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支流からの眺め

紀伊熊野もパワスポだった

 数十年ぶりに紀伊熊野を訪れた。隈野とも書くように確かに山河の奥地だ。ここには熊野三山(熊野大宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)が鎮座し、伊邪那美神(イザナミノミコト)、伊邪那岐神(イザナギノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)(各社で別名のことあり)を含め、大宮大社と速玉大社は十二神、那智大社は飛龍権現を加えた十三神の神々を祀り、わが国の神話の世界を今に繋いでいる。

 大社の沿革は様々だ。大宮大社は、崇神天皇65年(紀元前33年頃か)に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建された(明治の洪水後に移築)。速玉大社は、景行天皇58年(128年頃か)に近くの神倉山の磐座(いわくら:信仰対象の岩)のゴトビキ岩から遷座した(元の地は神倉神社となる)。那智大社は、古く那智滝への自然信仰に始まり、仁徳天皇5年(317年頃か)に社殿を滝の近くから今の位置に移した(元の地は飛瀧神社となる)。

 その後これら三大社と仏教が一体化し、神仏習合の熊野権現(本地仏は千手観音、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音など)が生まれた。自然の威容や山岳地帯での修験道とも相まって、熊野の地の霊験はいや増しに増す。平安・鎌倉の時代には、白河上皇、鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度となく訪れた。比丘尼や修験者は諸国を巡り、曼荼羅を開陳して説法し参詣者を募るなど、庶民への勧誘活動も行った。

 その結果、多数の人々が幾多の参詣道を埋めるように押し寄せた(蟻の熊野詣と言われた)。その一人鎌倉後期の一遍上人は、熊野権現からお告げを聞き、念仏札と踊り念仏を特徴とする時宗を開くに至った(大斎原に碑がある)。有難き熊野権現は各地から勧請され、今も全国に約三千社の熊野神社がある。明治の廃仏毀釈の際には、残念ながら本宮大社と速玉大社では仏堂が全て廃され、那智大社に西国三十三ケ所の第一番札所だけが残された(青岸渡寺)。

 時代は下がり2004年、この地は「紀伊山地の霊場と参詣道」の名で世界遺産(文化遺産)に登録された。対象は神仏習合の霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(大辺路、中辺路、小辺路、大峰奥駈道、伊勢路、高野山町石道)だ。熊野地域では、熊野三山以外にも、花の窟(はなのいわや:イザナミの埋葬地とされる)、神倉神社、蓬莱山、青岸渡寺、那智大滝、那智原始林、補陀洛山寺などが指定を受けている。

 奇異に感じたのは、熊野三山は和歌山県だが、熊野市は三重県という点だ。紀伊国や紀州藩の時代は、尾鷲の北の険しい山並みを伊勢との境とし、今の田辺市から三重県尾鷲市付近までを熊野としていた。ところが、明治時代にその中心たる熊野川を県境としたために熊野が分断されたのだ。このことは、今でも禍根を残しているらしい。和歌山県に北山村という飛び地があるのはその象徴だろう。(続く)

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