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ベルリンで、さあて何を食おうかな?

2004年5月に書き始めた初代ブログです。

5月9日夜

2004-05-09 22:18:41 | プロフィール
今夜は僕の音楽以外の仕事についてお話します。
1980年からベルリンに住んでいることは前に書きました。
ドイツ語は日本に居るうちに勉強してこちらでは語学学校には行かずにもっぱら学生オケの仲間や近所の人たちに話す機会を与えてもらいました。一番勉強になったのはKneipe(居酒屋)での友達との会話でしょうか。間違っていても勢いと雰囲気でしゃべりまくったものです。
そして、89年ベルリンの壁が突然崩壊。このときはベルリン室内歌劇場の首席奏者をしていました。壁の開いた日も本番が20時から壁のそばの(西ベルリンの)へ-ベル劇場での公演で、初日ではなかったのですがどういうわけか早めにいってむこうでちょこっと練習しようと思いました。そのころはテレビのない生活をしていましたが当時の愛車、BMW316にコントラバスを積んで出かけると町が込んでいて、何か排気ガスの匂いがいつもよりきついんです。そこで前にも横にも東独の国民車トラバントが走っているじゃありませんか。あわててラジオをつけると壁が開いたとの放送。早く劇場に行って練習と思っていたのが渋滞と大騒ぎで着いたのは15分前、でもお客さんも遅れて30分遅れで開演。終ってから楽器は劇場において徒歩でブランデンブルク門へ。皆さんがテレビでご覧になった映像を目の当たりに見ました。
そうそう、仕事の事でした。
僕の住んでる家の前に街中にはめずらしく小さな湖があり、その公園で近所にお住まいのA新聞の支局長と知り合いました、壁の開く3,4週間前に。壁の開いた次の日支局長から電話があり、こういう事態だけど本社から来る写真班に付く通訳が居ない、助けてくれと言われ、まったく経験はなかったのですが土地鑑はあったのでお手伝いしました。何週間かお手伝いしてその後は大手の通信社からも依頼を受け急に報道通訳としての活動開始。そういっては失礼ですが面白い仕事で、依頼があるたびほとんどお請けしてました。その後広告代理店の仕事や、出版社のベルリン特集を多数コーディネートさせていただき、音楽以外の業種の方々との仕事が面白く、10年程前にFテレビの仕事をさせていただいてからマスコミはこの1社で仕事をさせていただいています。
ニュースはもとより、スポーツ、番組等、ドイツ語が出来なかったら僕には無関係な世界、この仕事のおかげでいろんな方々とのつながりが出来ました。写真はこの3月にドルトムントで行われたフィギュアスケートの世界選手権でのエキジビジョンの様子です。またマスコミとは別に技術通訳としてもいろいろな経験をさせてもらいました。真冬の化学コンビナートでの大型機械の設置の通訳、企業間の技術提携、政府の調査団の通訳等、貴重な経験をさせていただいています。今現在は日本美術協会主催のPremiumInperiale(世界文化賞)の受賞者発表が6月にベルリンであり、コーディネーターとしてその準備に追われています。音楽家と通訳。まったく違う職種ですが、
そして本業は音楽の方なんですが、通訳の仕事での経験が音楽に反映している事は確かです。いろんな人との出会いが、いろんな経験が本当に大切で、そこから得るものは計り知れないと思う今日この頃です。
また長くなってしまいました。ではまた。


プロフィール

2004-05-03 01:33:44 | プロフィール
高橋 徹
1960年7月13日、
江戸初期から神楽坂に住む一家の15代目の次男として出生。
千代田区の冨士見小、九段中、都立忍岡高校卒。
中学2年から芸大の永島義男教授にコントラバスを師事。
高校2年の秋にベルリンフィルが来日した再、旅行に同行していた
オーボエ奏者の兄の紹介でベルリンフィル第一首席KB奏者、
F.Witt氏に頼み込んで弟子にしてもらいすぐにドイツ語を学び始め
1980年、ベルリンへ。
1984年よりベルリンフィルの演奏に定期的に参加。
1985-90ベルリン室内歌劇場首席奏者。
1990年よりベルリン室内フィルハーモニーに入団。
現在はベルリン室内フィルゾリステン、バロックオーケストラ、新ポツダム管弦楽団、
ベルリンフェスティバルオーケストラ、コレルリカンマ-オーケストラの首席奏者。
合唱団で有名な聖ヘドヴィヒ教会コンティヌオ奏者。
また、1991年よりベルリンドイツ交響楽団で活動中。
1999,2003, 2005年の日本ツアーに参加。
ケントナガノ氏のドイツ大使公邸での子供の為のコンサートに参加、
コントラバス奏者件通訳を務める。
3年前にイタリアの名器、DomenicoBusanを取得してから
特にソロ活動にも意欲を燃やしています。