goo blog サービス終了のお知らせ 

ウォーキングと旅行でのひとり言

ウォーキングと旅行の途中で頭に浮かんだことを書いてみました

備中松山城にて

2018年06月27日 | 旅行
備中高梁の公共の宿で宿泊して、朝、高梁駅から「乗合タクシー」で松山城に向かいました。

ご婦人の4人のグループと若い女の子(たぶん雰囲気は女子大生)、それに元気なオヤジの私です。


タクシーは高梁の町の名所を通りながら、ふいご峠に向かいます。タクシーの運転手が、名所の説明をしてくれます。


備中松山城には観光客はよく行くのですが、そこだけで帰ってしまうそうです。残念がっておられました。


ふいご峠に着きました。





ここから、山を登りながら松山城を目指します。タクシーのグループでいっしょに、励ましながら、登りました。





黄色の線に沿って歩きます。












約20分ぐらい登って、「大手門跡」に着きました。






松山城は臥牛山にあります。(山の名は草の上に伏した老牛の姿に見えることから)
現在の天守は、その山の中の小松山にあります。

絵の場所は、入り口の門があったところで、両脇の櫓台の上に建物が建築され、その下部に門がある「櫓門形式」だったそうです。


大手門脇の風景です。





天然の巨岩を利用しています。松山城の特徴です。花コウ岩質を上手に残し、石垣の一部としています。




城が山の上に築かれているのがわかる「石垣群」です。曲輪ごとに石垣があり、上に向けて段々になっているのが見えますか。



天守を目指します。








二の丸へ入る「鉄門跡」です。





階段を上がると「南御門」を通って本丸に入ります。

上がったところに、天守へ入場する切符売り場がありました。








天守です。標高430mに建っていて、現存天守を持つ山城としては最も高いところにあります。

登城坂の周囲は、高さ10m以上の切り立った岸壁がそびえ、「難攻不落の名城」の雰囲気がします。

秋には、大手門付近の木々が紅葉し、岸壁が燃えるような朱色に覆われるそうで、その時に、再度きてみたいと思いました。


天守の中に入りました。




凄い梁です。











天守の最も高いところに来ました。





上から下を見下ろした風景です。こちらへ向かってスマホで写真を撮っています。

両脇に見える建物が、左が「五の平櫓」、右が「六の平櫓」で、その間が、「南御門」です。


下へ降ります。






急な階段ですね。(歳をとって、注意しないと危ないです)


「装束の間」がありました。





城主一家の居室の下に石を隙間なく詰め込んで、忍びの者でも入ってこれないように工夫がされています。戦いに敗れ、落城の時は、城主一家の死に場所になります。



下へ降りて、天守の裏にまわりました。






「二重櫓」があります。天守同様に、天然の巨岩の上に立っていて、二層二階の構造です。


手前が天守裏、向こうは、後ろ曲輪に通じています。天守から裏側に逃げることができると思われます。


天守の横を通って、本丸の外へ出ました。








天守を見上げた図です。山城の雰囲気が出ていますね。


本丸の裏の「番所跡」ぐらいまでやってきました。





ここから二重櫓を見上げた風景です。



きた道を戻っていきます。途中に、「東御門」がありました。





天守の東脇にあり、本丸の「勝手口」にあたります。本丸内で唯一の引き戸で、常時、本丸に人がいなかったと想像されるそうです。


そろそろ、ふいご峠での乗り合タクシーの時間が近づいたので、早めに下山することにしました。











大手門のあった場所の近くです。




NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングの場面の映像を思い出してください。

あの映像は、CGで加工されています。





ここから15分ぐらいで、ふいご峠に着きました。再び、乗り合タクシーのメンバーに無事に合流して、
タクシーで下山しました。(私自身の体力が少し心配でした)







駅に戻って、午後は、「矢掛の宿場」にいきます。



次のブログで書きます。


















備中高梁 城下町散策 その2

2018年06月21日 | 旅行
アニメ「バッテリー」にでてくる風景の「石火矢町ふるさと村下の階段坂」からブログを再開します。






黄色の線に沿ってウォーキングをします。





絵の通りを下っていって、すぐのところを右に曲がると、石火矢町ふるさと村に入ります。





この通りには、武家屋敷が並び、武士の時代の雰囲気を醸し出している地域です。

いろんな映画の舞台にもなりました。映画「男はつらいよ 寅次郎恋歌」 映画「男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎」 映画「石井のおとうさんありがとう」 映画「バッテリー」 映画「新しき民」 「映画「夏を超える少年たち」。


ひょこっと、武家屋敷から、寅さんが出てくるような想像をしました。






この通りをしばらく歩くと、右側に「埴原家」が現れました。

江戸時代中期から後期にかけて、百数十石取りの、近習役や番頭役などを務めた武士の住宅です。






中に入って見学しました。






























この家は、寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りだそうです。全体に贅沢な造り。



ここから外へ出て、この通りをさらに北へ歩くと、すぐに、武家屋敷「折井家」があります。





中に入って見学しました。 職員の男性が、 「どこから来られたのですか。」 「播州赤穂からです。」
「ああ、そうですか。遠くからご苦労様です。」 「午前中に吹屋に行って、午後、ここ高梁をウォーキングしてます。今日は泊まって、明日備中松山城に登ります。」 「備中松山城には、どのようにしていかれるのですか。」「運動公園までバスで来て、歩こうと思います。」

こんな話をして、建物の内部を見学しました。





玄関にお迎えの侍がいます。(ギョギョ)





居間に、ここの主人と奥方、子供と思われる人達がいました。(昔の雰囲気が)


この家は、今から180年前に建築されたもので、二百石前後の武士が住んでいたそうです。





池や庭石、踏み石などは、ほぼ昔のままであるそうです。庭に面して、資料館がありました。











外へ出ようとした時、職員に呼び止められ、メモを渡されました。明日の備中松山城への行き方がメモされていました。「乗合タクシー」を使うと楽で便利だということです。ずっと、高い場所の「ふいご峠」まで運んでくれるそうです。

優しい親切に出会って、嬉しい気持ちになりました。さらに元気が出て、ウォーキングを続けました。


黄色の線に沿ってウォーキングします。





「小高下谷川」を上流に向けて少し歩くと「山田方谷家塾 牛麓舎跡」がありました。





子弟教育のために最初に開いた家塾で、備中松山城がある臥牛山の麓にあります。

この川にそう道をもとへ戻り、下って行くと、高梁高等学校のそばを通ります。





この高等学校がある場所は、平時の時に政務を執っていた「御根小屋」があった場所です。





武士の時代の雰囲気を味わいながら、のんびりとウォーキングを続けます。








むこうの方が、まさに政務を執っていた中心の場所だと思われます。






ここを後にして、商人の町の方へ行きます。しばらく歩いて、本町にきました。





本町の風景です。この街道筋がかっての商売の中心地です。

少し行くと、「商家資料館」があります。





この地の屈指の豪商「池上家」の邸宅。小間物屋から始まり、高梁川を航行した高瀬舟の船主、両替商を営み財を成しました。





古い建物を見学できる展示があり、無料の休憩所にもなっています。





ゆっくり休ませてもらって、外へ出ました。














商人の町を歩いて行きます。本町から下町へ。






地酒の美味しいものがありそうですね。今夜の寝酒によっぽど購入しようと考えましたが。






そろそろバスの時刻が近づきました。駅へもどります。


今日は、公共の宿で泊まります。高梁駅からは少し離れていて、バスで行きます。


明日は午前中に、備中松山城に行く予定。


また、次のブログで。







備中高梁 城下町散策 その1

2018年06月15日 | 旅行
吹屋からバスで高梁バスセンターに帰ってきて、「城下町高梁」の散策を始めました。





黄色の線に沿って散策します。





高梁市役所です。


鎌倉時代の秋庭三郎重信によって延応二年(1240年)に市街地の北方、臥牛山の山頂へ砦が築かれて以来、明治維新まで、城下町として栄えてきました。



ゆっくり歩きます。落ち着いた雰囲気の、綺麗な街です。しばらく行くと、公園内に、「郷土資料館」がありました。






旧高梁尋常小学校の本館で、明治37年の建築です。非常に多くの民具を展示しています。


右手前の像は、幕末、備中松山藩の藩政を改革し、財政を立て直し、教育に尽くした「山田方谷」です。この地の聖人として尊敬を受けています。


この公園で、昼食をとりました。岡山駅で祭り寿司の駅弁を購入していました。



ここから、黄色の線に沿って散策を再開しました。「安正寺」に出会いました。備中松山城主板倉公の菩提寺であります。










安正寺の前の通りを北へ少し行ったところの風景です。






いちばん手前の右側の建物が「海軍中将 杉正人」誕生の地です。








「順正女学校」発祥の地です。




さらに、北へ進んで行くと、紺屋川の通りにぶつかりました。






紺屋川は、松山城の外堀として使われました。この通りは、桜と柳の並木道が続き、「日本の道100選」にも選ばれています。


県下で、最も古い高梁キリスト教会堂や、藩校の「有終館跡」等があり、情緒豊かな町並みが感ぜられました。






この通りを東に歩くと、伯備線を渡る踏切があります。そこの風景です。






その踏切を渡って、すぐ右手の「龍徳院」に行きました。






この寺を含めてこの地の多くの寺が、東側の山麓に連なるように配置されました。軍事的防衛に意味があったのでしょう。






紺屋川をなんとなしに眺めていると、水鳥を見つけました。





次の瞬間、偶然にも、次の写真が撮れました。





逆立ちして餌を取っていました。カモの一種だと思うのですが?。


少し東へ行くと「順正寮跡」があります。





明治29年の建築。洋風の匂いがします。和風の匂いも。「福西志計子」がつくった県下の最初の女学校である「順正女学校」の校舎であり、寄宿舎だそうです。


裏にまわってみました。






ここから、引き返して、黄色の線に沿って「頼久寺」を目指しました。






一見して、城郭を想像します。ここを上がっていき、寺の中に進みました。























建物の中を見学しました。



























松山城主「上野頼久公」の名前をとって頼久寺と名づけられました。







慶長5年(1600年)と言えば、関ヶ原の合戦が済んだ時です。小堀新助正次が、備中国に一万石余りを領しましたが、4年後に逝去したので、子の小堀遠州が遺領を継ぎました。


その頃の松山城は備中兵乱後で、荒廃していたため、遠州は頼久寺を仮の館としました。ここの庭は遠州の作庭になります。











遠くに見える石灯籠もいわくのあるものらしいです。







中央に見える石組みが、「鶴島」です。







わかりにくいですが、「亀島」です。





庭を充分に堪能して寺を後にしました。寺の前の通りを北へ歩いて行くと、突き当たりにアニメに出てくる風景がありました。アニメ「バッテリー」です。






ここから先は、次のブログで書きます。



















岡山県 備中吹屋にて

2018年06月11日 | 旅行
5月の中旬、高梁市へ、1泊2日の旅行に旅立ちました。


播州赤穂駅から赤穂線で岡山まで行き、伯備線の新見行きに乗り換え備中高梁駅を目指します。





新見行きの電車です。


10時ぐらいに高梁駅に着き、10時50分の吹屋行きのバス(備北バス)に乗り込みました。


のんびりとバスに揺られながら約1時間で吹屋に着きました。





前に一度来たことがあるのですが、ぜひ再び来たかったところです。





黄色の線に沿って歩きます。







正面の向こうの方に見えるのが「藤森食堂」。昭和40年ごろまで郵便局舎でした。昭和56年に改修して食堂となったそうです。


右側手前に見えるのが「べんがら屋」明治初期の建築だそうです。元来は米問屋でありました。現在は、おみやげ屋となっています。


藤森食堂の前を通って、先の方へ進みました。





旧吹屋町役場です。明治中期頃の建築です。





「山神社」です。吹屋の銅山経営者らが銅山の守護神として勧請したものだそうです。


吹屋は銅山で発展し、ベンガラで栄えた町です。中世末期以降、銅の産出で知られ、江戸時代に吉岡銅山と呼ばれました。明治末から大正にかけては、日本三大銅山にもなりました。


神社からもと来た道を戻ります。





小川家です。江戸末期の建築です。もとは油屋であったそうです。


もと来た道を戻り、最初のバスを降りたところあたりまで来ました。





「旧片山家住宅」です。1759年の創業以来、200年余りに渡って、ベンガラの製造販売を行ってきた老舗の家です。「近世ベンガラ商家の典型」として、中も見学できるそうです。


地図の黄色の線に沿ってゆっくり歩きます。見る建物がすべて素晴らしいです。全体が打ち合わせたような統一感があります。





手前に見えるのが「長尾家(本長尾)」。長尾の総本家で、ベンガラの窯元のうちの一軒です。江戸時代は、鉄、油等の問屋で、酒造業も営んでいたそうです。1700年代末頃の建築で、現在の建物は、幕末から明治、大正頃の増改築したものです。入り口中央の柱に、牛馬をつなぐ金具があります。


すぐ隣の遠いほうが「長尾醤油、酒店(新長尾)」です。江戸末期の建築。1826年に酒、醤油を作り始め、戦後からは、醤油のみを作って、現在も伝統的な製法を守り醸造販売が続けられているとのこと。





「中山家」です。ベンガラ窯元の一軒。明治、大正の頃は、醤油屋をしていたそうです。

2階壁面にある七宝模様のなまこ壁が印象的です。

土台には牛馬をつなぐ金具が付いていました。





「吹屋郵便局」です。1993年に建築されました。それ以前にあった民家に出来るだけ近い姿に復元したものです。





「麻田家」。屋号を伊予屋といい、旅館業を営んでいました。明治中期頃の建築です。


吹屋は、江戸時代中期からは、ベンガラ生産も新たな産業としておこり、銅山とともにこの地域の産業として、隆盛を極め、1965年頃まで、有数のベンガラ特産地として繁栄しました。





先へ歩きました。見るもの全てが素晴らしく楽しい気分です。





この辺りの風景。






いちばん東の端まで来た時の風景です。ここから、戻って行きます。





「松浦本家(旧日向家)」。江戸末期の建築。





「那須家(旧水野旅館)」。江戸末期の建築。


道を西の方へ戻っていると、「大黒屋(黄金荘)」が現れました。






江戸末期のベンガラ仲間の1人であった「大黒屋」がつくったものです。







「高梁市成羽地域局吹屋連絡所」です。地区にマッチした建物です。







少し高いところから、吹屋の町を見た風景です。




前に来た時に、「旧吹屋小学校」のステキな風景に出会ったので、そこへ行ってみました。

残念ながら、修復工事の最中でした。



その先の「ラフォーレ吹屋」にも行きました。






そろそろ、バスの時刻が迫ってきたので、バスを降りたところに戻ることにしました。


しばらく歩いて、バス停に着きました。






ご婦人二人が、のんびり世間話しをしているところに、仲間入りしました。

「高梁バスセンターに戻るバスはここから出るのですか。」 「大丈夫ですよ。ここからです。」

「向こうの方から来ます。」


「小学校が修復の工事中で残念でした。」「すいません。申し訳ないですね。」

このご婦人らと、世間話しをしていると、別の観光客の夫婦づれも加わって、楽しい話になりました。



そのうちに、バスが来て、楽しい吹屋観光も終わりになりました。


次のブログは「高梁城下町」を散策します。






















香川県 丸亀市にて

2018年06月06日 | 旅行
塩飽水軍の本島から丸亀港に帰ってきました。





黄色の線に沿って歩きます。


港を出て歩いていきますと、まず、青い大きな特徴ある橋の「京極大橋」が、港を背景に目立ちました。





さらに、少し歩いて行くと、「みなと公園」があります。







遠く、京極大橋が見えます。


公園の近くに古い町屋があると調べていたので、行ってみると、





「京極庵」という、茶室、喫茶でした。渋い味を出しています。


ここを後にして、丸亀城を目指しました。しばらく歩いて、丸亀城の前の通りに着きました。


高いところに、丸亀城の天守閣が見えます。





最初の印象は、「なんと高いところにあるのか。これから、あそこまで上がらなければならないのか。」でした。

石垣が天守まで続いています。


丸亀城は標高66mの亀山にある城。日本に現存する12の木造天守閣の1つ。





城の前の通りから見るお堀です。





鯉のぼりが泳いでました。





丸亀城の第二の大手門です。





第一の大手門。

中に入っていきます。 素晴らしい石垣が見えてきました。





高さ日本一の石垣がある「石垣の名城」として有名です。





高浜虚子の歌碑「稲むしろあり 飯の山あり 昔今」。





見上げるような坂です。息を切らして、頑張って上がりました。

この辺で、上から降りてくる人に「あと、どれくらい上がれば天守閣に着きますか。たいへんなところですね。」と聞きました。救いを求めるような聞き方。(苦笑。)

まだまだ、らしいです。





高い石垣。




「延寿閣別館」 麻布にあった丸亀藩京極家の江戸藩邸の一部を、昭和八年に移築したそうです。

内部は大名家の生活がしのばれるよう、昔のまま保存されているらしいです。



さらに、二ノ丸へ向かって上がっていきます。







丸亀城が見えました。






丸亀城は「亀山城」とも言われ、生駒親正、一正が、慶長2年から3年かけて築いたと言われています。


日本100名城のひとつで、高い石垣に特徴があります。

ここにある石垣は主に2つの積み方をしていて、緩やかであるが荒々しい野面積み、端整な算木積み。

「扇の勾配」と言って、石垣の頂にいくにつれて垂直になるように、ソリを持たせているそうです。





一番高いところに着きました。本丸です。





高いところから、下を見ました。先の方は、丸亀港ですが。丸亀市内が見えます。通ってきた大手門も。






こちらは、遠くに丸亀港が見えます。





ここを後にして、もときた道を降ります。





三の丸へ降りる道です。急勾配がわかりますか。この辺で、下の方から高校生のグループが上がってきました。


女子生徒が男子生徒に、 「ああしんど。まだあるの。」 と話しかけているのを聞きました。


若者でも、大変なので、私は自分に「よくやった。」と心で叫びました。





下から見上げる石垣。


下りは楽で、下まで降りてきました。





「玄関先御門」





ここで、丸亀城を後にして、駅に戻りました。


次の日、筋肉痛で苦しみました。