年賀状じまい
嫁さんが亡くなって5年たった。あの人は年賀状を出す事にやたらとこだわる人だった。ちょっとでも何かで関係した人には必ず賀状を出すのだ。
そのうちに年賀状の枚数がどんどん増えて、夫婦で最大250枚は超えていた。
毎年、それが面倒で毎年気分が憂鬱になっていた。どうせ数年したら忘れてしまう関係の人なら出すのを辞めようとする。しかし、抵抗される。やむなく出すと、向こうからちょっと遅れて「早々に賀状を・・」とくる。
明らかに向こうもこれで賀状交換をやめたいという意思表示だったと思う。
だけど全く忖度せず強引に出してしまう。自分には真似出来ない性格だったが、それも嫌いではなかった。古い友人に何度も助けてもらったこともあり、必要な事だったのだろう。
病気で死ぬまでに年賀状交換だけの関係は断ち切って欲しかったが、かなり親しかった人にも病気の事は隠したままだったので、年賀状はそのままで亡くなってしまった。
死亡の通知で嫁さん関係の年賀状はゴソッと減ったのだが、長年続いていた人の分だけで100枚近くは出していた。
1昨年の4月に自分が北海道に来て、去年は転居届も年賀状も出さなかった。これは大変失礼な事だ。
それで今年は、年賀状の文言に「北海道に移住し転居したこと」、「ドクターコトー」、そして最後に「年賀状を出すのを終わりにする」いわゆる「年賀状じまい」を明記して全員に送った。
これで、もう年賀状は出さなくて良くなると思うと、清々した気分になった。
今生の別れ
すると、正月明けから30枚くらいコメント付きの年賀状や葉書が届いた。
コメントを読むと、自分あてに、「遠くへ行ってしまって寂しくなる」とか「いろいろお世話になりました・・」とか、「色々なことを学ばせてもらい・・」とか思わず涙がこぼれそうになる内容が書かれていた。
そうなのだ。自分の世代になると賀状じまいは「今生の別れ」につながるのだ。
その中に、知り合いのご長男さんから「昨年5月、父〇〇は亡くなり・・」と葉書が来た。
故人になってしまったお父さんは、アメリカで実験を教えてあげた人で、40年くらい前の話だ。お父さんからは、自分の嫁さんが亡くなった時、電話をもらったのだった。
「奥さんが水頭症で・・」と話していた。2年前に奥さんが亡くなった事は忌中の連絡をもらったのだが、後を追うようにして亡くなられたようだ。
皆、返事をくれた人は自分に対して「これが今生の別れであることを意識して、もう会うこともないだろう」と思って切ないお別れの返事をくれたのだろう。切ない・・・・
さらにドクターコトーに衝撃を受けて手紙をくれた人も何人かいた。
もちろん、手紙をくれなかった人も素直に「賀状じまい」で納得できないまま、「もう会えないのか・・」と返事を出さないが寂しがっている人もいるだろう。
大変なことをやってしまった、という気もしないではない。
しかし、自分は余生を独り身で過ごしていくのだ。お互いに病気や痴呆なんかがあったりすると、昔のままの友人関係を続けられるかどうか、というのは慎重に考えるべきだと思う。
これは嫁さんが死ぬ半年くらい前、ほとんどボケてしまったころ、会いに来てくれた嫁さんの親友がびっくりしていた姿を通して、学んだ事だ。
復活
いつも思うのだが、キリスト教を信じる人はイエスキリストの復活(一度死んで、生き返った事)を本当に信じているのだろうか。
それはともかく、島での仕事を辞めたら、小さなキャンピングカーを買って日本じゅうを回り、古い友人達に突然会いに行くなんて事を考えている。
もちろん、ボケてないことを事前に確認する必要はあるのだが・・・
これまでも、北海道で開業している友人の小児科クリニックに突然出かけたり、九州の友人の皮膚科クリニックに突然お邪魔した事がある。
それも、仕事中(クリニックで診療中に)突然、訪れたのだが「彼(自分の事)なら、それもありだ」とばかり、許容してくれ喜んでくれていた。
今生の別れの後でも、ビッグなサプライズの訪問で、キリストの復活のような事にはならないが、きっと喜んでくれるのだろう。ぜひ実行してみたい。