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支流からの眺め

再び熊野を訪れた(2)ー神武東征

 熊野は紀伊半島の最奥地だ。今回は通らなかった半島東部の谷も凄まじく深く、伊勢からの道も難所だ。著者はかつて矢ノ川(やのこ)峠を越えたことがある。急坂かつ未舗装の悪路でトンネルもなかった時代だ。この峠道は日本で初めて商業ロープウェイを設置した地でもある。それだけ道が険しいのだ。この地形を改めて実感し、ふと神武東征の熊野越えに考えが及んだ。

 神武東征とは、イワレビコ(後の神武天皇)の英雄譚だ。一行は日向を出て、舟で生駒山地の麓(白肩津)まで到達したが、ナガスネヒコに敗れ兄一人を失い、紀伊半島を熊野まで回った。瘴気に襲われるも神剣を授かり難局を凌ぎ、八咫烏の案内を得て吉野から宇陀に入り土地の豪族を征服、金色の鵄(トビ)と矢と矢筒の神璽の威光でヤマトを平定、即位したという話だ。

 地理的な疑問は、①当時の航海技術で軍隊が紀伊半島を回れたのか、②他に吉野に入る道はなかったのかだ。①は、途中で嵐に遭って兄を二人亡くし熊野の楯ケ崎に「漂着」している。難航路だったのだ。②では、紀ノ川沿いに吉野入りを試みたが敵がいて断念したようだ。やむを得ず難路を選ばされそれを克服したとも言えるが、本当に陸路(熊野川から北山川を経て伯母峰峠越えか)を軍団が移動できたのだろうか。

 他の地理的な疑問としては、生駒山地の麓まで舟で一気に行ったのも奇異だ。しかし、紀元前50年頃までの大阪湾は奥深くまで潟(河内潟)となっていて、潮汐を利用すればそれは可能だったようだ。こうしてみると、神武東征にはある程度の迫真性があるように思える。背面からの急襲としては、義経の鵯越の逆落としやハンニバルのアルプス越えの実例もある。

 もっとも、神秘的な疑問は残る。八咫烏、神剣(布都御魂:フツノミタマ)、金鵄とは何かだ。八咫烏はタカミムスビ(造化神の一柱)が遣わし、剣はアマテラスの指示によりタケミカズチ(武御雷:大国主命に国譲りを迫った武神)が送り届けたとされる。その実態は、八咫烏は土地勘のある豪族、神剣や金鵄は新兵器(鋼鉄剣、強弓など)や落雷などということだろうか。

 神武東征は日本神話の一部だ。神話が天皇の神格化や軍国主義に利用されたことに懲りてか、戦後の教育課程では神話を教えていない。それどころか、神話は荒唐無稽の物語(作り話)の代名詞にさえなっている。しかし、神話の中にはその民族の特有の考え方が刷り込まれているはずだ。そこで、熊野の話はここで終え、この先は神話について自分なりに再考したい。(了)

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