神社にはお墓や墓地はないだろうなア~

   神仏習合が奈良時代からあって、明治に入って神道国歌・政祭一致政策が執られ、神仏分

   離令が発令されると、寺院各所で廃仏毀釈が行われ、日本中の多くのお寺が取り壊された


   まだ私の頭では深く理解が出来ないが、なんともったいない事をしてしまったんだろうか・・・

   歴史に‘もし‘は無いはずだが、廃仏毀釈が行われなかったら、四国八十八箇所のお寺は、

   国宝級の建物で一杯のはずだった。そうなれば文句なし世界遺産に選出されたかも・・・!?


   今でも石手寺の仁王門や大山寺の本堂は国宝だ、大切に後世に守っていかなければなら

   ないし、壊された寺院も以降修復され寺として再興を果たした。今後は札所を廻って写真の

   様な光景を見たら、違和感でなく仏教と地域信仰の融合、すなわち世界平和の証としたい。