桃の節句の日曜日、丹沢の大山に登った。日向薬師からの標高差は約千米だ。九十九曲坂の段には勝五郎地蔵が静かに佇んでいた。ご尊顔は穏やかだが二百キロはありそう。頂上には阿夫利神社の上社が鎮座ます。創建は崇神天皇の御代で、祭祀用らしい縄文土器も出土したとか。雨乞いや五穀豊穣を祈る山岳信仰の対象だったらしい。そのご利益か?下界は晴れていたのに雲が湧き、残念ながら富士山は見えなかった。
下社に向けて下山。道は広くよく踏まれている。しかし、ぬかるみの中に大石が転がり、傾斜もきつめだ。丹沢山塊は海上火山が日本列島に突き上って出来た。登山道の丸い岩は枕状溶岩で、隙間を埋めるのは火山灰だろう。ゴロゴロ、ドロドロになるわけだ。家族連れで気楽にとはいかない。最後は急な階段をおりて下社の横に出る。登山口の「大山をなめるな」の警告文を見て、関係者のご心労を察した。
神社から女坂を下り大山寺に至る。大山寺の歴史も古く、開山(755年)は良弁僧正(東大寺の開祖)で、第三世はかの弘法大師という。ご本尊は1264 年に鋳造された不動明王だ。大山寺は神社と神仏習合し、大山は石尊大権現を拝する霊山として栄えた(本地仏は十一面観音とのこと)。頼朝の平家打倒祈願(太刀を奉納)や春日局の家光将軍祈願などを叶え、武運長久や諸願成就の神様として信仰を集めた。
江戸時代には大山講が更に栄え、最盛期には年間二十万人超の人々が木太刀を掲げて参詣したらしい(当時の江戸人口が百万人なら五人に一人!)。各方面からの参詣道(大山道)が整備され(矢倉坂往還:今の青山通りから246号線のこと)、帰路に江の島を巡る、富士登山の際に立ち寄るなどと、ますます繁盛した。もっとも、参詣より物見遊山や日常からの解放が目的だったようだ。落語や浮世絵の題材にもなっている。
明治の廃仏毀釈の際には、石尊大権現は阿夫利神社と大山寺とに分離され、寺は破却の危機に遭った。幸いにも篤い信者によってご本尊は守られ、本堂も十年の歳月をかけ明治18年に再建された(彫刻は見事で一見の価値あり)。大山七不思議と称される霊地も残っている。その一つ「爪切り地蔵」は、弘法大師が一夜に爪だけで掘ったとされる(何事も集中努力すれば実現可との教えと云う)。
太古から様々な人々の思いを聞いてきた大山(それでも数百万年の山人生?のうち、高々1万年だが)。スックとした立ち姿は遠くからでもよく分かる。霊山として、パワスポとして、目にした時には心を致したい。