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村上海賊の成り立ちと魅力

2019年07月19日 | 歴史の道/中山道

瀬戸内の村上氏は、清和源氏頼信と伝えられている。
村上の名は、940(天慶3)年から翌年にかけて、藤原純友の乱に伊予越智河野氏のもとで従軍したとされる。



(ストックレスアンカー=コンテナ船の重りのことでしょうか?水軍城の入り口に置かれていました。)


そして、源頼義が、1051(永承6)年、前九年の役の年に伊予守として赴任してきたとき、甥の村上仲宗に命じて寺社の造営したとされる。
その後、南北朝時代に活躍した村上義弘は「海賊方の棟梁にして河野十八家大将の随一」といわれ、河野氏の海の軍師ともいえる



(因島水軍城展示物:撮影可のもの)


世に知られる三島村上氏の祖とされる師清は、もともと信濃村上氏から伊予村上氏を継承した人物である。村上義弘が子がなかったため、信濃から師清が伊予にきた。
師清は、長男義顕を能島村上氏に、二男顕忠を来島村上氏に、三男顕長を因島村上氏として配置した。村上氏ご三家は官人や官物輸送警護、海運航行支援、案内、救助など、海における多種多様な活動を自主的に行っていた。
「後太平記」によると、紀州から船出し、塩飽諸島、備中上島、芸予諸島と転戦し、勢力を拡大した。
特に因島については、1377(天授3)年、師清は島の西南部を支配していた今岡氏を「因島土生(はぶ)町箱崎浦の合戦」において敗走させ、三男顕長に因島土生町に長崎城を築かせ島を支配させた。



(五百羅漢:標高226mの白滝山に700体の石仏がところせましと並んでいます。)
1569(永禄12)年、因島村上水軍6代、村上吉充が見張りどころとして観音堂を建立。
修験の場でもあり、江戸中期に、石仏が設けられたとのことです。



さて、その後ですが、
能島村上氏は、戦国時代に北九州、長門大津、安芸国竹原などを転々とし、周防国大島(屋代島)に落ち着きました。
因島村上氏は、そのまま毛利氏家臣団に残りました。
さらに、能島・因島の両村上氏は、萩藩(毛利蕃)の家臣団、御船手組(おふなてぐみ)として、周防国三田尻の警固屋敷(現山口県防府市)で海を所管しました。
来島村上氏は、森藩(現大分県)1万4,000石の大名に取り立てられ、初代藩主・康親は「来島」→二代藩主・通春「久留島」と改姓しました。




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