まず、播州赤穂駅から6時35分発の福山行きに乗り岡山駅を目指します。
赤穂駅が始発でしたので、ゆうゆう座れます。4人がけの席に一人座っていたら、途中の駅から3人づれの女子高校生が座ってきて、それぞれ教科書を出して勉強を始めました。こうゆう風景は、久しぶりだったので、何か清々しい気持ちになりました。(私も、昔は高校の教師でした。苦笑。)
1時間と20分ぐらいで、岡山駅に着きました。岡山からは山陽本線、伯備線、瀬戸大橋線・宇野線、津山線、吉備線等に乗り換える駅になっていて、中四国地方最大の鉄道の要衝となっています。
マリンライナー11号高松行きです。これに乗って坂出駅(香川県)を目指します。
約40分で瀬戸大橋を通って、坂出駅に着きました。
坂出駅のホームにて。
南風リレー号伊予西条行きが来ました。これに乗って丸亀駅に行きます。
約10分ほどで丸亀に着きました。駅から、歩いて、フェリーに乗るため丸亀港に行きます。
丸亀を歩くのは初めてです。フェリーまで充分時間があるので、寄り道をしながら歩きました。途中に、古い町並みが残っているとの下調べがあったのですが、残念ながらほとんど収穫がゼロでした。
フェリー乗り場に着きました。
10時40分のフェリーで本島を目指しました。
本島が見えてきました。約35分の船旅でした。
本島汽船待合所で、電動アシスト自転車を借りることができました。実は、少し、心配していたのです。フェリー内で、沢山の団体の客がおり、自転車を借りる話をしていたので、電動は無理かなあと思っていました。5台しかないので。
気持ちよくペダルをこいで、軽快に走ります。
黄色の線に沿って、行動します。
この本島は、瀬戸大橋の途中のサービスエリアで有名な「与島」のすぐ西隣りにあります。
しばらく進んで、最初の見学の場所の「塩飽勤番所」に着きました。
勤番所の長屋門です。中に入って見学します。
この島を中心とする「塩飽諸島」は、信長、秀吉、家康の時の支配者から朱印状を得て、この海域・塩飽1250石を、自治できる権利を有してきました。
自治権を持つ650人の「人名」と言われる人のさらに代表が選挙で選ばれ(それを「年寄」と呼ぶ)、ここで、政務をとりました。
朱印状を石櫃に入れて保管していたそうです。奥に見えるのが、朱印庫です。
「咸臨丸」の乗組員だった水夫がアメリカから持ちかえったもの。水壜、コップ。
江戸幕府は、1858年、アメリカとの間に通商条約を結びます。
1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するのに、使節の随行艦として選ばれたのが「咸臨丸」であり、乗りくんで行ったのは軍艦奉行「木村喜毅」、「勝海舟」以下96人で、水夫50人のうち塩飽出身者がなんと35人もいました。
咸臨丸の模型です。
ここを出て、次の観光場所の「笠島の町並み」を目指します。
電動アシスト自転車はスイスイと進みます。しばらくして、遠くに瀬戸大橋が見れました。
地図を黄色の線に沿って進み、国の「重要伝統的建造物群保存地区」の笠島の集落に着きました。
この集落の拡大図を下に示します。
駐車場に自転車を止め、黄色の線に沿って歩きました。
駐車場から歩いてすぐに、素晴らしい景色が見えてきました。
この通りを進み、突き当たりにやってきました。ここから、左手方面を見た景色です。
すぐ左側の建物が笠島まち並保存センター、眞木(さなぎ)邸です。
眞木邸の前まで来ました。
中に入りました。
気の良さそうなおばさんがおられ、「どこから来られたのですか。」
「播州赤穂からです。あの赤穂浪士の。」「立派な建物がいっぱい並んでいてすごいですね。」
「でも、住むとなると、不便ですよ。」
昔使われていた古いものが並んでいます。立派な弁当箱。
二階です。
二階から下を見下ろしたもの。わりとよく見えますね。
この集落は城を中心とした城下町の要素も持っています。見通しが効かないように工夫された通路。通りに面する町屋建築。周辺に配置された寺社。島々の他の集落には見られない計画的な町づくりがされているそうです。
左端にあるのはコタツですかね。拍子木、煙草盆です。
中から外はよく見えますが、外からは、わりと見えにくいそうです。
この家は、塩飽諸島を統治する「年寄」を務めたそうです。江戸期の建物。
なまこ壁の土蔵、低い土塀が特徴(先の絵をみてください)。
充分満足して、ここを後にしました。
すぐ前の景色です。
奥へ進んだあたりの景色。
この辺りで、ブログも長くなったので、次回に引き継ぎます。また、読んでくださいね。
最新の画像もっと見る
最近の「旅行」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事